俺は工藤新一 27歳……あの日から10年後…… 作:梅酒24
そして、黄色い歓声が教室中に渦巻いた。
「きゃああああ。元高校生探偵の工藤新一だ!」
「えっ、あの工藤新一が担任なの?」
教室の空気は、瞬く間にざわめき、興奮と驚きが交錯する。高校時代、わずか一年だけ姿を消した後、再び現れた彼は、全国大会のサッカー決勝でのスーパーゴールと、数々の難事件を解決した「伝説」の人物として、私たちの前に立っていたのだ。父は有名な工藤優作、母は大女優工藤有希子という血統も、この場の空気に一種の異様な荘厳さを添えていた。
「こほん」
突如として静寂が訪れる。ざわめきは、息を飲むように押さえ込まれた。
「俺は高校生探偵 工藤新一ではなく、中学生担任 工藤新一だ……」
彼の言葉は、低く、しかし確実に空気の中に刻まれた。小さな胸がざわつく。何かが、不意に背筋を這い上がるような予感と共に、教室の隅々までに潜んでいるのを感じた。
「昨日一日考えてきた挨拶だぜ、笑えよ!」
彼の声に、クラスの何人かがクスクスと笑う。ギャグセンスのなさを指摘されて、しかし不思議な魅力を放つその佇まい。私は、周囲の歓声の中でひそかに息を潜めていた。
だが、私の心の奥底では、別の感情が渦巻いていた。
小学生のころから何度も会ってきたコナン君……あのコナン君が、何度も頼りにしていた“お兄ちゃん”的存在。いや、師匠のような存在……その面影が、目の前の工藤新一に重なり、私の胸に妙な高鳴りを生んでいた。
その鋭い観察眼、推理力、そして自信に満ちた態度の一つ一つが、コナン君の影を投げかける。私は息を詰め、机に手を置く指先に微かな震えを感じた。
きっとこの人なら、コナン君のことを何か知っている。私の中で封じ込めてきた記憶、忘れようとしていた感情が、今、静かに、しかし確実に弾けようとしている――その予感に、ぞくりと背筋が冷たくなった。
教室の空気は、歓声と静寂、緊張と期待の交錯する奇妙な渦に包まれていた。私はただ、息を殺し、その男の一挙一動を見つめるしかなかった。
***
教室の窓から差し込む春の光は、明るく澄んでいるはずだった。けれど、私の心には微かな影が垂れ込め、重苦しい沈黙を伴っていた。工藤新一――彼が傍らにいるというのに、胸の奥がざわざわと騒ぐ。まるで薄暗い地下牢の通路を歩くかのような、冷たく、粘着質な空気をまとった奇妙な予感。
「なんで先生なんてしているのよ。探偵になるんじゃなかったの?」
私の声は小さく、しかし確かに彼に届いた。
「バーロー。それは子供の時の話じゃねーか。俺が事件解決しまくったせいで犯罪件数は減少傾向なんだよ。それに大学でもサッカーの活躍をしていて、学校からひっぱりだこだったのさ」
その言葉の端々から、彼の過去の影と、光と影が混ざり合った奇妙な層を感じた。私の目は、ついその背後に潜む、見えざる迷路のような秘密を探してしまう。
「プロは考えなかったの?」
「考えたさ。というか俺はプロリーガーだぜ。知らねえのかよ?ヒデの引退前に同じチームでできるんだぜ」
言葉は軽やかだ。だが、私にはその軽やかさの裏に潜む重さが、微かな振動となって伝わってくる。彼の過去、彼の決断、そして今の立場……それは、あたかも夜の闇に潜む一筋の光のように、目を逸らしたくなるほど鮮烈であった。
「だからよぉ、特別免許状で教員って訳。ガキの扱いにはよぉ、お陰様で慣れてるからな」
「笑えない冗談ね」
教室の空気が揺れる。子供たちのざわめき、紙の擦れる音、心臓の高鳴り……私はそれらすべての音を、地下室の壁に反響するように、耳の奥で反芻していた。
「というのはさておき、俺は、子供たちによりサッカーのことを知って欲しいんだよね。この学校、文武両道だというしさ、教え甲斐あるって思ってさ」
「かっこつけて……どうせ他にも理由あるんでしょ?」
