京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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こっちはヤバい箇所は削除したはず


外伝

 昭和五十二年五月に産声を上げた京極宮家の若宮は、「陸仁(みちひと)」と名付けられた。

 かつて京極宮慶仁の胸の内で十七年間鳴り止まなかった雨音を消し去った澄子。彼女が産んだその若宮は、父である慶仁の高身長と精悍な顔つき、そして母である澄子のどこか大胆なまでの行動力を、そのまま血肉として受け継いでいた。そして三年後には長女の「寛代子」が誕生する。

 若宮の誕生から数ヶ月後、宮家の家令である六条雅武の元にも、長男の「雅忠」、そして三年後には長女の「誓子」が誕生する。

 身分という名の、決して越えてはならない一線は厳然として存在していた。京極宮家の若宮と、男爵相当の臣下の子。だが、同じ年齢の子供がすぐ近くにいるという環境は、若宮の情操にとってこれ以上ない最高の庭となった。

 

「雅忠。誓子といっしょにいらっしゃい。若宮様と寛代子女王様がお待ちですよ」

 

 澄子が二人を呼び、一緒に御所へ参内する準備をさせる。そんな光景は、京極宮邸における日常の一コマとなった。

 幼い頃の誓子は、いつも若宮である陸仁の後ろを、小動物のようにちょこちょことついて回っていた。陸仁が振り返れば、そこにはいつも、父親譲りの誠実そうな丸い瞳で自分を見つめる少女がいた。陸仁にとって彼女は、己の影のようになじんだ、愛らしい「妹分」に過ぎなかった。

 

 しかし、時間は残酷なほど美しく、少年と少女の肉体を創り変えていく。

 

 十代の半ばを迎える頃から、陸仁は慶仁と澄子の長所を受け継ぎ、高身長で引き締まった体躯、そして人を射すくめるような精悍な顔つきの若者に成長していた。

 一方の誓子もまた、母親似の息を呑むような容姿の良さを備え、立ち振る舞いには父親の誠実さが静かに滲む、一人の美しい娘となっていた。

 

 やがて陸仁が二十歳を迎え、義務教育を修了した誓子が正式に「宮家の女官」として宮邸に上がり始めた、ある初夏の午後のことだった。

 庭の木漏れ日の中で、休息中の誓子がうつらうつらとうたた寝をしている姿を見かけた陸仁が悪戯心を起こし、そっと近づいていった。

 後少しというところで、誓子がふと目を覚まし顔を上げた。

 それが運命の瞬間だった。

 木漏れ日の中、まどろんでいた誓子の睫毛がふるりと震え、ゆっくりと瞼が上がる。

 その瞬間、陸仁は息を呑んだ。

 寝起きの誓子と視線が絡んだ刹那、陸仁の中で何かが軋んだ。

 いつもならすぐに気安く声をかけていたはずだった。だが今、言葉が喉の奥で凍りついている。

 目の前にいるのは、幼い頃から己の背をちょこちょこと追いかけてきた、あの小さな妹分ではなかった。木漏れ日を受けて仄かに色づいた頬、閉じていた瞼がゆっくりと開いていくその所作、そして視線が絡んだ瞬間に見せた小さな驚き──そのひとつひとつが、陸仁の知らない「女」を映し出していた。

 木漏れ日を浴びてきらめく細い睫毛。微睡みから覚めたばかりの潤んだ瞳が、驚きに丸くなって陸仁を見つめている。彼女の小さな唇から漏れた、かすかな吐息が届きそうなほど近い。陸仁の胸が、今までにないほど激しく、警鐘のような音を立てて跳ねた。あまりに急激に突きつけられた彼女の女としての存在感に、喉の奥が乾き、言葉を失ってしまった。

 いつの間に、これほどまでに。

 自分が見ていなかった歳月の分だけ、誓子は確かに大人になっていた。その事実が、不意打ちのように陸仁の胸を突いた。

 

 一方の誓子もまた、目覚めた瞬間に視界を覆ったその影が、幼い頃から慕っていた若宮である陸仁だと気づいた瞬間、身体中の血が逆流するような衝撃を覚えていた。

 すぐ目の前に、慶仁王の面影を残す精悍な輪郭と、人を射すくめるような漆黒の瞳がある。

 

 これまで幾度となく見上げてきた陸仁の顔だった。

 だがこの日、木漏れ日を背負って佇む陸仁の姿は、見慣れたはずのものと違って見えた。胸の奥がひどく騒がしい。頬に集まった熱が引かない。

 いけない、と誓子は思った。

 これは自分が抱いていい感情ではない。六条の娘として、宮家にお仕えする身として、若宮に対してこのような胸の高鳴りを覚えることそのものが、許されざる不遜だ。

 そう己に言い聞かせるほどに、陸仁の眼差しから逃れられない自分がいた。

 誓子はとっさに視線を伏せ、居住まいを正した。

 胸が、痛いほど鳴っている。

 陸仁の顔など、子供の頃には無邪気にその背を追いかけ、女官として上がってからも、日々近くでお仕えしてきて、見慣れた。はずだった。

 なのに今、木漏れ日の中で自分を見下ろす陸仁の眼差しが、どうしても頭から離れない。驚いていたのか、それとも笑っていたのか。ただ確かなのは、あの瞳がまっすぐ自分だけを見ていたということで──その一事だけで、誓子の胸はこれほどまでに乱れてしまっている。

 おかしい。自分はいつからこれほど愚かになったのだろう。

 六条の娘として宮家にお仕えする身が、若宮に対してこのような感情を抱くことがどれほど不遜か、誓子には分かりすぎるほど分かっていた。

 ならば今すぐこの熱を胸の奥へ押し込めてしまえばいい。

 そう思うのに、伏せた睫毛の裏に、あの眼差しがまだ残っている。

 

「……よく眠れたか」

 

 その陸仁の声に、自分の寝顔が覗き込まれていたのだと察した瞬間、カッと全身が火を噴いたように熱くなり、白く滑らかな頬が瞬く間に鮮やかな朱に染まっていった。

 

「わ、若宮……様……?」

 

 上気した顔のまま、誓子は掠れた声を絞り出す。あまりの近さに、陸仁の引き締まった体躯から漂う、凛とした気配に包み込まれていくような錯覚に陥る。

 

(私は、若宮様を……このような目で……?)

