1つの器と3つの魂 作:日三汐理
それは、宿儺の指を呑み込んだ直後のことだった。
喉を焼くような熱が落ちていく。心臓が一度、強く脈打つ。骨の芯にまで異物が入り込んでくるような不快感に、虎杖悠仁は思わず顔をしかめた。
だが、その違和感は呪いを取り込んだことだけでは説明がつかなかった。
頭の奥が、妙に騒がしい。
誰かがいる。
しかも一人ではない。
ぞわりと総身が粟立った次の瞬間、内側の暗がりに、見慣れないはずの男が立っていた。
見慣れない――はずなのに、どこかで見たことがある気がした。
いや、違う。
それは「似ている」のだ。
自分に。
年齢だけが噛み合わない。空気だけがひどく重い。目の奥に積もったものの量だけが、今の自分とはまるで違う。青年とも壮年ともつかないその男は、虎杖と同じ顔立ちをしていながら、まるで別人のようにそこにいた。
その向こうで、もう一つの気配が嗤う。
圧倒的で、禍々しく、傲慢な気配。
呪いの王。
両面宿儺が、玉座にでも座るような不遜さでこちらを見下ろしていた。
「――まさか、本当にもう一度お前と会えるなんてな。宿儺」
先に口を開いたのは、その見知らぬ男だった。
声まで、自分と似ている。
いや、似ているどころではない。もっと深いところで、同じものだと理解してしまう。理解したくもないのに、わかってしまう。
宿儺が片眉を上げた。
「誰だ、貴様。俺は貴様に会ったことはない」
男はわずかに目を細めた。その表情には驚きよりも、納得のほうが近かった。
「呪いの王ともあろう者が、殺し合いまでした相手を忘れたのか?」
「強者はおおよそ覚えている。貴様ほどの者ならば忘れるはずもない」
宿儺の口元が獰猛に歪む。
「その上でもう一度言おう。貴様のことなど知らん」
男は小さく息を吐いた。諦めとも、自嘲ともつかない笑いが混じる。
「そりゃそうか。この時代のお前が知ってるわけないよな」
この時代。
その言葉に、虎杖はようやく口を挟んだ。
「待ってくれ、ちょっと待て。何これ。誰? なんで俺の中で会話成立してんの?」
男がこちらを見る。
その視線が思いのほか静かで、虎杖は一瞬たじろいだ。自分と同じ顔なのに、その目には自分がまだ知らない痛みがあった。
宿儺が言う。
「貴様こそ何者だ。なぜ小僧に宿っている?」
「宿ってるっつーか、もともと俺の体なんだが」
「何?」
宿儺の目が細まる。
虎杖も思わず頷いた。
「いや、それ俺も言おうと思った。俺の体なんだけど」
男はこめかみを押さえた。
「あー、説明が難しいんだけどな」
そこで一度言葉を切り、観念したように続ける。
「要するに俺は、未来のお前ってことだ」
数秒、沈黙した。
虎杖は考えた。
考えて、考えて、出た言葉がそれだった。
「……マジで?」
「マジだ」
「何歳ぐらい?」
「八十歳ぐらい」
「いやそれはさすがに嘘だろ」
反射で突っ込んでから、虎杖は改めて男を見た。確かに若々しい。少なくとも祖父ほどの年齢にはまるで見えない。
「全然老けてねえじゃん」
「色々あるんだよ」
あまりにも雑な返答に、虎杖は逆にそれ以上聞けなくなった。
宿儺は、今度こそ興味を隠さなかった。
未来。
八十年。
小僧と同じ魂の気配を持ちながら、それでいてまるで別物の強度を備えた存在。
「貴様が小僧の未来の姿だとして、なぜここに戻ってきている?」
未来の虎杖は、すぐには答えなかった。
宿儺を見返す目に、懐かしさと警戒と、もっと別の何か――簡単には名づけられない感情が一度に浮かんでは消える。
「それも色々だ」
「ふん」
宿儺は鼻で笑った。
だが、その双眸の奥には確かな探りがある。目の前の存在が虚言を弄するだけの雑魚ではないと、すでに見抜いているのだ。
一方で虎杖は、まるで話についていけていなかった。
「なんかわかんねえけど……色々大変なんだな」
自分でも間の抜けた感想だと思ったが、そうとしか言えない。未来から来た自分。宿儺。三つの意識が一つの体に押し込まれているという状況に、整理のしようがなかった。
