1つの器と3つの魂 作:日三汐理
東京都立呪術高等専門学校は、虎杖悠仁が思い描いていた「学校」という言葉から、わずかに、けれど決定的にずれた場所だった。
車を降りた瞬間、最初に肌で感じたのは静けさだった。街の音が遠い。ただ夜だから静かな、というだけではない。人の多い場所から切り離された土地にだけある、音そのものが薄くなるような沈黙だった。冷えた空気は肺の奥までまっすぐ入り込んでくる。見上げれば木々の影が黒々と重なり、その奥に建つ校舎の輪郭だけが、夜の底にぼんやりと浮かび上がっていた。
学校というより、山の中にぽつんと置かれた別の世界への入口みたいだった。
五条悟はそんな空気をまるで気にした様子もなく、いつもの軽い足取りで先を歩いていく。伏黒恵もまた、迷いなくそのあとに続いた。二人の背中を見ながら、虎杖はほんの一瞬だけ足を止めかけた。
ここから先へ入れば、もう完全に引き返せない気がした。
もちろん、実際にはとっくに引き返せなくなっている。宿儺の指を飲み込んだ時点で、自分はもう日常の側にはいない。それでも、目の前にこうして「境界線」みたいな場所が現れると、嫌でも意識してしまう。
『止まるなよ』
頭の奥で、未来の自分が言った。
『……わかってる』
『そういう顔してる時のお前、だいたい余計なこと考えてる』
『お前は俺の何なんだよ』
『俺はお前だよ』
『最悪の答えだな』
宿儺が喉の奥で低く笑った。
『小僧、お前がいくら騒ごうと、足は前に出る。結局これは決定事項だ。もはや選択肢はない』
『いちいち偉そうなんだよ、お前は』
『呪いの王だからな』
『はいはい』
そんな内側のやり取りを抱えたまま、虎杖は校舎の中へ足を踏み入れた。
廊下は意外なほど普通だった。木の床、壁に掛かった掲示物、遠くに見える消火器。呪術高専なんて名前の場所だから、もっと禍々しいものを想像していたのだが、外見だけなら拍子抜けするくらい学校らしい。もっとも、その「普通さ」がかえって現実感を失わせていた。つい数十分前まで宿儺と五条悟が殴り合っていた世界と、この静かな校舎がどうして同じ地続きなのか、頭の中でうまく繋がらない。
足音だけが廊下に淡く響く。床板の鳴る音さえ、妙に遠く感じられた。
「思ったより普通でしょ。もう少し、おどろおどろしい何かを想像してた?」
背中越しに五条が振り返りもせずに言った。
「ちょっとだけな。正直、安心はした。でも安心したぶん、逆に怖い感じもする」
「いい感性してるねえ。そこをちゃんと怖いと思えるのは、わりと大事なことだよ」
「褒められてる気があんまりしないんだけど」
「ちゃんと褒めてるよ。君はそういう勘、鈍くなさそうだし」
五条はくすっと笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
案内されたのは、地上の教室ではなく、階段を下りた先の地下だった。足音が少しずつ湿った響きに変わっていく。地上の夜気とは別種のひんやりした空気が、じわりと肌にまとわりついた。地下に着くころには、虎杖は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
薄暗い通路の先に、小さな部屋があった。
扉を開けると、中は驚くほど簡素だった。机が一つ、椅子がいくつか、壁際に棚。四方の壁には札が何枚も貼られているが、前に見た、あの札だらけの閉塞感ほどではない。地下室ではあるものの、むき出しの取調室というより、使われなくなった予備室に護符だけを増やしたような場所だった。
「ここ、何なんだよ。雰囲気だけでじわじわ怖いんだけど」
虎杖が訊くと、五条は部屋の中央を見回しながら、ごく軽い調子で答えた。
「一時置き場、かな」
「物みたいに言うなよ。せめてもうちょっと人間寄りの表現にしてくれ」
「じゃあ待機場所。どう? ほんの少しだけ人権が回復した感じしない?」
「まだマシだけど、そんなに変わってないんだよな……」
部屋の中へ入ると、空気が少しだけ重くなった気がした。気のせいではないのかもしれない。札のせいなのか、ここそのものが何かを抑えるための構造になっているのか、腹の底で宿儺がほんのわずかに不機嫌そうに気配を揺らした。
『鬱陶しい場所だ』
『お前にもそういうのあるんだな。何かちょっと意外だわ』
『封を嫌わぬ呪いなどおらん。快いはずがないだろう』
『なるほどねえ。そういうもんなのか』
『感心するところではない』
五条は机の端に軽く腰を乗せ、虎杖に向かって顎をしゃくった。
