昭和五十一年十月。
京極宮夫妻が初の共同公務として地すべり抑止工事の現場視察を終え、宮家の大行事がすべて一段落し、宮邸にもようやく穏やかな風が吹き始めた頃。
その秋晴れの日に、六条雅武と中院聡子の結婚式は静かに執り行われた。
秋晴れの空の下、日枝神社の大鳥居が朝の光を受けて朱く輝いていた。境内には金木犀の香りが漂い、風が木々を揺らすたび、参列者の衣の袖が静かに揺れた。
新郎の雅武は、男爵相当の身分に許された黒無地の衣冠を纏っていた。紋様は控えめで、冠も簡素である。しかし背筋は誰よりも伸びていた。十七年間、慶仁殿下の影として宮家を支えてきた男の姿は、その簡素な装束の中に揺るぎない威厳を宿していた。参列者の誰もが、六条雅武という男は家格ではなく役目で立っている、と悟った。
聡子は、小袿の姿で現れた。
中院家本来の十二単ではなく、夫の身分に合わせた一格控えめの装束である。しかし表の衣は上質な絹で、襟元からのぞく菫色の襲は見事だった。裾の重なりは控えめながらも気品に満ち、格を下げてもなお隠しきれない中院の姫の美しさが、そこにあった。
雅武は、その姿を見た瞬間、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
巫女の鈴の音が響き、雅武と聡子はゆっくりと玉串を捧げる。社殿は静かで、二人の衣擦れの音だけが響いた。その静けさが、むしろ二人の決意を際立たせていた。
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挙式を終えた二人は、披露宴の会場となる帝国ホテルの大広間へ移動し、ここで洋装へと着替えた。
新郎の雅武はシンプルな黒のタキシードに勲四等瑞宝小綬章のみ。爵位を有する宮家の若い秘書官としての控えめな装いで、世間の目には地味な宮家の実務官と映るはずだった。
新婦の聡子は、ミカドシルクのウェディングドレスを纏った。
華奢な身体を包むのは、贅沢なボリュームを持たせたミカドシルクのドレス。細く絞られたウエストから、硬質な光沢を湛えた裾が扇状に広がり、小柄な彼女の立ち姿に、中院家の姫としての、そして宮家に認められた者としての、圧倒的な気品を与えていた
そして彼女の頭上には、京極宮家から特別に貸与されたダイヤモンドのティアラが燦然と輝いていた。男爵相当の妻であれば、通常は小ぶりのパールの髪飾りが相場である。しかし聡子の頭上にあるのは、宮家の宝物庫に眠る本物のティアラだった。慶仁から、労いと感謝を込めて特別に許された品である。
帝国ホテルの大広間に入った華族たちは、最初はどこか冷ややかだった。
「中院家も、五女を子爵家の次男に降嫁させるとは……」
「まあ、悪くはない縁組みだが……」
しかし、聡子のティアラを見た瞬間、その空気は一変した。
「……あのティアラは……京極宮家の御物では……」
「まさか、宮内省の目を排して、殿下が直々に御貸与を仰せつけられたというのか」
「いや、新郎は六条子爵の次男で男爵なれど、いまや京極宮の『家令』だぞ。……宮家の宝物庫の鍵を預かる男の式に、殿下がこれだけの『格』をお与えになったのだ」
「六条家と中院家……いや、これは殿下の、新郎への絶対的な御信任の証だ……」
どよめく会場を、雅武はただ、静かな無表情のまま見据えていた。世間に「地味な実務官」と侮られようとも、自分と妻の後ろには京極宮がついている。その事実を、彼はあえて一言も弁解せず、ただ妻の頭上の輝きだけで証明してみせたのだ。
「だが、あの華奢な体躯でミカドシルクの重厚さに耐えられるものなのか」
「ドレスが歩いてるようなことにならねば良いが」
と冷ややかな目を向ける者もいた。
だが、隣に立つ雅武だけは知っていた。かつて宮妃候補として、宮中の苛烈な視線の中で鍛え上げられた彼女の体幹が、この程度の生地の重みに屈するはずがないことを。
彼女が一歩を踏み出した瞬間、周囲の懸念は吹き飛んだ。彼女が一歩を踏み出した瞬間、その懸念は吹き飛んだ。気品高く伸びた背筋、宮家のティアラを戴いてなお些かも揺るぎない首筋の美しさ。彼女はドレスに『着られている』のではない。その圧倒的な家格と伝統を、自らの誇りで見事に着こなしていたのだ。
ざわめきは、驚愕と敬意へと変わっていった。
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披露宴が始まってしばらくした頃、会場の扉が静かに開き、公務を終えたばかりの慶仁と澄子が姿を現した。
水を打ったように静まり返る会場のなか、慶仁はふらりと二人のもとへ歩み寄り、雅武の肩を親しく小突くように軽く叩いた。
「雅武。……よく、ここまで来たな」
そして、緊張の面持ちで控える聡子の手を優しく取り、柔らかく微笑みかけた。
「聡子殿。雅武を頼む。こいつの手を白く保つのは、これからは其方の役目だ」
その言葉に、会場の空気は一気に和み、祝福の拍手で満たされた。
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すべての儀礼を終えた後、帝国ホテルの控え室でドレス姿の聡子と二人きりになった中院伯爵は、胸の奥から込み上げる深い感慨に浸っていた。
(……あの子が、ここまで……中院の娘として、そして六条雅武の妻として……)
かつて宮妃候補として張り詰め、涙を流したあの子が、苦難を乗り越えてここまで立派になった。中院の娘としての誇りを失わず、そして今、六条雅武という至誠の男の妻として、これ以上ない格で迎えられたのだ。
「聡子。……よい嫁ぎ先を得たな」
そう告げる父の声はわずかに震えていたが、そこには親としての確かな誇りと、安堵が満ち満ちていた。
聡子はそっと父に頭を下げる。
「お父様……私、幸せになります」
窓外から差し込む秋の柔らかな光が、新しい一歩を踏み出した二人の姿を、優しく包み込んでいた。