選挙の翌日は、妙に静かだった。
石畳の通りには昨夜の紙吹雪が残っていた。
共和派の赤いビラと、王国派の青いビラが、同じ風に吹かれて一塊になっていた。
選挙が終われば無用の長物とばかりに、今朝になれば誰も拾わない。
治安警備隊の詰め所は、港を見下ろす石造りの建物の一階だ。
エルネスト・サラサールは窓枠に肘をついて、動かない港を眺めていた。
扉が開いて、エスピナが入ってきた。
軍服を着ているが、帽子を被っていない。
手に持った書類を、黙ってエルネストの前に差し出した。
「北部軍管区の移動記録だ。昨夜のメンドーサの辞任発表直後から動いている」
エルネストは書類を受け取った。
トレイン港湾地区に向かう部隊の名前と、その規模。
総勢、三百余名。
構成員は陸軍が中心であり、武装している可能性は極めて高い。
指揮官の欄に記された名前を、エルネストは指の腹でなぞった。
ドミンゴ・エスカランテ中将。
「ロハス戦争の英雄ですね」
「そうだ。メンドーサとは同期だ。どちらが上に立ってもおかしくなかった、という話は軍内部では有名だ」
エスピナは椅子を引いて、どっかりと座った。
煙草を取り出して、火をつける。
一口吸い込んでから、天井に向けて煙を吐いた。
「誰かが動くのは間違いないとは思ったが、まさか翌日にいきなり大物が動くとは」
「好機逸すべからずというのは経験豊富な軍人らしさでしょう」
「でも、よりにもよって、翌日に……」
バレンティが奥の棚から地図を引っ張り出しながら、ぼそりと呟いた。
「おそらく理由は国王の発表だ」
「国王って、もう何の権力もないんでしょう」
「形の上ではメンドーサは補佐でしかない。今も形式上は国王を頂点として動いている」
ここでエスピナが取り出したのは士官以上に配布された書類だ。
メンドーサ辞任における後任人事の名前が記載されている。
「国王は、新たな国家総監を選ぶことで解決を図ろうとした。だが、その人事にはエスカランテ中将の名前はなかった」
「今の国王は将軍全員の名前と経歴を知らないのだろう。だから、貴族の爵位の順で選んだ。後任はフェルナンド・レリーシュ少将だ」
エルネストの説明にバレンティが首を傾げた。
「聞いたことないんですが」
「レリーシュ少将の階級は国王が名誉で与えた職だ。軍本部には一度も顔を出していない」
「なんでそんな人が」
「宮廷内で極秘に話を出来る軍人がそこしかいなかったのだろう。本人も寝耳に水に違いない」
「その人事は、さすがに国王が権力を取り戻そうとしているとしか思われないでしょう。それはもう批判も出ますよ」
「その上で、明後日には共和派の新人政治家達が議事堂に入ってくる」
バレンティから地図を受け取り、エルネストは机の上に広げた。
エスピナは地図を指した。
「準備期間はないようなものだ。兵は事情もよく分からずに引っ張り出されたようなもので、極めて士気は低い」
「他の部隊が出動する予定は?」
「ない。武力制圧するだけならば簡単だが、共和派の政治家に王国派を糾弾するための餌を与えたくないという事情がある」
「速やかに鎮圧せよということか」
「違う。これはエスカランテの行動はあくまでも意見陳述ということになっている。だから、それを『説得』する」
「その上で殺害はするなと」
「もちろんだ。エスカランテが死ねば、殉教者として共和派をよく思わない連中に祭り上げられるだろう。掛け値なしの『英雄』になってしまう」
エスピナはここでニヤリと笑みを浮かべた。
「選挙結果を妨害する者を即座に鎮圧せよ。これがメンドーサが辞任前に出した最後の作戦だ」
「ああ、実にらしい」
◆ ◆ ◆
夜明け前に、港湾施設の正門が封鎖された。
エルネストが現場に着いたのは、空がようやく白み始めた頃だ。
石畳の向こうに、整列した兵士の影が並んでいる。
銃口はこちらへ向いていないが、構えは解いていない。
正門の柱に、白い紙が貼りつけてあった。
