氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
飢え、退き、種を繋ぐ。それは完成された世界の理だから。
だが、少女たちのことは、わからない。
何を言えば、その震えが止まるのか。どの『記録』を紐解いても、解法は載っていないように思えた。
かつて、誰かにそうしたように。
とりあえず、温めることはできる。
それだけが、今できる、精一杯の「模倣」だった。
背中が、温かかった。
それだけが、最初にわかったことだった。
背負われている。そのことは理解していた。理解していたが、力が要らなかった。しがみつかなくていい。落ちない。麻紐で固定されているから、落ちない。それだけのことが、今夜初めて、全身から何かを抜いた。しがみつくための力を、どこかに残しておかなくていい。残しておくべき力が、もう何もない。
外套の毛皮が、背中から回り込んで両側を包んでいた。
熊の毛皮だった。分厚く、重く、その内側に籠った熱が、じわじわと染み込んでくる。吹雪が顔を叩いていた。それでも背中から腹にかけては、外の冷気が届かなかった。毛皮と背中に挟まれた空間だけが、別の温度を持っていた。その熱の中に、今、ルドルフはいた。
目を開けようとした。
開いていた。
開いていたのに、気づかなかった。視界が暗かった。暗いのではなく、吹雪が視界を削っていた。白と黒が混ざり合って、どちらが雪でどちらが夜なのか、判別できなかった。それでも、首筋の熱だけははっきりしていた。結い上げた黒髪の根元から、体温が漏れていた。顔をそこに預けた。温かかった。外を歩いてきたはずなのに、冷えていなかった。なぜ冷えていないのか、考えかけて、やめた。考える力が、もうどこにも残っていなかった。
こんなふうに誰かに背負われたことが、あっただろうか。
思い出を探した。見つからなかった。あったのかもしれない。今よりもずっと幼すぎて記憶に残っていないだけかもしれない。それとも、初めからなかったのかもしれない。シンボリ家の令嬢として育った。誰かに背負われるより、誰かの前を歩くことの方が多かった。この背中の感触が懐かしいのか、初めてなのか、今のルドルフには判断できなかった。
判断できなかったが、離れたくなかった。
それだけは、わかった。
——しがみつく腕に、力が籠った。
足首が、痛かった。
さっきまで考えないようにしていた。でも今は動かなくていい。動かなくていいから、気づいた。足首の奥から、熱い何かが膝まで這い上がっていた。脈を打つたびに、その熱さが波のように返ってきた。
——痛い。
でも、それが今は遠かった。背中の温かさが、痛みより近い場所にあった。あまりにも近いところに、温かさがあった。このまま目を閉じれば、全部終わる気がした。
閉じなかった。
閉じてはいけない気がした。理由はわからなかった。ただ、まだ何かをしていない、という感覚だけがあった。それだけが、ルドルフの目を開けたままにしていた。
気づけば、頬が外套の毛皮に触れていた。
匂いがした。
薪の煙の匂い。山の木の樹脂の匂い。獣の匂い——熊の毛皮を鞣した、この山そのものの匂い。それから——もっと奥の方に、何か別の匂いがした。言葉にならない匂いだった。古い書物の匂いにも似ていた。どこか遠い場所の匂いにも似ていた。何度も嗅いだことがあるような気がして、でも一度も嗅いだことがないような気もした。どちらが正しいのか、今のルドルフには判断できなかった。
判断できなかったが、怖くなかった。
この背中が怖くない。この匂いが怖くない。あの羆の匂いとは、全く違う。あの匂いは胃の底を冷やした。この匂いは——何かを、緩めていく。今夜ずっと張り詰めていた何かが、この匂いの中で、少しずつ溶けていった。
——知らずに上げていた顔を、また埋めた。深く息を吸った。心がほどける匂いがした。
意識が、遠くなりかけた。
当然だった。温かかった。揺れていた。匂いがした。眠るための条件が、今夜初めて全部揃っていた。だから余計に、眠ってはいけないと思った。
遠くなる前に、ルドルフは思った。
名前を、聞いていない。
この人の名前を、まだ聞いていない。助けてもらった。背負ってもらっている。それなのに、名前を聞いていない。お礼も言っていない。言わなければならない。聞かなければならない。そう思った。
