十一月の初め。
木枯らしが吹き始めた京極宮邸の一角で、
六条雅武は、机の上の白封筒を静かに見つめていた。
差出人は中院聡子。
封は淡い藤色の糸で結ばれ、香はほとんどつけられていない。
ただ、紙そのものがわずかに白梅の香を含んでいた。
雅武と聡子は、中院伯爵の許しを得て、水面下で節度ある書簡を交わし始めていた。
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六条 雅武様
先日の御対面に際しましては、過分なる御厚情を賜り、心より御礼申し上げます。
東屋にて伺いましたお話、今も胸に深く残っております。
寒さ厳しき折、どうか御身お大切にお過ごしくださいませ。
中院 聡子
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雅武は、文を読み終えると、胸の奥に仄かな熱が宿るのを感じた。
(……あの東屋での言葉を、この姫は真っ直ぐに受け止めてくださったのか)
彼は慎重に筆を取り、返礼の文をしたためた。
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中院 聡子様
このたびは丁重なる御文を頂戴し、誠に恐れ入ります。
東屋での語らいは、私にとりましても忘れがたきひとときにございました。
どうか、冬の風にお風邪など召されませぬよう。
六条 雅武
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文は短い。しかし、行間には「あなたを想っています」という仄かな温度が宿っていた。
十一月中旬。
秋気いよいよ深く、宮邸の庭もにわかに色づき始めていた。
雅武は、結納に向けた正式な礼法に従い、媒酌人の件を控えめに、しかし確かに知らせる文をしたためた。
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中院 聡子様
秋気いよいよ深く、宮邸の庭にも霜が降りる朝が増えてまいりました。
中院の姫君におかれましては、御機嫌麗しくお過ごしのことと拝察いたします。
さて、差し出がましいことながら、結納の儀に先立ち、媒酌人の件につきまして内々にお知らせ申し上げます。
このたび、殿下の御差許により、東伏水宮家の殿下・妃殿下が主仲人をお引き受けくださる運びとなりました。
また、実務につきましては、同宮家筆頭家令夫妻が差添としてご尽力くださるとのこと、併せてご報告申し上げます。
家格低き我が身には身に余る栄誉なれど、姫君をお迎えするため、宮内省との調整を厳かに進めております。
寒さ厳しき折、どうか御身お大切にお過ごしくださいませ。
六条 雅武
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これに対する聡子の返書は、細筆で慎ましやかに、しかし確かな喜びを滲ませて認められた。
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六条様
御丁重なる御文、深く感謝申し上げます。
媒酌人の件、恐れながら拝読いたしました。
東伏水宮家の殿下・妃殿下が主仲人をお務めくださるとのこと、身に余る光栄に存じます。
父も「震えるほどの光栄」と申しておりました。
六条様が殿下からどれほど深く信頼されているのかを拝察し、我が身の引き締まる思いにございます。
そのような大役にふさわしい者であれるよう、日々を慎み深く過ごしたく存じます。
私はただの世間知らずの娘なれど、六条様が日々、宮家のために尽くされるそのお背中を、いつかお支えできる日を静かに祈っております。
初霜の便りも聞かれる頃、どうか六条様も、お風邪など召されませぬよう御自愛くださいませ。
中院 聡子
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十二月初旬。
京極宮邸の庭は、冬枯れの色を帯び、池の水面には薄氷が張り始めていた。
この日は、東伏水宮家の差添である家令夫妻の案内で、六条雅武と中院聡子が控えめな散策を許された日だった。
並んで歩くのは、あの日を合わせると、これが三度目。
しかし、今日の空気はどこか違っていた。
冬の装いに身を包んだ聡子は、少し緊張した面持ちで、仕立ての良いスーツを着た雅武の半歩後ろを歩いていた。冷たい風が池の水面を揺らす中、雅武が静かに足を止め、振り返った。その目は、一人の誠実な青年のものだった。
「……中院の姫君。本日は、お美しいお姿を拝見でき、感無量にございます」
「六条様、私などには過ぎたお言葉にございます。……あの、東伏水宮様が媒酌人に立ってくださるというお話を伺い、本当に私がその場所に相応しいのか、いささか怖気づいてしまいまして……」
聡子がうつむくと、雅武は静かに微笑んだ。
