冬木の森、静寂に包まれたアインツベルン城。
その重厚な扉を、ミネアは集金人のような冷徹さと聖女の慈愛を完璧にブレンドした足取りで叩きました。
「――ごめんください。アインツベルンの主様。…いえ、聖杯の器としての責務に押し潰されそうな、可哀想な女の子」
出迎えたのは、白銀の髪を持つ幼き城主、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
そして、その背後に立つ漆黒の巨人、バーサーカー。
「…誰、貴女。…教会の使い? それとも、パパの知り合いかしら」
イリヤの瞳には、外界への敵意と、自身の過酷な運命に対する諦念が同居していました。
しかし、ミネアはその負の感情すらも優良な担保として査定します。
「私はミネア・ミーティア。…イリヤちゃん、貴女のその苦しみ、私が『買い取って』あげに来たの」
「…買い取る? …ふふ、面白いこと言うのね。私の命は、もう聖杯に捧げることが決まっているのよ? 誰にも動かせない、アインツベルンの悲願なんだから」
バーサーカーが低く唸り、大剣を構えます。
だが、ミネアは一歩も退きません。
それどころか、可憐な仕草でイリヤの頬に触れようとしました。
「ええ、知っていますわ。貴女は、この戦争が終われば器として壊れてしまう。…でも、それはあまりにもサンクコスト(埋没費用)が大きすぎると思いませんか?」
「…サンク…?」
「アインツベルンが千年以上かけて積み上げた魔術資源。そして貴女という最高傑作のホムンクルス。…それがたった一度の儀式で使い捨てられるなんて、魔術師として失格ですわ」
ミネアは、イリヤの耳元で、悪魔のような…あるいは救世主のような甘い声で囁きました。
「提案です。貴女の死ぬ運命を、一万年後の私に先送りしませんか? …私が、貴女の代わりに世界の運用リソースから命の維持費を前借りしてあげます。…そうすれば、貴女は聖杯にならずに、ただの女の子として生き続けられる」
「…そんなこと、できるわけないわ。…世界の摂理が、許さないもの」
「許させます。…私が、この世界そのものを『私の死=世界の破綻』という共犯関係に引きずり込んでいるから。…私が生きている限り、私の連帯保証人である貴女も、死ぬことは許されません」
イリヤの瞳が、初めて大きく揺れました。
彼女が背負わされた死の義務。それを、ミネアは債務の付け替えという、あまりにも即物的な、しかし確実な手法で否定してみせたのです。
「…バーサーカー。…この女、…どうかしら」
「オォォォォォ…ッ」
バーサーカーは、ミネアの背後に立つスカサハを睨みつけながらも、攻撃には転じませんでした。
狂戦士の本能が、ミネアに手を出せば世界が壊れる(=イリヤも死ぬ)という異常な因果の鎖を感じ取っていたからです。
「…イリヤちゃん。貴女のバーサーカー、維持するだけでも大変でしょう? …その魔力供給、私が一括借り換えしてあげますわ。…貴女の負担はゼロ。…その代わり、貴女の持つ聖杯へのアクセス権を、私のポートフォリオに組み込ませて」
ミネアは、イリヤの手を取り、優しく契約(呪い)を刻み始めます。
「さあ、ウィンウィンの関係を築きましょう? …アインツベルンの悲願を永遠の延滞という形で叶えてあげる…。それが、私の提供する救済です」
こうして、ミネアは冬木最強の戦力を、命のローンという名の鎖で繋ぎ止めました。
彼女の踏み倒し計画は、ついに聖杯そのものを飲み込もうとしています。
「――不遜だな。雑種」
アインツベルン城の吹き抜けに、黄金の粒子が舞い、王者の威圧感が大気を押し潰した。
黄金の甲冑を纏った人類最古の英雄王は、手すりに腰掛け、眼下のミネアを心底退屈そうに見下ろしていた。
「我(オレ)の許しもなく、この世の財を、果ては未来の価値まで勝手に算盤で弾くか。…その浅ましさ、もはや滑稽を通り越して一興よな」
「あら、英雄王様」
ミネアは淑やかなカーテシーで応える。
背後ではスカサハが魔槍を低く構え、バーサーカーが獣のような唸り声を上げていた。
