京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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38 初の共同公務 ― 地すべり抑止工事現場視察

 深い谷を縫うように走る、急峻な山岳地帯。

 かつて大規模な地すべりによって川が閉塞され、上流に「天然ダム」を形成して決壊の危機を招いたことのあるこの地は、今もなお、巨大な山の塊が年間に数ミリずつ、音もなく動き続け、一度崩落が起きれば土砂が川を閉塞させ、巨大な「天然ダム」を形成しかねない危険箇所であった。

 もしそのダムが決壊すれば、下流にある都市は土石流の藻屑と化す。

 

 伊勢から戻って来た京極宮慶仁と澄子を乗せた四輪駆動車が、泥濘の工事用道路を越え、標高の高い集水井の掘削現場へと到着した。

 

「殿下、妃殿下。ここより先はヘルメットと長靴の着用をお願いいたします。足元は湧水で常に濡れております」

 

 案内するのは、砂防一筋のベテラン技術官。彼の手は、澄子が愛する石のように硬く、荒れていた。

 澄子は、渡されたヘルメットの顎紐を迷いなく締めると、目の前にそびえ立つ巨大なコンクリート製の円筒を見上げた。それは地下数十メートルまで垂直に掘り下げられた、地中の水分を抜くための「集水井」だ。

 

「……見事なライナープレートですね。この深さなら、滑動面より下の基盤岩まで達しているのでしょう?」

 

「はっ……。左様でございます。地下水位を下げ、間隙水圧を抜かなければ、この山は再び牙を剥きます」

 

 澄子は頷くと、周囲の岩肌に歩み寄り、地質調査用のハンマーを取り出した。公務の場であっても、彼女にとって「土や石の声を聴くこと」は、儀礼以上に優先されるべき実務だった。

 

「……破砕帯がこれほどまでに発達しているとは。この粘土化した滑石の層が、地中の水を含んで『滑り面』となる……。局長、ここでの抑止杭の打設角度は、基盤岩に対して垂直では足りないのでは? 地層の傾斜角を考慮し、より山側へ振るべきではありませんか?」

 

 事前の「ご説明」を用意していた技術官たちが、一斉に顔を見合わせた。図面を読み込まねば到底辿り着けない、現場の核心を突く指摘だった。

 

「はっ……仰る通りでございます。急ぎ解析を進めておりますが、妃殿下のご指摘の通り、設計変更の必要性を感じていたところでして……」

 

「山は、沈黙していても常に動こうとしています。水を抜き、その動悸を鎮めなければ、いずれ下流の平穏を飲み込んでしまいます」

 

 澄子の言葉に、慶仁は傍らで静かに頷いた。

 慶仁の脳裏には、十七年前のあの夜の記憶が、鮮烈な痛みを伴って蘇っていた。

 

 ──耳を劈く咆哮と共に、揖斐川の頑強な堤防が「粉砕」された瞬間。

 闇の中から押し寄せたのは、単なる水ではなかった。高潮に乗り、あの屋敷を、そして人を文字通り粉々に粉砕していったのは、貯木場から流出した無数の「丸太」という名の巨大な凶器だった。

 

 壁が、支柱が、あの日、暴力的な衝撃の前になす術もなく崩れ去った。

 

「その通りだ澄子。水そのものも恐ろしいが、その水が運ぶ『質量』の暴力こそが、真の絶望なのだ」

 

 慶仁は、澄子が指差す地中の「滑り面」を凝視した。

 

「十七年前、私は堤防という『盾』が砕かれるのを目の当たりにした。だが、ここで諸君らが向き合っているのは、盾を砕く『槌』そのものを生まないための戦いだ。局長。この工事が遅れれば、下流の街はどうなる」

 

「崩落が起きれば土砂が川を塞ぎ、天然ダムが形成されてしまいます。そのダムが決壊してしまえば、土石流のエネルギーには抗えません。街は一瞬で埋没いたします」

 

「局長の言う通り、土石流が下の街に押し寄せれば、水と土の違いは有れど私が経験した惨劇が、規模を大きくして再現されることになる」

 

 慶仁の声は、重機が唸る現場の静寂を貫くような響きを持っていた。

 

「局長。現場の者に伝えてくれ。諸君らが地中の水を抜き、一本の杭を打つたびに、私はあの夜の悪夢が一つずつ消えていくのを感じている、と。……予算や工期の不足は、私から関係各所へ懸念を伝える。だから、どうか……誰一人として、理不尽に命を砕かれることのない『礎』を築いてくれ」

 

 現場の技術者たちが、次々とヘルメットを脱ぎ、深く頭を下げた。それは皇族への形式的な礼ではなく、自分たちの仕事が「命の防波堤」であると、当事者の言葉で認められたことへの誇りに満ちた一礼だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 視察を終え、二人は泥だらけの靴で車へと戻った。

 

「……殿下。丸太の暴力に抗うには、まずはこの山の動きを完全に封じ込めねばなりませんわね」

 

「ああ。澄子、お前の知識があれば、今度は『盾』が砕ける前に、災厄の芽を摘み取ることができる」

 

 慶仁は、澄子の泥に汚れた手を自らのハンカチで拭った。

 十七年前、何もできずに濁流に流された少年の手は、今、愛する妻と共に国土を地底から支える手へと変わっていた。

 

 初秋の冷たい雨が降り始めた。

 しかし、その雨音はもはや慶仁を追い詰める絶望の音ではなく、国土を潤し、そして自分たちが制御すべき「力の声」として、穏やかに響いていた。

 

 

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