1つの器と3つの魂 作:日三汐理
宿儺の生得領域は、何度見ても現実の延長には思えなかった。
足元には浅い水がどこまでも広がり、黒く鈍い光を返している。空はなく、天井もなく、ただ濃い闇だけが、世界の輪郭を曖昧に溶かしていた。視界のどこを切り取っても、生き物のいる場所には見えない。なのに、この空間だけは確かに“誰かの内側”だった。
その中心にいるのが、両面宿儺だ。
骨を積み上げた山のようなものの頂に、王は当然のような顔で座っていた。玉座と呼ぶには獣じみていて、祭壇と呼ぶには生々しい。白骨の山を見下ろしながら、宿儺はそこにいるだけで、この領域そのものを支配していた。
その宿儺を、真正面から見上げている影が一つ。
未来の虎杖だった。
68年後から来た、もう一人の虎杖悠仁。今の自分と同じ顔をしているのに、立ち方も、気配の沈め方も、まるで違う。何より、その視線には躊躇がなかった。
その時、宿儺が低く口を開いた。
「許可なく見上げるな。不愉快だ」
命令というより、宣告に近い声音だった。
それを聞いても、未来虎杖は微動だにしなかった。むしろ、ほんの少しだけ口元を歪める。
「そうかよ。じゃあ」
未来虎杖の右手がわずかに動いた。
振りかぶるでもなく、力を込めるでもなく、ただ指先で空気を払うような、最小限の動作だった。
次の瞬間。
骨の山の中央に、細い線が走った。
解。
遠距離へ放たれた見えない斬撃が、玉座を水平に断ち切る。宿儺が座っていた山は、きれいすぎる断面を晒したまま上下にずれ、遅れて轟音とともに上半分が崩れ落ちた。積み上げられていた骨の残骸が、派手に水面へ散っていく。
その崩落が始まった瞬間には、宿儺はもう立ち上がっていた。
崩れる玉座からすでに身を離し、水面の上に降り立っている。動きに無駄はなく、反応も速い。だが、それでも“斬られた”という事実は変わらない。
「これで同じ目線だな」
骨の山が音を立てて崩れきったあと、宿儺はその残骸を一瞥し、それから未来虎杖を見る。
「やはり使えるのか」
不愉快そうな言葉だった。
だが、その奥には明らかに別の色が混じっていた。
興味。納得。そして、感心。
未来虎杖は肩を竦める。
「見りゃわかるだろ」
「俺の術を、か」
「借りたでも盗んだでも、言い方は好きにしろ」
宿儺はそこで、少しだけ目を細めた。
怒ってはいない。むしろ逆だ。玉座を壊されたという侮辱よりも、その一撃の精度のほうに意識が向いている顔だった。
「面白い」
短くそう言ってから、宿儺は続ける。
「しかも、ただ真似ただけではないな」
未来虎杖は何も答えない。答える代わりに、一歩だけ前へ出た。水面に輪が広がる。
それだけで空気が変わった。
宿儺もまた、その変化を楽しむように口元を吊り上げる。
「来い」
先に動いたのは未来虎杖だった。
踏み込みに一切の迷いがない。静かで、深い。無駄が削ぎ落とされている。最短距離で届くためだけに磨かれた移動だった。
右手が振られる。今度も解。遠距離へ飛ぶ斬撃が、宿儺の首筋を狙って一直線に走る。
宿儺は半身をずらしてそれを避ける。だが未来虎杖の解は一つで終わらない。最初の一閃に重なるように、角度を変えた斬撃が二つ、三つと連なる。避けた先まで読んだ配置だった。
宿儺の目がわずかに動く。
「いい置き方だ」
「そうだろ」
未来虎杖は応じると同時に、さらに距離を詰めた。
宿儺の指先が持ち上がる。
「解」
王の斬撃が走る。
未来虎杖のいた場所の水面が、次の瞬間には深く裂けていた。避けたという結果だけが残り、その過程は見えない。未来虎杖はすでにその外にいる。
宿儺の次の一手より早く、未来虎杖の解が返る。
今度は宿儺の右肩が浅く裂けた。赤い線が走る。
宿儺は自分の肩を見下ろし、それから笑った。