「この世の全ては貴方のもの…でしたかしら? 素晴らしいポートフォリオですわ。…ですが、貴方の蔵にある宝具の数々、その減価償却はどうなさるおつもり? …ただ眠らせておくだけでは、資産価値は目減りする一方。…私が、もっと有効な投資先を提案して差し上げましょうか?」
「黙れ。我の蔵に死蔵などという概念はない。…貴様がやっているのは投資ではないな。ただの泥棒だ。世界から明日を盗み、今日を食いつぶす…。そのような救済、我が許すと思うか?」
ギルガメッシュの背後の空間が、波紋のように歪む。
無数の宝具の柄が、ミネアに向けられた。
「…残念ですわ」
ミネアは、悲しげに瞳を伏せた。
その表情は、救うべき羊を屠らねばならない聖女の苦悩そのものだ。
「貴方のその無尽蔵の財、私の負債と相殺すれば、一気にこの世界の債務超過を解消して、魔法に至る最短経路を築けたはずなのに…。…どうやら、貴方は貸し剥がしに来た強欲な債権者のようですね」
ミネアの足元から、黒い泥のような負債の影が広がる。
それは、彼女が世界から前借りした未来の破滅を、そのまま物理的な質量へと転換した概念武装。
「…勿体ないけれど、倒すしかありませんわね。…ランサー、そしてバーサーカー。…この成金様から、未払い分のリソースを全額回収しなさい」
「ふん…。神をも穿つこの槍を、王の喉元に届けてやろう」
スカサハが地を蹴り、紅い閃光となって跳ねる。同時に、イリヤの号令を受けたバーサーカーが、咆哮と共に黄金の王へと突進した。
「――図に乗るなよ、小娘ぇ!」
放たれる「王の財宝」の弾幕。
本来なら一撃で更地になるはずの破壊。だが、ミネアはただ指を鳴らした。
「――貸倒引当(リザーブ)。この空間に降り注ぐ破壊のエネルギーを、十秒後の無へスワップ」
物理法則が、帳簿上の数字を書き換えるように歪む。
降り注ぐ宝具の雨が、ミネアに触れる直前でなかったことになり、その衝撃は未来のどこかへと押し流された。
「…ほう。理を盗むどころか、我の財宝そのものを不良債権として処理しようというのか!」
ギルガメッシュが激昂し、蔵の奥から最強の鍵を取り出そうとしたその時。
ミネアは、聖女のような微笑みを浮かべたまま、詠唱を前借りで完成させる。
「――固有結界、全出力展開。…『流星降る丘(ミーティア)』。…さあ、王様。貴方の蔵と私の借金、どちらが先に底をつくか…。…破産するまで(死ぬまで)お付き合いくださいな?」
冬木の森が、白銀の流星雨に飲み込まれていく。
史上最大の不渡りを出した詐欺師が、人類最古の資産家を食い破る戦いが始まった。
流星の雨が黄金の都を叩き潰し、概念的な負債が英雄王の蔵を侵食していく。
ギルガメッシュが放つ宝具の一撃一撃を、ミネアは未来の私が受けるはずのダメージとして次々に先送りし、逆にスカサハとバーサーカーの攻撃コストを来世の自分から前借りして上乗せする。
「…おのれ、おのれおのれおのれ! 我(オレ)の財を、得体の知れぬ帳簿で塗り潰すかぁ!」
「ええ、そうですわ。王様。貴方の宝具はあまりに高価すぎて、もはや市場では扱いきれない。…だから、私が国有化(私物化)して差し上げます」
ミネアが指を振る。
固有結界の極点。降り注ぐ流星が、ギルガメッシュの空間門(ゲート)を物理的に「封鎖」するのではなく、門を開くための因果そのものを「滞納」させる。
開こうとする瞬間に、未来の魔力不足が襲い、黄金の波紋が霧散していく。
「――今ですわ、ランサー! 彼の存在の時価を、ゼロまで叩き落として(殺して)!」
「承知した。…貫け、『穿ちぬく死翔の槍(ゲイ・ボルク)』!」
神域の槍が、王の胸を貫いた。
同時に、バーサーカーの斧剣が黄金の甲冑を粉砕する。
人類最古の英雄王は、自らの財宝が無価値な紙屑に変わるという、王として耐え難い屈辱の中で、光の塵となって消滅した。
「…ふう。…随分と大きな損切りでしたわ。…さて、イリヤちゃん。…いよいよ、メインイベントです」
ミネアは、崩壊した城の跡地に立つイリヤスフィールへ歩み寄った。
その手には、ギルガメッシュを倒したことで得た、膨大な戦勝利益(リソース)が握られている。
「…これから、聖杯を利用します。…でも、願望機としてではありません」
「…何をするつもりなの、ミネア?」
