氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
01-序.「怖い話だからね」
晩秋の風が、トレセン学園の窓を細かく揺らしていた。
夕暮れの光が差し込む生徒会室では、机に並んだ茶器が長い影を落としている。窓枠、書類の束、ティーカップ。細く伸びたそれらの影が、もう少しでテーブルの端へ届きそうだった。日が短くなった。あと少しもすれば、夜になる。
十一月も末に差しかかったこの時期、学園の中にはまだどこか落ち着かない熱が残っていた。先週末の大きなレースの余韻だった。数日が経った今も、廊下を歩けば誰かがその話をしている。次は自分が。いつか自分も。そんな声が、学園のあちこちから聞こえてくる。
生徒会室も例外ではなかった。
もっとも、今日ここに漂っている空気は、レースの余韻とは少し違った。
「……」
ことり、と音がした。
ナリタブライアンが、咥えていた枝を落とした。しかし拾わない。椅子に腰掛けたまま、切れ長の目を扉へ向けている。普段なら多少のことでは眉ひとつ動かさない彼女の耳が、珍しくぴたりと前を向いていた。
向かい側では、エアグルーヴが書類を持ったまま固まっている。一枚めくろうとしていた指まで止まっていた。
「……会長」
ようやく出た声も、いつもより少し遅い。
「これは、いったい……」
言葉が続かなかった。
生徒会室の入り口に、どう考えても普段ここで見かけるはずのない二人が立っていた。
一人は、扉の脇へ肩を預けている。長いダークブラウンの髪。前髪を走る白い流星。こちらを値踏みするような鋭い目はいつも通りだった。
シリウスシンボリ。
「なんだ、その面」
視線を向けられたブライアンへ、シリウスが鼻を鳴らす。
「幽霊でも見たみてぇな顔してるぞ」
「……似たようなものだ」
「ハッ。言うじゃねぇか」
もう一人は、そんなやり取りにも加わらず、すでに部屋の中へ入っていた。黒髪を結い上げたシニヨン。流星を思わせる髪が、窓から入る夕光を細く拾っている。メジロラモーヌは用意されていた椅子へ腰掛けると、静かにティーカップへ手を伸ばした。
「ご機嫌よう」
それだけ。まるで、この場所へ来ることなど珍しくもないと言わんばかりだった。
エアグルーヴは、気づけば立ち上がりかけていた。座り直してから、自分が何をしようとしたのかに気づいた。礼をしようとしたのだ。生徒会副会長としてではなく、ただの後輩として。
珍しくないはずがない。シリウスシンボリとメジロラモーヌ。その二人が同じ日に、しかも揃って生徒会室へやって来る。普段の二人を知っていればいるほど、その光景は異様だった。
にもかかわらず、生徒会長席に座るシンボリルドルフだけは、驚いていなかった。
「時間通りだな、二人とも」
「お前に言われたかねぇよ」
シリウスが室内へ入り、後ろ手に扉を閉める。
「去年、十分も遅刻したのはどこの皇帝サマだった?」
「九分だ」
「似たようなもんだろ」
「一分の差を軽視するのは感心しないな」
「そこじゃねぇ」
ラモーヌがカップを持ち上げた。
「相変わらずね」
「どっちがだ?」
「二人とも」
即答だった。シリウスが肩をすくめる。ルドルフは、ほんのわずかに笑った。
エアグルーヴはその三人を見比べた。知らない距離感だった。
ルドルフとシリウスの関係くらいは知っている。顔を合わせればシリウスが噛みつき、ルドルフが受け流し、ときには真正面から応じる。それ自体は今さら珍しくもない。だが、今日は違う。シリウスの言葉にいつもの棘がないわけではない。ラモーヌも普段通り、何を考えているのか容易には読ませない。それでも、三人の間にある空気だけが、普段とは違った。
