雅武と聡子の婚姻まであと七日を迎えた日。
この日は夜明け前から、中院伯爵邸の前に人の気配があった。
特注の有蓋車が三台、門の前に静かに並んでいる。荷台の幌は白く張られ、それ自体がすでに儀礼の装いをしていた。
家令の槇野が白手袋をはめ、腕を組んで立っている。その眼差しは厳格で、周囲の職人や使用人たちは誰一人、むだ口を利かなかった。
夜明けとともに、荷積みが始まった。
まず運び出されたのは、中院家の家紋――六華竜胆車――が金蒔絵で側面に描かれた、六棹の総桐の婚礼箪笥だった。
続いて長持、衣装箱、鏡台、文机。どれにも等しく、中院の紋が螺鈿細工で施され、光を受けて輝いていた。
そんな現場に遭遇した新聞配達員が、門前の坂道で配達用の二輪車を停めたまま、しばらく動けずにいた。
「……中院の五の姫様のお輿入れか」
感慨深げな配達員の視線の先で、槇野家令が職人に一言、短く指示を出した。
荷積みは、淀みなく続く。
聡子は、自室の縁側から、箪笥が一棹、また一棹と門を抜けていく光景を眺めていた。
隣に、母が静かに座った。
「……行きますよ、聡子」
「はい」
短い言葉だった。
母の声は穏やかで、それでいてわずかに掠れていた。
聡子は膝の上で手を重ね、ただ頷いた。
荷積みが一段落したころ、槇野家令が客間へ戻った。
卓上には、整然と「御道具目録」が並べられている。
着物と帯、数十竿分。宝石類。中院家伝来の茶道具と調度品。そして持参金の目録――有価証券の類まで、すべてが一枚一枚、丁寧に記されていた。
中院家を出た有蓋車が、京極宮邸の大門をくぐったのは、午後も遅い刻だった。
宮邸の職員たちは、あらかじめ門の内側に整列していた。
家扶の白石を筆頭に、女中頭、家従、女中、家丁まで、誰もが白手袋をつけて待っている。
それは命じられたからではなく、自然にそうなったのだという。
有蓋車の幌が開くと、中院家の紋を戴いた箪笥が姿を現した。
誰かが、小さく息を呑んだ。
白石が静かに呟く。
「……また、お一人、殿下の御身内が増えますな」
隣の女中頭が、そっと頷いた。
六華竜胆車紋の箪笥が据えられ、長持が置かれ、鏡台が定位置に収まっていく。
その度に、空間の空気が少しずつ変わっていくようだった。
誰かが住む気配というものが、部屋に宿り始めていた。
雅武は、庭から別館の一室の窓を見上げていた。
カーテンも何もない、がらんとした窓だった。
この別館に住むことが決まったのは、結納を終えてまもない頃だった。
思えば、独立を申し出たのはこれが初めてではなかった。
宮家令に任じられた直後にも一度、慶仁に打ち明けたことがある。宮家令ともあろう者が主君と同じ屋根の下に居住し続けるのは筋が通らぬ、と。
その時、慶仁は書類から目を上げずに言った。
「今は忙しい。落ち着いてからにしろ」
落ち着いてからにしろ、と言われた「落ち着いた頃」には、別の案件が持ち上がり、また先送りになった。それが幾度か繰り返されるうちに、雅武自身もいつしか言い出しづらくなっていた。
だが今度こそ、と思ったのだ。慶仁に妃が来られる。自分も妻を迎える。これ以上ない区切りではないか、と。
「そうか、この屋敷から出ていくのか」
「はい」
「それで、どうするのだ?」
雅武は売りに出されていた男爵位相当の土地を購入し、新居を構えるつもりでいた。それを慶仁に告げると、殿下はしばらく雅武の顔を見てから、ただ一言、言った。
「そこに屋敷があるのだから、そこに住めば良いではないか」
宮邸の敷地内にある側近用の別館は、子爵位相当の格を持つ。宮家令の身とは言え、男爵位の自分がそこに入居することを雅武が固辞すると、慶仁は僅かに眉を動かした。
「宮家令が邸外に住んでどうする。夜中に急用が生じたらどうするのだ」
「……殿下、それは」
「それだけだ」