でも、声が出なかった。
出そうとした。喉が動こうとした。でも音にならなかった。身体が、もう声を出す力を持っていなかった。さっきルドルフが「逃げて」と叫んだのが、遠い昔のことのように感じた。あの声はどこから出てきたのだろう、と思った。逃げて、と叫んだ。助けて、とは言わなかった。今もそれが正しかったかどうか、わからなかった。ただ、あの声が今はどこにも見当たらなかった。
聞かなければ、と思った次の瞬間には、その思いも遠くなっていた。
歩いていた、という感覚がなかった。揺れていた。背中の温かさの中で、揺れていた。一歩ずつの振動が、遠くから届いていた。自分の足が動いているのか、動いていないのか、それすらわからなかった。気づいた時には、木々の密度が変わっていた。
背中を、掴んでいた。
掴んでいることに、気づいた。いつから掴んでいたのか、わからなかった。落ちない。毛皮で包まれている。紐で固定されている。二重に、落ちない。それでも手が離さなかった。離したら、この温かさが消える気がした。消えたら、戻れない気がした。今夜ずっと、そういう夜だった。どこまで逃げても安心できなかった。なのに——背中を意識した瞬間、その不安が霧のように薄れた。理由はわからなかった。ただ、薄れた。
意識が、また遠くなりかけた。
顔が、毛皮から離れていた。知らずに上がっていた。また埋めた。深く息を吸った。心がほどける匂いがした。
背中を、掴みなおした。
吹雪の音が、少しだけ遠くなっていた。男の足が、何かを避けるように僅かに向きを変えた。それから、立ち止まった。
音がした。
重い、木の音だった。扉が開く音だった。
暖かい空気が、顔に触れた。
一瞬だった。一瞬だけ、頬に触れた。でもその一瞬で、ルドルフは理解した。中にいる。外ではない場所にいる。壁がある。屋根がある。風が来ない。
それだけで、目の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。泣こうとしたわけではなかった。ただ、目の奥が勝手に熱くなった。
薪の燃える匂いがした。
乾いた木の匂い。閉じた空間の、静かな熱の匂い。吹雪の外とは全く別の空気が、凍えた肺に流れ込んできた。吸い込んだ瞬間、肺が驚いたように動いた。こんな空気があったのだと、肺が今更思い出したような動き方だった。
男が膝をついた。
紐が、緩んだ。
解かれる、とわかった瞬間だった。
手が、動いていた。
考えていなかった。気づいた時には、背中を掴んでいた。さっきより強く。離したくなかった。離したら消える。そういう感覚が、意識より先に手を動かしていた。
「大丈夫だ」
静かな声だった。それだけだった。
ルドルフの手から、力が抜けた。
抜けてから、気づいた。自分が何をしていたか、気づいた。
「……っ」
声にならなかった。耳が、じわりと熱くなった。頬も、熱かった。朦朧としていた意識が、その一瞬だけ妙に鮮明になった。
ゆっくりと、身体が下ろされた。
床に触れた瞬間、足首に痛みが走った。呻いた。声が出た。さっきまで遠かった痛みが、地面に触れた瞬間に戻ってきた。
でも——床だった。固い、木の床だった。冷たくなかった。痛みより先に、それがわかった。身体が、安心できる場所にあった。壁に背を預けた。壁が暖かかった。薪ストーブの熱が、壁ごしに伝わってきていた。
男が棚から毛皮を取り出した。床に広げた。エゾシカの毛皮だった。熊の外套とは違う、薄く柔らかい毛並みだった。
隣に、シリウスが下ろされていた。
反対側に、ラモーヌが床に座っていた。
三人が、並んで壁に背を預けた。
吹雪の音が、遠かった。扉の向こうでまだ続いているはずなのに、ここまでは届かなかった。壁と扉が、外の世界を遮っていた。遮っている、というだけで、こんなに違うのだと、ルドルフは思った。壁一枚が、あちら側とこちら側を分けている。壁一枚の内側に、今自分たちはいる。
暖炉の火が、揺れていた。
橙色の光が、狭い室内を満たしていた。壁が見えた。天井が見えた。節目がある。木目がある。見たことのない天井だったが、天井があるということが、今夜は全てだった。
男が動いていた。
何かを取り出していた。棚から毛布を持ってきた。毛皮で出来た毛布だった。それを三人の肩に、順番にかけた。
