俺は工藤新一 27歳……あの日から10年後…… 作:梅酒24
灰原の言葉は、静かに落ちた。
だがそれは、水面に落ちた小石ではない。
深い井戸の底へと沈み込み、やがて遅れて響く、冷たい反響だった。
「灰原……どうしちまったんだよ?俺が間違っているのか?」
口に出した声は、思っていたよりも乾いていた。
まるで自分のものではないような、不自然な軽さを帯びている。
「あいつらの為を思ってだな。色々考えたんだぜ。でも今まで江戸川コナンを演じてきたんだ。大丈夫だって」
“演じてきた”。
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥で何かが小さく軋んだ。
だが俺は、それを聞かなかったことにした。
「本当馬鹿ね……」
灰原哀は、わずかに視線を落としながら言った。
その声音には怒気はない。
むしろ、奇妙なほど冷静で、
それが逆に、底知れない深さを感じさせた。
「色々言いたいし、根本的な話が違うけれど今はこの話から返していくわ……まずあなたの考えは間違えている」
断定だった。
逃げ道のない、鋭利な断定。
「どこがだよ?」
俺は即座に返す。
だがそれは反論ではなく、ただの反射に近かった。
「前提がよ」
「前提ってなんだよ……」
その問いは、思考を求めるものではなかった。
むしろ、思考から目を逸らすための問いだった。
灰原は、わずかに肩をすくめる。
「あなたと話すときは1つずつ話さないとややこしくなるから前提の話は置いておくわ」
その言葉に、微かな棘が混じる。
だがそれ以上に――
“話を簡略化する必要がある相手”として扱われている事実が、妙に引っかかった。
「あいつらの為と言ったけど本当にそう思っているの?」
その問いは、静かだった。
あまりにも静かで、
だからこそ逃げ場がなかった。
「当たり前だろ……」
俺は少しだけ語気を強める。
「コナンの姿で仕方なくとはいえ1年一緒にいた仲間だぞ……」
言葉を並べる。
理屈を重ねる。
「それにあいつらもコナンと灰原がいなくなったら悲しむだろ……それくらい分かっている……」
(分かっている……はずだ)
「だからそれをな、少しでも減らそうとな、工藤新一になってからも色々やらなきゃいけないこともある中、そのことも考えてやってるんだぞ」
言い切った。
だがその言葉は、どこか空虚だった。
「考えてやってる?」
灰原が、ゆっくりと顔を上げる。
「何様なの?あなた!」
その一言は、鋭かった。
まるで、心の奥に突き刺さる細い針のように。
「灰原、何が言いたいんだよ」
苛立ちが混じる。
だがそれは、灰原に対してではない。
もっと別の――
自分の中の何かに対してだった。
「あの子たちの為じゃない、あなた自身のために演じようとしているということ……」
その瞬間。
時間が、わずかに歪んだ気がした。
「はぁ?自分のため?どういうことだよ」
否定する。
だがその否定は、どこか弱い。
灰原は、まっすぐ俺を見た。
その瞳は、異様に澄んでいる。
「私は、音信不通のまま別れるのがあの子たちの為だと思っているわ……」
言葉が、ゆっくりと積み上がる。
逃げ道を塞ぐように。
「工藤君は、コナンがいなくなったらあの子たちが悲しみ、苦しむ姿を知り、苦しむ」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
「なぜならあなたの彼女が苦しんでいたのを知っているから……」