古い。そんな言葉が浮かんだ。長い時間をかけて、それぞれ別の場所まで歩いてきた者たちが、年に一度だけ同じ場所へ戻ってくる。そんな空気だった。
ティーポットから、細く湯気が立っている。カップは三つ。ルドルフが使っているものを含めて、最初から三人分だけが別に用意されていた。
偶然の来客ではない。予定されていたのだ。今日、この二人が来ることが。
「……会長」
「うん?」
「差し支えなければ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何かな」
「今日は、何か……」
そこで、廊下から軽快な足音が近づいてきた。それも、かなり速い。
「カイチョー! この前頼まれてた――」
勢いよく扉が開く。
「――資料、持ってきたよ!」
トウカイテイオーが飛び込んできた。そして一歩、部屋へ踏み込んだところで止まった。
右を見る。シリウスがいる。左を見る。ラモーヌがいる。正面を見る。いつも通りの顔をしたルドルフがいる。もう一度、右を見る。もう一度、左を見る。
耳がぴん、と立った。
「……むむっ?」
沈黙。
「えええええっ!?」
今度こそ、生徒会室の空気が揺れた。
「シリウス!? ラモーヌ!? なんで!?」
「うるせぇな」
「だ、だって! 二人ともだよ!? ここ生徒会室だよ!?」
「見りゃわかる」
「そういう意味じゃなくて! ボク、二人が同じ部屋にいるところなんて写真でしか見たことないよ!」
「妙な言い方をするんじゃねぇ」
テイオーは慌ただしく二人を見比べたあと、最後には当然のようにルドルフへ向き直った。
「カイチョー!」
その一言にすべてが込められていた。説明して。
「ふむ」
ルドルフは手元の書類から顔を上げた。
「そう慌てなくてもいい、テイオー」
「慌てるよ! だってシリウスとラモーヌが一緒にいるんだよ!?」
「おい。どういう意味だ」
「そのままの意味!」
「テメェ……」
「ふふ」
ラモーヌがわずかに笑った。テイオーがますます混乱する。
「ラモーヌまで笑ってるし!」
「笑ってはいけないの?」
「そうじゃないけど! なんか今日みんなヘンだよ!」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、三人が黙った。
テイオーは気づかなかった。エアグルーヴは気づいた。ブライアンも。
それまで机の端に置かれていたルドルフの手が、わずかに止まった。指先がティーカップの取っ手へ触れる。けれど持ち上げない。シリウスの視線が、ほんの一瞬だけそこへ落ちた。ラモーヌは何も言わず、窓の外を見た。
「……今日だけは」
やがてルドルフが言った。
「少し、特別な日なんだ」
「特別?」
「そうだ」
「何の日?」
すぐに返ってきた問いに、ルドルフは答えなかった。代わりにシリウスが椅子を引いた。
「年に一度、こいつらと同じ茶を飲む日だよ」
「シリウス」
「嘘は言ってねぇだろ?」
ルドルフが小さく息を吐く。否定はしなかった。
「……まあ、そういうことだ。年に一度、この時期に三人で同じ茶を飲む」
「へぇー……三人だけで?」
「ああ」
「毎年?」
「ああ」
「なんで?」
今度こそ、ルドルフの返事が止まった。
わずかな間だった。普段の彼女なら、誰も気にしなかっただろう。けれど、トウカイテイオーはシンボリルドルフをよく見ている。誰よりも。敬愛するその背中を追い続けてきたからこそ、その一瞬の空白を見逃さなかった。
「……カイチョー?」
「昔のことを思い出す日なのよ」
答えたのは、ラモーヌだった。
「昔?」
「ええ」
「三人の?」
「そう」
テイオーの瞳が輝いた。嫌な予感がしたのか、シリウスが顔をしかめる。案の定だった。
「聞きたい!」
