妃選定特別会議が終わった日の夜。
宮内庁の一室で、女官長は一人、机の上に広げられた九条澄子の身上書と学習院からの素行報告書を前に、深い溜息をついていた。
「……私の目は、何という節穴であったのか」
報告書には、「協調性に欠ける」「身だしなみに無頓着」「華道や茶道など、妃としての教養よりも野山を歩き回ることを好む特異な性質」といった、教師たちの辛辣な言葉が並んでいる。
これまでは、その言葉を鵜呑みにし「由緒正しき九条公爵家の姫でありながら、変わり者である」と処理していた。しかし、香耶宮が指摘した『泥だらけになって通っていた場所』と『過去の災害発生地』の符号は、その評価が根本から間違っていたことを示している。
「華族社会という狭い鳥籠の常識ばかりで、あの方の纏う『泥』の意味を測ろうとしたから、このような歪んだ報告書が出来上がるのですね……」
女官長は、学習院からの報告書を静かに伏せた。
宮中作法や表面的な教養しか評価できない者たちの目を通した情報など、もう当てにはならない。自らの足で、九条澄子という女性の「真の姿」を調べ上げねばならない。
数日後。
女官長は極秘裏に、学習院大学理学部地学科の教授室を訪ねていた。
対応したのは、長年にわたり日本の地質学と防災研究を牽引してきた白川教授である。彼は、中等科の折から澄子が個人的に教えを乞うていた恩師であった。
「……宮内省の女官長殿が、わざわざ私のようなくたびれた学者の元へ足を運ばれるとは。九条の姫様のことですな?」
「はい。学習院における九条様の評価は、決して芳しいものではありません。ですが、それが『無理解による偏見』である可能性に思い至りました。白川教授……九条様の真の姿を、お教え願えないでしょうか」
深く頭を下げる女官長に対し、白川教授は少し驚いたように目を丸くし、やがて柔らかく微笑んだ。
「宮内省にも、本質を見ようとされる方がおられたか。……お茶を淹れましょう。少し、長くなりますからね」
白川教授は書庫の奥から、使い込まれた何冊ものノートを取り出し、女官長の前に置いた。
開かれたページには、緻密な地層のスケッチ、土壌の含水率の計算式、そして過去の降雨量と土砂崩れの相関を示すグラフが、整然とした文字でびっしりと書き込まれていた。
「これは……」
「すべて、九条様がご自身で足を運び、記録されたものです。お付きの者も連れず、長靴を履き、軍手をはめて、かつて水害や崖崩れが起きた現場を一つ一つ歩かれた。大学院で専門に学ぶ院生にも劣らぬ、見事な野外調査です」
女官長は息を呑んだ。報告書にあった『泥だらけの石蹴り遊び』の正体が、これだったのだ。
「なぜ、九条様はこれほどまでに……?」
「十五年前の、伊勢湾での台風です」
白川教授の声が、一段と低く、静かになった。
「当時、九条様はまだ八歳でいらした。敬愛してやまなかった従姉の寛子様が、京極宮殿下をお守りして命を落とされた。……その事実を前に、周囲の大人たちは皆、『運命であった』『誇り高き自己犠牲であった』と美しく語り、涙を流すばかりでした」
女官長の胸が痛んだ。それはまさしく、華族社会の、そして当時の日本国の姿そのものであったからだ。
「しかし、幼い九条様だけは違った。中等科に入られてすぐ、あの方は私にこう問うたのです。『先生、なぜ水はあそこまで溢れたのですか。なぜ、堤防は崩れたのですか。姉様を奪ったのは、本当に運命なのですか。それとも、人が土地を知らなかったからですか』……と」
「九条様……」
「九条様は、悲しみを美しい物語にして閉じ込めることを拒絶されたのです。二度と、あのような理不尽な災害で命が奪われないために。残された者がなすべきは、涙を流すことではなく、『大地と水の理』を知ることなのだと」
女官長は、手元のノートの端に、微かに水滴が落ちて滲んだような痕があるのを見つけた。
雨の夜に書かれたものか。それとも、泥に塗れながらこぼれ落ちた涙の痕か。
「……学習院の教師たちは、姫を『御侠』と呼び、公爵家の面汚しのように扱われました。九条様が和歌や裁縫の課外授業を受講せずに被災地へ向かうことを『公爵家の姫らしからぬ奇行』と断じ、泥のついた爪を隠そうともしない彼女を、冷ややかな目で見た。しかしあの方は、誰に何と言われようと、決して泥を払おうとはしなかった。私には分かっておりました。あの方は、亡き寛子様が命を賭して守られたものが、これ以上誰かの涙で濡れるのを食い止めたいと願っておられる」
白川教授は少しだけ目を細め、愛弟子を誇るように微笑んだ。