蘭の顔が、一瞬よぎる。
あのときの涙。
あのときの声。
「だから自分が傷つきたくないから、江戸川コナンを演じようとしている……どうかしら?」
静寂。
言葉が、消える。
音が、消える。
残ったのは、ただ一つの事実だけだった。
(……当たっている)
思考が、否定を試みる。
だが、どこにも逃げ場がない。
(……違う)
否定の言葉が浮かぶ。
だが、それは薄い。
(……いや……)
そのとき。
ふと気づく。
灰原の目。
その目は、ほんのわずかに赤い。
(……こいつ)
「お前……二つのパターンをずっと考えていたんだな」
口から出た言葉は、推理だった。
だが同時に――
確信でもあった。
演じる未来。
そして、消える未来。
その両方を、何度も何度も、
頭の中でなぞっていたはずだ。
苦しみながら。
迷いながら。
「遅いわよ、日本一の探偵さん」
灰原は、わずかに笑った。
だがその笑みは、勝者のものではない。
むしろ。
すでに痛みを知り尽くした者の、
静かな諦めに近いものだった。
そして俺は。
そのとき初めて気づいた。
この事件は、まだ始まったばかりだと。
***
灰原の言葉は、妙に重かった。
ただの会話じゃねぇ。
見えない糸が、何重にも絡み合って――その中心に俺を縛りつけているような、嫌な感覚。
「いい。工藤新一に戻ろうとしていたこととこれからは明らかに状況が違うの……」
静かだ。
だが、その静けさは嵐の前のそれに似ている。
「ああ……」
俺はゆっくり息を吐いた。
「大前提として工藤新一の姿には一時的に戻れたが、コナンの姿に戻ろうとするとあの薬を飲み、もしかしたら二度と工藤新一に戻れなくなる以上、実質的にコナンに戻るのはもう不可能ということだな」
言葉にして、現実を固定する。
だが同時に、それは逃げ場を潰す行為でもあった。
「そう。つまり、コナンとして電話や手紙をするのはずっとあの子たちを騙し続けることになるの」
“騙す”。
その言葉が、やけに耳に残る。
「あなたは彼女を騙し続けて罪悪感を感じていたけど、それを背負う必要になるの」
胸の奥が、ズキッと痛む。
蘭の顔が浮かぶ。
疑って、苦しんで、それでも信じようとしてくれたあいつの顔。
「工藤君のことだから自己犠牲をしてもいいと思ってはいそうだけど」
「そうだ。その覚悟はしてきている」
即答だった。
考えるまでもねぇ。
それが当たり前だと思ってた。
だが――
灰原は、首を横に振る。
「でもね、立場は違うわ」
その一言で、空気が変わった。
「小学生じゃなくて高校3年生の工藤新一になるの……」
現実が、急に具体性を帯びてくる。
「今までの一年分の授業のこと、大学のこと、部活やクラスメイトとのこと……それに今まで迷惑をかけた数々の人のこと……」
一つ一つが、重い。
事件みたいに“解決して終わり”ってわけじゃねぇ。
終わらねぇ責任だ。
「工藤新一になってやることは山ほどある」
「わかってるよ……それでもあいつらとな」
言いかけた瞬間――
「分かってない!!」
鋭い声が、空気を裂いた。
俺は思わず黙る。
灰原が、叫んでいた。
「ねえ、一番心配していた子のために、時間を使いなさいよ」
その言葉は、まっすぐすぎた。
逃げ道も、言い訳も許さねぇ。
「もう江戸川コナンじゃないんだから……」
その瞬間。
何かが、崩れた気がした。
「……そうか」
自分の声が、やけに遠く感じる。
(そうだ……)
俺は蘭に、どれだけ迷惑かけた?
どれだけ時間を奪った?