イリヤが不安げに尋ねる。ミネアは、ついに現れた小聖杯――黒泥を滴らせる呪いの器を見つめ、邪悪なほどに美しい微笑みを浮かべた。
「聖杯は、根源へと繋がる巨大な穴。…私はこの穴を、私の踏み倒し計画の最終的な決済窓口にします。…世界運用リソース一年分。…それを、聖杯というブローカーを通じて、一気に根源から借り増しするのです」
ミネアが聖杯に手をかざす。
起源「救済」が発動し、聖杯に溜まった「この世全ての悪(アンリマユ)」を、彼女は将来の私が浄化するはずの汚れとして、そのまま自分の魔力へとコンバートし始めた。
「――第一節(ファースト・ディール)。聖杯に溜まった呪いを、全人類の前払い金として受理」
「――第二節(セカンド・ディール)。この『穴』を、返済期限のない永久債権へと書き換え」
世界が軋む。抑止力(アラヤ)が、ミネアという巨大な穴が根源と直結したことに気づき、宇宙の摂理を守るために絶叫を上げた。
「…あはは! ほら、見てください、スカサハ、バゼットさん! 世界が、私を死なせないために、全リソースを注ぎ込み始めましたわ!」
彼女が狙うのは、既存の五つの魔法ですらない、第六の欺瞞。
「無から有を生むのではなく、無限の未来から、今この瞬間に全利益を収穫し続ける」という、因果の略奪。
「…さあ、清算の時間は終わりです。…これからは、永遠に続く前借りの天国へ、皆さんをご招待いたしますわ!」
聖杯から溢れ出す光が、冬木の街を、そして世界を飲み込んでいく。
史上最強の詐欺師、ミネア・ミーティア。
彼女は今、ついに世界を人質に取った魔法使いへと成ろうとしていた。
「あら…。皆さん、揃いも揃って私の督促に来てくださったのかしら?」
ミネアの視線の先。
満身創痍ながらも、その瞳に不屈の光を宿した英霊たちが立ち塞がる。
ライダーが、石化の魔眼(キュベレイ)を全開にしてミネアを睨む。彼女の後ろには、間桐桜を守るという唯一の「契約」がある。
「…士郎。あれは、救いではありません。…未来を奪うことは、今を殺すことと同じです」
セイバーの黄金の剣が、聖杯の光を撥ね退ける。
「…フン、全くだ。…あいつの帳簿には希望という項目が欠落している。…無謀な理想を笑うのは我慢できるが、それを勝手に抵当に入れられるのは御免だ」
アーチャーが、無数の偽・螺旋剣(カラドボルグII)を投影し、狙いを定める。
「…私の望みは、ただ一つ。…彼(葛木)と共に、この時代を生き抜く権利。…それを貴女が前払いで保証すると言うのなら、私はその虚構を守り抜きましょう」
キャスター・メディアは、葛木宗一郎の傍らで杖を掲げる。彼女だけは、ミネアの共犯者として、神代の魔術をリソース補填に回している。
「さあ、皆さん。…残念ですが、皆さんの存在そのものが、私の魔法を完成させるための貴重な供託金となります」
ミネアは優雅に手を広げ、最後の一節を紡いだ。
「――『全損処理(デッド・エンド)』。今ここにいる全ての英霊の過去の功績を、私の未来の善行と相殺し、その霊基を魔力として強制回収!」
世界が、ミネアという巨大な「穴」に吸い込まれようとする。
聖杯の泥が、彼女の意志によって金の雨へと変換され、英霊たちの霊基を侵食し始めた。
「…くっ、魔力が…吸い取られる…!?」
凛が叫ぶ。だが、そこで士郎が前に出た。
「――違う。吸い取られてるんじゃない。…こいつは、俺たちの明日への意志を、勝手にゼロだと査定してるだけだ!」
士郎の内に眠る、無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)。
その本質は代価なき投影。
ミネアの借金まみれの救済に対し、士郎のすっからかんの理想がぶつかり合う。
「…ミネア! あんたがどれだけ未来を担保にしても、俺たちが今、ここにある価値を捨てない限り、その契約は成立しない!」
「…ええ、いいわよ衛宮くん。…なら、その価値がどれほどのものか、この破産する世界(流星雨)の中で証明してくださる?」
ミネアの指先から、一万年分の祈りを凝縮した最終的な一撃が放たれた。
それは、あまりにも美しく、あまりにも醜い、人類の欲望の結晶。
「――セイバー! ライダー! アーチャー! …行くぞ!!」
