京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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雅武の嫁取り物語
雅武の嫁取り①


 十月。

 京極宮邸の執務室に、慶仁宛に一通の書状が届けられた。

 差出人は――中院伯爵。

 娘である聡子と六条雅武の正式な対面を願う旨が、端正な筆致で記されていた。

 書状を読んだ慶仁は、静かに目を閉じ、深く息をついた。

 

(……雅武にも、ようやく春が来たか)

 

 物心ついた時より共に歩んできた乳兄弟。

 桑名の濁流で寛子たちを失ってからも、影となり日向となって歩んでくれた、かけがえのない乳兄弟。

 その幸福を願わぬはずがない。

 

「雅武。中院家との縁談、差し許す。……行ってこい」

 

 その一言で、宮内省の宮家担当官僚が動き出し、両家の調整は一気に進んだ。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 対面は慶仁の御差許により、京極宮邸の東庭に面した和室で行われた。

 立ち会いは、 中院伯爵夫妻、六条子爵夫妻、そして宮内省高官夫妻。

 障子越しの光は柔らかく、庭の赤く色づいた楓が揺れ、その影が畳に淡く揺らめいていた。

 雅武は、仕立ての良い濃紺のスリーピースに身を包み、いつもの「殿下の側近」の厳しさではなく、どこか不器用な緊張を纏っていた。

 

(……あの日以来だ)

 

 廊下で泣き崩れた少女に手巾を手渡した、あの一瞬が胸に蘇った。

 

 襖が静かに開く。

 淡い古典柄の訪問着に身を包んだ聡子が、母に伴われて入室した。

 その姿は、華やかさではなく清らかさを纏っていた。

 両家の親たちが家格の挨拶を交わす間、雅武と聡子は、静かに視線を交わした。

 

「……お健やかそうで、何よりです」

 

 雅武のその一言に、聡子の肩から緊張がふっと抜けた。

 

「六条様……ありがとうございます」

 

 その声は、あの日の涙の震えとは違う、静かな安堵を帯びていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 両家の親たちが、宮内省高官夫妻に軽く会釈をして席を外した。

 和室には、雅武と聡子、そして距離を置いて控える高官夫妻だけが残った。

 しかし、その空気はすでに「二人のための場」へと変わっていた。

 宮内省高官の夫人が、柔らかな声で二人に告げた。

 

「……お二人で、少し庭をご覧になってはいかがでしょう。六条様はご存じのことでしょうが、東庭の東屋は、殿下がよくお使いになる静かな場所でございます」

 

 その言葉は、形式上は「提案」でありながら、実質的には宮内省による「二人だけの時間」の許可だった。

 聡子は、わずかに頬を染めながら立ち上がり、雅武も静かにそれに続いた。

 

「……参りましょうか、中院の姫」

 

「はい、六条様」

 

 ふたりは並んで廊下を歩き、庭へと続く縁側に出た。

 

 秋の気配を含んだ風が、楓の葉を揺らし、その影が二人の足元に淡く重なった。

 京極宮邸の東庭は、慶仁が幼少の頃から大切にし、亡き寛子が愛した庭だった。

 

 苔むした石畳、水面に光を落とす小さな池、そしてその奥に佇む東屋。

 

 東屋は、木立に守られるように建てられ、外界の喧騒を完全に遮断していた。

 雅武は、その場所に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がわずかに締めつけられるのを感じた。

 

(……殿下と幾度となく語り合った場所だ)

 

 だが今日は違う。

 慶仁ではなく、中院聡子と並んで歩いている。

 その事実が雅武の心に戸惑いと微かな熱をもたらしていた。

 東屋に入ると、風がそっと二人の間を通り抜けた。

 聡子は、訪問着の裾を整えながら座し、雅武も向かいに静かに腰を下ろした。

 宮内省高官夫妻は、遠くの石灯籠の陰に控え、あくまで「見守るだけ」の距離を保っていた。

 聡子は、胸の前でそっと手を重ね、雅武を見つめた。

 

「六条様……先ほどは、皆様の前で十分にお礼を申し上げられませんでした。あの日のこと……本当に、ありがとうございました」

 