(そして――)
コナンとしての居場所。
それは確かにあった。
でも、それはもう“過去”だ。
(もう……戻れねぇ)
「それにね、あの子たちは馬鹿じゃない……気付くわよ……」
灰原の声は、また静かに戻る。
だが、その静けさはさっきより鋭い。
「あなたが偽り続けることに対して……」
「だってあの子たちは私たちと1年間数々の事件を解決してきたのだから……それはあなたが一番分かっているでしょ」
「ああ……」
俺は苦笑した。
「確かにな……あいつら、細かいところよく気付くし、小学生とは思えねぇくらい鋭いときあるしな……」
吉田歩美、円谷光彦、小嶋元太――
あいつらの顔が浮かぶ。
無邪気で、騒がしくて、でも時々やけに頼もしい。
「それに……吉田さんのこと……」
その名前が出た瞬間。
時間が、一瞬止まった気がした。
(……あの日か)
「ああ、告白のことか」
「あなたがどんな風に断ったか分からないけど、江戸川コナンを演じる限り、彼女の心を偽りの実在しない人物で縛りつけることになるわ……」
胸の奥が、締め付けられる。
「吉田さんはあなたの彼女じゃない……そしてそれと同じことを小学1年生の女の子に一生背負い続けさせるつもりかしら?」
「どうせすぐ忘れるさ」
反射だった。
だが――
「能天気ね……」
その一言で、自分の言葉の軽さを思い知らされる。
「あの子の心は驚くほどまっすぐよ……」
灰原の声は、どこか優しかった。
「吉田さんはあなたの彼女と同じ位まっすぐでいつまでも信じて待てる子よ……」
蘭と、歩美。
二つの“まっすぐ”が重なる。
「正直あなたにとっては勿体ないほどいい女……分かってる?」
「バーロー……それでも蘭しか俺にはいねーよ」
それだけは、迷いなく言えた。
「まぁ、いいわ」
灰原は静かに目を伏せる。
「それゆえに私は元の姿に戻るなら、音信不通で貫くことをするつもりよ」
その決意は固い。
「それに私と工藤君が元に戻り、私は音信不通であの子たちから変な期待をさせないようにして工藤君だけ中途半端に偽りの江戸川コナンを演じて期待させるというのも無し……あなた1人の問題じゃないの……」
「そういうことかよ……」
やっと全体が見えた。
「分かった……俺も音信不通でいい」
口にした瞬間。
何かが決まった。
「となると博士のところにあいつら来るな……博士、それでいいか?」
博士は少し困った顔で笑う。
「哀君とはその話も沢山しておってな。なんとかするつもりじゃ。でもなぁ、新一、この問題はまだ抱えているんじゃよ」
「なんだよ?」
「ほれ。わしなんかよりも」
博士の視線が横に流れる。
灰原。
あいつは、じっと俺を見ていた。
さっきよりも、ずっと深い目で。
「灰原……まさか……」
「ええ。そのまさかよ」
静かに頷く。
「あなたにとってあの子たちはどういう存在?」
簡単な質問のはずだった。
なのに――
すぐに答えられなかった。
「仲間だよ……」
ようやく言う。
「お前は違うのか?」
灰原は目を閉じる。
ほんの一瞬。
だがやけに長く感じた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「親友よ……」
その言葉は、静かで。
そして、重かった。
「お前……」
続きが出てこない。
そのとき俺は気付いた。
これは事件じゃねぇ。
証拠も、推理も通じない。
人の心――
一番厄介で、一番答えが出ねぇもの。
それが今、俺の前にある“事件”なんだと。
***
灰原の言葉は、静かに落ちた。
だがそれは、ただの音ではなかった。
水面に落ちた一滴のように、波紋となって俺の内側へ、じわじわと広がっていく。
「私はこの身体になって死ぬことや消えることを考えた。あるサッカーの殺人事件の時に私が消えようとしたときに工藤君は止めてくれた、覚えているかしら?」
覚えているか――だと?