「却下だ」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「えーっ! いいじゃん! カイチョーたちの子供の頃の話でしょ!?」
「だから嫌なんだよ」
「なんで!?」
シリウスは答えず、茶をひと口飲んだ。ルドルフが苦笑する。
「なに。昔話など、聞いても大して面白くはないさ」
「カイチョーの昔話なら面白いよ!」
「ずいぶんな信頼だな」
「だってカイチョーだもん!」
胸を張る。一切の迷いがない。その様子に、ルドルフの目元が少しだけ柔らかくなった。
「……そう言われると弱いな」
「でしょ?」
「調子に乗るなよ」
シリウスが横から口を挟む。テイオーが頬を膨らませた。
「じゃあシリウスが教えてよ!」
「嫌だね」
「ラモーヌ!」
「どちらでも」
「やった!」
「待て。今のどこに了承があった」
ルドルフが額へ手を添える。ラモーヌは涼しい顔をしたままだった。
「聞きたいのでしょう?」
「うん!」
「なら、聞けばいいわ」
「ラモーヌ……」
「いつまでもしまっておくほど、美しい思い出でもないもの」
その言葉だけ、わずかに温度が違った。テイオーの笑顔が、少しだけ止まる。
シリウスが鼻を鳴らした。
「美しくないどころじゃねぇだろ」
「そうかしら」
「お前な……」
「事実でしょう?」
また、沈黙が落ちた。
今度はテイオーにもわかった。さっきまでのやり取りとは違う。ルドルフが視線を落としている。シリウスは面倒そうな顔をしているのに、席を立とうとはしない。ラモーヌもまた、窓の向こうを見たままだった。
その三人が、同じ何かを思い出している。
「……何があったの?」
テイオーの声から、少しだけ勢いが消えた。
シリウスがルドルフを見る。
「お前から言えよ」
「なぜ私なんだ」
「始めたのがお前だからだろ」
「何をだ?」
「あの時の騒動全部だ」
ルドルフの眉が動いた。
「それは些か一方的ではないかな」
「一方的じゃねぇよ。あん時のお前、もうちょっとだけ、あと少しだけって、どんどん先へ行きやがって」
「そうね」
ラモーヌまで同意した。
「貴方が一番、先へ行きたがったわ」
「……君たちは」
「止めたぜ」
「止めたわよ」
ぴたりと重なった。
ルドルフが黙った。テイオーが目を丸くする。エアグルーヴも、少しだけ目を見開いた。ブライアンの耳が動く。
三人の中で、ルドルフだけが反論できていない。それだけで、何かとんでもない光景を見せられている気分になる。
「……カイチョー」
テイオーが、おそるおそる口を開いた。
「もしかして、昔って……けっこう、やんちゃだった?」
シリウスが吹き出した。
「ハッ」
「シリウス」
「違うって言ってやれよ、皇帝サマ」
「……幼少期には、旺盛な好奇心というものがあってだな」
「それを普通はやんちゃって言うんだよ」
「まったく。酷い目に遭わされたわね」
「ラモーヌまで……!」
テイオーがぱっと笑う。ようやくいつもの空気へ戻った。そう思った。
けれど。
「……酷い目?」
その一言で、また止まった。誰も笑わなかった。
窓が鳴る。風だった。乾いた晩秋の風が、ガラスを震わせている。
ルドルフは窓へ目を向けた。夕暮れ。色を失い始めた空。風に揺れる木々。その向こうに、ここからは見えない何かを探すように、しばらく見ていた。
あの日も、同じ季節だった。
もっと幼くて、もっと無謀で、自分たちの脚ならどこへでも行けると疑いもしなかった頃。走れば追いつける。走れば戻れる。脚さえ動けば、どうにでもなる。そんなことを三人とも、当たり前のように信じていた。
「……カイチョー?」
テイオーの声で、ルドルフは視線を戻した。
「すまない。少し考え事をしていた」
笑う。いつもの穏やかな笑みだった。