 

 誓子の中でも、何かが静かに音を立てて形を変えていた。

 初めて自覚する「思慕」の情に、誓子の心は激しく千々に乱れた。これまでのように「お兄様」の背中を追う子供のままではいられなかった。己の心臓の音に圧倒されるばかりだった。耳たぶまで真っ赤に染め上げ、言葉にならない戸惑いを浮かべる誓子は、必死に視線を泳がせた。

 陸仁は、そんな彼女の狼狽と、瞳の奥に走った微かな戦慄を見逃さなかった。誓子が自分に対して抱き始めた、隠しきれない小さな想いに、彼は直感的に気がついていた。

 

 だが誓子は、その胸の火をけっして表に出してはならないものとして、すぐにきつく唇を噛み締め、そっと心の奥底に秘め続けようとするのだった。

 

 誓子は胸の熱を押し隠すことに、次第に慣れていった。

 夏の盛りには、陸仁が不意に声をかけるたびに乱れていた息が、秋の深まる頃には表情に出なくなった。視線を合わせるときの一瞬の強張りも、冬には誰の目にも留まらぬほど小さくなっていた。

 誓子は上手になっていった。自分の感情を、六条の娘らしい静かな所作の奥に、丁寧に、完璧に、仕舞い込むことに。

 だが陸仁には、分かった。

 誓子が己の名を呼ぶとき、一拍だけ遅れる呼吸のこと。廊下ですれ違いざまに伏せられる睫毛のこと。自分が他の女官と言葉を交わすとき、誓子の指先がほんの僅かに強張ることを──おそらく誓子自身は気づいていない。

 陸仁は何も言わなかった。

 問いただせば誓子は否定するだろう。あの生真面目な瞳で、一分の乱れもなく。そうして自分との間に、今よりもっと高い壁を積み上げるだろう。

 だから陸仁は、ただ見ていた。春の気配が庭の梅を白く染め始める頃まで、気づいていないふりをしながら、誓子の一挙一動を、静かに、飽くことなく見続けた。

 

 陸仁を焦立たせたのは、誓子の瞳の奥に、深く重い「拒絶の壁」が見えたことだ。

 六条の血を引き、宮家の家令の娘として育った彼女は、己の胸に宿った熱を誰よりも恐れているようだった。若宮に対する身分違いの思慕を「不遜なもの」として圧し殺し、父親譲りの生真面目さで完璧に律しようとしている──その冷徹なまでの自己犠牲の覚悟が、彼女の佇まいから静かに滲み出ていた。

 

 最初は、ただ苛立ちだと思っていた。

 誓子の想いに気づいていた。気づいた上で、誓子が毎日それを丁寧に殺していることも、分かっていた。朝には昨日より少し上手に視線を逸らし、夕には昨日より少し完璧に声を整える。その積み重ねが、陸仁には歯痒くてならなかった。

 秋になる頃には、誓子の律し方があまりにも板についてきたことが、陸仁をいっそう苛立たせた。このまま誓子は、己の胸の熱を「なかったもの」として処理し終えてしまうのではないか。そんな焦りに似た感情が、胸の奥でくすぶり始めた。

 雅忠が誓子に気安く声をかけるのを見たとき、苛立ちは別の色を帯びた。

 誰にも渡したくない。誓子が誰かのために微笑むとき、その笑顔の意味を解する者が自分以外にいるという事実が、ひどく不快だった。誓子の一日の動きを、無意識に目で追っている自分がいた。朝どこにいるか。誰と話しているか。どんな顔をしているか。

 冬の夜、一人になるたびに思うのは、あの伏せられた睫毛のことだった。自分の前でだけ、僅かに乱れる誓子の呼吸のことだった。

 あれは、自分だけが知っている。

 だというのに誓子は今日も、その熱を誰にも悟られまいと、静かに、完璧に、押し殺し続けている。

 だが、慶仁の熱情と澄子の行動力を引く陸仁が、その綺麗な防壁をおとなしく見過ごすはずがなかった。

 誓子が引いた一線の前に立ち、逃げ場のないほど真っ直ぐに、その漆黒の瞳で彼女の視線をとらえ続けた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「誓子。なぜ私と話すとき、そのように背筋を強張らせる」

「……滅相もございません、若宮様。宮家にお仕えする者として、当然の礼儀にございます」

「昔のように話せ」

 

 六条の血を引き、宮家の家令の娘として育った誓子は、いつしか己の胸に宿ってしまったその「身分違いの思慕」の重さを、誰よりも深く理解していた。

 

(私は臣下であり、宮家に仕える女官。京極宮の若宮様に対して、このような不遜な想いを抱いてはならない)

 

 だからこそ、彼女は父親譲りの生真面目さで己の感情を完璧に律した。一歩引き、徹底して「忠実な臣下」として振る舞おうと、自らに冷徹な境界線を引いていた。

 互いに己の立場を弁え、誠実であろうとすればするほど、かえって二人の間に流れる視線や沈黙が雄弁になってしまう。その張り詰めた空気感を、誰よりも近くで見つめてきた存在がいた。陸仁の妹、寛代子(かよこ)である。

