ニコラスの処刑から三日後。
ラウル・バルガスに共和国政府からの呼び出し状が届いた。
ティアナ駐留軍の詰め所に届いた書状は、封蝋に共和国の公式印が押されており、差出人の名前も正式な肩書で記されていた。
ロマーノ・イリサール。共和派左翼党代表。
ホアンが書状を受け取って開封し、黙ってラウルに渡した。
「今日の夕刻に旧政府庁へ来られたし、と」
「イリサールとはどういう人物か?」
「共和派三党の党首の中でも一番の過激な思想の持ち主だ。政権を取った後に、王家が隠していた国の借金額と出納帳を見て、執務室で暴れたという噂もある」
「事実は?」
「あくまで冷静に、調度品から美術品まで全て国家の運営には不要だと売りに出しただけだ。王城内を空っぽにしたのは事実なので、広い意味では暴れたと言えなくもない」
笑い話のようだが笑えなかった。
イリサールが歴史や伝統よりも実利を取る人間だという証明でしかない。
「今の首相は官僚出身、自由党のルイス・マルティンが就いているが、それは政情が落ち着くまでの官僚機構の整備に必要だからだ。イリサールこそが本命の次期首相だ」
「そんな人間が何故、私達駐留軍に?」
「このタイミングからして、ニコラス・カスティーユの件で間違いないだろう」
ホアンは冷静に呼び出し状を見て分析した。
「実際に軍を動かしたエスカランテは禁固で済み、デモをしただけのニコラスは死罪。しかも政府が介入する前に即執行だった。この差はどこで生まれたのか」
「派閥争いが未だに軍の中にあると?」
「左翼党から見れば、旧態依然とした貴族出の軍人が未だに好き勝手に動いているということになる。政治が軍人を支配出来ていないどころか、逆になっている問題は、メンドーサ体制時から何も改善されていない」
ホアンは窓の外を一度見てから、ラウルに向き直った。
「そして、イリサールは頭がいい。派閥に与している貴族出身ではなく、庶民出身。かつ現時点で最も実績のある軍の指揮官が誰かは分かっているはずだ」
「オルロフはどう見ている?」
オルロフは書状を一瞥してから、元の姿勢に戻った。
「会いに行くのは構いません。ただし、どんな話が出されても即決は避けてください。軍の再編に一枚噛んで発言力を増すことには賛成ですが、まだ時期早々です。下手に動けばイリサールごと潰されるでしょう」
「つまり、話だけ聞け。後で検討すると持ち帰れと」
「利用されないように聞いてください、と申し上げています」
ラウルは書状を折りたたんで、机の端に置いた。
「まずは会って話だ」
◆ ◆ ◆
首相府は、王国時代の官邸をそのまま使っていた。
玄関の王家の紋章だけが剥がされており、その跡がまだ白く浮き出ている。
中庭の噴水は止まったままで、水の代わりに落ち葉が溜まっていた。
それでいて、水垢だけはしっかりこびり付いている。
応接室に通されたラウルとホアン、そしてオルロフの三人が椅子に座って待つと、十分ほどして男が入ってきた。
ロマーノ・イリサールは四十代前半で、ラウルより少し年上に見えた。
細身で背が高く、官吏の制服を着ているが、どこか書生のような印象がある。
丸眼鏡の奥の目が、入室した瞬間から三人を順番に見回した。
礼をしてから着席すると、すぐに秘書がお茶を運んできた。
王国製のティーセットは高額品ではないが、外交に使っても失礼にならない高級品質の物が選ばれている。
茶葉は輸入品ではなく、国産のものに変わっていた。
海外の物には頼らずに、なるべく内需を回すという心意気は伝わってくる。
「バルガス大佐、わざわざ来ていただいた」
「お呼びいただきましたので」
ラウルは言葉を選んでいた。
表情は出さない。ホアンに仕込まれた、司令官の顔だ。
「ニコラス・カスティーユの件については、遺憾に思っている」
イリサールが最初にそう言った。
「処刑の命令は政府の決裁なしで、軍の内部から出ていた。正式なルートを通していない」
ラウルは何も言わずに頷いた。
「大佐や他の軍人達が介入しようとしたことは把握している。ニコラスはそれだけ影響力が有った。そして間に合わなかったことも」
「……はい」
「あなたを責めているわけではない。ただ、確認したかった。あなたは今回の件について、どう見ているか」
ラウルは少しだけ間を置いた。
「書類を出して、窓口に行って、三週間待った人間が処刑された。理由はそれだけです」
イリサールが眼鏡の位置を直した。
「軍内部には、未だに自分達の権力を何とか残そうと動いている勢力がある。具体的に誰がどうの、派閥がどうのまではこの席では申し上げないが」
「だからこそ、軍を再編しなければならないと?」
「その通り。たとえ強引と呼ばれてもこれは急務だ。だが、貴族出の将校を追い出した後に、軍を動かせる人間が現政府内にいない」
イリサールは率直だった。
遠回しに言わない分、かえって重かった。
「バルガス大佐。あなたに共和国軍内部での実質的な権限を広げたい。具体的には、ティアナ駐留軍を正式に陸軍第三師団として再編成する。そして、三つの地区を受け持っていただく」
オルロフはただ聞いている。
だが、その注意は発言しているイリサールではなく、ラウルの方に向いていた。
「ティアナ駐留軍は共和国軍の指揮下には入らない、という条件は変わらないのか?」
ラウルが問い返した。
「予算面では見直したい。同じ組織内に異なる組織がそれぞれ独立して予算を持っているのは無駄でしかない。駐留軍も、政府からの補助金ではなく、正式に軍事費として予算が配分されることに不満はないはずだ」
