昭和五十二年、初春。
まだ冷たい風が残る麻布の朝、六条子爵邸の門前に、宮家の紋を染め抜いた黒塗りの高級車が静かに停まった。
東伏水宮家の差添である宮家令夫妻が降り立ち、六条家の家令と短い挨拶を交わした。
庭には霜が残り、白梅の蕾がほころび始めていた。
「では、結納品を積み込ませていただきます」
宮家令夫人の声に従い、六条家からの結納品――長熨斗、御帯料、勝男節、寿留女、子生婦、友志良賀、末広、家内喜多留、高砂人形――が丁寧に車へ運び込まれた。
伝統に則り、六条家の人間は同行しない。
雅武も、両親も、ただ静かに見送るだけである。
黒塗りの車が門を出ると、六条家の庭に、初春の光が静かに差し込んだ。
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正午。
車は中院伯爵邸の白砂の前庭に到着した。
中院家の家令が深く頭を下げ、差添の宮家令夫妻を客間へ案内する。
客間には、初春の光が障子越しに柔らかく差し込み、床の間には中院家伝来の若松の掛け軸が飾られていた。
すでに中院伯爵と聡子は並んで座していた。
聡子は淡い桃色の訪問着に身を包み、緊張を押し隠しながらも、その姿は凛として美しかった。
差添の宮家令が、六条家からの結納品の目録を恭しく差し出す。
「六条家よりの結納品、確かにお届けに参りました」
伯爵は目録を改め、静かに頷いた。
「……ありがたく受納いたします」
その声は、中院家の格式と誇りを静かに示していた。
続いて、宮家令がもう一つの桐箱を差し出した。
「こちらは……京極宮慶仁殿下より中院聡子様へ下賜の品にございます」
その瞬間、客間の空気がわずかに揺れた。
伯爵も聡子も、思わず息を呑む。
桐箱の中には――宮家御用達の職人が仕立てた最高級の筥迫、そして、慶仁自らが二人のために詠んだ「御製」が収められていた。
伯爵は深く頭を垂れた。
「……殿下は、これほどまでに……」
聡子は震える指で御製を受け取り、胸にそっと抱いた。
(殿下……六条様と私の未来を……祝してくださっているのですね)
その想いが胸に満ち、聡子の瞳が潤んだ。
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午後。
中院家からの返礼品――六条家への袴地、受領書、返礼の目録が差添の家令夫妻に託され、黒塗りの車は再び六条邸へ戻った。
六条家では、家令が目録を確認し、静かに宣言した。
「……これをもちまして、六条家と中院家の結納、正式に完了いたしました」
その言葉を聞いた瞬間、六条家の空気がふっと柔らかくなった。
雅武は、胸の奥に静かな熱が広がるのを感じた。
(聡子……いよいよ、あなたを迎える日が近づいたのだな)
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結納が無事に完了して数日後の朝。
中院伯爵邸の奥にある「上段の間」では、女中たちが静かに赤毛氈を広げていた。
その上に、六条家からの結納品、そして慶仁からの下賜品がひとつひとつ丁寧に並べられていく。
女中たちの動きは、まるで舞のように静かで乱れがない。
この家がどれほどの格式を守り続けてきたか、その所作だけで伝わるようだった。
毛氈の手前には、白木の台に載せられた結納目録が置かれ、奥には六条家から贈られた品々が整然と並んでいた。
初春の光を受けて淡く輝く長熨斗。
控えめながらも品格ある御帯料の金包。
近海で一本釣りされた鰹を手火山式でじっくり燻した最高級の本枯節、勝男節。
白く美しい姿が末永い縁を象徴する寿留女。
子孫繁栄を祈る子生婦。
白い麻糸が共白髪の誓いを静かに語る友志良賀。
末広がりの繁栄を祈る純白の扇子、末広。
家内に喜びが多く留まるよう願う小ぶりの柳樽、家内喜多留。
仲睦まじい夫婦の象徴である高砂人形。
どれも、六条家の誠実さと格式を示す品々だった。
そして結納品の上座に、ひときわ目を引く桐箱が置かれていた。
蓋には、京極宮の御印が金泥で描かれている。
中院家の親族たちは、その箱を目にした瞬間、自然と背筋を伸ばした。