 

 ある日、宮内省から回ってきた書類を必死に見つめ、陸仁の前で彫像のように固まっている誓子を見て、寛代子は優雅に扇を広げてクスリと笑った。

 

「ねえ、誓子。お兄様のことになると、どうしてそんなに急に『男爵家の娘』の顔をして一歩引いてしまうの? 兄上がどのような目であなたを見ているか、あなた自身が一番よく知っているでしょう?」

「寛代子殿下……っ」

 

 誓子が顔を赤らめて俯くと、寛代子はさらに距離を詰め、その耳元で囁いた。

 

「ねえ、私の前でくらい、ただの恋する女の子に戻ればいいのに」

 

 寛代子は、兄の不器用なほどの執着も、幼い頃から一緒に育ってきた親友である誓子の痛いほどの健気さも、すべてを知っていた。だからこそ、このもどかしい二人の行く末を、少しのからかいと、深い慈しみを持って見守っていた。

 

 だが、運命の歯車は刻の流れに乗って激しく回り出していた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 それは、陸仁が二十一の誕生日を過ぎ、誓子が十八の誕生日を数か月後に迎える初秋のハイキングでの出来事だった。

 陸仁と寛代子の一行は、お付きの者として六条雅忠・誓子の兄妹を同行させ、北関東の美しい山々を訪れていた。

 久々のお忍び、それも宿泊を伴う外出ということもあってか、寛代子の弾むような高揚は止まるところを知らなかった。道中に見つけた珍しい高山植物に目を輝かせては足を止め、風光明媚な地に差し掛かれば「あちらからの景色も見てみたい」と、お付きの誓子の手を引いて歩調を乱す。普段の宮邸では見せない寛代子の可愛い我が儘に、陸仁は苦笑交じりに溜め息を吐き、雅忠は予定を気にし冷や汗をかきながら宿泊所との連絡を取りつつそれに従うしかなかった。

 そうして一行の予定が大幅に遅れたことが予期せぬ危難を招いた。

 麓の宿泊所に辿り着く前に山の天気が急変し、突如として、激しい風雨が一行を襲ったのである。

 遮るもののない山道で、叩きつけるような雨がまたたく間に視界を奪っていく。雷鳴が尾根を震わせ、豪雨が横殴りに叩きつける。

 轟音を立てて狂い始めた濁流が彼らの退路を断とうとする中、陸仁は一切の動揺を見せず、冷徹な判断を下した。

 

「宿泊所に向かう事も引き返す事も不可能だ。あそこへ入るぞ」

 

 陸仁が鋭く指し示した先にある、近くの営林署の巡視小屋へと、一行は滑り込むようにして辛うじて身を寄せた。

 重い木扉を力ずくで閉め切った瞬間、鼓膜を圧していた暴風雨の咆哮が、一段低く壁を震わせる地鳴りへと変わる。

 板張りの室内に照明はなく、窓から這い入る初秋の薄い微光だけが、互いの輪郭を不気味にぼんやりと浮き上がらせていた。一同の衣服からは、容赦なく冷たい雨水が滴り落ち、床板に黒い染みを作っていく。

 緊張の糸が切れる間もなく、身辺を守る数名の護衛たちが、直ちに薄暗い巡視小屋の入口と其処から続く土間を固めた。万が一の事態に備え、主君の退路と安全を確保するための、迅速で無言の配置。

 その護衛たちの背を抜けた奥の板間では、誓子が、ずぶ濡れになって息を切らせる寛代子を気遣い、雅忠が無線機へと手を伸ばしていた。

 静寂を破るように、激しいノイズがスピーカーから弾けた。

 

「無線は通じたか?」

「この雷で雑音がひどく、使い物になりません」

「ヤタガラスの導きも雷だけはどうにもならぬか。やむを得ぬ、ここで夜を明かそう。救助も明日には来るであろう」

「最後の無線で知らせた予定の行程からはだいぶ外れておりますが」

「この雨も朝には止むであろう。そうなれば居場所だけは知らせられる。水も食料も問題ない。大丈夫だ」

 

 陸仁がどれほど冷静に状況を分析してみせても、寛代子の胸には、予定の行程を大幅に狂わせ、全員をこのような山深くの遭難寸前にまで追い込んだ元凶が、他ならぬ己の我が儘であるという思いが刻まれ、その重圧と激しい罪悪感、焦燥で押し潰されそうになっていた。自分が蒔いた種で、兄や大切な臣下たちが孤立している──その耐え難い罪悪感が、彼女の理性を狂わせた。

 

「私のせいで皆を危険に晒してしまったわ。私が麓まで下りて救助を呼んでくる!」

「お待ちください、殿下! 外は雷雨でしかも夜です、危険過ぎます!」

「雷雲が過ぎて居場所を伝えればそれで事足ります」

 

 その言葉に一度は思いとどまったが、雷鳴が遠ざかるにつれ、胸を焼く焦燥と猛烈な責任感が再び彼女の理性を塗りつぶした。

 このまま守られているだけの「重荷」でいることへの耐え難い恐れ。寛代子は固く唇を噛み締めると、土間に置かれていた己の小さなリュックサックをひったくるように背中に担ぎ直した。焦乱の底にありながらも、山に下りるには雨具や予備の道具が入ったリュックが無ければ話にならないということだけは、過剰な緊張ゆえに冷たく冴えた頭の隅に残っていたのだ。

 

「殿下、何を──っ!」

 

