俺は工藤新一 27歳……あの日から10年後……   作:梅酒24

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第二歩:コナンとの別れ

博士の家の扉をくぐった瞬間、どこか懐かしい匂いが鼻をかすめた。

油と機械、それにコーヒーの残り香。何度も出入りしたはずの場所なのに、今日は妙に静かで――そして、妙に遠く感じる。

 

俺と灰原哀は、言葉少なに室内へ入った。

 

机の上には、すでにそれが用意されていた。

 

小さなカプセル。

だが、その中に詰まっているのは――俺の人生そのものだ。

 

元の姿に戻るための、新薬。

 

「……ま、あいつらとも一応コナンとしての最期のお別れもしたし」

 

俺はわざと軽く言った。

胸の奥にある違和感をごまかすように。

 

「永遠の別れになる訳じゃないし、これからは工藤新一として楽しく生きていくか」

 

灰原は、本をめくる手を止めることなく、ただ一度だけ視線を寄越した。

 

その目は、冷めているようで――どこか、試すようでもあった。

 

「あいかわらずお気楽ね……」

 

ページをめくる音が、やけに響く。

 

「全て終わったと思っているのだとしたら、おめでたい頭だわ……」

 

「バーロー」

 

即座に言い返す。

 

だが、その声は少しだけ硬かった。

 

「黒の組織は壊滅した。もう狙われる心配はねーよ。お前、相変わらずネガティブだな」

 

言いながら、頭の中で整理する。

 

あの連中は終わった。

証拠も、証言も、すべて揃っている。

“事件”としては、完全に解決済みだ。

 

「黒の組織に怯えなくていいんだぜ」

 

灰原は、ふっと小さく息をついた。

 

「そのことじゃないわ……」

 

その一言で、空気が変わった。

 

「そんなことよりも――もっと大事なことよ……」

 

ズキン、と胸の奥が疼いた。

 

理由は分からない。

 

だが、その言葉は妙に引っかかった。

 

(……まだ何かある?)

 

いや、あり得ない。

 

事件はすべて解決した。

組織も壊滅した。

俺は元に戻れる。

 

(じゃあ、なんだ……?)

 

一瞬、嫌な予感がよぎる。

 

だが、すぐに振り払う。

 

(こいつのいつもの意地悪だろ)

 

「日本一の探偵の推理によると、事件はすべて解決済みだぜ」

 

わざと大げさに肩をすくめる。

 

「せっかく元に戻れるってのに、そういう冗談はやめてくれよ……」

 

ふと、視線が手元に落ちる。

 

カプセル。

 

小さなそれが、妙に重く見える。

 

「あ、まさか……」

 

思わず口にする。

 

「薬、まだ完成してないとかじゃねーだろうな?」

 

灰原は答えない。

 

ただ、静かに本を閉じた。

 

(……なんだよ、その反応)

 

俺は薬を見つめる。

 

あり得る可能性を、必死に洗い出す。

 

だが――

 

(これを飲めば、全部終わる)

 

そう思った瞬間。

 

なぜか、胸の奥にわずかな躊躇が生まれた。

 

(……なんだ、この感じ)

 

だが、次の瞬間には振り払っていた。

 

「……ま、飲めば分かるか」

 

カプセルを口に入れる。

 

水を一気に流し込む。

 

その瞬間だった。

 

ドクンッ――!!

 

心臓が、跳ねた。

 

「っ……!?」

 

次の瞬間、全身を引き裂くような痛みが走る。

 

ドクン、ドクン、ドクン――!!

 

心臓が暴れている。

 

いや、“暴れている”なんてもんじゃない。

 

胸の内側から、何かが無理やり広がろうとしている。

 

「ぐっ……!!」

 

骨が軋む。

 

筋肉が引き裂かれる。

 

血管が焼けるように熱い。

 

視界が歪む。

 

床が、天井が、ぐにゃりと曲がる。

 

(なんだこれ……こんな……!)

 

今までの比じゃない。

 

何度も戻ったはずなのに――

 

今回は、違う。

 

まるで、身体そのものが“拒絶”しているような。

 

「が……ぁ……!!」

 

喉から、情けない声が漏れる。

 

息ができない。

 

肺が潰れる。

 

(くそ……終わったはずだろ……!)

 

そのとき――

 

一瞬だけ、脳裏に浮かぶ。

 

桜。

 

笑顔。

 

そして――涙。

 

(……なんで、今……)

 

ドクンッ――!!

 

限界を超えた鼓動。

 

そして――

 

ぷつり、と意識が切れた。

 

次に目を開けたとき。

 

天井の高さが違っていた。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

荒い呼吸。

 

だが、その声は――

 

低い。

 

「……戻った……」

 

手を見る。

 

長い指。

 

見慣れた、自分の手。

 

「やったぁ!!!!」

 

思わず叫ぶ。

 

「もう俺に悩みはない!!」

 

立ち上がる。

 

視界が広い。

 

身体が軽い。

 

すべてが元通りだ。

 

「灰原!驚かせるなよ!!」

 

笑いながら振り返る。

 

「さて、お前も戻るんだよな?」

 

だが、灰原は首を横に振った。

 

「私は……決めかねている」

 

その言葉に、違和感が走る。

 

「本当の事件……」

 

灰原はゆっくりと言う。

 

「あなたにとって、一番大事な事件……」

 

その目は、まっすぐ俺を見ていた。

 

「それ次第よ」

 

