1つの器と3つの魂   作:日三汐理

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【第2話】強い先生はだいたい遅れてやってくる

 

 空気が変わったのを、最初に感じ取ったのは伏黒だった。

 

 ついさっきまで、目の前にいたのは紛れもなく呪いの王だった。圧倒的な呪力。理不尽そのものの存在感。今すぐここで人を殺し始めてもおかしくない、そんな危うさがそこにあった。

 

 だが今、立っているのは少年だ。突然顔の文様が消え、ぼうっとしたかと思えば、少しだけ気まずそうに後頭部をかきながら、申し訳なさそうに笑っている。

 

「……戻った、っぽい」

 

 虎杖悠仁がそう言った。

 

 伏黒は答えなかった。

 

 問題は、戻れることそのものが異常だということだった。宿儺の指を取り込んだ人間は、普通ならその場で肉体を乗っ取られるか、そもそも死ぬ。目の前のこいつはそのどちらでもない。

 

 生きていて、しかも理性を保っている。

 

 ありえない。

 

「伏黒?」

 

 虎杖が一歩近づこうとして、伏黒は反射的に身構えた。玉犬はすでに消えている。だが、必要ならすぐに式神を出せるよう、影に意識を落としたままだった。最悪の場合は、自分ごと巻き込むしかない。

 

 そこで虎杖がぴたりと止まる。

 

「あー……だよな」

 

 事情を知らないはずの顔で、妙に納得したように言う。

 

 その違和感に、伏黒は眉を寄せた。

 

 さっきから虎杖の反応が時々おかしい。自分の置かれている状況に対する驚きは確かにある。だがその中に、もっと別の何か――慣れのようなものが混じっている気がした。

 

 もっとも、今はそんなことを考えている場合ではない。

 

「動くな」

 

 低く言うと、虎杖は素直に両手を上げた。

 

「わかった。動かねえ」

 

「お前はもう人間じゃない。少なくとも、普通の意味では」

 

「うん」

 

「俺は今から、お前を祓うかどうか判断しなきゃならない」

 

「……うん」

 

 虎杖は今度こそ、ちゃんと困った顔をした。

 

「いや、まあ、そうなるよなとは思ってる。っていうかそう教えられた。でもさ、俺、今はちゃんと俺だぞ?」

 

 伏黒は一歩も引かない。

 

「こっちは今のお前がどっちかも分からねえんだよ」

 

 その通りだった。

 

 虎杖自身にも、反論できる材料はなかった。つい数分前まで、自分の身体で好き勝手に笑っていた怪物を、内側から見てしまったのだから。

 

 ――いや、正確には。

 

 怪物は、一人ではなかった。

 

『おいおい、言い返さねえのかよ』

 

 頭の奥で、聞き慣れたばかりの自分の声がした。

 

 未来の自分だ。

 

 その口調には妙な軽さがある。宿儺と話していたときの乾いた重さとは違う、過去の自分を見ているときだけ出る調子だった。

 

『今のお前ならもうちょい何かあるだろ。「俺は善良な一般市民です」とか』

 

『言える状況かよ』

 

 心の中で返すと、すかさず別の声が嗤った。

 

『善良。一般市民。小僧、どちらも滑稽だな』

 

『うるせえよ宿儺』

 

『誰が黙るか』

 

 内側では騒がしいのに、外から見れば虎杖はただ黙り込んでいるだけだ。その沈黙をどう受け取ったのか、伏黒の視線がいっそう鋭くなる。

 

「……何を考えてる」

 

「いや、えっと」

 

 言えない。

 

 俺の中で未来の俺と宿儺が口喧嘩してる、なんて言ったところで信じてもらえるはずがない。いや、信じてもらえたとしても余計に状況が悪化する気しかしない。

 

『言っとけよ。伏黒なら案外、飲み込むぞ』

 

『飲み込ませんなよそんな情報』

 

『だが面白い顔はするだろう。言ってみろ、小僧』

 

『お前は黙ってろ』

 

 虎杖がしかめ面になったのを、伏黒は見逃さなかった。

 

「もう始まってるのか」

 

「違う違う違う! 違うって!」

 

 さすがに慌てて否定すると、伏黒の拳がわずかに上がる。

 

 まずい。

 

 今の伏黒は、本気だ。

 

