昭和五十二年、初春。
京極宮邸の庭には、まだ霜が残っていたが、空気の底にはかすかな春の匂いが混じり始めていた。
聡子が懐妊したと知れたのは、婚礼から三月ほど過ぎた、一月の終わりのことである。
「……おめでとうございます、奥様。ご懐妊にございます」
医師の言葉に、聡子は胸に手を当て、しばらく声を失った。
中院家から付き添ってきた侍女のたえが涙ぐみながら手を握る。
「お嬢様……いえ、奥様。本当に……本当に、おめでとうございます」
その報せはすぐに中院家へ、そして六条家へ伝わり、両家は小さな春の訪れに沸き立った。
伯爵は受話器の向こうで言葉を詰まらせ、六条の老夫妻は仏間に向かって深く手を合わせた。
雅武は宮邸での執務中に報せを受け、思わず机に手をついた。
(……聡子が……)
胸の奥に、これまで味わったことのない温かさが広がった。
しかし同時に、彼の心を最も強く占めたのは――
(どうか……どうか無事で)
という、誰よりも深い案じの念だった。
雅武はその日の夜、帰宅してから聡子の顔をしばらく黙って見ていた。
「……なにか」
「いや」
それだけだった。
だが聡子には、夫の目の奥に揺れているものが見えた気がした。
春が深まるにつれ、宮邸にも穏やかな変化が生まれていた。
澄子妃のお腹も、聡子のお腹も、日に日に丸みを帯びていく。
二人はほぼ三ヶ月差で、同じ季節をそれぞれの重さで歩いていた。
「……お互い、もうすぐですね」
「はい、妃殿下。こうしてお話しできるだけで、心が軽くなります」
宮邸のサロンで向かい合って座る二人の姿は、侍女たちの間で「春のお二方」と密かに呼ばれるようになっていた。
格式張った宮内の女官たちには吐けない言葉を、澄子は聡子の前でだけ、そっと口にした。
「……聡子殿。こわい、と思うことはありますか」
「……ございます。毎晩」
澄子は少し目を伏せ、それから微かに笑った。
「よかった。私だけではないのですね」
サロンのテーブルには、白いおくるみの布地が広げられていた。
澄子は針を動かしながら、ふと小さく笑った。
「九条家では……こういう『手作り』は、あまりさせてもらえませんでした。でも……今は、こうして聡子さんと並んでいられるのが嬉しいのです」
聡子は、その言葉の奥にある孤独を感じ取った。
「妃殿下。私は……妃殿下のお傍にいられることを、とても光栄に思っております」
おくるみの準備をしながら、二人は言葉少なく、しかし確かな温度で励まし合った。
九条家という巨大な実家を持ちながら、宮中という場所では弱音のやり場がない澄子にとって、かつて同じ重圧の中に立ったことのある聡子だけが、「同じ目線」で話せる相手だった。
五月、若君が誕生した。
宮邸は祝賀に包まれ、慶仁は父になった。
その事実を、雅武は執務室で書類を手にしたまま受け取った。白石から告げられた一言に、しばらく動けなかった。
(……殿下が、父に)
十七年間、あの孤独の重さを傍で見てきた。
それを今、殿下は我が子に継がせることになる。
喜びと、そこはかとない痛みが、雅武の胸の中で静かに混ざり合った。
八月。
蝉の声が宮邸の庭に満ちる朝、六条家に男児が生まれた。
産声は力強く、夏の光の中に真っ直ぐ響いた。
雅武は分娩室の外の廊下に立ち、その声を全身で聞いた。
何かが、胸の奥で静かに崩れた。
崩れて、満ちた。
聡子は疲れ果てた顔で、それでも目を開けていた。
産着に包まれた児を胸に抱き、夫を見上げる。
「……雅武様」
「ああ」
雅武はそっと、我が子の額に指先を当てた。
熱く、柔らかく、小さかった。
(お前は、この宮邸で育つのだな)
その重さと温もりが、手のひらに伝わってきた。
翌日の夕刻、慶仁が六条邸を訪れた。
供も最小限にした、私的な訪問だった。
産着姿の六条家の児を、慶仁はしばらく無言で見下ろした。
その表情は、宮家当主のものではなく、一人の父親のものだった。
やがて、慶仁は雅武を振り返った。
普段の端然とした面持ちとは少し違う、どこか剥き出しの顔で。
「雅武」
「はい」
「私の澄子が産んだのは――『京極宮の跡継ぎ』だ」
一拍。
「お前の聡子が産んでくれたのは、我が子の生涯の『友』だな」
雅武は答えなかった。
答えられなかった。
十八年前のあの冬の記憶が、一瞬よぎった。悲劇の中で孤独に育ち、「怪物」と呼ばれた少年。その少年が大人になり、今、我が子に同じ孤独を負わせまいとしている。
ただそれだけのことが、慶仁には言えない言葉で込められていた。
「これで、あの子は一人にならずに済む」
慶仁の声は、静かだった。
静かで、しかし確かに震えていた。
「私に雅武がいてくれたように」
雅武はゆっくりと頭を下げた。
言葉の代わりに。
誓いの代わりに。
晩夏の頃から、京極宮邸の広い縁側には夕暮れ時になると二つの揺り籠が並べられるようになっていた。
片方には宮家の紋章があしらわれた気品ある揺り籠。若君は五月の薫風の中に生まれ、すでに三ヶ月を経ていた。
もう片方は、中院家と六条家のぬくもりが詰まった、飾り気のない揺り籠。八月の太陽の下に生まれた六条家の児は、まだすべてが柔らかかった。
縁側に、四人の大人がいた。
慶仁と雅武は、並んで揺り籠を見下ろしている。
澄子と聡子は、少し離れた座でひそりと言葉を交わしながら、冷たい麦茶を淹れていた。
蝉の声が、遠くなっていく。
庭の松が、夕風にさわさわと揺れた。
慶仁がぽつりと言った。
「雅武」
「はい」
「お前は、幸せか」
雅武はしばらく、揺り籠の中の我が子を見ていた。
「……はい」
短く、しかし迷いなく答えた。
慶仁は何も言わず、ただ小さく頷いた。
昭和五十二年の夏の光が、宮邸の縁側を、四人の大人と二つの揺り籠を、等しく照らしていた。
その数年後、両家にはまた、示し合わせたように数ヶ月差で女の子が生まれた。
それが十数年後の京極宮家を揺るがす、新たな恋の嵐の始まりになるとは――
この夏の縁側にいた雅武も聡子も、まだ知る由もなかった。