忘れるわけがねぇ。
「ああ」
短く答える。
だがその一言の裏側には、あのときの光景が、嫌になるほど鮮明に焼き付いていた。
消えようとした少女。
それを、必死に引き止めた俺。
あれは事件じゃねぇ。
人間の“底”を見た瞬間だった。
「私は両親も最愛の姉も失っていた……正直……生きる希望を失っていた……」
その声音には、誇張も、演技もない。
ただ、事実だけが並べられている。
それが逆に、不気味なほど重い。
「そしてあの子たちのことも最初はうっとおしかった。もちろん工藤君、あなたのこともね……」
「おい……それは初耳だぞ」
思わず苦笑する。
だが、否定はできねぇ。
あいつの性格を考えりゃ、むしろ当然だ。
「ただ一緒に行動するにつれて楽しいという気持ちが芽生えてきた……」
“楽しい”。
その言葉が、妙に引っかかる。
「最初は気晴らしになる程度かと思っていた……ただ、私は元々こういう性格だから友達は少なかった……それでもあの子たちは、私を受け入れてくれていた……」
あいつらの顔が浮かぶ。
無邪気で、遠慮がなくて、
だからこそ、壁なんて簡単に越えてくる連中。
「だからあのサッカーの事件のときに他の大切な親友たちを巻き添えにしたくないから消えようとした……」
親友。
その言葉が、やけに重く響く。
「おいおい……まさか……お前、戻らない気か」
俺の中で、嫌な予感が形になる。
そして――
「ずっと悩んだわ……この数日間……」
やっぱりな。
灰原は、どこか遠くを見るように言葉を続ける。
「黒の組織が壊滅したことも本当のことだと思えなかった……でも時間が経ってもう平和なんだと思った……」
平和。
それは本来、喜ぶべき言葉のはずなのに、
こいつの口から出ると、妙に空虚に聞こえる。
「そしてこれからどう生きるかと考えたときに元の姿に戻っても戻る場所がない私にとっては灰原哀の方がいい人生を送れるのではないかと思うと同時に――」
そこで一瞬、間が空く。
「研究者としてこの身体のまま大人になっていくとどうなるのか調べるのもいいかもしれないと思ったわ」
……やっぱりこいつは、どこか壊れてる。
いや、違うな。
壊れているからこそ、ここまで冷静に自分を観察できる。
「これはあの子たちを心配させたくないからじゃなく、私が考えたことのひとつ……」
逃げじゃねぇ。
選択だ。
「あなたは帰る場所があり待っている人もいる……でも私は違う……」
その言葉に、返す言葉が見つからない。
「あの子たちと少年探偵団をするのは悪くないってね」
そう言って、ほんのわずかに笑った。
その笑みは、どこか歪で――だが確かに“本物”だった。
「じゃあ博士の家にずっと住むのか?」
「それも話をしたわ。あくまで私が博士の家にいたのは組織から身を守るため。でもそれが終わって、自分の意思で灰原哀と生きると決めたのなら、ここにいるのはおこがましいわ」
「いやぁ、わしとしてはいつまでもいていいと言ったんじゃが」
博士が苦笑する。
「それは私のプライドが許さない」
即答だった。
そこに迷いはねぇ。
「じゃあどうするんだよ」
「1人で家を借りて、オンラインでできる仕事をしながら生計を立てることも考えたけど――」
一度言葉を切る。
「養護施設に入って小学生らしく生きようと思っているわ……」
その選択は、意外だった。
だが同時に、妙に納得もできた。
「そうか……分かった……」
俺は小さく頷く。
だが、頭の中では別の問題が浮かんでいた。
「こうなることは想定外だった……となるとあと1つ問題がある」
「そうね」
あいつも、同じことを考えているらしい。
「工藤新一として灰原哀に接触して、たまに話ができないかだ」
その問いは、奇妙な形をしていた。
友情なのか、義務なのか、それとも――
「そこは私の中でも答えはでていない」
灰原は静かに言う。
「博士の家を経由するなら問題なさそうな気もするけど、関わらない人生の方が私たちだけなく他の人達にもいいかも知れないと」
関わらない人生。
その言葉は、やけに現実的で――そして残酷だ。
「隠し続ける人生を辞めるのがいいかも知れないとね……」
ああ、そうか。
こいつはもう、“逃げる人生”を終わらせようとしてるんだ。
「これは別に今決める必要がないから保留……」
保留。
だがそれは、ただ先送りしているだけじゃない。
選ぶ覚悟があるからこその、“保留”だ。
俺はしばらく何も言えなかった。
事件なら簡単だ。
証拠を集めて、論理を組み立てて、犯人を追い詰める。
だがこれは違う。
答えが複数あって、
どれを選んでも、何かを失う。
そんな厄介な問題――
いや。
事件ですらねぇ。
これは、人生だ。
灰原哀は元の姿に……
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