毛布が、肩に触れた瞬間だった。
シリウスの身体が、震えた。
声はなかった。悲鳴もなかった。ただ、細かく震えた。寒いのではなかった。温かいものが触れた瞬間に、身体が反応した。抑えていたものが、温かさに触れて動き出した。震えが来て、それから少しずつ収まっていった。
男はシリウスのマフラーを外した。ラモーヌの手袋を外した。濡れていた。ストーブの傍の、釘に掛けた。
ルドルフは、その震えを眺めていた。
意識して見ていたわけではなかった。ただ、目が追っていた。
シリウスが震えている。
あのシリウスが。今夜ずっと、声を出さなかったシリウスが。どれだけ転んでも立ち上がったシリウスが。ルドルフの隣に、黙って立ったシリウスが。その身体が、毛布一枚で震えている。
喉の奥で、何かが詰まった。
泣くまいとした。泣いている場合ではないとわかっていた。でも、目の奥の熱さが、また戻ってきた。こらえた。こらえながら、暖炉の火を見た。
揺れていた。
一定ではなく、不規則に揺れていた。でも消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。風が来ても、消えなかった。その一点だけが、この部屋の中で変わらずにあり続けていた。
自分のせいで、ここにいる。
その事実は、変わらなかった。シリウスが止めようとした。ラモーヌが何かを感じ取っていた。それでも自分は止まらなかった。もう少しだけ、もう少しだけ、と言い続けて、二人をあの場所まで連れていった。
シリウスの膝が、血で滲んでいる。
ラモーヌのカーディガンの袖が、根元から裂けている。
三人とも、今夜初めて自分の血を見た。
ルドルフは視線を自分の手に落とした。掌に、細かい傷が残っていた。どこかで枝に引っかかった傷だった。走っている間は気づかなかった。今は、じんじんと熱を持っていた。
手が、震えていた。
止めようとした。止まらなかった。毛布を両手で握りしめた。それでも止まらなかった。怖かった、という感覚が、今になって全部戻ってきていた。走っている間は恐怖が燃料になっていた。燃料を使い果たした今、その残骸だけが残っていた。
それでも、火は消えなかった。
男が、ラモーヌの傍に膝をついた。
音もなかった。声もなかった。ただ、ラモーヌの手を両手で包んだ。さっきと同じ動作だった。河原でも、同じことをした。必要だから、またやっている。それだけのことだった。
ラモーヌの肩から、また力が抜けた。
気づいていないのかもしれなかった。気づかないまま、力みが抜けていた。耳が、わずかに前へ向いた。安堵した時の動きだった。動いたことに、ラモーヌ自身は気づいていないようだった。
男はそれを確かめてから、静かに手を離した。
耳が、わずかに伏せた。
ラモーヌは何も言わなかった。表情も変わらなかった。ただ、耳だけが正直だった。
ルドルフは、それを眺めていた。
意識して見ていたわけではなかった。ただ、目が追っていた。朦朧とした意識の中で、男の動きだけが、なぜかはっきりと映っていた。
言える状態ではなかった。ただ、目が離せなかった。
男が近づいてきた。
三人の前で膝をついた。ルドルフと同じ高さになった。
男の目が、ルドルフを見た。
ルドルフは男を見た。
表情がなかった。怖いという意味ではない。穏やかだった。ただ、穏やかなだけだった。三人を助けたことへの高揚も、羆を退けたことへの満足も、何もなかった。ただそこにいるだけの顔だった。こんなことが当たり前だというような、ただそこにいるだけの顔だった。
ルドルフの頬に、手が触れた。
温かかった。
こんなに冷えた場所で、こんなに温かい手があるとは思っていなかった。吹雪の中を歩いてきたはずなのに、どこにもその冷たさがなかった。頬に触れた指先が、傷の周辺を確かめるように動いた。痛かった。でも、その痛みが遠かった。温かさの方が、ずっと近かった。
男の目が、ルドルフの頬の傷を見ていた。それから額を見て、唇の色を見た。確かめるように、でも慌てずに。急いでいなかった。この人はいつも、急いでいない。あの吹雪の中でも、あの羆の前でも、今も。急かない。焦らない。ただ、必要なことを、必要な順番でやっている。
「動けるか」
朴訥とした声だった。
ルドルフは首を振った。