私の言葉に、彼は少し微笑む。だがその笑顔の奥には、薄暗い洞窟の奥底に忍ばせた秘密のような、得体の知れない何かが垣間見える。
「ばれた?蘭をお嫁にするにはさ、蘭のお母さんが厳しくて。ほら、蘭のおっちゃん探偵でしょ。探偵じゃなくてきちんとした職につかないと蘭をやらないと言われちまってな。俺はなんだかんだ言ってもその場その場で楽しめちゃう性格だからよ、今は教員しながら部活顧問もしてプロリーガーの選手として頑張ろうと思ってんだ」
言葉の重みが、私の胸を締め付ける。私がかつて知っていたコナン君の世界とは異なる、大人の迷路に私たちは踏み込んでしまったのだと、胸がざわつく。
「ああ確かにお母さん弁護士でお堅いものね。あのおじさんのことを見てたら納得よ」
私は笑いながらも、心の奥底では冷たい感触が走るのを感じていた。目の前に立つ彼の言葉の陰影には、何か捕らえられない深淵が潜んでいる。
「ところで灰原、いい女になったじゃないか。なんだかんだで楽しんでたんだろ?」
「まぁね。私はこの選択が間違っていたと思ってないわ……ただ」
「ただ……?」
「いや……いいわ……元々あなたのことをいない前提で解決しようとしていたことだから」
私はその言葉を吐き出すと、闇に沈むような息を一つついた。彼の瞳は、私をまっすぐに見つめている。その視線の奥に、判じがたい光がちらつく。
「なんだよ?何か事件か?」
「まぁ……そうね……でも殺人事件とかではない、よくある事件だよ」
「話せないのか?」
私は言葉を選びながら、地下に潜む闇を想像する。監視の目が届かぬ、血と影にまみれた空間――そこに潜む罪と秘密を、誰も知らず、誰も助けず、私一人が立ち向かわねばならぬという孤独感。
「介入はしなくていいわ……ただ気になる性分なのは知っているから概要だけ……私は中学になり、養護施設を変えたの。この学校の近くに……ただそこの養護施設が闇深いの……」
言葉の一つ一つが、鉄の扉の向こうで潜む影の気配のように、私の胸に冷たく響く。心臓の奥で、微かな鼓動が増幅し、未知の恐怖と好奇心が交錯する。
「どんななんだ?」
「まだ入って数日だけど、何人かの子が誰かに虐待を受けている……」
「誰がしているかは分かっているのか?」
「いいえ……子供たちの誰かなのか、それとも……」
「職員もあるのか」
「ええ。養護施設は学校以上に閉鎖的な空間なの。学校でもいじめを隠蔽するように、それよりもはるかに隠蔽体質ということ」
彼の表情を見つめると、静かな闇の中で、私の心は薄紙を剥がすようにじわじわと緊張していく。
「で、歩美たちには?」
「言わないわよ……私の問題だから私で解決するつもり……そもそもあなたは入れないしね」
「どういうことだ?」
「セキュリティがしっかりしていて、防犯カメラもあらゆるところにあるわ……ただ地下にはそれがない」
「地下?」
「ええ……地下はおそらく拷問部屋……血の匂いがかすかに残っているし、皮膚や髪の毛の断片などがある……」
教室の明るさや太陽の光など、何もかもが遠く、異質に思える。私たちの間にあるのは、見えない闇と、言葉の影に潜む恐怖だけ。
「……はっ……警察に言えよ」
「私もそう思ったわ……」
「どういうことだ?」
「通報は何度かあったみたい。証拠はでなかった……そうなると、その密告者はどうなると思う?」
「拷問か」
「おそらくね……」
目の前の男は、ただ静かに私を見つめている。私の心の奥底に潜む影は、ほんの少しだけ和らぐこともなく、ますます深く、ひそやかに広がるのだった。
私の視線は、施設の天井から床まで、すべての陰影を舐めるようにさ迷った。表向きの明るさは欺瞞に過ぎない。白い壁の端には、冷たい鉄の影が蠢く。職員室のドアの向こう、廊下の曲がり角の影、窓ガラスの反射――そのすべてが、見えない監視者の視線と交錯しているようで、私は小さな心臓をかすかに震わせた。