 雅忠が顔色を変えて手を伸ばした瞬間、寛代子は巡視小屋の重い木扉を力任せに押し開き、漆黒の雨の中へ飛び出してしまった。

 

「殿下を御止めせよ」

 

 その言葉に周囲の状況確認のため外へ出ていた護衛が制止しようとする。

 寛代子はその腕を小さくかわし、脇をすり抜けて漆黒の雨の中へ飛び出した

 

「殿下!?」

 

 驚愕する護衛たちの声を背に、彼女は雨の吹き荒れるぬかるんだ斜面へと消えていった

 慌てて雅忠と山に慣れた家従達が、彼女の後を追いかけていった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 激しい嵐の中、避難小屋に残されたのは陸仁と誓子、陸仁の身辺を守る数名の護衛のみとなった。

 

「殿下。我々は入り口に控えております。何かございましたら直ちにお呼びください。六条殿、殿下をお頼みします」

 

 そう言い残し護衛たちが壁向こうの入り口を固める中、薪ストーブの火だけが、パチパチと二人の輪郭を浮かび上がらせていた。

 

「若宮様、お召し替えを。このままではお風邪を召してしまいます」

「そういう其方も震えているではないか」

 

 陸仁が羽織っていた上着を脱ぎ、誓子の肩に掛けた。

 

「これは……?」

「其方に風邪をひかせては、私が家令と雅忠に殺されてしまうからな。……お、これならよいな」

 

 陸仁は自らの着替えを手にすると、室内を振り返った。

 

「そこの隅で着替える。幸い私の体に合う物があった。乾くまではこれでいよう」

「お召し替えのお手伝いを……」

「こらこら。妙齢の娘がそのようなことを言い出すな。私が本気にしたらどうする気だ」

「そ、それは」

 

 顔を赤らめ返事に困る誓子に、

 

「そこまでいうなら手伝って貰おうか」

 

 と、隅に移動した陸仁が自身のシャツに手をかけた。

 同時に、誓子が慌てて身体を反対に向けた。

 

「お、お許しを」

「そら。やはり其方には無理であろう」

 

 笑いながら着替える陸仁。

 

(まだまだ愛らしいものよ。あの様子では身内の他に親しい男はおるまい。……さて誓子にも合う服があればよいが)

 

 着替えを終えた陸仁が、誓子に手頃な大きさの上下を探し始めた。

 

(ああ、これなら良いな。少し大きいだろうが小さいよりはましだ)

 

 物置の隅に埋もれていた一着を見つけると、鼻を近づけ臭いが酷くないか確認する陸仁。

 

(問題ないな。これなら良かろう)

 

「やれやれ。やはり濡れたままの服では冷えるな。其方も着替えたらどうだ。そこで見つけた服だ。誰が着たかはわからぬが臭いはない。服が乾くまで少しの間我慢しろ。この大きさなら十分だろう」

 

 濡れた身体を震わせている誓子に、陸仁は自らの懐から取り出した仕立ての良いハンカチを差し出し、声をかけた。

 

「はい。ですが……」

 

 視界を遮るものが無い部屋を見回し、誓子が躊躇いがちな声を上げた。

 

「ああ、そうだな。其方は未婚の乙女だ。私の様に其処らで着替えて肌を見せる訳にはいかぬな」

「はい……」

 

 顔を赤らめ、恥ずかしげな声を上げる誓子。受け取ったハンカチで首筋や顔の水滴を手早く拭うと、名残惜しそうにそのハンカチを陸仁に手渡した。

 

「ならば……。おお、そこの物置で着替えればよいではないか。少々手狭だがそこの荷物を出せば幾分かは広くなろう。出した箱は目隠し代わりの壁にしてしまおう。他の荷物は上に積み上げてしまえ」

 

 陸仁は護衛を呼び、ともに素早く物置の雑多な荷物を運び出すと、誓子が着替えを行える僅かな空間を作った。

 

「これで如何だ」

 

 護衛と共に重い木箱や荷物を動かした陸仁は、わずかに上気した己の額の汗を拭うため、誓子から受け取ったばかりのハンカチで無造作に顔や手を拭うと、そのまま無造作に懐のポケットへと滑り込ませた。

 

「……では。我らはこれで」

「ありがとうございます、若宮様、皆様」

「早く着替えろ。私も離れる」

 

 護衛が一礼して立ち去るのを見届け、陸仁は少し離れた薪ストーブの傍らへと歩みを進めた。

 薄暗い物置に入り、立て付けの悪い木扉を閉めた誓子は、小さく息を吐く。手渡された着替えは、どこかの登山者が残していった実用本位の乾いた衣服だったが、それを身に纏うだけで、じわじわと体温が戻ってくるのを感じた。

 

 しかし、着替えを終えて這い出てきた誓子の姿を見た瞬間、陸仁の目がわずかに細められる。

 成人男性用の無骨な衣服は、誓子の体躯にはあまりにも大きすぎた。ぶかぶかに余った襟元は、濡れて肌に張り付いた黒髪とともに、かえって彼女の白く華奢な鎖骨を露わに引き立て、なにより、厚手の生地越しでも隠しきれない、大人の女性としての成熟を迎えたしなやかな肉体の輪郭が、男物の無機質な衣服の歪みとなって生々しく浮かび上がっていた。

 普段の端正な「宮家の女官」としての装いからは想像もつかない、無防備な姿がそこにあった。

 

「……若宮様?」

 

 陸仁の視線に気づき、誓子は本能的な危うさを察知して一歩後退りする。だが、そこは彼女が先ほど着替えに入った狭い物置だった。

 背中が、冷たい板壁と──陸仁が先ほど親切心から並べた、重い木箱の壁に当たって止まる。

【挿絵表示】

 

