京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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7 胎動

 昭和五十年、春。

 

 慶仁は昨年十月に二十八歳を迎えていた。皇族としては、とうに婚姻を固めるべき年齢である。 

 しかし、慶仁にとって、そして周囲にとっても、寛子という存在はあまりにも大きすぎた。宮内省も皇族たちも、暗黙の了解として「京極宮慶仁王殿下の御心が整うまで待つべき」と判断し、歩みを止めていた。 

 だが、先の歌会始で慶仁が初めて胸の内を吐露したことを受け、事態は静かに動き始めていた。

 

「殿下にも国民にも、寛子嬢の幻影があまりに強すぎる。妃候補は極めて慎重に選ばれなければならない」 

「寛子嬢は清華家待遇の松殿家の姫であった。殿下の妃には、それに匹敵する家格が求められるのは必定」 

「当然だ。旧摂家の公爵家、旧清華家の侯爵家。下がっても旧大臣家の伯爵家まで。あるいは賜姓皇族の家系か」 

「留意すべきは、決して寛子嬢の『代わり』を求めてはならんということだ。寛子嬢の記憶を否定するような女性でもいけない」 

「左様。自己主張が強すぎず、控えめで、寛子嬢の存在を尊重できる者。殿下の痛みに寄り添え、同時に殿下をお支えできる芯の強さを持つ女性でなければ」 

「寛子嬢とは違う形で、殿下をお支えできる女性ということですな」 

「候補者の選定では、『寛子様のことをどう思うか』という点を重視する必要がありましょう。……あとは、松殿侯爵家がどう思われるか、ですな」

 

 周囲が慎重に動き出す中、慶仁自身の心は、まだあの雨の夜の記憶の淵を彷徨っていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 

 

 一方、松殿侯爵は、あの日以来、書斎で一人考え込むことが多くなっていた。

 

「今なら、言ってよいはずだ。いや……今こそ言わねばならない。だが、殿下の御心を思えば……」

 

 そう逡巡しているうちにも季節は巡り、梅が散り、桃の花もほころび始める月となっていた。 

 机に向かい、慶仁の歌が掲載された新聞の切り抜きを幾度も読み返す。

 

 ──雨音を聞く夜に、十六年前の温もりを探す。

 

 その言葉の重みに、侯爵は胸が塞がる思いだった。

 

「……殿下は、まだあの夜におられるのか……」

 

 ふと、背後で足音が止まった。夫人が静かに部屋へ入ってくる。

 

「あなた……殿下に、お会いになるのですか」

 

 侯爵はしばらく沈黙し、やがてゆっくりと、力強く頷いた。

 

「あの子は……殿下の未来を守るために命を賭した。ならば、父である私が……殿下の未来を後押しせねばならぬ」

 

 夫人は涙ぐみながらも、かすかに微笑んだ。

 

「……寛子も、きっと……それを望んでおります」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 

 

 数日後、松殿侯爵から宮内大臣宛に、短くも重い書簡が届けられた。

 

『殿下に、私より奏上致したき儀がございます。お時間を賜りたく存じます』

 

 文面を読んだ宮内大臣は、すぐさま事の重大さを察した。

 

「松殿侯爵が動いたか。これは、殿下の未来にとって決定的な意味を持つ」

 

 宮内省は極秘裏に日程を調整し、京極宮家へと報告を入れた。

 

「……松殿侯爵が……?」

 

 思いがけない名に、慶仁は一瞬息を呑んだ。

 

「はい。殿下に、どうしても直接お伝えしたいことがあると……」

 

 深く頭を下げる雅武に対し、慶仁は長い沈黙ののち、静かに応じた。

 

「……お会いしよう」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 

 

 宮内省の極秘の取り計らいにより場が整えられた、京極宮邸の奥深くに位置する客間。

 春の柔らかな光が庭の木々を透かして差し込むその部屋で、慶仁は隠しきれない緊張を漂わせながらソファに座っていた。

 やがて重厚な扉が開き、松殿侯爵がゆっくりと足を踏み入れた。

 凡そ十六年ぶりだった。命を散らした少女の父と、生き残った少年が、こうして正面から向き合うのは。

 侯爵が深く一礼し、慶仁もまた、身を乗り出すようにして頭を下げる。

 

「……寛子達のことを、歌にいたしました。しかし、私は……まだ前へ進めるかどうか……」

 

 言葉を詰まらせる慶仁を、侯爵はじっと見つめ返した。そして、十六年間抱え続けた想いを、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。

 

「殿下。寛子は、殿下に『生きてほしい』と願ったのであり、殿下の時間を『止めてほしい』と願ったのではございません」

 

 その言葉は、慶仁の胸に十六年分の痛みと、それ以上の救いを同時にもたらした。

 

「誰かを愛し、慈しむこともまた、あの子が繋いだ『生』の一部なのです」

 

 胸の奥底で凝り固まっていた罪悪感が、春の雪解けのように静かに溶け出していく。 

 慶仁は、震える声で義父となるはずだった人に問いかけた。

 

「……私は……寛子を裏切ることには……ならないでしょうか」

 

 侯爵は、きっぱりと首を振った。

 

「殿下。寛子は、殿下が生きる未来を守ったのです。殿下が幸せになられぬのなら……あの子の死は、いったい何のためであったのでしょうか」

 

 慶仁は目を閉じた。十六年という歳月を経て初めて、「前へ進む」という言葉が、すとんと腑に落ちた気がした。

 

「寛子は殿下の生を繋ぎました。殿下が誰かを愛することは、寛子の願いを生かすことなのです。あの子の死をただの悲劇に堕とさない為にも──」

 

 この日を境に、慶仁はようやく自らの未来へ目を向ける覚悟を決め、宮内省による妃選定は本格的な幕開けを迎えた。

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