氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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羆のことは、わかる。
飢え、退き、種を繋ぐ。それは完成された世界の理だから。
だが、少女たちのことは、わからない。
何を言えば、その震えが止まるのか。どの『記録』を紐解いても、解法は載っていないように思えた。
かつて、誰かにそうしたように。
とりあえず、温めることはできる。
それだけが、今できる、精一杯の「模倣」だった。


01-七.「名前は」

背中が、温かかった。

それだけが、最初にわかったことだった。

 

背負われている。そのことは理解していた。理解していたが、力が要らなかった。しがみつかなくていい。落ちない。麻紐で固定されているから、落ちない。それだけのことが、今夜初めて、全身から何かを抜いた。しがみつくための力を、どこかに残しておかなくていい。残しておくべき力が、もう何もない。

 

外套の毛皮が、背中から回り込んで両側を包んでいた。

熊の毛皮だった。分厚く、重く、その内側に籠った熱が、じわじわと染み込んでくる。吹雪が顔を叩いていた。それでも背中から腹にかけては、外の冷気が届かなかった。毛皮と背中に挟まれた空間だけが、別の温度を持っていた。その熱の中に、今、ルドルフはいた。

 

目を開けようとした。

開いていた。

開いていたのに、気づかなかった。視界が暗かった。暗いのではなく、吹雪が視界を削っていた。白と黒が混ざり合って、どちらが雪でどちらが夜なのか、判別できなかった。それでも、首筋の熱だけははっきりしていた。結い上げた黒髪の根元から、体温が漏れていた。顔をそこに預けた。温かかった。外を歩いてきたはずなのに、冷えていなかった。なぜ冷えていないのか、考えかけて、やめた。考える力が、もうどこにも残っていなかった。

 

こんなふうに誰かに背負われたことが、あっただろうか。

思い出を探した。見つからなかった。あったのかもしれない。今よりもずっと幼すぎて記憶に残っていないだけかもしれない。それとも、初めからなかったのかもしれない。シンボリ家の令嬢として育った。誰かに背負われるより、誰かの前を歩くことの方が多かった。この背中の感触が懐かしいのか、初めてなのか、今のルドルフには判断できなかった。

 

判断できなかったが、離れたくなかった。

それだけは、わかった。

 

——しがみつく腕に、力が籠った。

 

足首が、痛かった。

さっきまで考えないようにしていた。でも今は動かなくていい。動かなくていいから、気づいた。足首の奥から、熱い何かが膝まで這い上がっていた。脈を打つたびに、その熱さが波のように返ってきた。

——痛い。

でも、それが今は遠かった。背中の温かさが、痛みより近い場所にあった。あまりにも近いところに、温かさがあった。このまま目を閉じれば、全部終わる気がした。

 

閉じなかった。

閉じてはいけない気がした。理由はわからなかった。ただ、まだ何かをしていない、という感覚だけがあった。それだけが、ルドルフの目を開けたままにしていた。

 

気づけば、頬が外套の毛皮に触れていた。

匂いがした。

薪の煙の匂い。山の木の樹脂の匂い。獣の匂い——熊の毛皮を鞣した、この山そのものの匂い。それから——もっと奥の方に、何か別の匂いがした。言葉にならない匂いだった。古い書物の匂いにも似ていた。どこか遠い場所の匂いにも似ていた。何度も嗅いだことがあるような気がして、でも一度も嗅いだことがないような気もした。どちらが正しいのか、今のルドルフには判断できなかった。

 

判断できなかったが、怖くなかった。

この背中が怖くない。この匂いが怖くない。あの羆の匂いとは、全く違う。あの匂いは胃の底を冷やした。この匂いは——何かを、緩めていく。今夜ずっと張り詰めていた何かが、この匂いの中で、少しずつ溶けていった。

 

——知らずに上げていた顔を、また埋めた。深く息を吸った。心がほどける匂いがした。

 

意識が、遠くなりかけた。

当然だった。温かかった。揺れていた。匂いがした。眠るための条件が、今夜初めて全部揃っていた。だから余計に、眠ってはいけないと思った。

 

遠くなる前に、ルドルフは思った。

名前を、聞いていない。

この人の名前を、まだ聞いていない。助けてもらった。背負ってもらっている。それなのに、名前を聞いていない。お礼も言っていない。言わなければならない。聞かなければならない。そう思った。

でも、声が出なかった。

出そうとした。喉が動こうとした。でも音にならなかった。身体が、もう声を出す力を持っていなかった。さっきルドルフが「逃げて」と叫んだのが、遠い昔のことのように感じた。あの声はどこから出てきたのだろう、と思った。逃げて、と叫んだ。助けて、とは言わなかった。今もそれが正しかったかどうか、わからなかった。ただ、あの声が今はどこにも見当たらなかった。

 

聞かなければ、と思った次の瞬間には、その思いも遠くなっていた。

 