 祖父の言葉だとか、呪いがどうとか、そんなことを整理する間もなくここまで来てしまったけれど、伏黒恵という人間がここで手を抜くタイプじゃないことは、なぜだかよくわかる気がした。

 

 わかる、という感覚に、少しだけ引っかかる。

 

 未来の自分の記憶が混じっているのかもしれない。けれど今それを考える余裕はなかった。

 

「伏黒、待ってくれ。確かに危ないのはわかる。でも、今の俺に宿儺は出てこれない。少なくとも勝手には」

 

「根拠は」

 

「……なんとなく?」

 

「話にならない」

 

 至極まっとうな返答だった。

 

 伏黒の足元で影が揺れる。

 

 次の瞬間には何かが来る。そう思って身を固くしたところで、内側からため息が聞こえた。

 

『見てらんねえな』

 

『は?』

 

『お前、昔の俺にしても口下手すぎるだろ。もうちょいこう、相手の地雷を避けろよ』

 

『今そこ!?』

 

 未来の虎杖の声が、ふっと近くなる。

 

 直後、虎杖の口が勝手に動いた。

 

「伏黒、お前、自分で助けたやつを自分で殺すの、気分悪いだろ」

 

 虎杖自身が一番驚いた。

 

 言った。今、自分が言った。だが選んだ言葉は自分のものじゃない。もっと言えば、その言葉の置き方が、今の自分にはできない種類のものだった。

 

 伏黒の眉がぴくりと動く。

 

「……何?」

 

「いや、その、何となくそう思っただけ」

 

 ごまかしながら、虎杖は内心で未来の自分に文句を言った。

 

『おい! 勝手に喋るなよ!』

 

『少し借りただけだ』

 

『借りるな!』

 

『だが効いただろ』

 

 確かに、ほんの少しだけ、伏黒の殺気が鈍った。

 

 それは図星だったからか、言葉の意味を測っているからか、その両方か。

 

 伏黒は数秒黙ってから、吐き捨てるように言った。

 

「俺は正義の味方じゃない。助けるかどうかは俺が決める。祓うかどうかも、俺が決める」

 

「うん」

 

「でも……」

 

 そこで伏黒は言葉を切った。

 

 その続きを口にするのを、少しだけためらったように見えた。

 

「あぁ、確かに気分は悪い」

 

「……」

 

「お前みたいなやつが、こんなところで死ぬのは」

 

 虎杖は目を瞬いた。

 

 その言葉の温度だけはわかった。冷たいようでいて、どこか腹が立っている。突き放しているようで、そうしきれていない。

 

 それが少しだけ不思議で、少しだけありがたかった。

 

『……やっぱ伏黒ってこういうやつだよな』

 

 未来の自分が、妙に静かな声で言った。

 

 その響きはさっきまでと違って、懐かしむような、噛み締めるようなものだった。

 

 虎杖がそれに何か返すより先に、頭上から場違いなくらい明るい声が降ってきた。

 

「おっ、いい感じに修羅場ってるね」

 

 二人が同時に見上げる。

 

 校舎の上。月明かりの縁に、ひょいと立っている長身の男がいた。黒い目隠し。飄々とした立ち姿。緊張感を全部ひっくり返すみたいな軽さ。

 

 五条悟だった。

 

「先生」

 

 伏黒の声に、わずかに安堵が混じる。

 

「遅いですよ」

 

「いやあ、ちょっと寄り道してて」

 

「それを遅刻って言うんですよ」

 

「細かいなあ、恵」

 

 言いながら、五条は音もなく飛び降りた。

 

 着地が軽すぎて、虎杖は一瞬、本当に人間かと疑った。さっき宿儺を見た直後だから余計にそう思うのかもしれないが、それにしたって異常な身のこなしだ。

 

「で、指はどうなった?」

 

「あの、俺食べちゃったんだけど」

 

「……マジ?」

 

「マジ」

 

 すると次の瞬間、五条は虎杖の目の前にいた。恐ろしく速かったが、それでいて妙な自然さを感じた。

 

「本当だ」

 

 軽い声音のまま、五条の空気がわずかに変わる。

 

「混ざってるね」

 

 その一言に、虎杖の背筋がひやりとした。

 

 五条は続ける。

 

「宿儺だけじゃない。何これ」

 