士郎の叫びと共に、全サーヴァントが動いた。
物理的な破壊、概念的な切断、神代の魔術、そして、ただ純粋な一太刀。
詐欺師の聖女が提示する絶望的な安寧を、彼らは一丸となって、その身を賭した一括返済で切り裂きに行く。
ミネア・ミーティアは、それを見て、可憐に微笑んだ。
(――ああ、素敵。…皆さんのそのあがきさえも、私にとっては最高の利子になりますわ)
冬木の聖杯戦争。
それは、一人の少女が、世界そのものを飲み込むか、あるいは一人の少年がその負債を肩代わりして散るか――。
因果の果て、帳簿の最後の一行に記される名前は、果たして誰のものか。
冬木の地を覆いつくしていた流星雨が、収束していく。
いや、消えたのではない。
それはミネアの周囲で高密度に圧縮され、何者も通さぬ事象の盾へと変質していた。
「――無駄ですよ、皆さん。貴方たちの攻撃が届く未来すら、私は既に買い叩いています」
セイバーの聖剣も、ライダーの魔眼も、アーチャーの投影も。
ミネアに届く寸前で、スカサハの紅槍に弾かれ、メディアの多重陣地によって霧散する。
そして、その防御にかかるコストはすべて、一万年後の後継者たちが支払うはずの祈りで即座に充填される。
「…くっ、キリがないわ! こっちの魔力が底を突くのが先か、あいつの帳簿がパンクするのが先か…!」
凛が歯噛みする。
だが、ミネアの帳簿がパンクすることはない。
彼女が生きている限り、世界(アラヤ)は破産を恐れてリソースを流し込み続けるしかないからだ。
「…さあ、時間切れです」
ミネアは、聖杯の泥が黄金に輝く根源の門へと手を伸ばした。
ついに、世界運用リソース一年分の一括借り入れが実行される。
「――『貸付実行(ローン・フルフィルメント)』。これより、全人類の明日を、私の今日へと統合します」
その瞬間、冬木の街を、いや世界を包んでいた「時間の流れ」が、一瞬だけ逆流し、そして静止した。
ミネアは魔法使いとなった。
第六の欺瞞。
「無限の負債による、永遠の猶予」。
「…ふう。…ようやく、一段落ですね」
ミネアは、呆然と立ち尽くす士郎やセイバーたちを振り返り、可憐に微笑んだ。
世界は滅びなかった。
むしろ、不自然なほどに平穏が訪れた。
病は癒え、争いの火種は未来への先送りという形で沈静化し、人々は返さなくていい幸せを享受し始める。
「…ミネア。貴女、何をしたの…?」
震える声で問うイリヤに、ミネアは優しく答える。
「何も。ただ、世界中の苦しみと絶望を、私が全部立て替えてあげただけ。…これからは、誰も何もしなくていいわ。…ただ、私の救済が続くのを、祈りながら見ていればいいの」
それから数ヶ月。
冬木の街は、何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。
聖杯戦争の記憶は霧に包まれ、参加者たちはそれぞれの日常に戻っている。
…ただ一点、彼らの魂の奥底にミネア・ミーティアへの、莫大な心理的負債という刻印を残したまま。
「…さて。…そろそろ、この街も飽和状態かしら」
ホテルの最上階。
ミネアは荷物をまとめ、スカサハと共に旅立ちの準備を整えていた。
彼女の背後には、もはや実体化した負債であるバゼットが、忠実な従者のように控えている。
「魔法使いになったとはいえ、踏み倒し続けるにも移動は必要ですものね。…次はどこへ行きましょうか。…時計塔? それとも、彷徨海?」
「…フン、次はどこの神を債務者にするつもりだ。…いいだろう、お前の逃亡劇、地獄の果てまで付き合ってやろう」
スカサハが愉悦を浮かべて笑う。
ミネアは、窓から見える冬木の景色に、聖女のような、しかしどこか悪戯なウインクを投げかけた。
「さあ、行きましょう。…世界が私を追い詰める前に、もっともっと幸せを前借りしに!」
こうして、史上最悪にして、最も可憐な詐欺師は、全人類の未来をカバンに詰め込んで、次の戦場へと消えていった。
彼女が通った後には、一時の救済と、決して消えることのない空手形だけが残される。
――ミネア・ミーティア。
彼女こそが、世界に明日という名の負債を教えた、唯一の魔法使いである。
あとがき
これにて終幕となりますお付き合いいただきありがとうございました。