「つまり職員は関与しているんじゃないか?」
その問いに、私はすぐに首肯することはできなかった。頭の中で、誰が影を落とし、誰が表に出て、誰が無垢な仮面を被っているかを、指先で辿るように計算する。学生の中にもいるかもしれない――その思いが、胸の奥で冷たい波となって押し寄せる。人間の欲望、怠惰、怒り、恐怖……そのすべてが、この施設の空気に溶け込み、私の神経を刺す。
「ちなみに施設には何人いるんだ?」
私の口は、冷たく硬質な声で答えた。
「うちの施設は中学生から高校生のみの女子寮。学生は17名、職員は7名の合計24名……」
数字の響きが、ひとつひとつ、床の影に反響する。私はその数字を、心の中で点として打ち、影を結ぶ線を描く。誰が怪しいか、誰が安全か――まだ仮説でしかない。しかし影は私をじっと見ている。息をひそめ、影の奥に潜む蠢きを感じるたび、心の中で小さな戦慄が走る。
「どうしようとしているんだ?」
私は声を低く落とし、冷たい理性で答える。
「おそらく施設内では複数の事件が起きている……全部の事件を解決して証拠を揃えた上で警察に公表する……これでいいかしら?」
胸の奥で、未知の恐怖と戦いながら、私は答えを組み立てる。正確さ、冷静さ、慎重さ。事件を解く者としての、私の矜持。
「博士には相談した。博士が何か作ってくれると言ってくれたけど……」
頭の片隅で、電子機器を持ち込めないという現実が脳裏をかすめる。セキュリティの壁、閉ざされたドア、監視カメラ、孤島のような閉鎖空間――そのすべてが私を縛る。しかし、恐怖は同時に鋭敏な観察力を研ぎ澄ます。
「まだ施設に入って1週間……あくまで悲観的に考えての考察だから……実際はなにも起きてなくて異常なセキュリティなだけかも知れない。知っての通り私は人付き合いが悪い……だから内情を知るには時間がかかりそうよ」
その言葉は冷たく、しかし真実の温度を帯びている。私は孤独の中で、闇の底に潜む可能性をひとつひとつ数える。影の隅、微かな音、空気の流れ――そこに、事実がひそんでいる。
「他人事に言うけど、お前なんだかんだ周囲の人間をほおっておけない性格だもんな」
その声に、私はかすかに眉をひそめる。ふふ、と短く息を吐き、鋭い目で前を見据える。放置など、私にはできない。誰かが傷つくかもしれない、その影を見過ごすことは、私の性質が許さない。
「何昔の彼氏みたいなこと言っているの……分かったような口を聞くのね」
口元にわずかな笑みを浮かべながらも、心の中の闇は増幅する。地下の影、壁の裂け目、そして誰かの目――私はすべてを、すべての可能性を見逃さない。
「バーロー、心配して言ってんだよ、わりぃ。新任だから色々これから先輩の指導あるから俺はいくわ……とりあえず何かあれば俺でいいから相談しろよな。事件には強いからさ」
その言葉の温かさも、心の中の冷たい影を完全には消せない。私は静かに頷く。闇と光の間で、私は自らの存在と使命を確かめるのだった。
***
夜の施設は、昼間とはまるで異なる顔をしていた。廊下の明かりは、天井に付いた蛍光灯の微かな光が、冷たい床に反射して鋭利な影を落とすだけだ。私の足音は、カツカツと硬い床に響き、ひとつひとつが、この閉ざされた空間の静寂を裂いていく。呼吸は浅く、しかし確かに自分の存在を意識する。影が長く伸び、壁のひび割れがまるで生き物のように蠢いて見える――私はその異様な感覚を抑えきれず、指先で壁を探りながら進む。
地下への階段に手をかける。鉄の冷たさが、指先に骨まで染みる。階段を下るごとに、空気が重く、湿り気を帯びていく。湿った匂い、埃の匂い、何かが焦げたような古い匂い――呼吸をすると、胸の奥がひりつくように痛む。誰もいないはずの廊下で、微かな音が耳を刺す。――「気のせい」そう自分に言い聞かせながら、しかしその音の正体を探る目は、暗闇にくぎ付けだ。