それきりだった。
覆ることはなかった。
理由は実務論だった。少なくとも、慶仁が口にしたのはそれだけだった。
だが雅武には分かっていた。殿下が「それだけ」と打ち切る時、それは決して「それだけ」ではない。
反論の余地など、最初からなかったのだ、と雅武は今も思う。
一週間後には、あの部屋に明かりが灯り、聡子が、あの部屋にいる。
それがまだ、どこか現実として掴みきれなかった。
背後に、静かな足音。
振り向くと、白石が立っていた。
「六条様。道具の搬入、ただいま完了いたしました」
「……そうか。ご苦労だった」
「はい。それと――」
白石が一歩、近づいた。
「殿下より、お預かりのものがございます」
応接室に通されると、卓の上には二つの品が置かれていた。
一つは、漆塗りの文箱。蓋には、京極宮家の紋が金で描かれている。
もう一つは、紅白の水引を結んだ、白い包み。
白石が、静かに説明する。
「文箱は、中院聡子様へ。殿下のご筆による祝いの言葉と、宮家御用達の香老舗より取り寄せた特誂えの香道具一式にございます」
「……聡子に」
「はい。殿下からは、『かつて宮闈に漂った憂いはすべて水に流し、これからは我が妃となる澄子と共に、宮家の奥を共々に護り支えてほしい。京極宮家の最も信頼できる身内として、末永く』との、お言葉を添えてとのことにございました」
雅武は、しばらく文箱を見つめた。
候補者として名が挙がり、そして自ら退いた聡子。その聡子と乳兄弟で最側近である宮家令の雅武が縁組するにあたり、慶仁は彼女の過去の涙を完全に赦し、最高峰の九条澄子を迎える宮家の「奥の盾」として、最大の格式と誠意で歓迎してくれたのだ。
それが慶仁という人間だと、雅武は知っていた。
「そして、こちらが」
白石が白い包みを示す。
「六条様へ、殿下より直々に」
雅武は包みを受け取り、静かに解いた。
中には、まだ表装を待つ生紙のままの一幅の書があった。
墨痕鮮やかに躍る慶仁の筆蹟は、まさに雄にして繊。
骨を断つような力強い運筆のなかに、刃物めいた鋭さと、哀しいほどの繊細さが同居する、若き当主の魂そのもののような二十文字がそこにあった。
同氣経泥雪
君爲京極留
千載絶孤愁
白手護深秋
雅武は、しばらく動けなかった。
同じ乳に育ちながら、あの桑名の泥雪の夜、同道できず東京でただ待つことしかできなかった己。その夜を経てなお、自分を「京極を内から留め護る身内」として扱い、宮邸に繋ぎ止めてくれた主君。己は当主として千年の孤独な愁いを断ち切るゆえ、お前はその「白い手」で、新しく迎える妻との深まる秋を護れ――。
それは、ただの祝辞ではなかった。
「絶」という一文字に込められた、孤独を引き受ける当主としての凄まじい覚悟。そして結びの「白手」に込められた、あの夜に側にいられなかった雅武の「手の白さ」さえも包み込み、これからはその手で新居の幸福を護れという、生涯の友としての剥き出しの信頼と祈りそのものだった。
幼い頃からずっと、雅武は慶仁の隣にいた。その重さも、孤独も、傍で見続け共に歩んできた。
あの桑名の夜に生じた決定的な距離を、殿下はこの二十文字で完全に埋め、そればかりか「お前は我が身代わりだ」と告げている。
そして今、慶仁は最高峰の妃を迎える。
(……殿下)
雅武は書をそっと畳み、胸に当てた。
返す言葉は、なかった。
あるとすれば、ただ、これからの日々の中で示すほかない。
日が暮れた宮邸の別館に、灯りが一つ、点った。
搬入を終えた職員が、最後の確認をしているのだろう。
がらんとしていた部屋に、今夜から家具の影が宿っている。
雅武はしばらく、その窓を見ていた。
あと七日。
中院聡子が、この灯りの中に来る。
それまで、と雅武は思った。
それまで、このひとときを、ただ静かに抱えていよう、と。