「とりあえず座って。立ってても話しづらいし、君も疲れてるでしょ」
言われるままに、虎杖は椅子に腰を下ろした。座ってしまうと、ここが逃げ場の少ない場所なのだと改めて実感する。扉は一つ。窓はない。五条と伏黒がいる。自分の中には宿儺と未来の自分がいる。
人数だけならにぎやかだが、気の休まる要素はほとんどなかった。
五条はしばらく、虎杖を観察するように見ていた。軽薄そうな笑みは浮かべたままだが、その視線の奥ではさっきからずっと計算が回っているのがわかる。相手を安心させる顔と、相手を見極める目が、同じ場所に平然と並んでいる。そういうところが、この人の一番厄介なところなのだろうと虎杖は思った。
「で、改めて言うけど、君はいまかなり危ない立場にいる。さっきも少し話したけど、ここはちゃんと整理しておいたほうがいい」
五条がそう切り出した瞬間、部屋の空気が少し締まった。冗談めかした調子は薄い。虎杖も自然と膝の上で手を組む。
「……死刑、なんだろ。結局そこは変わらないんだよな」
「うん。そこはごまかさない。宿儺の器なんてもの、上は基本的に残したがらないし、今回は宿儺だけじゃなくて妙な混ざりものまである」
「その言い方、ほんと嫌なんだけど。妙な混ざりものって、俺がよくわからん寄せ集めみたいになってるじゃん」
「でも事実でもあるからね。まあ、普通の術師から見れば、危険度は宿儺の時点でだいたい天井なんだけど」
危険度、という言葉がやけに冷たく響いた。
虎杖は視線を少し落とす。自分が危険だという自覚はある。宿儺の指を飲み込んだ時点で、もうそれは避けようがない事実だ。だが、それでもこうして他人の口から断定されると、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「……じゃあ、何で生かす余地があるんだよ」
質問というより、確認だった。
さっきの十秒で戻れたからか。宿儺を抑えられるからか。あるいは、もっと別の理由があるのか。
五条は少しだけ考えるような間を置いてから、一本目の指を立てた。
「一番大きいのは、君が戻ってこられたこと。宿儺に身体を明け渡しても、自分の意思で主導権を取り返せる。これはかなり大きい。器という言葉を使う以上、まずそこが成立してないと話にならないからね」
次に二本目の指を立てる。
「それと、宿儺の毒に耐えられていること。本来、あの指は猛毒だ。普通の人間なら、取り込んだ時点で死ぬか、死ぬより悪い結果になる。でも君は平気でいられてる。つまり、耐性がある」
「確かに、今さらだけどそこはだいぶ変だよな……」
「うん、かなり変。で、そこで僕は考えるわけ。果たして君が何本まで耐えられるのか、ってね」
虎杖は眉をひそめた。
「何本って……あれ、一本で終わりじゃないのか?」
「あれは指だからね。一応、一本じゃない。合計二十本ある」
「二十? ああ、手足で?」
「いや、宿儺は腕が四本あるんだよ」
『え? 二本しかねぇじゃん』
『いや、こいつが元の姿になったらちゃんと四本あるし、なんなら腹に口があったぞ』
『ほう』
宿儺が愉快そうに笑った。
『俺はそこまで見せたのか』
『まあな』
『腕が四本はともかく、腹に口ってすげえ構造してんのな』
『褒めてんのか、それは』
『貴様の身体より扱いやすいのは確かだな』
『あ?』
『事実を述べたまでだ』
五条はそんな虎杖の表情の細かな動きさえ見ながら、淡々と話を続けた。
「一つ一つが分割された魂だ。残り十九本がどこかに散ってる以上、宿儺は一本分だけでもこの世界に繋がっていることになる。完全に終わらせるなら、全部を回収しなきゃ意味がない」
虎杖の喉がごくりと鳴る。
自分が飲み込んだのは、そのうちの一本にすぎない。つまり、本当の意味で話は始まったばかりなのだ。
五条は机に腰かけたまま、声の温度を少しだけ落とした。
「上に提案する余地があるとしたら、そこなんだよね」
「提案って、どういう意味だよ」
「君に残りの指を食べてもらう」
地下室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。
虎杖は言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。理解した瞬間、反射的に顔をしかめる。
「……は?」
「残りの宿儺の指を回収して、君が器として取り込む。全部揃ったところで、君ごと宿儺を処分する」
すごく静かな口調だった。静かなぶんだけ、余計に現実味があった。