扉の前に立つ。鉄製の冷たいドアには、小さな窓も、鍵穴もある。指先で触れると、微かな振動が伝わる――あの子たちの恐怖、過去の痕跡、そして誰かの怨念までが、鉄の冷たさに宿っているかのようだ。私は息を整え、覚悟を決めて扉を開けた。
暗闇の中に広がる空間。床にはうっすらと血の匂いが漂い、壁には皮膚の痕、床には抜けた髪の毛の束が散乱している。目を凝らすと、影の奥に小さな傷の跡が続いており、まるで過去の痛みが空間に刻まれたかのようだ。まるで、この地下自体が人間の恐怖を吸収し、呼吸する生物のように私を包み込む。
私は手元の小型懐中電灯で床を照らす。埃が光に舞い、床のひび割れに沿って、血の赤が暗闇の中でかすかに揺れる。目の端に、影が微かに動いたように見える。人間の手か、それとも錯覚か。息を止め、心の鼓動だけを聞く。カツ、カツ……地下の静寂を割る音。私の心臓の鼓動のように、正確に響く。
「……なるほど」
つぶやく声も、地下の闇に吸い込まれるようだ。ここに複数の事件の痕跡が存在すること、誰かが意図的に隠蔽していること、そしてその人物は、人の心の隙間を巧みに利用していること――それらが、私の目の前に、一枚ずつ薄いヴェールのように重なって現れる。
私は慎重に、一歩一歩、証拠を拾いながら進む。床の血痕を指先で触れ、壁の微かな引っかかりをたどり、髪の毛の束を集める。すべてが冷たく、しかし生々しい現実の断片で、まるで地下そのものが、過去の痛みと絶望の記憶を吐き出しているかのようだ。
心の奥で、私は決意を固める。誰も知らないこの場所で、誰も気づかない恐怖を、誰も守らない人々を、私は解き明かす。そして、その闇を光に変える――それが、私の宿命だ。
地下の闇の中で、私の瞳は光を探し、手は冷たさを握りしめる。恐怖の影を避けながら、私はひとり、事件の真実に近づいていく――この孤独な迷宮の果てに、必ず答えを見つける、と。
***
私は、今日という一日を、何度も何度も頭の中でなぞっていた。
まるで壊れかけたオルゴールみたいに、同じ場面だけが繰り返される。校門、桜、写真、笑顔――そして、突然の断絶。
入学式。
新しい制服はまだ少しだけ大きくて、袖口が頼りなく揺れていた。校門の前で、お父さんとお母さんと三人で並んで写真を撮ったとき、私は少し照れくさくて、それでも胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
「ほら歩美、ちゃんと前見て」
お母さんが笑いながら私の肩を軽く直す。
「中学生だもんなぁ、あゆみも」
お父さんは、少しだけ寂しそうな、でも誇らしそうな顔をしていた。
ああ、この人たちは、ずっとこうやって私の隣にいてくれるんだ。
その時の私は、疑うことなんて、ほんの一瞬たりとも思わなかった。
帰り道、桜の花びらが風に乗って舞っていた。
私はそれをぼんやり見ながら――コナン君のことを考えていた。
そのときだった。
知らない番号からの着信。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
電話を取った瞬間、世界が少し歪んだ。
「帝都病院ですが――」
言葉ははっきり聞こえているのに、意味だけが遠くに滑っていく。
トラック、事故、重症、手術――
気が付いたときには、私は走っていた。
病室の扉を開けた瞬間、鼻を刺す消毒液の匂い。
白いシーツ、機械の規則的な音、そして――
包帯に巻かれたお父さんとお母さん。
その姿を見た瞬間、足がすくんだ。
さっきまで笑っていた顔が、そこにはなかった。
でも――
「……あゆみ?」
お母さんの声。
その一言で、私は崩れた。
「お母さん……っ!」