 目隠しで目元は隠れているのに、見られている感じがした。表面だけじゃなく、もっと奥の奥まで覗かれているような感覚に、虎杖は反射的に身を引く。

 

 すると内側で、宿儺が低く笑った。

 

『ほう』

 

『何だよ』

 

『随分と面倒そうな男だな』

 

 未来の虎杖はそれに重ねるように、ぼそりと言った。

 

『……勘づいたか』

 

『未来の俺のことに?』

 

『いや、そこまでは行ってない。だが、お前の中にある宿儺じゃない異物には気づいてる』

 

『異物?』

 

『呪胎九相図《きょうだい》を取り込んだせいだ。今の俺は、本来のお前とは少し性質が違う。その歪みを見てる』

 

 その間にも、五条は虎杖の肩をつついたり、顔の向きを変えたり、珍しい標本でも観察するみたいな調子でいる。

 

「へえー。本当にいるんだ。しかもちゃんと自我を保ってる」

 

「先生、気をつけてください」

 

 伏黒の声は硬い。

 

「こいつは今は制御できていても、また宿儺に――」

 

「乗っ取られるかも?」

 

「……はい」

 

 五条は少しだけ黙った。

 

 その沈黙だけで、場の空気が変わる。さっきまで軽かった男が、ほんの一瞬だけ別の顔を見せた気がした。

 

 だがそれも瞬きほどの間で、次にはもういつもの調子に戻っていた。

 

「うん、まあ、それはそう」

 

「なら」

 

「だから、今から確かめる」

 

「え?」

 

 虎杖が素っ頓狂な声を上げると、五条はにこやかに指を一本立てた。

 

「十秒。一旦宿儺と交代して十秒経ったら帰っておいで」

 

「軽く言うなよ!?」

 

「軽くないよ。かなり大事」

 

 伏黒が眉を寄せる。

 

「先生、ここでやるんですか」

 

「やるよ。今ここで抑えられないなら、後でもっと困る」

 

 言っていることは正しい。正しいが、だからといって怖くないわけではない。

 

 虎杖は唾を飲み込んだ。

 

「……もし戻れなかったら?」

 

「その時は僕が殺す」

 

 冗談みたいな口調で、冗談じゃないことを言う。

 

 虎杖は思わず絶句した。

 

 内側では宿儺が愉快そうに笑い、未来の自分が小さく息を吐いた。

 

『来たな。代われ』

 

『来たな、じゃねえよ』

 

『でも避けられねえ』

 

『知ってんのかよ』

 

『ああ。ここは俺も通った』

 

『お前、何でも知ってる感じ出すのやめろ』

 

『全部じゃねえよ。むしろ、色々わからないことがあるから来たんだろ、俺は』

 

 宿儺が割り込む。

 

『十秒か。舐められたものだな』

 

『むしろ十分長いだろ!』

 

『早く代われ。そこの男を八つ裂きにしてやる』

 

『やだよ』

 

『怖いのか?』

 

「怖いに決まってんだろ!」

 

 思わず声に出た。

 

 伏黒が即座に構える。

 

「来るぞ!」

 

「来ない来ない! 今のは違う!」

 

「何が違うんだ」

 

「内輪揉め!」

 

「何を言ってるんだお前は」

 

「俺もそう思う!」

 

 五条は腹を抱えそうな勢いで笑っていた。

 

「内輪揉めって何。面白すぎるでしょ君」

 

「笑い事じゃないんですよ!」

 

「うん、でも悪くなさそう」

 

「何をもって!?」

 

「勘」

 

「雑!」

 

 ひとしきり笑ったあと、五条は一歩下がった。

 

「じゃ、いくよ」

 

 さっきまでの軽さを残したまま、けれど油断のない声だった。

 

「十秒。僕が数える。恵は離れて見てて」

 

「……はい」

 

 伏黒が距離を取る。

 

 虎杖は深く息を吸った。

 

 腹の底がざわつく。呪いの王の気配。未来の自分の静かな視線。三つの意識が一つの肉体の中でせめぎ合っている。

 

『おい、昔の俺』

 

 未来の自分が呼ぶ。

 

『何だよ』

 

『五条悟なら大丈夫だ。十秒経ったら元に戻ることだけ考えろ』

 