伏黒が壁に背を預けたまま、わずかに視線を伏せる。初めて聞く話ではないのだろう。あるいは、だいたい予想していたのかもしれない。
虎杖はしばらく何も言えなかった。
残り十九本を食べる。
宿儺を自分の中に揃える。
そのあとで死ぬ。
理屈はわかる。世界のためにはたぶん、それが一番合理的なのだろう。けれど、合理的であることと、簡単に飲み込めることは別だ。
「つまり、執行猶予つきの死刑ってことだよ」
五条はごまかさなかった。言いにくいことを曖昧にせず、そのまま置く。それがこの人なりの誠実さなのかもしれないと、虎杖は少しだけ思った。
『一応言っておくけど、この人は俺を殺す気はなかったよ。最後の一本を隠し持っていた』
未来の自分がぽつりと言った。
『……そうなのか。じゃあ、悪い人じゃねえんだな』
『ああ』
『でも、それじゃあ宿儺はどうなったんだ?』
問いかけてから、未来の自分は少し黙った。
『それは俺も気になっていたぞ、未来の小僧』
『なるようになった。今はそうとしか言えねえ』
その声色は、いつもよりほんの少しだけ重かった。
一方で宿儺は、退屈そうに鼻を鳴らす。
『呪物を破壊することはできん。貴様自身が死なない限りはな。もっとも、その様子では自死したわけでもなさそうだが』
『考えたこともあったけどな』
『マジで? 信じらんねえな』
『今のお前にはわかんないかもしれないけどな』
そのやり取りに引っ張られるように、虎杖は少しだけ息を吐いた。
未来の自分は、軽口ばかり叩いているようでいて、ところどころで妙な重さを見せる。その重さが何に由来しているのかはまだわからない。けれど、わからないままでも、それがただごとではないことだけは伝わってきた。
五条はそんな虎杖の表情の変化を見て、ほんの少しだけ声を和らげた。
「今すぐ答えを出せとは言わない。というか、今ここで全部飲み込める話じゃないと思う。でも、上には報告する。そこはもう決まってる」
「その時点で、俺の処分が決まるかもしれないんだろ」
「もちろん。だから報告の仕方が大事だと思ってる」
五条はそこではじめて、はっきりと「僕が通す」と同じ温度の声を出した。
「君が自分で宿儺を抑え込めること。少なくとも現時点で自我があること。器として利用価値があること。そこを押す。しかも今回は、宿儺以外の混ざりものも含めて“まだ調べる価値がある”って形に持っていける」
「……押して通るのか、それ」
「絶対に通す。これは約束しよう」
その言い方は、不思議なくらい迷いがなかった。
軽い人だと思っていた。今も軽い。けれど、軽いからといって薄いわけではないらしい。必要なところでは、自分が引く線をちゃんと持っている。そのことが、今は少しだけ救いだった。
伏黒が静かに口を開いた。
「先生。もし上が即時処分を押したら、本当にどうするつもりですか」
「その時は僕が暴れる」
「軽く言わないでください。いまの一言、先生の中では比喩じゃないですよね」
「うん、かなり比喩じゃないね」
「そこを肯定するのやめてもらえますか」
五条は笑ったが、否定はしなかった。
つまり本当に一騒動起こすつもりなのだろう。
虎杖は自分の膝の上に目を落とす。数時間前まで、こんな話になるなんて想像もしていなかった。祖父を見送って、そのまま普通に日付が変わると思っていた。
それが今では、自分の処分の形式について話している。
それでも、不思議と完全な絶望ではなかった。
たぶん、目の前の男が「まだ終わりじゃない」という顔で話しているからだ。伏黒も、呆れたような顔はしていても、もう自分を今すぐ祓う対象として見てはいない。未来の自分は何かを知っていて、宿儺は相変わらず最悪だが、少なくともこの場はすぐ壊れない。
それだけで、思っていたよりは呼吸ができた。
『この人がいる限り、すぐ最悪にはならねえよ。そこは少し安心していい』
未来の自分が言った。
『いや、それは何となくわかるんだけどさ。だからって死刑にされるのは普通に気分悪いだろ』
『でも実際には死んでないだろ』
その一言に、虎杖はほんの少しだけ救われた。知っていてもなお重いものは重いのだと、未来の自分もわかっているらしい。
五条は虎杖の顔を見て、いつもの軽さを少しだけ戻した。
「まあ、いま話したことは確定じゃない。だから、とりあえず報告に行ってくる。早いほうがいいからね」
「俺はどうしたらいいんだよ」
「ここで待機。さすがに今の君を自由に校内散歩させるのは、僕としてもいろいろ説明が面倒だし」
「一人で?」
「一人じゃないでしょ。ずいぶん賑やかそうだし」