 

 ガタ、と鈍い音が響いた。

 

 その瞬間、正面に立つ陸仁の双眸に、電撃のような戦慄が走るのを誓子は見た。

 雑多な荷物を退かして少しでも広く、そして安心して着替えられるようにと作ってくれた、あの優しい目隠しの壁。それが今や、己の退路をミリ単位で塞ぐ「檻」へと変貌してしまったことに、目の前の若き主君もまた、同時に気づいたのだ。

 彼が自らの手で完成させてしまった、逃げ場のない完璧な密室。

 主君としての合理的な配慮が、最悪の形で男としての衝動を刺激するお膳立てになってしまった──それを悟った陸仁の漆黒の瞳から、一瞬にして「若宮」としての怜悧な光が消え失せる。代わりにギラリと剥き出しになった、激しい情熱を宿した男の影が、誓子の視界を完全に覆い尽くした。

 

「誓子。やはり、まだ震えている」

「いえ、これは……寒さのせいでございます」

 

 嘘だった。彼女を震わせているのは、寒さではなく、すぐ目の前にある陸仁の熱い呼気と、その漆黒の瞳に宿る、隠そうともしない情熱だった。

 陸仁は黙って、小屋の隅に畳まれていた分厚い毛布を取り上げると、それを誓子の頭からそっと被せた。それはまるですべての身分や、彼女が頑なに守ろうとする「礼儀」という名の鎧を、力ずくで覆い隠してしまうかのような挙動だった。

 彼の指先が、毛布越しに誓子の肩のラインに触れる。衣服の下の彼女の確かな温もりと、震える呼吸の音が、陸仁の理性を激しく揺さぶったが、誓子のその怯えた仕草にハッとした様子で頭を強く振った。

 

(……今、私は大切な彼女に何をしようとしていた?)

 

「すまない。些か錯乱していたようだ」

 

 陸仁がそう言って一歩身を引くと、誓子は大きな毛布に包まれたまま、物置の狭い入り口でおずおずと俯いていた。その不格好なほど健気な姿に、陸仁の胸の奥の尖った熱が、じわりと切ない愛おしさに変わっていく。

 陸仁は小さく息を吐くと、毛布の上から誓子の手首を優しく掴み、物置の影からストーブの前へと彼女を促した。

 

「……まだ冷えている。こちらへ来い。これ以上、其方を震えさせるわけにはいかない」

 

 手首をつかんだときに身体を強張らせた誓子の様子を見た陸仁は、ストーブの前に誓子を座らせると、自分用に畳まれていたもう一枚の毛布を広げ、誓子をこれ以上怯えさせない様に離れたところに腰を下ろした。

 陸仁は、しばらく黙って薪ストーブの炎を見つめていた。

 

「誓子」

 

 陸仁が、静かに誓子の名を呼んだ。

 

「先ほどはすまなかったな。其方を怯えさせてしまった」

「……どうかお気になさらずに、若宮様」

 

 誓子は俯いたまま、だが遮るもののない至近距離で、震える声を絞り出した。

 

「私は、若宮様に寄り添いたい。ずっとそう願って参りました。ですから……怯えてなど、おりません」

 

 それは、身分という鎖に縛られた彼女が、生涯で一度だけ許した、命がけの我が儘のような告白だった。

 

「……若宮様は、私のことを……どのようにお思いなのでしょうか」

「……誓子が思っているのと、同じだ」

 

 誓子の肩が、小さく震えた。

 

「若宮様……私は、臣下の娘にございます」

「知っている。それでも、お前がいい」

 

 その言葉は、かつて慶仁が澄子に告げた「代わりなど求めていない」という言葉と、どこか同じ響きを持っていた。

 

「……若宮様。そこはお寒いでしょう? そんなに遠くにいらしては、風邪を召してしまいます」

 

 誓子は、まだ血の気が引いている端正な顔に微かな笑みを浮かべつつも、陸仁を隣に招くと、二人の肩をひとつの毛布で包み込むようにして密着させ、陸仁の濡れた身体へと微かに震えながらもその身を寄せた。

 誓子の行為は純粋な、命がけの信頼だった。

 だが、その行為に陸仁が息を呑んだ次の瞬間、誓子は自らの見通しの甘さを骨の髄まで思い知ることになる。

 陸仁が気が付いたときは、ぶかぶかの男物を纏った彼女の華奢な肩を、強く引き寄せていた。

 狭い毛布の内で、二人の肌の温もりがダイレクトに混ざり合う。

 陸仁に強く引かれた衝撃で、誓子の座った姿勢がわずかに崩れていた。陸仁はその瞬間、溢れる衝動を抑えきれぬまま、毛布ごと彼女の身体をすんなりと腕の中に抱え上げ直した。

 

「……若宮様」

「黙っていろ」

 

 不意に視界が浮き上がり、誓子が小さく息を呑む。陸仁はそのまま立ち上がり、愛おしい重みをきつく抱きしめたまま、数歩で背後の物置の入り口──あの完全な暗がりへと踏み込んだのだ。

 ガタ、と二人の背中が並べた木箱に当たり、鈍い音を立てる。

 ストーブの淡い光すら届かない、完全な闇。自らが作った目隠しの「檻」の最奥へ彼女を降ろした瞬間、陸仁の大きな手が有無を言わさず誓子の顔を向けさせた。重なる熱い吐息が容赦なく彼女の理性を奪い去り、誓子の頭の中は一瞬で真っ白に弾け飛んだ。