桐箱には――宮家御用達の職人が仕立てた最高級の筥迫と、慶仁が自ら詠んだ祝賀の御製が収められていた。
御製の和紙は淡い桜色を帯び、その筆跡は祐筆の代筆ではなく、「雄にして繊」と称される慶仁の手であることに疑いはなかった。
中院家の婦人たちは、思わず息を呑んだ。
「……殿下は、これほどまでに……」
かつて妃候補として名が挙がりながら辞退した中院家。
その家を、殿下は深く敬い、六条家との縁を祝福している。
その事実が、披露の場にいた全員に、静かに、しかし確かに伝わった。
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やがて、中院家の親族縁者、親しい華族、民間の有力者、そして宮内省の高官たちが招かれた。
客間へ通された者たちは、赤毛氈の上に整然と並ぶ結納品と下賜品を目にして、誰もが息を呑んだ。
「……見事な結納でございますな」
「六条家は、これほどの格式を整えられるのか」
「殿下の御製まで……」
「中院家は、これほどまでに厚遇されて……」
その声には、驚きと敬意、そして中院家の誇りを静かに讃える響きがあった。
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別室に通された一同の前には、祝い膳が整然と並べられていた。
料理には「御尊膳」と書かれた美しい掛け紙が被せられ、紙の端から覗く器は織部。中院家の控えめな上品さが滲んでいた。
女中たちはあらかじめ膳の向き、器の角度、鯛の尾の向きまで細かく調整し、一切の乱れがないよう整えていた。
その所作は、まさに「家の格」を映す鏡だった。
席に着いた客の目の前で、女中が一斉に掛け紙を外す。
現れたのは、祝い肴・酢の物・煮物・焼き物・白和えの料理だった。
祝い肴は、大根と人参の紅白結び水引・松葉に刺した黒豆、数の子、子持昆布、殻の赤が祝いの席に映える車海老の旨煮。長寿と子孫繁栄を願う品が、確と盛り込まれていた。
酢の物は「多幸」に通じる蛸に、見通しのよい未来を願う酢れんこん、春の香りをそのまま閉じ込めたような筍の木の芽和え。
煮物には、亀の甲羅に見立てた亀甲椎茸、子孫繁栄を願う里芋、良縁と夫婦円満を祈る手綱こんにゃく、紅白の梅に見立てた梅人参の焚き合わせ。
焼き物は鯛の姿焼きと焼き目の美しい鰆から白味噌の香りがほのかに立ちのぼる鰆の西京焼き
やがて、襖の向こうからふわりと油の香りが漂ってきた。
女中たちが黒塗りの盆を抱え、列を成して入室する。
盆の上には、揚げたての天ぷらが白い和紙の上に美しく盛られていた。
海老、蓮根、ふきのとう、こごみ――春の山菜の香りが、客間にふわりと広がる。
衣は薄く、油の照りがわずかに光を返す。
料理に一家言ある者たちが、思わず目を細めた。
「……揚げたてを、この場で……」
「中院家の心遣いが行き届いておりますね」
続いて、黒塗りの椀を載せた盆が静かに運ばれてきた。
蓋を開けると、内側の金蒔絵が光を受けてきらりと輝く。
椀の中には、蛤、結び昆布、結び三つ葉、そして金箔がひとひら。
潮汁からは、ふわりと春の香りが立ちのぼった。
「……見事な椀だ」
「蛤とは……まさに夫婦和合の象徴」
「中院家は、ここまで有職の作法を守っておられるのか」
最後に運ばれたのは、白磁の飯椀に盛られた鯛飯だった。
蓋を開けると湯気がふわりと立ちのぼり、ほぐれた鯛の身と米の一粒一粒が光を帯びていた。
「……温かい鯛飯を直前に……」
食後には、練り切りと羊羹が黒文字を添えて静かに置かれ、緑茶とともに供された。
繊細な細工の練り切りに目を細めた客たちが、ひそりと言葉を交わす。
「なんと雅やか……」
「聡子様は、良い家にお育ちになったのですね」
「六条家もこれほどの家と縁を結ばれるとは」
「殿下の下賜品と、この祝い膳……中院家の面目は、完全に保たれましたな」
その日、中院邸を辞した者たちは皆、同じことを悟っていた。
かつて妃辞退という出来事がありながら、中院家は京極宮家から変わらぬ信頼と敬意を受けている。そして六条家は、その中院家と正面から向き合うだけの誠実さと格式を備えた家である、と。
聡子の縁は、誰の目にも疑いのないものとして、この場に刻まれた。