「なるほど」
低い声だった。
「出力も、切り方も、そこの“器”の域ではないな」
未来虎杖はわずかに顎を上げた。
「そりゃ六十八年分あるからな。そこにいる俺とは年季が違う」
「時間だけでここまで届くものか。よほど俺の術式の扱いについて研鑽を積んだと見える」
「まあな。今ならお前にも負けねえぞ」
宿儺はそこで、明確に感心した顔をした。
不快そうな笑みはそのままだ。だが、その奥にある感情は明らかだった。目の前の存在を、ただの小僧としてはもう見ていない。
「良い」
宿儺がそう言うと、生得領域全体の圧が少しだけ変わった。
今までより、濃くなる。
指が二十本揃っていようがいまいが、この領域の中にいる宿儺は宿儺だ。王の輪郭が定まった瞬間、空間そのものがその力に応じた。
宿儺が真正面から未来虎杖を見据える。
「ならば、少し確かめてやる」
「ちょうどいい。俺もそのつもりだ」
次の瞬間には、二人とも水面の上から消えていた。
いや、消えたように見えるだけだ。
実際には、とんでもない速度の交錯が起きている。宿儺の解が縦横に走る。未来虎杖はそれを読み、ずらし、その上から自分の解を重ね返す。
斬って、ずらして、斬り返す。
単純に見えて、その実ひどく精密だった。
宿儺の解は重い。王の術だ。圧も純度も高い。空間ごと断ち切るような強引さがある。真っ向から受ければ、未来虎杖のほうが不利になる。
だが、未来虎杖は正面から受けない。
角度を一つずらす。
斬撃を半歩前で外す。
かわした先に、自分の解を置く。
王の術を、王より細かく使う。
その“上手さ”は、明らかに宿儺を上回っていた。
宿儺の斬撃は力強い。未来虎杖の斬撃はより深い。
その違いが、水面に走る傷の数として表れていく。
宿儺の術は空間を大きく裂く。未来虎杖の術は必要な一点だけを正確に断つ。
宿儺の頬に一筋。肩にもう一筋。胸元に浅い裂傷。太腿に細い線。
どれも致命傷ではない。だが確実に、未来虎杖のほうが多く当てていた。
宿儺はその状況を理解していた。
だからこそ、笑っていた。
「素晴らしいな」
未来虎杖の解を、今度は宿儺が真正面から斬り払う。見えない刃がぶつかり、水面が爆ぜる。
「小僧の未来風情が、技の練度では俺を上回るか」
未来虎杖はそれを聞いても驕らない。
「嬉しそうだな」
「当然だ」
宿儺は裂けた頬を親指で拭い、その血を見て笑う。
「つまらん模倣ではない。積み上げた術だ。ならば感心もする」
「褒めてんのか?」
「貴様相手にはこれ以上ない称賛だ」
「光栄だな」
言いながら、未来虎杖は宿儺の懐へ踏み込んだ。
今度は解ではない。
右手が、宿儺の肩口へ触れる。
捌。
零距離で接触した一点にだけ、最適化された斬撃が叩き込まれる。宿儺の肩が深く裂け、飛沫が散った。遠距離へ飛ばす解よりも、近距離で肉を断ち切るために研ぎ澄まされた術の使い分けだった。
宿儺の目が、そこで初めてわずかに見開かれる。
「捌まで使うのか」
「こっちはお前を相手にしてきたんだ。そこを雑にするわけねえだろ」
宿儺の肘が返る。
王の一撃が未来虎杖の脇腹を掠めた。今度は未来虎杖の側に浅い裂傷が走る。だが未来虎杖は引かない。半歩だけ内側へ入り、また触れる。
捌。
宿儺の脇腹に細い裂傷が増える。
近づけば、未来虎杖のほうが速い。
術の出し方も、刃を放つ場所も、相手の急所へ届く距離感も、すでに身体に馴染み切っている。六十八年という時間を、ただ長いだけの数字ではなく、手癖と精度へ変えてきたことが、その戦い方だけでわかる。
宿儺の返しが未来虎杖の左腕を裂いた。
血が走る。
だが未来虎杖は、傷を見もしない。手首をひねって逆に解を放ち、宿儺の腿を斬る。その直後、裂けた自分の腕へ左手を軽く当てた。
呪力が流れる。