駆け寄ると、お母さんは動かせない腕で、少しだけ私の手を握ろうとした。
その指先が、かすかに震えている。
「ごめんね……怖かったよね」
「ううん……ううん……っ!」
私は首を何度も振った。
違う、怖かったのは私じゃない。
「大丈夫だよ、あゆみ」
お父さんがゆっくりと口を開いた。
声はかすれていたけど、いつもの優しい声だった。
「命に別状はないって先生も言ってたろ?」
「でも……こんなに……」
言葉がうまく出てこない。
涙だけが、ぽたぽたと落ちる。
お母さんが、少しだけ笑った。
「歩美、聞いて」
その声は、いつもより静かで、でも不思議と強かった。
「しばらくね、入院になるの」
「……うん」
「長くなるかもしれない」
胸がぎゅっと締め付けられる。
「でもね、あゆみが一人になるわけじゃないの」
お父さんが続ける。
「近くにいい施設があってな。学校にも近いし、病院にもすぐ来られる」
「……施設?」
その言葉に、少しだけ怖さが混じる。
「女の子専用で、ちゃんとしたところだって」
「それにね……」
お母さんが、少しだけ嬉しそうに言った。
「哀ちゃんがいるのよ」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が灯った。
「哀ちゃんが……?」
「そう。だからきっと大丈夫」
お母さんのその言葉は、不思議なくらい、安心する響きを持っていた。
「……うん」
私は小さく頷いた。
心配は消えない。でも、全部が暗闇じゃない。
「いい子でいるのよ」
「無理しなくていい。でも、ちゃんと頼るのよ」
お父さんとお母さんの言葉が、ゆっくりと胸に染みていく。
「……行ってきます」
その言葉を言うとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
家に帰ると、いつもの匂いがした。
でも、どこか違う。
音がない。
気配がない。
私は黙って荷物をまとめた。
そして、地図を握りしめて外に出る。
施設の入口は、思っていたよりもずっと大きくて、そして――少しだけ冷たかった。
優しそうな男の職員さんが迎えてくれる。
「ようこそ」
その声は柔らかいのに、どこか機械的で、私はほんの少しだけ違和感を覚えた。
ゲートをくぐる。
――ピッ。
電子音が鳴る。
「金属製品はすべてお預かりします」
スマホも、鍵も、全部。
「すごい……」
思わず呟く。
セキュリティがしっかりしている――でも、どこか息苦しい。
胸に「25」と書かれたプレートをつけられる。
番号。
名前じゃなくて、番号。
その小さな違和感が、胸の奥に沈んだ。
部屋の前に立つ。
ドアを開ける。
そこにいたのは――
本を読んでいた、一人の少女。
顔を上げる。
驚いた表情。
そして私は、すぐに分かった。
「哀ちゃん……!」
「なんであゆみちゃんが?」
当然の言葉。
私は、全部話した。
事故のこと、病院のこと、ここに来た理由。
話しているうちに、胸の奥に溜まっていたものが溢れてきて――
気が付いたら、私は泣いていた。
そのとき。
ぎゅっと、抱きしめられた。
小さくて、でも温かい腕。
「大丈夫よ」
その声を聞いた瞬間――
あの日、告白して、振られて、泣いたときのことが、ふっと蘇った。
あのときも、こうやって――
私は、目を閉じた。
新しい生活の始まり。
でもその奥で、何かが静かに動き出している気がしていた。
まるで、この場所そのものが――秘密を隠しているみたいに。
***
部屋の中に、少しだけ穏やかな空気が戻っていた。
哀ちゃんの腕のぬくもりは、さっきまでぐちゃぐちゃだった私の心を、ゆっくりとほどいてくれていた。
でも――
そのぬくもりの奥に、どこか落ち着かないものが、ひとつ残っていた。
コツ、コツ……
廊下から足音が近づいてくる。
規則的で、まるで時計の針みたいに正確なリズム。