 雅武は、その言葉に静かに頷いた。

 

「いえ。あの時、私はただ……目の前で泣いておられた姫君を放っておけなかっただけです」

 

 その声は、あの日と同じ、低く穏やかだった。

 聡子は、懐から白い布を取り出した。

 あの日、雅武から手渡された白布の手巾だった。

 その手巾は、綺麗に洗われ、丁寧に糊がきかされていた。

 

「六条様……あの節は、不調法をいたしました。こちらをお返しいたします」

 

 東屋の静寂が、その白布を中心にふわりと揺れた。

 雅武は、その白布を見つめたまま、しばらく言葉を失った。

 

「……丁寧に、ありがとうございます。中院の姫君」

 

「私のことは聡子とお呼びください」

 

「それでは、聡子様」

 

「聡子です」

 

「申し訳ございません。正式な縁談が纏まるまでは子爵家の私が伯爵家の姫を呼び捨てするわけにはまいりませぬ」

 

「......仕方ありませんね。では六条様」

 

「姫、私のことは雅武とお呼びください」

 

「私も縁談が正式に纏まるまでは殿方の名を呼び捨てるわけにはまいりません」

 

「左様ですか」

 

「ええ、左様です」

 

 暫くすると、どちらからともなく、慎ましやかな笑い声が生じた。その笑いは、緊張をほどく柔らかな風のようだった。

 笑いが静まると、聡子はそっと問いかけた。

 

「……六条様は、殿下のお傍で長くお仕えになっているのですね」

 

「はい。乳兄弟として、殿下が幼少の砌からお仕えしております」

 

「そうなのですか? あの……つかぬことをお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 

「ええ、なんなりと。私に、姫の望む答えが出せるかはわかりませんが」

 

「六条様。……あの夜も、御一緒だったのですか?」

 

 ためらいがちに尋ねる聡子の問いかけに雅武の表情が凍りついた。

 

「申し訳ございません。このような場でお尋ねしてはならない事でした」

 

 雅武の表情が凍り付いたのを見た聡子も表情を曇らせた。

 

「いえ,その様なことはございません」

 

 雅武は、手巾を見つめたまま、ぽつりと語り始めた。

 

「……あの夜ですか。あの日、私は殿下のお側を離れて東京の京極宮仮邸で、殿下の宮号継承の儀の準備に追われていました」

 

 雅武の語りは、世間が知る「華々しい京極宮家の再興」とは全く異なる、血を吐くような精神の格闘の記録だった。

 

「……では、六条様は、あの日……」

 

「はい。伊勢に同行せず東京におりました。殿下が地獄を歩まれたその時、私は暖かい部屋で、継承の儀の準備をしていたのです」

 

 聡子は、息を呑んだ。

 雅武は、静かに言葉を続けた。

 

「桑名の濁流に寛子様やその乳姉妹であった千代が呑まれ、殿下が、ご自身の半身を捥がれるような喪失を味わっておられた時、私は暖かい邸の中で、継承の儀の飾り付けを整えておりました。何も知らず、乾いた部屋で装束の寸法を合わせていたのです。母から報せを受けた時……私は壁を叩きました。なぜ自分がそこにいなかったのか、と」

 

 その言葉に聡子の顔が青褪めた。

 

「六条様……」

 

「殿下が戻られた時、私は顔を上げることができませんでした。無傷で、清潔な衣を纏ったまま『お帰りなさいませ』と申し上げることの……あまりの不敬を、今も忘れることはできません」

 

 雅武は、静かに視線を落とした。

 

「ですが……殿下は一言も、私を責めなさいませんでした。ただ、乾いた泥のついた袖のまま、私の横を通り過ぎられただけです。……それが、かえって胸に刺さりました」

 

 雅武は、静かに続けた。

 

「学校に戻られた殿下のノートには、どれほど洗っても落ちない桑名の泥がついていました。殿下は私に仰いました。『お前はいいな、まだあの日の前にいる』と」

 

 その言葉の重さに、聡子の胸が締めつけられた。

 雅武は自嘲気味に微笑んだ。

 