「それはそうだけど、そういう意味じゃなくて!」
「大丈夫。もし宿儺が出たらすぐ帰ってくるよ。そこは本当に心配しなくていい」
『ほう』
宿儺が愉快そうに笑う。
『随分と自信があるようだな。まるで俺が出てきても一人で抑え込めるような言い方だぞ』
『そりゃ、今のお前なんてどうにでもなるだろ』
未来の自分の声には、確信が混じっていた。
伏黒が壁から背を離す。
「俺も行きます。現場を見ていたのは俺だけですし、報告の場にいたほうが話が早いはずです」
「そうだね。恵がいたほうが助かる」
つまり、この地下室に残るのは虎杖だけということだ。
それに気づいた瞬間、思った以上に心細さが込み上げてきた。別に五条や伏黒とそこまで打ち解けたわけでもないのに、不思議なものだと思う。数時間前に会ったばかりの相手でも、誰もいなくなるとなると、急に「こちら側」の人間みたいに感じられる。
「……どれくらいで戻る?」
虎杖は訊いた。
五条は少しだけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「そんなにかからないよ。君を長時間放置するの、さすがに僕もちょっと嫌だし」
「もうちょっと具体的に言ってくれないと安心できないんだけど」
「じゃあ、なるべく急ぐ。これはわりと本気で」
「それならまあ……」
「素直だねえ。そういうとこ、ほんと年相応でかわいい」
「最後の一言いらなくない?」
五条はくるりと踵を返して扉へ向かった。伏黒もその後に続きかけて、ふと立ち止まる。何か言いたげにこちらを見たが、結局、大した飾りもなく、ぶっきらぼうな一言だけを置いた。
「余計なことするなよ。先生が戻るまで、おとなしくしてろ」
「する気ねえよ。むしろ俺だって、これ以上面倒増やしたくない」
「ならいい。今はそれで十分だ」
それだけ言って、伏黒も扉のほうへ向かった。
去り際に五条が振り返る。
「あ、そうそう」
「何だよ、まだ何かあるのか」
「僕が戻るまで、宿儺に校舎壊させないでね。学長に説明するの、地味に面倒だから」
「軽く言うな! 期待の中身が最悪なんだよ!」
「期待してるよ、悠仁くん」
五条は楽しそうに笑い、そのまま扉を開けた。伏黒と二人、地下の通路へ消えていく。扉が閉まると、部屋は一気に静かになった。
しん、と耳が痛くなるような静寂だった。
机も、椅子も、壁の札も、さっきまでと何も変わっていないはずなのに、人の気配が消えただけで別の場所みたいに見える。
虎杖はしばらくそのまま座っていた。
自分の息を吐く音が、やけに大きく聞こえる。
『さて』
最初に口を開いたのは宿儺だった。
『ようやく静かになったな。さすがに耳障りだった』
『お前がいる時点で全然静かじゃないんだけど。というか、お前も十分耳障りだよ』
『ならば黙らせてみろ。できるならな』
『無茶言うなよ。こっちは今日だけでだいぶ容量オーバーなんだ』
未来の自分が、壁にもたれるような気配で言う。
『少し休んどけ。考え込んでも、いまは答えが出る段階じゃねえ』
『休むって言われてもな。もし俺が寝ちゃったら、宿儺が勝手に出てきたりしないのか? そのへん、まだ全然信用できないんだけど』
『それはない。万が一そうなったら俺が抑え込む。だからそこは気にしなくていい』
『そういや、お前は勝手に俺の体使えるんだったな』
『許可なく使う気はねえよ。必要がある時だけだ』
『その“必要”の基準がお前依存なの、不安しかないんだけど』
『おい、未来の小僧』
宿儺が割って入る。
『お前から話しかけてくるなんて珍しいな』
『一つ言っておくが、俺はいつまでも縛られてやるつもりはない。小僧の身体だろうが何だろうが、いずれ主導権は奪う』
『だろうな。でも、させねえぞ』
『ほう。言うではないか』
『お前が相手だと、嫌でも言うしかなくなるんだよ』
虎杖はそのやり取りを聞きながら、椅子の背にもたれた。首の後ろがじわりと重い。疲れ切っているわけではないが、張りつめていたものが少しずつ弛んでいくのがわかる。
天井を見上げる。
札が何枚も貼られている。
その向こう側にあるはずの地上が、やけに遠い。
それでも、完全な一人ではないのだと思うと、少しだけ可笑しかった。
宿儺がいる。未来の自分がいる。最悪で、騒がしくて、面倒で、たぶんこの先もっと面倒になる。
けれど、物語はもう止まらないところまで来てしまった。
地下室の静けさの中で、虎杖悠仁は小さく目を閉じる。
五条悟が戻ってくるまでのあいだ、ほんのわずかな猶予みたいな時間だけが、そこにあった。
『ケヒッ、招いてやろう』