ドアが、ノックもなく開いた。
さっきの、あの優しそうな職員さん。
細く閉じられた目、柔らかい笑顔。
「おや、お二人とも――」
その瞬間だった。
すっと、その人の目が――開いた。
細かった目が、わずかに、でも確かに開かれて、そこから覗いた瞳は、さっきまでの“優しさ”とはまるで違う光を帯びていた。
冷たい。
まるで、何かを測るみたいな目。
私は、息を呑んだ。
「……知り合いですか?」
声は変わらない。優しいまま。
でも、その奥にある何かが違う。
私は一瞬迷ったけど――
「親友です」
はっきりと、そう言った。
その瞬間、哀ちゃんの手がほんの少しだけ強くなった気がした。
職員さんは、少しだけ沈黙した。
ほんの数秒。
でも、その数秒が、とても長く感じた。
「……そうですか」
にこり、と笑う。
でも、さっきまでの笑顔とは違う。
何かを決めた人の顔。
「では、お部屋を変更しましょう」
「……え?」
思わず声が出た。
「規則でしてね。同じ学校、同じ関係性の子同士で固まるのは禁止なんです」
その言葉は、丁寧で、理屈も通っているように聞こえた。
でも――
おかしい。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
哀ちゃんを見る。
哀ちゃんも、ほんのわずかに目を見開いていた。
「みんなとの交流を大切にしてほしいんですよ」
にこやかに続ける。
「特定の子同士でつるむと、どうしても閉鎖的になりますからね」
“閉鎖的”
その言葉が、妙に引っかかった。
ここはもう十分、閉鎖的なのに。
ゲート、番号、持ち物の制限――
なのに、さらに?
「ですので、吉田さんは別のお部屋へ」
「でも……!」
思わず言いかける。
そのとき、哀ちゃんが、私の腕を軽く引いた。
「……分かったわ」
静かな声。
私は驚いて哀ちゃんを見る。
哀ちゃんの顔は、いつも通り落ち着いていたけど――
その目だけが、何かを考えているように、少しだけ鋭くなっていた。
「ご協力ありがとうございます」
職員さんは、満足そうに微笑んだ。
そのとき、一瞬だけ――
また、目が細く閉じられる。
さっきの“開いた目”が、まるでなかったかのように。
でも私は、見てしまった。
あの目を。
あの、冷たい光を。
別の部屋へ向かう廊下。
さっきよりも長く感じる。
壁の色も、床の模様も、同じはずなのに――どこか違って見える。
私は、胸のプレートに触れた。
「25」
番号。
名前じゃない。
管理されてるみたい。
誰に?
何のために?
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわする。
後ろを振り返ると、さっきの部屋のドアはもう閉まっていた。
哀ちゃんは、あの中。
一人。
――本当に?
ふと、そんな考えがよぎった。
この施設は、本当に安全なの?
優しそうな人たち。
きれいな建物。
でも、その奥に――
何かが、隠れている気がする。
私は、小さく息を吸った。
大丈夫。
哀ちゃんがいる。
でも――
それでも。
この場所は、どこかおかしい。
そう思った瞬間、廊下の奥から、またあの規則正しい足音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ……
まるで、この施設そのものが、私たちを数えているみたいに。
女子寮 いじめ編 続きが……
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見たい
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どっちでもいい
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見なくていい