「予算面のみへの言及ということは」
「指揮系統は別の話だ。独立性を保ったまま、権限だけを段階的に拡大する」
「つまり、駐留軍が共和国の仕事をする。ただし、ティアナ駐留軍は今の軍の編成とは独立して動ける権限を与える……と」
「そういうことだ」
ラウルはティーカップを持ち上げて、一口だけ飲んだ。
国産の茶葉は、渋みが先に来る。
熟成が足りずに、急造で仕立てた雑味だ。
「一つだけ聞かせてください。今回の件で、処刑を命じた将校の処分は行われますか」
イリサールが眼鏡越しにラウルを見た。
「調査の結果次第だ」
「調査が結果を出すまで、どれくらいかかりますか」
「……二週間から一か月、というところだろう」
「その間に、同じことが起きる可能性はありますか」
イリサールは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「承知しました。条件の詳細は書面で確認させてください」
ラウルは頭を下げた。
確約ではなく、交渉の継続だった。
応接室を出る時、イリサールがラウルの背中に声をかけた。
「一つだけ。あなたの副官にメンドーサの息子がいるな」
ラウルが振り返った。
「政党を作ろうとしているという話が入っている。第三の旗というやつだ」
「私とは別の動きです」
「そうか」
イリサールは頷いて、それ以上は言わなかった。
廊下に出てから、ホアンが小声でラウルに言った。
「いい手だ。第三の旗を使って、駐留軍をけん制しながら軍の再編を進める。同時に、駐留軍の権限を広げることで、旧王国軍の将校を追い出す理由を作る」
「お前の政党の話も知っていたようだ」
「知っていて泳がせている。第三の旗が強くなりすぎれば困る。弱すぎれば使えない。ちょうどいい均衡を保たせたいんだろう」
ラウルは廊下の窓から外を見た。
「頭がいいな」
「私もそう思います」
ホアンは珍しく、誰かを素直に認めた。
◆ ◆ ◆
一方、その頃。
王都の書類問屋が並ぶ通りの端に、目立たない事務所があった。
表札もなく、ただ木の扉があるだけだ。
ホアンの代理として送り込まれた使いが扉を開けて中に入ると、待っていたのは一人の男だった。
共和派でも穏健派が多い自由党の議員で、今の連立政権の中では珍しく、急進的な政策に公然と疑問を呈している人物だ。
使いが持参した書類を机の上に置くと、男は黙って読み始めた。
机が一つ、椅子が二つ。窓には鎧戸が下ろされている。
男は書類を読み終えてから、顔を上げた。
「これはホアン・メンドーサ自身が書いたのか」
「はい」
「政党の綱領案だ。共和国も王政も否定していない。民の生活が最初に来る。そのための官民共同……きれいな言葉だ」
使いは答えなかった。
「今日はここまでか」
「はい。返事は急ぎません。ただ、次にホアン本人が訪ねる前に、一度だけ読んでいただきたかった」
「理由は」
「読んで、それでも会う価値がないと判断された場合、本人が無駄足を踏まずに済みます。ホアンは時間を無駄にすることを嫌います」
男が少しだけ目を細めた。
「副官も主人に似るものだな」
「光栄です」
男は書類をもう一度だけ見た。
それから、机の端に置いた。
「もう一度だけ話を聞こう。ただし、次は本人に来てもらう」
「承知しました」
使いが扉に向かいかけたところで、男が声をかけた。
「一つだけ聞く。メンドーサの息子がティアナ駐留軍と組んでこれをやっているとすれば、これは駐留軍の政治部門を作ろうとしているということだ。イリサールはそれを知っているか」
「さあ。私には分かりかねます」
使いは頭を下げて、扉を出た。
男は鎧戸の隙間から通りを覗いた。
下町の昼の雑踏が、戸板の向こうに広がっている。
どこかから子供の声が聞こえてきた。
男は静かに鎧戸を閉めた。
◆ ◆ ◆
夕刻、ティアナ駐留軍の詰め所に戻ったラウルは、執務室に入るなりオルロフに向き直った。
「グラーシェはイリサールの提案についてどう判断する」
「予算案の再編成については受けるべきでしょう。補助金だけでは補給も難しい状況ですので」
オルロフはラウルの机に目をやった。
予算不足は何とかやりくりしているが、それは山積みの書類という形で返ってきている。
「金以外の話についてだ」
「報告は既に入れています。返答待ちです」
「返答が来るまでに、また誰かが死ぬかもしれない」
オルロフは答えなかった。
「ニコラスの件で、旧王国軍の将校たちの動きはどうなっている」
「警戒しているようです。一部は武装の準備を始めているという情報があります。ただし、失敗例を見ただけに、あくまでも慎重に」
「バルド高地でも同様の動きがあるという話だ」
ラウルは机の上のイリサールからの書状を手に取った。
そして、ホアンが持ってきた別の書類と並べた。
「バルド高地の農民が蜂起する前に、共和国が動けなければ、後で更に大きな火を消さなければならなくなる」
「それはグラーシェの判断を待ってから」
「返答が来る前に動くべき事態が来た場合は?」
オルロフが初めて間を置いた。
「その場合は、規定通りに対処してください」
ラウルは書類を机に置いた。
「規定か」
それ以上は言わなかった。
窓の外、夕暮れのラルカの空が赤く染まっていた。
王国の時代も、共和国になった今も、空の色だけは変わらない。
ラウルはしばらくその色を見ていた。
「ホアン、バルド高地の状況を改めて整理してくれ。出動準備を始める」