空気が、張り詰める。

 

「もう博士には話しているわ」

 

俺は反射的に、博士を見る。

 

阿笠博士は、ゆっくりとうなずいた。

 

「そうなんじゃ……新一……」

 

その声は、いつになく真剣だった。

 

「お前にとっては……一番の難事件なんじゃ……」

 

「博士まで……」

 

胸の奥が、ざわつく。

 

「一体なんなんだよ……」

 

嫌な予感が、確信に変わっていく。

 

「俺にとっての……一番の事件って?」

 

その問いは、部屋の中で静かに落ちた。

 

だが――

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

まるで、その“答え”が。

 

事件以上に重いものだと、知っているかのように。

 

***

博士の家の空気は、なぜかさっきまでとは質を変えていた。

同じ部屋、同じ家具、同じ人物。だが、見えない何かが――まるで標本箱の中の空気のように、密閉され、腐敗しかけている。

俺はその違和感の正体をまだ言語化できずにいた。

 

「本当にこういうことにはうといのね」

灰原哀は、れもんてぃーを啜る。

その仕草は、やけに静かで、やけに機械的で、

まるで“結論を知っている者”の余裕のようにも見えた。

 

「どういうことだよ?」

俺は軽く返す。だが、その声の奥に、ほんのわずかなざらつきが混じっていることに、自分だけが気づいていた。

 

「あの子たちはどうするつもり?」

 

あの子たち。

その言葉が指すものは、あまりにも明白だった。

 

吉田歩美。

円谷光彦。

小嶋元太。

 

その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥に微かな鈍痛が走る。

だが、それを“痛み”として認識する前に、理性がそれを覆い隠す。

 

(……そのことか)

 

「もちろんちゃんと考えているって」

俺は即答した。

“考えている”という言葉の裏に、“考えたことにしている”自分がいることには、触れないまま。

 

灰原はカップを置いた。

その音が、やけに乾いて響く。

 

「そうなの?」

その一言に、妙な含みがあった。

「てっきり適当にしか考えていないと思ってたけど……」

 

その視線は鋭く、まるで解剖刀のように、俺の思考を一枚一枚剥いでいく。

 

「いい。私はきちんと考えて考え抜いたんだから……じゃあどうするの?」

 

その瞬間。

俺の中の“用意された答え”が、すぐに浮かび上がる。

まるで、すでに台本が用意されていたかのように。

 

「そんなのコナンは遠くへ行ってしまって手紙をあいつらに書いてやり取りをする」

言葉は滑らかに出てくる。

「心配させねーよ。それに博士の作ったこのネクタイ型変声機でよぉ――」

無意識に胸元に手をやる。

そこにもう、それは無いのに。

 

「おかしな話かも知れないが、今度はコナンの声で電話してやる」

 

言い切った瞬間。

部屋の温度が、ほんのわずかに下がった気がした。

 

灰原は、ため息をつく。

その吐息は、冷たく、そしてどこか――呆れていた。

 

「はぁ……そんなことだと思った……」

 

その言葉は、まるで既視感の塊だった。

 

「あの子たちは会いたいとかビデオ通話したいとか言い出すわよ」

 

(……想定内だ)

 

「大丈夫だ……そこも考えている……」

俺は言葉を重ねる。

だが、その“考えている”は、どこか空虚だった。

 

「フェイク画像を博士に作って貰ってだな、コナンのバーチャル映像を――」

 

そこまで言ったときだった。

 

自分で自分の言葉を聞きながら、

ほんの一瞬、違和感が脳裏をかすめた。

 

(……なんだ、今の)

 

だが、その正体に辿り着く前に。

灰原の視線が、突き刺さる。

 

それは怒りではない。

失望でもない。

 

“観察”だった。

 

「そうやってこれからも博士におんぶにだっこで生きていくつもりなの?」

 

言葉が、ゆっくりと落ちてくる。

 

「全然考えていないじゃない……」

 

その一言は、鋭利な刃物のように、

俺の中の“何か”を正確に切り裂いた。

 

(……違う)

 

反射的にそう思う。

だが、その“違う”は、根拠を持たない。

 

(俺は……考えてる)

 

本当に?

 

(……ちゃんと……)

 

どこまで?

 

(……)

 

そのときだった。

 

バチン――

 

乾いた音が、部屋を裂いた。

 

次の瞬間、頬に熱が走る。

 

「……っ!」

 

視界が一瞬だけ揺れる。

遅れて、痛みがやってくる。

 

俺はゆっくりと顔を戻す。

目の前には、灰原の手。

わずかに震えている。

 

「いってぇな……」

思わず口から出る。

だが、その声はさっきまでと違って、妙に軽かった。

 

「いや、子供にビンタされてもそんな痛くねーか」

 

冗談めかして言う。

だが、その瞬間。

 

自分でも分かった。

 

“今の一発は痛みじゃない”

 

もっと別の何かが。

もっと根深い何かが。

 

確かに、俺の中で軋んだ。

 

(……なんだよ)

 

視線を逸らす。

だが、逃げ場はない。

 

この部屋は、まるで密室だった。

物理的な意味ではなく――

心理的な意味での、完全な密室。

 

そして今。

その密室で起きているのは、事件だ。

 

(俺にとって、一番大事な事件……)

 

灰原の言葉が、遅れて響く。

 

その意味を。

俺はまだ――理解していなかった。

灰原哀は元の姿に……

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