昭和五十二年、五月。
挙式とともに京極宮邸の庭に植えられた白藤が、重たげに花房を揺らしていた。
その日は、朝からしとしとと静かな雨が降り続いていた。
宮邸の一角、白木の香りが残る産室は、近代的な医療機器が備えられつつも、周囲には白い幔幕が張り巡らされ、澄子は、産みの苦しみの中にあった。
産室の外では、慶仁が端座し、静かに目を閉じていた。
その手は握りしめられていた。
廊下の向こうでは、九条公爵と松殿侯爵が、静寂の中で立ち尽くしていた。二人にとって、この誕生は単なる孫の誕生ではない。十八年前に止まった「時」が、真に動き出すための最後の儀式であった。
やがて、部屋の奥から、力強い産声が聞こえてきた。
「……生まれたか」
九条公爵が、崩れ落ちるように膝をついた。その頬を、幾筋もの涙が伝う。
「寛子……聞こえるか。新しい命だ。お前が繋いだ命が、今、花開いたぞ……」
松殿侯爵もまた、隣で静かに涙を拭っていた。
やがて看護婦が「おめでとうございます。若宮様でございます」と報告に上がった。
産室の扉が開かれ、慶仁が入室を許された。
そこには、疲れ果てながらも、聖母のような慈愛を湛えて微笑む澄子の姿があった。彼女の腕の中には、赤子という名の「希望」が抱かれている。
「殿下……」
澄子の声は微かだったが、その瞳には勝利の光があった。
「泥濘の中から、新しい芽が、芽吹きました」
慶仁は、震える手で我が子を抱き上げた。
赤子の温もりは、かつて彼が濁流の中で感じた「死の冷たさ」を、完全に上書きしていった。
「澄子、よく頑張ってくれた。……この子は、我ら二人の子であると同時に、この国の大地が授けてくれた宝だ」
産声が響いてから数時間後。
雨上がりの澄み渡った空に、夕闇が静かに降りてくる頃、京極宮邸の表門に、黒塗りの宮内省の車両が音もなく滑り込み、勅使が到着した。
第一種礼装に身を包んだ慶仁は、厳かな面持ちで勅使を迎え入れると、新宮の眠る部屋へと先導した。
その表情は、父としての喜び以上に、一国の皇族として新しい命を預かった者の、峻厳なまでの覚悟に満ちていた。
室内には、まだ産熱の残る微かな香りと、赤子の安らかな寝息が満ちている。奥の寝台では、澄子が静かに身を起こし、その儀式を見守っていた。
勅使は、恭しい手つきで白木の桐箱を捧げ持ち、赤子が眠る小さな寝床の傍らへと進み出る。
「天皇陛下におかれましては、新宮御誕生につき、守り刀を一振下し賜われます」
厳粛な声とともに、勅使の手によって、御紋のついた桐箱が赤子の枕元に静かに置かれた。
箱の中に納められているのは、白鞘に収められ、赤い錦の布で包まれた人間国宝の手による短刀。それは単なる武器ではない。邪悪なものを祓い、幼い命を災いから守り抜くという、皇祖代々の「祈り」そのものであった。
勅使が深く一礼し、部屋を退出した後。
慶仁は、赤子の枕元に置かれた桐箱の前に静かに膝をついた。
赤子は、まだ自分の運命を知らず、小さな拳を握って眠っている。
(この刀は、お前がいつか直面するであろう困難を切り裂くためのものだ。そして父である私は、お前がこの刀を抜かずとも済むような、強固な大地を築いてみせる)
その時、窓から差し込む月光が、白木の箱を、そしてその中に眠る赤い錦の存在を暗示するように静かに照らした。
澄子は、枕元の守り刀を見つめる慶仁の背中に、そっと声をかけた。
「殿下。この子は、幸せですね。陛下と、殿下と、そして多くの人々の祈りに守られて……」
慶仁は振り返り、寝台の傍らに寄り添うと、澄子の手をそっと握った。