『本当か?』

 

『あぁ。あの人、最強だから』

 

 その一言だけが、少しだけ背中を押した。

 

 虎杖は目を閉じる。

 

「……いくぞ」

 

 意識を沈める。

 

 肉体の主導権を手放す感覚は、想像以上に気味が悪かった。足元が抜ける。胃がひっくり返る。熱い泥の中に、自分から沈んでいくような感覚。

 

 次の瞬間、顔に文様が浮かび上がった。

 

 宿儺が笑う。

 

「いい眺めだな」

 

「おはよう、宿儺」

 

 五条の声は明るいままだ。

 

「たった十秒とは、ずいぶん気前が悪い」

 

「それ以上は校舎が壊れそうだからね」

 

「ほう?」

 

 宿儺の口元が吊り上がる。

 

 その瞬間、空気が裂けた。

 

 宿儺の踏み込みは速い。さっきまでの虎杖の動きとは比較にもならない。人間の動きではなかった。だが、その一撃は五条に届かない。

 

 届く寸前で、止まる。

 

 何かがある。見えない壁ではない。距離そのものが引き延ばされたような、不自然な隔たり。

 

「妙な術式だ」

 

「褒めてくれてありがとう」

 

 五条の拳が宿儺の腹にめり込んだ。

 

 衝撃で空気が鳴る。宿儺の身体が吹き飛び、地面を削りながら体勢を立て直す。伏黒が息を呑む。

 

 虎杖は内側からその感覚を見ていた。

 

『うわ』

 

『だから言ったろ』

 

『何あれ。人間?』

 

『かなり怪しい』

 

 宿儺は着地と同時に嗤っていた。

 

「なるほど。退屈はしなさそうだ」

 

「君も十分面白いよ」

 

 五条はさらりと言い返し、今度は自分から距離を詰めた。速いというより、気づいた時にはもうそこにいる。宿儺が爪を振るう。届かない。五条の反撃が叩き込まれる。

 

 数秒のはずなのに、密度が異様だった。

 

「一」

 

 五条が数える。

 

 交戦しながら、きっちり秒を刻んでいるのだ。

 

「二」

 

 宿儺が地面を蹴る。

 

「三」

 

 五条が笑う。

 

「四」

 

 宿儺の斬撃じみた一閃が、やはり届かない。

 

「五」

 

 見えない距離を前に、宿儺の目がわずかに細まる。

 

「六」

 

 五条の蹴りが宿儺の体勢を崩す。

 

「七」

 

 伏黒は一歩も動けず、そのやり取りを見ていた。

 

「八」

 

 宿儺が低く舌打ちする。

 

「チッ、あと少しか」

 

「九」

 

 未来の虎杖が言った。

 

『十秒きっちり終わってから戻れよ』

 

 宿儺は忌々しいという顔をする。宿儺の視界越しに、五条の動きを追う。速い。だが宿儺も、十秒しかないとわかっていながら、その短い時間で相手を測ろうとしている。

 

「十」

 

 五条が言い切る。

 

 その瞬間だった。

 

 虎杖は宿儺の視界を押しのけ、自分の身体を取り戻した。肉の内側が一瞬だけ軋むような違和感。息が詰まるような感覚。顔の文様が消え、視界がぐらりと揺れる。

 

「っ……」

 

 荒くはないが、少しだけ呼吸が乱れた。

 

 膝をつきかけたが、虎杖はどうにか踏みとどまる。片手を太腿につき、軽く息を整える程度で済んだ。

 

 五条が満足そうに笑う。

 

「うん。ちゃんと戻ったね」

 

 伏黒が目を見開いている。

 

「本当に……戻した」

 

「でしょ?」

 

 五条は楽しそうだった。

 

「いいねえ。ちゃんと器だ」

 

「言い方……!」

 

 虎杖は肩で少し息をしながら抗議したが、さっき想像していたほど消耗しているわけではなかった。身体の奥がざわつくような不快感は残っているものの、意識ははっきりしている。

 

 五条はそんな虎杖の前にしゃがみこみ、顎に手を当てて観察するように見つめた。

 

「やっぱり宿儺だけじゃないな」

 

 その一言に、虎杖の心臓が跳ねた。

 

「え」

 

「でも、何かまではまだはっきりしない」

 