すると未来の虎杖が、じっとこちらを見た。
その目に一瞬だけ、妙に複雑な色が宿る。
「……昔の俺ってこんな軽かったっけな」
「悪かったな」
むっとして返すと、未来の自分はわずかに口元を緩めた。笑った、というより、笑うことを思い出したような顔だった。
だがその空気も長くは続かない。
未来の虎杖は再び宿儺へ向き直った。
「それと宿儺」
「なんだ」
「八十年後に面白いやつが現れるから、それまで大人しくしてくれ」
宿儺は沈黙したあと、腹の底から愉快そうに笑った。
「断る」
その一言には、王の傲慢が凝縮されていた。
「貴様の様子からして、未来の俺はすでに貴様の体から離れていると見える。つまり、貴様は俺を御しきれなかった。あるいは、御す必要がなくなったか」
宿儺の笑みが深まる。
「いずれにせよ、俺には何の利もない」
未来の虎杖は目を伏せた。否定しない。
「……まぁ、そうだよな」
その声音に、虎杖はかすかな違和感を覚えた。
この男は宿儺を恐れていない。
それどころか、知りすぎている。
知りすぎた末に、なお目の前の怪物に頭を悩ませている。そんな響きがあった。
宿儺もまた、その違和感を楽しんでいた。
「面白い。小僧の未来だと? であれば貴様は、俺とどこまでやり合った?」
「さあな」
「ほう?」
「教えたら、お前はその未来を避けるだろ」
未来の虎杖が言うと、宿儺の口元が吊り上がる。
「避けるに値する未来だった、ということか」
虎杖は二人の応酬を聞きながら、ぞくりとした。
会話の温度が違う。
自分がまだ踏み込んだことのない場所で、二人だけが通じる刃のやり取りをしているようだった。
未来の自分は静かに言う。
「俺はお前に頼みがあって来た」
「頼み?」
「教えてほしいことがある」
宿儺はすぐには返さなかった。ただ目を細めて、その顔、その魂、その奥にある執念を見透かすように眺める。
「俺が、貴様に?」
「ああ」
「続けろ」
未来の虎杖はそこで初めて、わずかに躊躇した。
それが宿儺には余計に愉快だったのだろう。王は獰猛に笑う。
「言ってみろ。小僧の未来が、今さら何を欲しがる」
未来の虎杖は、低く、しかしはっきりと告げた。
「呪物になる方法だ」
空気が変わった。
虎杖にはよくわからなかった。だが、わからないなりに、その問いが決して軽くないことだけは伝わった。
宿儺の目が、初めて本当の意味で細められる。
「……貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「わかってる」
「人であることを捨て、呪いとして残る術を乞うか」
「必要なんだよ」
未来の虎杖の声に迷いはなかった。
それがかえって、虎杖には恐ろしく聞こえた。
どうして未来の自分が、そんなものを必要とするのか。
何があったのか。何を失えば、そんな結論に辿り着くのか。
問いは喉元まで込み上げたが、口にする前に宿儺が笑った。
「教えると思うか?」
「思わない」
「ならなぜ訊く」
「それでも、お前しか知らないからだ。もしくは、羂索か」
即答だった。
宿儺はしばし沈黙し、それから愉快そうに喉を鳴らした。
「いいだろう。ますます面白い」
「教えるのか?」
虎杖が思わず言うと、宿儺はあからさまに嘲るような目を向けた。
「誰がそんなことを言った、小僧」
未来の虎杖は肩を竦める。
「やっぱり簡単にはいかねえか」
「当然だ。ただで与える理由がない」
宿儺は玉座から立ち上がるように、ゆっくりと告げた。
「貴様がそれを欲するなら、まず示せ。貴様の身の丈を」
その言葉に、未来の虎杖はわずかに目を細めた。
怒りではない。覚悟を測るような沈黙だった。
「……そう来ると思ってた」
そして彼は、過去の自分と宿儺、その両方を見渡すように言った。
「『いいぜ』。付き合ってやるよ。どうせ、時間はある」
虎杖だけが、その言葉の重みをまだ知らなかった。
六十八年分の時間を背負った自分が、どんな取引を始めようとしているのか。
この時の虎杖悠仁は、まだ何も知らなかった。