動けない、という意味ではなかった。動き方が、わからなかった。どこへ向かえばいいか、何をすればいいか、今この瞬間に何が必要なのか、全部わからなくなっていた。首を振ることだけが、今できた唯一の返答だった。
男はルドルフの目を見た。一秒ほど、そのまま見た。
責めていなかった。当然だとも言わなかった。ただ、見た。見てから、頷いた。それだけだった。それだけなのに、ルドルフの肩から何かが降りた気がした。
男はシリウスに向いた。ラモーヌに向いた。順番に、確かめるように見た。
ラモーヌの顔を、今夜ずっと横目で追っていた。ラモーヌは声を上げなかった。泣かなかった。走っている間も、斜面を下りる間も、河原に叩きつけられた後も、ラモーヌはずっと黙っていた。黙って、足を動かし続けていた。病弱だと聞いていた。走るのが得意ではないと聞いていた。それでも、今夜一番正確に足場を読んでいたのはラモーヌだった。
「下り坂へ」という一言が、なければ。
その言葉が届いていなければ。
三人は今頃、斜面の上にいた。あの爪の下にいたのは間違いなかった。——思い出して、ぞくり、と背筋を悪寒が駆け抜けていった。頭を軽く振ってルドルフは視線を暖炉の火に戻した。
火が揺れていた。揺れながら、消えなかった。
言わなければならないことがある、とルドルフは思った。二人に。今夜ここまで連れてきてしまったことへの謝罪と、それでも手を離さなかったことへの——何か。言葉が見つからなかった。謝罪という言葉では足りない気がした。感謝という言葉では違う気がした。どちらでもあって、どちらでもない何かが、胸の奥にあった。
でも、今夜はまだ言えない気がした。
今夜はまだ、言葉にする前の場所にある。そういう気がした。
「名前は」
ルドルフは口を開いた。
声が出た。
かすれていたが、出た。自分でも驚いた。さっきまで出なかった声が、今は出た。暖炉の熱が、少しだけ喉を緩めてくれていたのかもしれなかった。
男が振り返った。ゆっくりとした動きだった。
「……小鳥遊」
少し間があった。
「七詩」
ルドルフはその名前を聞いた。繰り返そうとした。舌が上手く動かなかった。でも、声にした。
「たかなし、ななし」
男は特に何も言わなかった。否定もしなかった。ただ、頷いた。
ルドルフは暖炉の火に目を戻した。
ありがとう、と言おうとした。
言葉が、途中で止まった。止まったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。言葉はあった。ただ、「ありがとう」という五文字が、たった五文字が今夜起きたことの全部に対して、あまりにも小さかった。小さすぎて、出せなかった。
眠くなっていた。
声を出すより、目を閉じる方が先になりそうだった。
それでいいと思った。
今夜はもう、それでいいと思った。ありがとうは、また明日言える。言葉は、もう少し大きくなってから言える。今夜は——この火を見ていればいい。
火が揺れていた。
橙色の光が、三人の顔を照らしていた。シリウスの目が、すでに閉じていた。ラモーヌの呼吸が、少しずつ深くなっていた。
男が何かをしていた。
棚の前に立って、何かを確かめていた。何を確かめているのか、ルドルフにはわからなかった。でも、何かをしていた。この人はいつも、何かをしている。この小屋のことを知っている。この場所に慣れている。ここに住んでいるのだろうと、ぼんやりと思った。
ぼんやりと思いながら、目が重くなっていった。
足首が、また脈を打った。痛い、と思った。でも、遠い。背中の壁が暖かかった。毛布が重かった。重さが心地よかった。吹雪の音が、壁の向こうで続いていた。遠かった。遠くて、届かなかった。
閉じてはいけない、とルドルフは思った。
名前を聞いた。でも、お礼を言っていない。言わなければ。言ってから、眠ればいい。
そう思った瞬間には、もう目が閉じていた。
意志より先に、身体が決めていた。
火が揺れていた。
揺れながら、消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。橙色の光が、三人の顔を照らし続けていた。
外では吹雪が続いていた。雪が積もり続けていた。
でも、ここには火があった。壁があった。毛布があった。
そして——名前を、聞いた。
それで、十分だった。