 五条はあくまで軽い調子で言う。

 

「宿儺の器としては妙に混ざり方が複雑なんだよね。何か別系統の呪い……というか、変質した痕跡がある」

 

 虎杖は何も言えなかった。

 

 未来からやってきた虎杖そのものに気づかれたわけではない。けれど、ただの宿儺の器ではないことは、もう見抜かれつつある。

 

『さすがだな』

 

 未来の自分が言う。

 

『少しは危機感とかねえの?バレたくないんだろ?』

 

『安心しろ。まだ俺だとは思ってねえ』

 

『安心材料が少なすぎるだろ』

 

 五条は立ち上がった。

 

「とりあえず回収だね」

 

 伏黒が訊く。

 

「処分ですか」

 

「上はそうしたいだろうね」

 

 危険物件をどう扱うか考えるみたいな気軽さで、五条は肩をすくめる。

 

「でも、今のを見たらすぐ殺すのはもったいない」

 

「もったいないって」

 

「だって制御できるんだよ? しかも、まだ何か隠してる。面白いじゃん」

 

「面白いで決めるなよ……」

 

 虎杖が言うと、五条はにこりと笑った。

 

「安心して。面白いだけじゃなくて、利用価値もある」

 

「そっちのほうが怖いんだけど」

 

「そう?」

 

 そうだよ、と虎杖は思ったが、もう突っ込む気力も薄れていた。

 

 五条はひょいと虎杖の肩に腕を回す。

 

「虎杖悠仁くん」

 

「うす」

 

「今からちょっと先生とお話ししよう」

 

「その言い方だと補導っぽいんだけど」

 

「だいたい合ってる」

 

「合ってるんだ」

 

『気づかれるなよ』

 

 未来の虎杖が言う。

 

『もう気づかれてない?』

 

『宿儺以外の混ざりものにだ。まだ“未来の俺”とまでは届いてない。でも、放っとけばそのうち辿り着く』

 

『笑えねえ……』

 

 宿儺がくつくつと嗤う。

 

『未来の小僧、貴様は楽しめそうだな。そこの小僧と違って』

 

『ほんと戦う時だけは楽しそうだな』

 

『当然だ』

 

虎杖は思わずため息をついた。

 

 最悪の呪物を取り込んだだけでも十分面倒なのに、未来の自分までついてきている。しかもその未来の自分は、呪胎九相図の影響まで抱え込んでいて、そのせいで五条に余計な違和感まで与えているらしい。

 

 なのに外から見れば、たぶん一番まともそうなのは自分だ。

 

 理不尽すぎる。

 

「どうしたの、もう疲れた?」

 

 五条が覗き込んでくる。

 

「疲れたよ!」

 

「元気じゃん」

 

「元気じゃない!」

 

「よし、じゃあ大丈夫だね」

 

「先生の判断基準どうなってんの!?」

 

 伏黒が小さく息を吐いた。

 

 呆れているのか、少しだけ力が抜けたのか、その両方のような顔だった。少なくとも、さっきまでみたいに今すぐ虎杖を祓おうという空気ではない。

 

 それがわかっただけで、虎杖は少しだけ救われた気がした。

 

 もっとも、その先に待っているのが「上への報告」と「普通なら死ぬ」という話である以上、救われたと呼んでいいのかは怪しかったが。

 

 五条はそのまま校舎の出口へ向かって歩き出した。歩幅が大きい。肩を組まれているせいで、虎杖も半ば引きずられるようにしてついていく。

 

「え、ちょ、どこ行くの」

 

「とりあえず移動。ここだと話しづらいし」

 

「話しづらいっていうか、さっきまで宿儺と殴り合ってたもんな」

 

「でしょ? 校舎もかわいそうだし」

 

「校舎をかわいそうって言う人初めて見た」

 

「でも、すでにちょっとかわいそうじゃない?」

 

「それはそう」

 

 ちら、と虎杖は後ろを振り返った。

 

 夜の校舎は静まり返っていた。さっきまでそこにあった呪いの気配も、戦いの余熱も、今は薄れている。だけど、たった数十分前まで自分がいた日常とは、もう決定的に切り離されてしまった感じがした。

 

 その視線の先を追うように、伏黒も校舎を見た。

 

「壊れた所の修理、どう説明するんですか」

 