「姫の指先は、華族の姫君が本来持つべき白く滑らかなものではありません。泥が染み付いた指です。しかし……私には、あの泥に塗れた手こそが、何よりも気高く、美しいものに思えるのです」
「九条様は、周囲の無理解に対して、反論なさらなかったのですか?」
女官長の問いに、白川教授は静かに首を振った。
「一度だけ、私に零されたことがあります。『寛子姉様が冷たい濁流の中で感じた痛みに比べれば、心無い噂など、春のそよ風のようなものです』と」
その言葉に、女官長はたまらず目頭を押さえた。
なんという孤独。なんという苛烈な覚悟だろうか。
京極宮慶仁王が、自らの命を救われた十字架を背負い、十六年間誰にも言えずに悲しみを胸に抱き続けていたように。
九条公爵令嬢澄子もまた、華族という籠の中で孤立無援のまま、たった一人で「理不尽な死」と戦い続けていたのだ。寛子が命を繋いだ慶仁に、二度と同じ悲劇を味あわせないために。
「女官長殿」
白川教授が、まっすぐに女官長を見た。
「九条様は、変わり者などではありません。誰よりも深く人を愛し、誰よりも切実に、この国の国土と民の命を憂う、真に高貴な魂を持ったお方です」
「……ええ。痛いほどに、分かりました。私の命に代えましても、この真実を殿下と、そして周囲の皆様にお伝えいたします」
翌週、宮内省の奥にあるとある一室。
再び召集された東伏水宮と香耶宮、そして宮内大臣の前に、真新しい和紙に新たに記された『九条澄子身上書』が置かれていた。
分厚い報告書を読み終えた室内には、ただ圧倒的な沈黙が支配していた。
いつもは豪放な東伏水宮が、目頭を赤くし、天を仰いで深く息を吐き出した。
「……これは、たまらぬ。九条の姫は齢二十四ぞ。中等科に入り直ぐということは、十(とお)の頃から、この姫はたった一人で、花の盛りを捨ててまで、国土の安全を学んでいたというのか。周囲から爪弾きにされながらも、泥に塗れ……報いてやらねばならぬ。此度の件とは別に、国として何がしか報いてやらねば」
「寛子の犠牲を、悲劇という言葉だけで終わらせまいとする、その凄まじいまでの執念……。九条公爵は、これを知っておられたからこそ、周囲の雑音を遮り、姫を好きにさせておいでだったのだな。父として、娘の背負った業を共に背負う覚悟であったか」
香耶宮もまた、震える手で報告書を撫でた。
「左様。それを『教育の怠慢』と断じた我らの不明……。地学に地理、歴史……これらはすべて、この国の成り立ちを知り、民を災いから守るための『帝王学』そのものではないか。形ばかりの和歌や茶道に現を抜かす教師どもでは、姫の真の価値が分かろうはずもない。愚か者どもがこうも学習院に多かったとはな」
嘆く東伏水宮。
「教育の理念が形骸化し始めている証と言えましょうな。早急に手を打たねば、皇室の藩屏たる華族がみな腐り果ててしまう。徹底した外科手術が必要でありましょう。それにしても……」
と、香耶宮が深く息を吐いた。
「慶仁が、水害を防ぐための治水工事や、災害に強い都市計画に並々ならぬ執念を燃やしていることは、我々も知っての通り。その慶仁の傍らに立ち、真の意味で同じ視座を持ち、同じ『痛み』を共有できる女性が……まさか、これほど近くにおられたとは」
宮内大臣が、鋭く、しかしどこか晴れやかな声で呼んだ。
「女官長。この新たな報告書、見事である。最後の君の所見もな」
報告書の結びには、女官長の筆でこう記されていた。
『泥に塗れたその手は、決して奇行の証ではなく、この国の国土と民を憂う、何よりも尊き祈りの姿に他なりません。殿下の御心に空いた穴を埋めるのは「代わりの花」ではなく、殿下と共に「国土という土を耕す者」であると確信いたします』
「……西園寺の姫には申し訳ないが、方針を転換せざるを得まい」
宮内大臣の言葉に東伏水宮が首を振る。
「いや。それはならぬ。すでに日程も決まっておる。それに、西園寺の姫もまた、殿下の御歌を深く理解された稀有な御方。みだりに退けるべきではない」
「なんとも口惜しい。みすみす最高の原石が手元にありながら……」
香耶宮の悔しげな声に、東伏水宮が、決然とした声で宣言した。
「やむを得ぬ。最初の接見の打診は、予定通り西園寺の姫とする」
香耶宮も、宮内大臣も、不承不承ながら頷いた。
「西園寺の姫も聡明なご様子。何れにせよ、そう悪い結果にはなるまい。慶仁が色眼鏡で見ぬ様、九条の姫の真実については当面内密とする」
東伏水宮は、長机に並んだ極上の「原石」の身上書を見据え、ふっと口元を緩めた。
「あやつが、性質の異なる姫達をどう見極め、己の伴侶として誰を望むか。……それも次代を担う者の力量の内よ。良いな」