 確かに「誓子が思っているのと同じだ」と言ってくれた。両想いになれたのだと、青ざめながらも幸福に震えていた。だが、二十一歳の健康な男の「同じ」が、これほどまでに獰猛で、熱く、心を狂わせるほどの熱情を孕んでいるとは、世間知らずな十八歳の女官である彼女には想像もつかなかったのだ。

 陸仁の大きな手が、毛布の内で誓子のしなやかな腰へと滑り落ち、その身体をさらに自分の方へと強く、強く引き寄せる。

 すぐ数メートル先には、嵐の風雨と戦いながら扉を支える護衛たちがいる。声を漏らすわけにはいかない──その極限の緊迫感が、二人の境界線を狂わせるように鳴り響いていた。

 誓子は恥ずかしさと、生まれて初めて触れる男の熱の強さに圧倒されそうになりながら、声を殺すために陸仁の逞しい肩口に顔を埋め、彼のシャツを指が白くなるほどに強く掴みしめるしかなかった。

 ドクドクと、狂ったように脈打つ陸仁の心臓の音が、誓子の耳に直接響いてくる。

 どれほど深く引き寄せられても、毛布の内側でどれほど狂おしく抱きすくめられても、誓子はもう、彼を拒むことなどできなかった。

 

 誓子を完全に我が物にしたいという本能の衝動を、陸仁は辛うじて残った主君としての誇りで縛り付ける。ここで一線を越えてしまえば、彼女の命がけの信頼を汚すことになる──その矜持だけが、二十一歳の男の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。

 

 ただ、自らを包み込む「若宮」という名の熱い檻の中で、お互いの体温と、一睡もできぬほどの張り詰めた情熱に浮かされながら、二人はただ朝を待つことしかできなかった──。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 陸仁の情熱が荒れ狂っている頃。

 

 小屋の入り口近くでは、吹き付ける風雨を遮るため、重い木扉を内側から支えながら、数名の護衛たちが低い声で言葉を交わしていた。外は未だ激しい嵐が猛威を振るい、漆黒の闇が視界を完全に奪っている。

 

「……おい。随分と静かだが、殿下はどちらにいらっしゃるのだ?」

「さっき荷物を引き出した奥の物置じゃないか? 六条の嬢ちゃんに奥の着替えの場所を譲って、ご自身は手前で休まれているのだろう」

「六条の嬢ちゃんは?」

「そういえば……物置から出てきた気配がないな。中で疲れ果てて眠ってしまったか?」

「そうかもな。夜学と女官の二足の草鞋はきついだろうからな」

「中に入って様子を見るか?」

「馬鹿を言え。万が一殿下が奥で休まれていて嬢ちゃんが手前で着替えていたら最悪だろ。俺たちはのぞき見した犯罪者になっちまう」

「嬢ちゃんが奥で殿下が手前に居るとは思うが、六条の嬢ちゃんなら殿下が奥に。と言い出しかねないか」

「ああ、確かにあの物置、窓が無かったな。シェルターの様なもんだから、嬢ちゃんなら我が身を挺してお守りしますとか言いそうだ」

「ただ嬢ちゃんを可愛がっている殿下が,それを良しとするかだが」

「不敬になるが、どちらも言い出したら引かないからなぁ」

「何れにせよ、ここを守る事に徹した方が良いか」

「そうだな」

「何より、殿下が同じ空間にいらっしゃるんだ、万が一があればすぐに我々に声をかけられる。殿下がいらっしゃるから大丈夫だ」

「それもそうだな。我々は外の警戒と、寛代子殿下の救助を待つことに集中しよう」

 

 吹き付ける風雨を遮るため、重い木扉を内側から支えながら護衛たちは忠実入り口を固め続けた。

 その背後、ほんの数メートル先の薄暗い物置の奥で、何が起きているか露ほども知らずに。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 翌朝。

 早朝の濃い霧に覆われた避難小屋に、寛代子が連れてきた救助隊がようやく到着した。

 

「遅くなったわ。みな無事?」

「はっ」

「兄と誓子は?」

「中におります。おそらくお休みではないかと」

「わかったわ」

 

 扉を開くと同時に、寛代子は真っ先に二人に声をかけた。

 

「お兄様、誓子!」

 

 その声に、二人が木箱の陰から顔をのぞかせ、姿を現した。

 

「そこにいたのね。本当に申し訳なかったわ、私の我が儘のせいで……!」

「……いや、気にするな。其方も無事で何よりだ」

 

 二人の元へ駆け寄り、頭を下げる寛代子。

 その背後で、六条雅忠の誠実そうな瞳だけが、鋭く二人を観察していた。

 見たところ、二人の衣服に乱れはない。ストーブの熱で朝までにはすっかり乾いたのであろう、昨日の私服をそれぞれ端正に着こなしている。

 ──だが、雅忠の目は誤魔化せなかった。

 二人が寛代子の呼び声に応じて出てきたのは、小屋の開けた中心部ではなく、あの物置の奥の、重い木箱に囲まれた狭い空間からだった。

 物置の入り口には、妹を安心して着替えさせるために若宮が退かしたのであろう木箱が、きっちりと並んで臨時の壁を作っている。その紳士的な配慮に不審な点など何一つない。だが服が乾いた後もなお、朝を迎えるその瞬間まで、二人があの狭い空間で、寄り添い合っていたという「事実」そのものが、主従の境界線が完全に融解したことを何よりも雄弁に物語っていた。

 いつもなら不遜なほど堂々としている若宮が、雅忠と目が合った瞬間に、ほんの一瞬だけ神妙に視線を逸らし、それから──一人の女性を守り、生涯を共にする覚悟を決めた男の、微塵も退かない瞳でこちらを見据え直した。