「いや、澄子。この子を守るのは、刀だけではない。お前が宮中に持ち込んでくれた、あの力強い『大地の愛』こそが、この子の最大の守りとなるのだ」
慶仁は澄子の手を握り返し、再び我が子の寝顔を見つめた。
守り刀が放つ見えない祈りの力は、まるで京極宮家に新しく灯った、消えることのない「生命の灯火」のように、夜の闇を静かに照らし続けていた。
深夜の京極宮邸。
儀式を終えた後の静寂の中に、若宮の安らかな寝息だけが響いていた。
枕元に設えられた白木の台の上には、赤い錦に包まれた「守り刀」が静かに鎮座している。
慶仁は、独り、その刀を見つめていた。
彼の脳裏には、十八年間、一刻たりとも忘れたことのない光景が蘇っていた。
荒れ狂う濁流の中、自分の名を叫びながら、壁を築き、丸太に打たれ濁流に呑まれていった武官や侍従たちの背中。
「お二方をお守りせよ」と、最後の一瞬まで寛子を支えた松殿家の随行員。
寛子を支え、濁流の中に沈んでいった千代。
そして、最後まで自分を支え、濁流に消えた寛子──。
彼らは皆、慶仁という「未来」を守るための盾となり、砕け散った。
生き残ったのは、自分一人。その罪悪感と孤独が、十八年もの間、慶仁の心を冷たく縛り続けてきた。
だが今、その「生き残った命」から、新しい命が生まれた。
慶仁は、震える手で守り刀をそっと撫でた。
(……見ていてくれ。お前たちが守り抜いたこの命が、今、次の世代を抱いている)
その時、産後の疲れで眠っていたはずの澄子が、暗がりのなかで静かに目を開けた。彼女は慶仁の背中に漂う、耐え難いほどの悲しみと決意を、その背中で感じ取っていた。
「……殿下。あの方々も、今、この部屋にいらっしゃいますね」
澄子の静かな声に、慶仁は肩を揺らした。
「……分かるか、澄子」
「はい。この刀の輝きが、どこか温かく感じるのは、それが陛下の慈しみだけでなく……あの日、殿下の盾となった方々の魂が、若宮をお守りしようと集まっているからではないでしょうか」
澄子はゆっくりと起き上がり、赤子の枕元へ這い寄った。
「寛子姉様の乳姉妹だった千代さんも、私のすぐ側で笑っている気がいたします。『澄子様、若宮を、私たちの分まで愛してあげてください』と」
慶仁は、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
自分だけが生き残ったのではない。彼らの想いは、この守り刀に宿り、今こうして若宮の枕元で、再び「盾」となって集結しているのだ。
慶仁は、守り刀の横に自分の手を置いた。
「若宮、この刀は重いぞ。私を救い、未来に繋げるために消えていった、数多の者たちの命が宿っている。だが、恐れることはない。彼らはお前を縛る鎖ではなく、お前がどこへ行こうとも、決して折れることのない最強の守護者なのだから」
赤子が、夢の中で小さく笑うように口元を動かした。
その無垢な笑顔は、十八年前に泥に散った者たちが、かつて慶仁と共に見ていたはずの「明るい未来」そのものであった。
夜が明ける頃、雨上がりの空には、暁の光が差し始めた。
守り刀の鞘の朱色は、新しい時代を照らす「太陽」の色として、若宮の枕元を輝かせていた。
上皇后陛下のご出産まで、皇族の出産は住居である御所の中に「産殿」を設けて行われていたはず。
ここの日本、伝統が少々強いので昭和50年代前半まで宮内省病院での出産ではなく、産殿を設け、そこに最新の医療機器と産婦人科教授を中心とした医師団が、24時間体制で待機するような体制をとっていたと考えてください。宮内省病院での出産は50年代後半から。