「適当に」

 

「適当で済ませる気ですか」

 

「大丈夫大丈夫。だいたい何とかなる」

 

「それ、先生が言うと不安しかないんですけど」

 

「失礼だなあ」

 

 失礼ではないと思う。

 

 虎杖は口にこそ出さなかったが、伏黒もたぶん同じことを思っている顔をしていた。

 

 夜風が吹く。少し汗ばんだ首筋にそれが触れて、ようやく現実感が戻ってきた。

 

 生きている。

 

 今のところは。

 

『今のところ、な』

 

 宿儺が意地悪く囁く。

 

『縁起でもねえこと言うな』

 

『事実だろう』

 

『うるせえ』

 

『そう尖るな。まだ十秒しか遊べておらん』

 

『遊びって言うな』

 

 虎杖がまた顔をしかめたのを、五条は見逃さなかったらしい。

 

「また内輪揉め?」

 

「その言い方定着させる気?」

 

「便利だからね」

 

「便利だけど納得いかねえ……」

 

 五条は楽しそうに笑った。

 

 その笑い方が、宿儺のそれとは全然違うのに、別方向で厄介そうだと虎杖は思う。宿儺は露悪的で、五条は善意っぽい顔で踏み込んでくる。どっちも勘弁してほしい。

 

 校門を出たところで、五条はようやく足を止めた。

 

 そして虎杖の肩から腕を外し、くるりと向き直る。

 

「で、悠仁くん」

 

「うす」

 

「君、自分が今どういう状況かわかってる?」

 

 その問いに、虎杖は少しだけ黙った。

 

 どういう状況か。

 

 宿儺の指を飲み込んだ。宿儺の器になった。未来の自分がいる。しかもただの未来の自分じゃなく、呪胎九相図だの何だの、よくわからないものまで抱え込んでいるらしい。上に報告される。普通なら死ぬ。

 

 要約すると、最悪だ。

 

「……だいたい最悪」

 

 結局そう答えると、五条はぱちんと指を鳴らした。

 

「正解」

 

「うれしくねえ正解だな」

 

「でも、自覚あるのは大事」

 

 五条の声色は軽いままだったが、その視線だけは少しだけ真面目だった。

 

「君は宿儺の器だ。普通ならその時点で即処分候補。でも、さっき見た限りだと、ちゃんと自分で戻ってこられる。そこは大きい」

 

「……そこだけ?」

 

「そこだけじゃないよ」

 

 五条はさらっと続ける。

 

「宿儺以外にも何か混ざってる。たぶん普通の上層部なら、それを見た時点で余計に消したがる」

 

「うわあ」

 

「うわあ、だね」

 

 他人事みたいに頷かないでほしい。

 

 虎杖がげんなりしている横で、伏黒が低く言った。

 

「先生、こいつをどうするつもりですか」

 

「とりあえず僕が預かる」

 

「それで上は納得しますか」

 

「させるよ」

 

 即答だった。

 

 その一言だけは、妙に重みがある。

 

 さっきまでの飄々とした男と同じ口から出た言葉とは思えないくらい、揺るがなかった。

 

 伏黒もそれ以上は言わなかった。たぶん、この人が言うなら本当にやるのだと知っているのだろう。

 

 虎杖は少しだけ目を瞬いた。

 

『そういうとこあるんだよな、この人』

 

 未来の自分がぼそりと言う。

 

『知り合いみたいに言うな』

 

『知り合いっつーか、俺の恩師だからな』

 

『長い付き合いになんの?』

 

『いや、8カ月くらいかな』

 

『思ったより短いのな』

 

 気になりはしたが、今はそれどころではない。

 

 五条が再び歩き始める。

 

「ま、とりあえず今日のところは回収。詳しい話は場所変えてから。恵も来る?」

 

「行きます」

 

「まじめだねえ」

 

「報告役が必要でしょう」

 

「その報告役が恵なの、ちょっとかわいそう」

 

「誰のせいですか」

 

「僕かな」

 

「自覚あるなら直してください」

 

「えー、やだ」

 

 伏黒が本気で嫌そうな顔をした。

 

 そのやり取りが、逆に妙に人間らしくて、虎杖は少しだけ力が抜けた。

 