 自らの意志で妹の手を強く握りしめた者の佇まいがそこにあった。

 雅忠は何も言わず、物置の傍ら、ストーブのすぐ近くに干されていた陸仁の上着へと歩み寄った。一晩中火の側にあったその上着には、爆ぜた薪の黒い煤が薄く付着している。

 

「若宮。上着に煤が」

 

 雅忠はあえて感情を押し殺した声で、その煤を親しく払った。

 その上着を手に取り、陸仁の肩に掛け直す体(てい)で近づいた、その瞬間──雅忠の動きが、凍りつく。

 陸仁がいつも通り不遜に顎を引いた際、登山服の襟元からわずかに覗いた首筋の根元に、小ぶりな、だがはっきりと赤紫に充血した痕が、生々しく浮かび上がっていたのだ。

 声を漏らさぬよう、何かに必死に耐えるために、誰かがそこに強く噛みついたとしか思えない、言い逃れの出来ない決定的な情熱の痕跡。

 雅忠の顔から、一瞬にして血の気が引く。

 幼馴染として誰よりも信頼している若宮への敬意と、たった一人の生真面目な妹を案じる兄としての強烈な感情が、その胸の中で激しく火花を散らした。雅忠は震える指先を隠すように手早く煤を払うと、あえて周囲の護衛たちには聞こえぬような低い声で、陸仁の耳元へ言葉を落とした。

 

「……若宮様。麓に戻りましたら、後ほど『二人きりで』お話があります」

 

 陸仁は、その低く響いた一言の意味を即座に理解した。

 

「ああ。……分かっている」

 

 自分の首元の痕に気づかれたのだと悟った陸仁は、いつもの不遜さを綺麗に引っ込め、一人の男として、親友に対してこれ以上ないほどの「居心地の悪さ」と神妙な面持ちを浮かべるしかなかった。親友の信頼を裏切ってしまった事への申し訳なさと、それでも誓子を離さないという静かな決意が、その横顔を酷く大人びて見せる。

 雅忠はそれから、若宮の背後でおずおずと佇んでいる妹へと視線を向けた。

 誓子は兄の鋭い視線に緊張で身体を強張らせ、無意識に、衣服の袖口を少し引っ張って「手首」を隠した。

 妹のその微小な拒絶の仕草を見ただけで、雅忠にはすべてが分かった。

 

「誓子」

 

 雅忠は、いつもの生真面目な兄の顔に戻って、誓子の頭にぽんと手を置いた。

 

「風邪はひいていないな? 母上が心配して待っている。早く帰ろう」

「……はい、お兄様。私は、大丈夫です」

 

 誓子はほっとしたように小さく息を吐き、手早くい自らの私服の裾を払った。

 妹にはどこまでも優しく、しかし若宮には一人の男として堂々とケジメを求める──そんな雅忠の様子に一瞬だけ目を細め、それから深く息をついたのは陸仁のほうだった。

 一方、重くなりかけたその場の空気を一瞬にして華やかに塗り替えたのは、寛代子だった。

 二人が並んで出てきた場所、兄の妙に神妙な面持ち、手首を隠す誓子の仕草、そして赤く染まった耳たぶを見た瞬間、寛代子は全てを察し口元を隠した。

 

「……まあ」

 

 あのお堅いお兄様が、ついに「本気」になって身分違いの恋を我が物にしようとしている。

 そのあまりにも強烈な男の覚悟を悟り、彼女はそれ以上、無粋な追及は一切しなかった。ただ、二人の未来を祝福するような、どこか満足げで悪戯っぽい笑みだけをその瞳に湛え、くるりと救助隊の方を向いた。

 

「さあ、みなさん、お兄様方も無事でしたし、一刻も早く麓へ戻りましょう。お父様とお母様が首を長くして待っていらっしゃるわ」

 

 その美しい肩は、楽しげに小さく震えていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 若い男女が二人きりで山小屋で一夜を明かしたという事実は重い。

 醜聞は、華族社会を揺るがせる。宮廷の安定を望む大人たちは、この醜聞が公になる前に隠蔽せねばならなかった。

 

「一刻も早くこの醜聞を隠ぺいせねばならぬ。もはや二人を結びつけることでしか、宮廷の体面を保つ方法がない」

「ですが、家格が違いすぎる! 六条家は男爵相当の家柄。若宮の妃に迎えるなど、前代未聞だ!」

 

 今回は超えねばならぬ厳然たる「格」の壁があった。慶仁の妃は五摂家の公爵令嬢であったが、誓子は男爵相当の臣下の娘に過ぎない。宮内省の古狸が「家格が違いすぎる」と難色を示すのは火を見るより明らかだった。

 

 だが、その懸念が公になる前に鮮やかな手際で解決したのは、他ならぬ松殿侯爵家であった。

 

 かつて伊勢の悲劇で、慶仁を守るために、一族の誇りであった寛子を失った松殿家。彼らにとって、六条雅武は寛子とともに慶仁を支えた戦友であった。

 

「六条殿の娘御が、若宮様との一泊の件で苦境に立たされている」

 

 松殿侯爵が、親族たちを集めて静かに語りかけた。

 

「もしや水面下で噂になっているあの一件ですかな?」

「はぁ? あの極めて実直な六条殿の娘御ですぞ。あのような醜聞などあるはずがない。若宮様が彼女を守り抜かれたのだろう」

「であろうな」

「とはいえ若い男女が二人きりで山小屋で一夜を明かしたという事実は重いですからな」

「さて、如何するか」

「あの伊勢の夜、我が姉寛子は京極宮殿下をお守りして散った。ならば今度は、我ら松殿が、姉上とともに殿下をお支えしていた六条殿の娘を守り、若宮様の未来をお守りする番ではないか」