風に揺れているそれを、エルネストは立ち止まって読んだ。
共和国への移行に反対する。
ヴェルディア王国軍の名のもとに、正当な後継政権が樹立されるまで、本施設を保全する。
ドミンゴ・エスカランテ中将。
「隊長、あの人たちは本気で撃ってくる気があると思いますか」
バレンティが横で小声で尋ねてきた。
「顔を見れば分かる」
「どうやって見るんですか? この距離ですよ」
「目で見るわけじゃない。観察するんだ。通常の作戦行動中には歩哨が雑談などしない」
エルネストはバレンティを置いて、既に一人で歩き出していた。
「隊長!?」
バレンティの声が後ろで止まった。
兵士達の間に緊張が走るのが、肌でわかる。
エルネストは躊躇せずに歩き続けて、正門の手前、十歩のところ、兵士達が銃を構えるか否かのタイミングで立ち止まり、敬礼をした。
「治安警備隊、エルネスト・サラサール少佐だ。エスカランテ中将に取り次いでほしい」
兵からの返事はなく、銃も構える前に止まった。
しばらくして、正門の奥から一人の老将が出てきた。
白髪交じりの髪を短く刈り、勲章を胸に並べた軍服はよれ一つない。
六十を過ぎても、その体には現役の圧がある。
ドミンゴ・エスカランテ中将は、誰も銃を構えていない兵士達を困惑しながら見回した。
「準備期間が足りなかった影響が出ているな。敵と味方の区別もつかんとは」
そして、敬礼を続けるエルネストを見て、静かに言った。
「サラサール少佐か。蒼炎隊の……いや、元か。話くらいは聞こう」
◆ ◆ ◆
「あの組織を解散させたのは、トレントの愚かさだったな」
エスカランテの声に、棘はなかった。
懐かしむような、ただそれだけの口調だ。
「個人的な恨みは持っていない。お前たちが守ろうとしていたものは、私にも分かる」
「ありがとうございます。ただ、中将、本日は別の話をしに来ました」
「軍規何条、選挙法何条やら、そんな法律の話はしなくていい。私は分かっていて動いている。そういう話をしに来たのではないだろう」
エスカランテが、先に言った。
「昨日の声明を読んだ。私の名前はどこにもなかった。速やかに職を辞する。軍は新政権の指示に従う……それだけだった」
「口約束に法的拘束力はありません」
「そうだな。だから私はここにいる。法ではなく、力の話をしに来た」
周りで兵士が息を詰めているのが見える。
エスカランテが静かな声で話せば話すほど、空気が張り詰めていく。
「共和派でも左翼党は軍を目の敵にしている。その理由のうちの一つが、農業労働者のデモ参加者の虐殺……シダコス事件だ」
その事件は蒼炎隊の前で発生し、エルネストとバルガスが陳情に行った事件だ。
共和派が王国を糾弾するために地名から名前を付けたが、事件の本質は同じだ。
忘れるわけもない。
「その命令に承認を出したのは私だ」
「承知しております」
エルネストは表情を変えなかった。
拳を握りしめ、腹に力を入れたが、表に出した変化はそれだけだ。
ただ、エスカランテの顔を見た。
氷の仮面で表情を隠した視線だけをエスカランテに向けた。
「共和派の中でも特に左翼党は軍の再編を公約に掲げている。その際には私はもちろん、多数の将校が解雇されるだろう」
「では、この訴えは軍を守るためだと?」
「時代遅れの軍隊、税金の無駄遣い。そう罵られようが、我々は命令に従って戦うための駒だ。政治の失敗の責任を取れというのならば、自分達が政治をしようと言うもの。メンドーサの軍部独裁も国の将来を憂いてのもの」
「中将は、この後どうなさるおつもりですか」
「共和派の新政府が正式に動くまで、ここを押さえる。その間に、私の主張を聞く耳を持つ者が集まれば、交渉になる」
「集まらなければ?」
「その時はその時だ。メンドーサがそうしたように、私も国王に直に物申す」
老将は、肩をわずかに動かした。
大きな賭けに出た人間の、静かな覚悟がある。
「この国は未だに王国だ。国王の発言が大きな力を持つ。王の口から『正しい』後任人事が発表されたならば、それで全てが変わる」