「怖れることはありません。私は子爵家の次男、社会的な席次も男爵相当の無爵の身。中院伯爵家からすれば、降嫁の形をとらせてしまう。東伏水宮様が動いてくださったのも、偏に殿下が『雅武の妻になる者を、最高の格式でもてなせ』と仰ってくださったからです。私が背負う宮家の重みは、これからは貴女と共に分かち合うものとなります」
雅武は、池の水面に映る冬の澄んだ空を見つめた。
「私は桑名の悲劇の後、殿下の影として、真っ白な手のまま泥を片付けることだけを生業としてきました。自分の人生に、家族を持つような春が来るとは思いもしませんでした。ですが……もし貴女が、私のこの手を守ってくださるなら」
雅武は聡子を真っ直ぐに見つめ、そっと手を差し伸べた。触れはしない、けれど確かな拒絶のない温もりがそこにあった。
「私は一生をかけて、貴女と、新しく生まれるであろう我が子を守り抜きます。……共に歩んでいただけますか、聡子殿」
初めて「姫君」ではなく、名で呼ばれた。聡子は胸が熱くなり、深く頭を垂れた。
「はい、六条様。喜んで……お供いたします」
冬の風が、散策する二人の間をそっと通り抜ける。
(……この方となら、未来を歩めるのかもしれない)
しばらく歩いた後、聡子がふと足を止めた。
「……六条様。もし、私が六条家に嫁ぐことになりましたら……この庭を、またご一緒に歩けますでしょうか」
雅武は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「はい。……何度でも」
その一言に、聡子の頬が淡く紅に染まった。
二人は初めて、夫婦としての未来を具体的に思い描いた。
二人の間に、ただの主従の影ではない、「夫婦」としての温かい未来の灯が、確かにともった瞬間だった。
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庭園の散策を終え、中院家へ戻る黒塗りの車の前で、雅武は懐から小さな桐箱を取り出した。
「聡子殿。正式な儀礼の品とは別に……これを、私個人から貴女へお贈りしたく存じます。受け取っていただけますか」
聡子が驚きながらそれを受け取り、そっと蓋を開けると、中には、上品な菫色に染められた、最高級のシルクのスカーフが入っていた。
気品を感じさせつつも、あの「白布」の日を思い出させる、雅武らしい粋で誠実な贈り物だった。
「これは……美しい菫色……」
「貴女の小袖の色を拝見し、きっとお似合いになると。……あの日、私は貴女に無粋な白い布を差し出してしまいました。今度は、貴女の涙を拭うためではなく、貴女の笑顔を彩るために、これを使っていただきたいのです」
雅武のその言葉に、聡子はスカーフをそっと胸に抱きしめた。
「六条様……ありがとうございます。一生の宝物にいたしますわ」
車が走り出し、遠ざかっていく雅武の端正な姿を、聡子は窓からいつまでも見つめていた。胸の中には、贈られた菫色の絹のように、柔らかで温かい幸福感が満ちていた。
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その夜。
聡子は自室の文机の上で、雅武から贈られた菫色のスカーフを、そっと広げて見つめていた。
指先を触れるだけで、庭園で彼が静かに語った言葉の重みが、あの優しい声音とともに蘇るようだった。
「――まあ、お嬢様。そんなに熱心に見つめていらしては、絹地がすり減ってしまいますわ」
お茶を替えに部屋へ入ってきた、年の近い侍女の「たえ」が、悪戯っぽく微笑んだ。聡子はハッとして、慌ててスカーフを胸に抱きしめる。頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「六条様からの贈り物でございますわね」
「ええ。このスカーフを頂きましたの」
「まあ……それは、それは。お嬢様、よほど大切に思われておりますね」
「そ、そんな……まだ正式な結納も済んでおりませんのに」
たえは、聡子の頬が赤く染まるのを見て、くすりと笑った。
「お嬢様。六条様は「影の男」でございます。そのような方が贈り物をされるのは……よほどのお気持ちがある証にございますよ」
「……たえ。私……どうしたらよいのでしょう」
「簡単でございます。お嬢様が六条様をお慕いなら、そのままお慕いになればよいのです」
「中院の娘として、本当に六条様のお側を支えられるかしら……」
「お嬢様なら大丈夫にございます。そのお優しい御心が、六条様には何よりの救いになりますわ」
聡子は、雅武から贈られた菫色のスカーフを、胸に抱いたまま、そっと目を閉じた。
灯火の光の中、聡子はまだ見ぬ先の儀礼への緊張と、胸をくすぐる淡いときめきに、静かに身を震わせていた。
(……六条様。私は、貴方のお傍に立てるでしょうか)
少女らしい揺れは、やがて静かな覚悟へと変わっていった。