「自分は生き残った安堵ではなく、親友の地獄に立ち会えなかったという、あまりにも歪んだ、しかし本質的な罪悪感に、十二歳の頃から苛まれ続けてまいりました」

 

 聡子は、雅武の横顔をじっと見つめた。慶仁の乳兄弟であり懐刀と言われる側近中の側近。その言葉の意味が、今初めて本当の重さで胸に届いた。

 

「……殿下は私を地獄へ引き込むまいと、『泥を知らぬ、真っ白な手のままでいろ』と突き放されました。それが殿下の優しさであり、私への拒絶でした。だから私は誓ったのです。殿下の泥を、私の『真っ白な手』で受け止めると。殿下の影として、宮家再興のために青春を捧げると。殿下が宮内省や諸家の大人たちに揉まれ、防災や治水という暗い泥に塗れて歩まれるなら、私はそのお足元が汚れぬよう、先回りしてすべての雑務を、政治の泥を、この綺麗な手で片付ける影になろうと」

 

 宮家再興の実務──それは、冷徹な宮内官僚との折衝、隙あらば復権しようと図る旧華族と、それを良しとする華族と否とする華族の思惑の統制、そして何より「悲劇の宮」として祭り上げようとする世間の目から、他の宮家と協同して慶仁を守る戦いだった。

 

「……殿下が命を賭けて守ろうとした『美しい日本』を現実のものにするため、私は自らの青春のすべてを京極宮家の基盤作りに捧げてまいりました。私の人生に、このような春が訪れるとは……思いもしておりませんでした」

 

 聡子は、その言葉をすべて、静かに受け止めていた。

 あの日、慶仁の前でなぜあれほど涙が止まらなかったのか。その理由が、今ようやく分かった。

 自分が恐れたのは慶仁個人ではなく、慶仁と雅武が十七年間命がけで維持してきた「京極宮家という名の、あまりにも重く壮絶な聖域」そのものだったのだ。

 そして目の前にいる六条雅武という男は、単に「優しい側近」などではなく、主君の地獄を共有できない絶望を抱えながら、それでも主君のために一生を影に捧げると決めた、凄絶なほどに誠実な男だった。

 聡子は、膝の上で細い指をそっと握りしめ、雅武を真っ直ぐに見つめた。

 

(この孤高の武士のような人を、中院家の娘として、一人の妻として一生支えたい)

 

 その想いが聡子の背中を押した。

 聡子は、膝の上で細い指を握りしめ、雅武を真っ直ぐに見つめた。

 

「六条様。……私は、殿下の正妃になるお覚悟は持てませんでした。それは今もおなじです。我が身の分不相応を存じております。ですが……」

 

 そう言葉を紡ぐ聡子の声は、もう震えていない。

 

「殿下の影となられた貴方のお背中を、お支えするお覚悟なら、私にも持てるやもしれません。中院の娘として、貴方のその『真っ白な手』を、お守りしたく存じます」

 

 その瞬間、部屋の空気がふっと柔らかくなった。

 秋の風が、楓の葉を一枚、二人の足元へと運んだ。

 言葉よりも、出会いの記憶よりも、確かな沈黙が二人を結びつけていった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 和室に戻った二人を迎えた宮内省高官夫妻は、二人の表情を見て、静かに頷いた。

 内諾は、言葉ではなく、その静かな顔つきが告げていた。

 慶仁がこの場を提供し、「御差許」を出した理由が、今ここに実を結んでいた。

 

 

 




※慶仁の孤独の救済:
雅武が聡子という理解者(伴侶)を得ることは、慶仁にとっても「自分が地獄から遠ざけた乳兄弟が、ようやく自分の影から離れて一人の男としての幸福を掴んだ」という、最大の救いになる。

※結納への説得力:
子爵家の次男への降嫁という形だが、この会話を経て行われる「結納」は、もはや形式的な儀礼ではなく、「京極宮家を支える二つの影(雅武とそれを支える聡子)が、正式に合一する儀式」という極めて重要な意味を持つようになる。
 
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