「力で強要することは正しさでしょうか?」
エルネストは視線を逸らさなかった。
「それは脅しか」
「事実確認です。私はいつもそう言っています」
エスカランテが、口の端を動かした。
笑ったのかもしれない。
「……お前は面白い男だな、サラサール」
◆ ◆ ◆
一方、バレンティは一人で動いていた。
封鎖線の外側を、ゆっくりと歩きながら、兵士一人ひとりに話しかけている。
治安警備隊の権限証を懐に入れたまま、笑顔だけを武器にして。
「あの、ちょっといいですか。怖くないですよ、私はただの……まあ、一応軍人なんですが」
最初の兵士は若かった。
エルネストよりもさらに年下だろう。
「今すぐ武器を置いて後ろに下がれば、記録には残さない。不問にする。これは治安警備隊の権限です」
若い兵士は銃を握ったまま、バレンティを見た。
「……でも、命令が」
「その命令の書面はありますか。書面がない命令は、法律上は命令じゃないんですよ」
「そんな、初めて聞いた話です」
「私も先週初めて知りました」
兵士が目を丸くした。
「ともかく、書面のない命令で動いた場合、責任は全てあなた個人に帰属します。隊長さんの名前は、どこにも残りません」
若い兵士は長い間、銃を見下ろした後に、静かに銃口を地面に向けた。
バレンティは次の兵士に向かって歩き出した。
◆ ◆ ◆
「魔法を使えば、今すぐここを終わらせられる。そうだな?」
エスカランテが不意に言った。
エルネストは否定も肯定もせず、視線を少し動かして、周囲に立っている兵士達の数だけを数えた。
ただの戦力分析。
それだけのことで、兵士達に動揺が走った。
「可能です」
その上でエルネストは力を否定しなかった。
口だけ力を伴わなくては、いくら正しい主張をしても、まず議題に上ることすら出来ない。
力とは権力だったり、誰か権力者や民衆の後押しだったり人によって様々だが、エルネストの場合は積み上げてきた魔法部隊としての能力と経験だ。
「なぜ使わない」
「使えます。ただ、使わないほうが早く終わります」
エスカランテは、エルネストをまじまじと見た。
「
「私たち魔法使いは単騎で一軍です。だからこそ感情では動きません」
「軍を感情で動かしてはいけない……か。ならば少佐を突き動かす動力は何だ?」
「法と論理です」
民兵が虐殺された時に、ラウルは感情で動こうとした。
エルネストはそれを止めて、正しい道を説いた。
それだけの話だ。
「ティアナのラウル・バルガスとは真逆だな」
「ティアナのラウル……司令官も論理によって動いています。魔法使いは軍。つまり、軍と軍がぶつかり合っただけのこと」
「詭弁だな」
エスカランテは目を細めた。
「三十年ほど前の話だ。当時の蒼炎隊が、千を超える魔法の弾丸を戦場にばら撒くのを見たことがある。そんな連中が眉間に拳銃を突き付けて降伏しろとはお笑い草だ。お前は法の論理ではなく、力を誇示して脅迫しただけだ」
エルネストは答えなかった。
窓の外……封鎖線の向こうで、また一人、銃が地面に置かれる音がした。
乾いた石畳に、金属がぶつかる音だ。
続いて、また一人。
陽が高くなるにつれて、封鎖線が薄くなっていった。
武装した兵士の数が減っていく。
バレンティの頑張りで、これはただの作戦行動ではなく、反政府活動の片棒を担がされているという情報が兵士達に『正しく』伝わったようだ。
ここで作戦放棄は軍規違反ではなく、むしろ逆であるということに気付いた兵士がどんどん武装解除をしていく。
エスカランテはその兵士の動きを止めることはなかった。
「さすがに焦りすぎたか」
言葉はそれだけだった。
エスカランテの周囲に残った兵士は、いつの間にか十数名になっていた。
老将は背筋を伸ばしたまま、しばらく動かなかった。
風が港から吹いてきて、白髪を揺らす。
潮の臭いが、石畳に染み込んでいる。
やがて、エスカランテは剣帯に手をかけた。