「そうだな。殿下の懐刀の危急ぞ。我が松殿の家名、喜んでお貸ししよう。亡き姉上もきっと、草葉の陰でそれを望んでいるだろう」

 

 こうして、誓子は「松殿侯爵家の養女」として籍を移し陸仁の妃として迎えられることが決定した。

 

 松殿侯爵家の決断からの動きは、文字通り電光石火であった。

 

 他家に勘繰る隙を一切与えぬよう、宮内省の戸籍管理を司る部署へは、表向き「前々から進められていた内々の縁組」として、松殿侯爵の署名が入った養女縁組の書類が極秘裏に提出された。

 こうして情報が外へ漏れ出す路はすべて、京極宮家、九条公爵家、松殿侯爵家、そして雅武の妻聡子の実家、中院伯爵家が握る有形無形の力によって完全に封じ込められた。

 そうして華族社会へ向けて速やかに公表されたのは、涙なしには聞けぬような、非の打ち所のない「主従の美談」であった。

 

『六条誓子は幼少期より寛代子女王殿下の御学友として宮邸に上がり、その生真面目な資質と宮廷への忠義は、両殿下からも高く評価されていた。折しも、松殿家では適齢期の娘がおらず、家名を華やかに彩る高潔な姫君を内々に求めていた。そこで、京極宮家への忠義の絆の象徴として、また六条家への感謝を込めて、中等科卒業の暁には誓子を松殿侯爵家の養女として正式に迎え、松殿の家格をもって宮廷へ恩返しをしたいと申し出ていた。手続き上の不備により許可が遅れていたが、この度正式に養女の許可が下りた』

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 東伏水宮をはじめとする、京極宮家と親しいごく一部の長老格が愉快そうに首を縦に振る裏で、宮内省の文書に記載される「建前」の作成は、深夜の京極宮邸の書斎で、極秘裏に進められていた。

 応接ソファに座る松殿侯爵は、差し出された書類に目を通し、ふっと優しく微笑んだ。

 

「なるほど。誓子嬢を我が家の養女とする理由は……『寛子の早逝以来、沈みがちであった松殿の家門を盛り立てるため、宮家とも縁の深い六条家から、最も信頼の置ける聡明な娘を貰い受けた』ですか。家督に関わることでもなし。これなら宮内省の古狸どもも、他の華族たちも文句の付けようがありませんな」

 

「すまない、松殿侯爵。こちらの不始末に、そなたの家名を借りることになってしまって……」

 

 滅多に他人に頭を下げない慶仁が、すまなさそうに頭を下げた。その横では、今回の騒ぎの当事者の父親である六条雅武が、恐縮のあまり借りてきた猫のように硬直していた。

 

「何を仰います、殿下」

 

 松殿侯爵は首を振った。その視線は、静かに雅武へと向けられる。

 

「あの悲劇の夜、姉を失い傷心の殿下を、一番近くで泥にまみれながら支え続けてくれたのは、他ならぬ六条男爵、あなただ。あなたへの長年の感謝を、こうして誓子嬢を『我が松殿の姫として宮家へ送り出す』という形で表せるのだ。これほど名誉で、亡き姉への供養になる話はありませんよ」

 

 松殿侯爵の温かい言葉に、雅武は「……勿体なきお言葉にございます」と、声を詰まらせて深く頭を下げた。

 かくして、他家が不穏な気配を察知するよりも遥か前に、宮内省の記録には『京極宮家・松殿家・六条家の、長年にわたる絆が生んだ、非の打ち所のない美しい慶事』としての書類が、完璧に調えられたのである。

 かつて結ばれるはずだった松殿の縁が、時を経て、若宮と六条の娘を結ぶための「美しい額縁」として蘇る──その粋な計らいに、華族たちは皆、静かに得心して口を閉ざした。

 かくして騒ぎは、完璧な格式を整えた上で、静かに収束した。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 慶仁は雅武から報告を受けた後、窓の外の庭を長い間見つめ、静かに呟いた。

 

「……雨音は、次の世代にも受け継がれるものらしい」

 

 隣で報告書を整理していた澄子が、そっと顔を上げた。

 

「殿下。これは……どうなさいますか」

「どうもせん」

 

 慶仁は、静かに微笑んだ。

 

「私がお前を引き止めなければ、今の我々はなかった。……陸仁も、同じだ」

 

 澄子は、少しの間黙っていた。そして、ほんのりと頬を染めながら言った。

 

「……殿下。私達の場合は、雨宿りをしただけでございます。他に何もございませんでしたわ」

「そうだな」

 

 慶仁は、それ以上何も言わなかった。

 窓の外では、秋の風が庭木を揺らしている。

 雨音は、次の世代へと、確かに受け継がれていた。

 

 




寛代子と誓子(ドレスのイメージ……品が無い……)

寛代子
【挿絵表示】

身長163cm
体重52kg(BMI約19.6)
B:83cm(アンダーバスト/カップ:63〜65cm/D〜Eカップ)
W:58cm
H:87cm


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


誓子
【挿絵表示】

身長158cm
体重47kg(BMI約18.8)
B:85cm(アンダーバスト/カップ:63〜65cm/E〜Fカップ)
W:57cm
H:86cm

寛代子「夫人譲りの腰の細さはずるいわよね……」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


聡子
【挿絵表示】

身長155cm
体重52〜53kg(BMI約22)
B:86cm(アンダーバスト/カップ:68〜70cm/D〜Eカップ)
W:62cm
H:88cm

?「……殿下。どさくさに紛れて4年前(37歳)の母上の姿を勝手に晒さないでいただきたい」
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