傷口が、わずかに音を立てるように閉じていく。
反転術式。
虎杖には詳しい理屈まではわからなかったが、傷が“治る”という結果だけははっきり見えた。
宿儺がそれを見て、さらに笑みを深くした。
「そこまで扱えるとはな」
「使えなきゃ話にならねえんだよ」
「そうだろうな」
宿儺自身もまた、肩口へ指を滑らせる。裂けた肉が、じわりと繋がっていく。王の反転術式は未来虎杖と同様に速く、滑らかで、まるで最初からそこに傷などなかったかのようだった。
二人とも、致命に届かない傷ならその場で埋める。
だからこそ、攻防は止まらない。解で牽制し、解をずらし、間合いへ潜った瞬間に捌を叩き込む。
宿儺もまた、力押しだけではなく、未来虎杖の癖を見ながら斬撃の幅を変えてくる。
未来虎杖は一度、大きく宿儺の外へ回り込んだ。
水面に薄い弧を描きながら、三方向から解を放つ。
宿儺はそのうち二つを最小限の動きで外し、三つ目を自らの解で相殺した。だが、その瞬間には未来虎杖がもう背後にいる。
触れる。
捌。
宿儺の背中に、今度はやや深い裂傷が入った。
宿儺は振り向きざまに解を叩き込む。未来虎杖はそれを肩口で紙一重に外し、逆に宿儺の手首へ捌を放つ。
短い応酬のたびに、宿儺の傷が増える。
未来虎杖の傷もないわけではない。だが、その都度反転術式で最低限を塞いでいく。動きを落とさないための回復だった。
この勝負が最終的にどのようになるかわからない。だが、少なくともこの瞬間の技量と捌きにおいては、明確に未来虎杖が上にいる。宿儺がそれを理解してなお笑っているのが、かえって不気味だった。
宿儺が一歩退く。
その退き方すら王らしく不遜だったが、未来虎杖は追わなかった。
追えば、宿儺も本気で深く返してくる。
ここは力量確認の場であって、全力で潰し合う場ではない。
その共通理解が、二人のあいだにはあった。
「ここまでか」
宿儺が言う。
未来虎杖は肩の力をわずかに抜く。
「そんなとこだな」
「本気ではないな、貴様」
「そっちこそ」
宿儺が笑う。
「だが、十分だ」
「何が」
「貴様がどの程度まで俺に届くか、その確認だ」
未来虎杖もまた薄く笑った。
「奇遇だな。俺も同じこと考えてた」
水面の揺れが、そこで少しだけ静まった。
戦いは止まった。
止まっただけで、終わったわけではない。二人のあいだにはまだ緊張が残っている。だが、ここで一度切ることを互いに選んだのだと虎杖にはわかった。
宿儺がゆっくりと言う。
「六十八年だったか?」
その数字を、王は舌の上で転がすように口にした。
「貴様、その時間を無駄にはしなかったようだな」
未来虎杖は真正面からそれを受ける。
「ああ」
「良い」
宿儺の目が細くなる。
「ますます面白い」
未来虎杖は鼻で笑った。
「こっちは笑えねえけどな」
「それでこそだ」
そこで、領域の水面がわずかに揺れた。
現実側で何か動きがあったのだと、虎杖は直感する。地下室。札の貼られた壁。遠くから、五条と伏黒が戻ってくる気配が薄く触れた。
未来虎杖もそれを感じたらしい。
「外が動く」
「ああ」
「じゃあ戻るか」
「お前はな」
「え?」
未来虎杖は宿儺から視線を外さないまま言う。
「こっから先は、俺とこいつの話だ」
宿儺が口元を歪める。
「ようやく本題か」
虎杖の意識が、生得領域の底からゆっくり引き上げられていく。
最後に見えたのは、砕けた骨の山の前で向かい合う二人の姿だった。
最初の一太刀で玉座を斬り崩し、
宿儺を立ち上がらせ、
技量では王を上回ることを示した未来の自分。
そのすべてを不愉快がりながら、なお明確に感心している宿儺。
腹の底の戦いは、そこで一度幕を下ろした。
だが、本当の駆け引きはこれから始まるのだと、虎杖にははっきりわかった。