ゆっくりと、革の留め具を外して、剣帯ごと、石畳の上に置いた。
古い軍礼式の所作だった。
剣を捨てることで、降伏を示す。
銃が主力になった今の軍では、もう誰もやらない作法だ。
残った兵士たちが、それに倣って銃を下ろした。
◆ ◆ ◆
バレンティが戻ってきた。
額に汗をかいている割に、どこか誇らしそうな顔をしていた。
「隊長が説得している間に二十七名を説得しました」
「よくやった」
エルネストは短く言うと、バレンティが「褒められた」という顔をした。
「残りは私が武装解除させる」
「私の仕事はなんだったんですか……」
エスカランテが、未だ作戦を実行しようと粘っている兵士に声をかけると、さすがに抵抗は無駄だと分かったのか、残りも武装解除をした。
「では、そろそろ行きましょうか」
エルネストはエスカランテを捕縛はしなかった。
あくまでも自主的に自分の足で歩いてもらう。
「サラサール少佐」
「はい」
「お前のような男がいる限り、この国はまだ終わらない」
エルネストは頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「だが」
エスカランテの声が、一段低くなった。
「もう一人の、お前のような男が、今どこで何をしているか、考えたことはあるか?」
エルネストは顔を上げた。
「私と同じだ。感情のままに軍を動かしてはいけない」
エスカランテはもう視線を外していた。
治安警備隊の隊員に促されて、馬車に乗り込んでいく。
馬車の扉が閉まった。
車輪が石畳を転がり始め、やがて見えなくなった。
港に、潮風だけが残った。
◆ ◆ ◆
夜になってから、エスピナが詰め所に来た。
椅子も引かずに、立ったまま報告する。
「エスカランテは軍法会議にかけられる。死刑が求刑される見通しだが、おそらく終身刑に落ち着く。メンドーサ時代の英雄を処刑すれば、余計に火がつく」
「妥当な判断です」
「問題はその後だ」
エスピナは腕を組んだ。
「ラルカで、今夜だけで貴族の集まりが三件確認された。エスカランテを英雄扱いしているようだ。結託して騒ぎを大きくする前に事前に解散させる必要がある」
「承知しました」
「だが、そうやってまとまって動く連中はまだマシだ。ラルカの旧市街で、共和派も王国派も過激な連中が集まって何かをやろうとしているらしい」
バレンティが地図から顔を上げた。
「顔が分からない相手に、どうやって対処するんですか」
エルネストは帽子を手に取った。
いつかの銃弾が開けた穴がある。
何度塞いでもまた穴が開いてくる。キリがない。
「法と論理は、相手が顔を見せている時にしか使えない」
バレンティが「では?」という顔をした。
「顔を見せるまで待つ。調べる。書類を積む。それが私の戦い方だ」
「それまでの間、何も出来ないじゃないですか」
「出来ることをやる。それだけだ」
エルネストは帽子を被り直した。
「それともう一つある。今日の昼頃、ティアナ海峡にグラーシェの艦船が三隻確認された。商船旗を揚げていたが、明らかに軍艦だ」
エルネストは少しの間、黙っていた。
「上には報告しましたか」
「選挙後の対応で誰も聞いていないと言っただろう。今日も返答はない。明日も来ないかもしれん」
「そうですか」
エルネストは窓の外を見た。
ラルカの方角の空が、うっすらと赤い。
祝祭の灯りなのか、それとも別の何かなのか、この距離では判断がつかない。
「ティアナのグラーシェ艦船は、補給のために動いている艦船です。革命軍と組んで何かを起こすための」
「……確認が取れているのか」
「取れていません。ですが、グラーシェの軍艦が堂々と入ってくる状況ならば、何かが起こります」
エルネストは扉に向かった。
扉の外、石畳の上に昨日の紙吹雪がまだ残っていた。
赤と青が、今は同じ暗闇の中に沈んでいる。
エルネストは一度だけ振り返って、空の赤みを確かめた。
それから、歩き出した。