けれどテイオーは、なぜかその笑顔を見て、すぐに笑い返せなかった。初めて見る顔だった。ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ、いつも自分の前を歩いている「皇帝」ではなく、もっと昔の、自分とそう変わらないくらい小さな誰かが、そこから覗いたような気がした。
「……聞いても、いい?」
今度のテイオーは、さっきまでとは違った。好奇心だけではない。
ルドルフは答えず、シリウスとラモーヌを見る。
シリウスは腕を組んだ。
「好きにしろ」
素っ気ない。けれど、それは拒絶ではなかった。
ラモーヌはカップを両手で包み、静かに目を伏せる。
「私は構わないわ」
「……そうか」
ルドルフは頷いた。
そこでテイオーが、ふと横を向いた。ずっと黙っている二人がいる。
「ブライアンも、エアグルーヴも聞きたいよね?」
突然話を振られたエアグルーヴが、わずかに肩を揺らす。
「な……私は」
手元の書類を見る。もう何分も、同じ頁のままだった。
「その……会長たちが問題ないとおっしゃるのであれば、同席させていただきたいとは思う」
言ってから、少しだけ視線を逸らした。シリウスが口の端を上げる。
「聞きてぇって顔してるぜ」
「……くっ」
反論の言葉が出てこなかった。エアグルーヴは背筋を伸ばし直し、それ以上は何も言わなかった。シリウスが喉の奥で笑う。
ブライアンは床へ落ちた枝を見た。まだ拾っていなかった。それから、三人を見る。
「……あぁ」
短い。それだけだった。しかし、その目は先ほどから一度も三人から外れていない。
ルドルフは全員を見回した。テイオー。エアグルーヴ。ブライアン。最後に、長い付き合いになる二人へ視線を向ける。
年に一度、こうして三人で茶を飲む。誰が言い出したのだったか。今となっては、よく覚えていない。
忘れたわけではない。三人とも、忘れられるはずがなかった。ただ、普段は開かないだけだ。記憶の奥にある扉を、今日だけ、少しだけ開く。
ルドルフが、静かに息を吐いた。
「よくはないが……そうだな」
カップを置く。小さな音がした。
「たまには昔を思い出してみても、いいかもしれない」
シリウスが鼻を鳴らした。ラモーヌが目を上げる。
三人の視線が、ほんの一瞬だけ、同じ場所へ向いた。
窓の外。晩秋の空。夕日の橙が、雲の下を細長く染めている。
その色を見た瞬間、ルドルフの脳裏に、暗闇の中で揺れる火が浮かんだ。冷え切った指。濡れた服。荒い息。隣にいた二人。そして、森の奥から聞こえた――
「カイチョー?」
声がして、記憶は途切れた。
ルドルフは瞬きを一つした。
「……いや。何でもない」
テイオーは黙っている。もう、さっきのように急かさなかった。ルドルフはそれを確認してから、口を開いた。
「昔話は退屈かもしれないが」
静かな声だった。
「聞くのであれば、最後まで聞きなさい」
「う、うん」
「途中でやめたくなっても、やめさせない」
「え」
テイオーの耳がぴくりと動く。
「なにそれ、こわ――」
「怖い話だからね」
ルドルフは言った。穏やかな声だった。けれど、目は笑っていなかった。
テイオーが、初めて完全に黙った。
夕日の橙色が、その瞳の中で揺れている。その色が、あの夜に見た火の色に似ていると知っているのは、この部屋では三人だけだった。
ブライアンの目が、わずかに細くなる。エアグルーヴは背筋を伸ばしたまま、息を潜める。シリウスが椅子へ深く座り直した。ラモーヌはカップを置いた。
そして、三人の顔を一度ずつ見たあとで、静かに口を開く。
「あれは、秋の終わりのことよ。私たちがまだ――ずっと小さかった頃の話」
窓の外で、風が鳴った。
2026/10/05
順番とタイトルの一部を変更。
本文加筆。