 さっきまで自分の処分の話をしていた相手たちと、こうして普通の会話みたいなものが成立しているのが不思議だった。

 

 不思議だったが、救いでもあった。

 

 もし本当に、最初から最後まで全員が自分を危険物としてしか見ていなかったら、たぶんもう少し辛かった。

 

「なあ」

 

 気づけば、虎杖は口を開いていた。

 

「俺、まだ人間扱いされてる?」

 

 夜の中で、その問いだけが妙にまっすぐ落ちた。

 

 伏黒が一瞬だけ目を上げる。五条は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。

 

「されてるよ」

 

「即答だな」

 

「そりゃそうでしょ。君、ちゃんと自分で戻ってきたし」

 

「でも、さっき普通なら死ぬって」

 

「それとこれとは別」

 

 五条は肩をすくめる。

 

「危険物ではある。でも、それだけじゃない。少なくとも僕はそう見る」

 

 虎杖は何も言えなかった。

 

 軽い言い方なのに、妙に救われる。

 

 伏黒は少しだけ間を置いてから、ぶっきらぼうに言った。

 

「……今は、な」

 

「フォローになってるようでなってなくない?」

 

「十分だろ」

 

「十分なのかこれ」

 

「十分だよ」

 

 たぶん、それが伏黒なりの答えなのだろう。

 

 虎杖は少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

『甘いな』

 

 宿儺が鼻で笑う。

 

『うるせえよ』

 

『その甘さが貴様らの性だ。弱さと言い換えてもいい』

 

『お前に分析されたくないんだけど』

 

『事実を言ったまでだ』

 

 五条が不意にこちらを覗き込む。

 

「で、その内輪揉め、どんな感じなの?」

 

「踏み込み方が雑!」

 

「気になるじゃん」

 

「気になるのはわかるけど!」

 

「大丈夫、今すぐ全部吐けとは言わないよ」

 

 言いながらも、五条の声にはしっかり興味が滲んでいた。しかも、ただの好奇心ではない。観察と判断と、たぶん保護まで一緒くたになった厄介な興味だ。

 

「でも、そのうち聞く」

 

「断れないやつ?」

 

「たぶん」

 

「たぶんって何だよ」

 

「僕にもまだ、どこまで聞いていいか測りかねてる部分があるから」

 

 その言葉に、虎杖は少しだけ眉を上げた。

 

 意外だった。

 

 もっと強引に、今ここで全部暴こうとしてくるかと思っていた。

 

「……意外」

 

「何が?」

 

「もっと無理やり来る人かと」

 

「それは相手によるよ」

 

 五条は笑う。

 

「君の場合、今はまだ急がないほうが面白そうだから」

 

「結局そこかよ!」

 

「そこだね」

 

 だめだこの人。

 

 心の底からそう思ったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 校門の外に停まっていた車の前で、五条が足を止める。

 

「さて、乗って」

 

「え、これ先生の車?」

 

「違うよ。手配した」

 

「運転しないんだ」

 

「僕がすると恵が嫌がるから」

 

「先生、自覚あるなら本当に直してください」

 

「また言ってる」

 

 虎杖は車のドアに手をかけながら、ふと夜空を見上げた。

 

 ほんの数時間前まで、自分はただの高校生だった。

 

 祖父が死んで、呪いに巻き込まれて、指を飲み込んで、宿儺の器になって、その上未来の自分まで腹の底にいる。

 

 何一つ理解しきれていないのに、世界だけが先へ進んでいく。

 

 でも、立ち止まっている暇はたぶんなかった。

 

『そうだな』

 

 未来の自分が静かに言う。

 

『……お前は静かだな』

 

『始まったばっかだからだよ』

 

『何が』

 

『全部だ』

 

 その答えは、やっぱり少しだけずるい。

 

 虎杖は小さく息を吐いて、車に乗り込んだ。

 

 伏黒が続き、最後に五条が軽い足取りで乗り込む。

 

 ドアが閉まる。

 

 夜の学校が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。

 

 これまでの日常と、これから先の世界の境目みたいに見えた。

 

 虎杖悠仁は、その境目を越えたのだ。

 

 宿儺を抱え、

 六十八年後の自分を抱え、

 まだ名前も知らない呪術の世界へ向かって。

 

 こうして、虎杖悠仁の最悪で騒がしい日々が始まった

 

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