歩いていた、という感覚がなかった。揺れていた。背中の温かさの中で、揺れていた。一歩ずつの振動が、遠くから届いていた。自分の足が動いているのか、動いていないのか、それすらわからなかった。気づいた時には、木々の密度が変わっていた。

 

背中を、掴んでいた。

掴んでいることに、気づいた。いつから掴んでいたのか、わからなかった。落ちない。毛皮で包まれている。紐で固定されている。二重に、落ちない。それでも手が離さなかった。離したら、この温かさが消える気がした。消えたら、戻れない気がした。今夜ずっと、そういう夜だった。どこまで逃げても安心できなかった。なのに——背中を意識した瞬間、その不安が霧のように薄れた。理由はわからなかった。ただ、薄れた。

 

意識が、また遠くなりかけた。

顔が、毛皮から離れていた。知らずに上がっていた。また埋めた。深く息を吸った。心がほどける匂いがした。

背中を、掴みなおした。

 

吹雪の音が、少しだけ遠くなっていた。男の足が、何かを避けるように僅かに向きを変えた。それから、立ち止まった。

音がした。

重い、木の音だった。扉が開く音だった。

暖かい空気が、顔に触れた。

一瞬だった。一瞬だけ、頬に触れた。でもその一瞬で、ルドルフは理解した。中にいる。外ではない場所にいる。壁がある。屋根がある。風が来ない。

それだけで、目の奥が熱くなった。

泣くつもりはなかった。泣こうとしたわけではなかった。ただ、目の奥が勝手に熱くなった。

薪の燃える匂いがした。

乾いた木の匂い。閉じた空間の、静かな熱の匂い。吹雪の外とは全く別の空気が、凍えた肺に流れ込んできた。吸い込んだ瞬間、肺が驚いたように動いた。こんな空気があったのだと、肺が今更思い出したような動き方だった。

 

男が膝をついた。

紐が、緩んだ。

解かれる、とわかった瞬間だった。

手が、動いていた。

考えていなかった。気づいた時には、背中を掴んでいた。さっきより強く。離したくなかった。離したら消える。そういう感覚が、意識より先に手を動かしていた。

 

「大丈夫だ」

 

静かな声だった。それだけだった。

ルドルフの手から、力が抜けた。

抜けてから、気づいた。自分が何をしていたか、気づいた。

「……っ」

声にならなかった。耳が、じわりと熱くなった。頬も、熱かった。朦朧としていた意識が、その一瞬だけ妙に鮮明になった。

 

ゆっくりと、身体が下ろされた。

床に触れた瞬間、足首に痛みが走った。呻いた。声が出た。さっきまで遠かった痛みが、地面に触れた瞬間に戻ってきた。

でも——床だった。固い、木の床だった。冷たくなかった。痛みより先に、それがわかった。身体が、安心できる場所にあった。壁に背を預けた。壁が暖かかった。薪ストーブの熱が、壁ごしに伝わってきていた。

 

男が棚から毛皮を取り出した。床に広げた。エゾシカの毛皮だった。熊の外套とは違う、薄く柔らかい毛並みだった。

隣に、シリウスが下ろされていた。

反対側に、ラモーヌが床に座っていた。

三人が、並んで壁に背を預けた。

吹雪の音が、遠かった。扉の向こうでまだ続いているはずなのに、ここまでは届かなかった。壁と扉が、外の世界を遮っていた。遮っている、というだけで、こんなに違うのだと、ルドルフは思った。壁一枚が、あちら側とこちら側を分けている。壁一枚の内側に、今自分たちはいる。

暖炉の火が、揺れていた。

橙色の光が、狭い室内を満たしていた。壁が見えた。天井が見えた。節目がある。木目がある。見たことのない天井だったが、天井があるということが、今夜は全てだった。

 

男が動いていた。

何かを取り出していた。棚から毛布を持ってきた。毛皮で出来た毛布だった。それを三人の肩に、順番にかけた。

毛布が、肩に触れた瞬間だった。

シリウスの身体が、震えた。

声はなかった。悲鳴もなかった。ただ、細かく震えた。寒いのではなかった。温かいものが触れた瞬間に、身体が反応した。抑えていたものが、温かさに触れて動き出した。震えが来て、それから少しずつ収まっていった。

 

男はシリウスのマフラーを外した。ラモーヌの手袋を外した。濡れていた。ストーブの傍の、釘に掛けた。

 

ルドルフは、その震えを眺めていた。

意識して見ていたわけではなかった。ただ、目が追っていた。

シリウスが震えている。

あのシリウスが。今夜ずっと、声を出さなかったシリウスが。どれだけ転んでも立ち上がったシリウスが。ルドルフの隣に、黙って立ったシリウスが。その身体が、毛布一枚で震えている。

喉の奥で、何かが詰まった。

泣くまいとした。泣いている場合ではないとわかっていた。でも、目の奥の熱さが、また戻ってきた。こらえた。こらえながら、暖炉の火を見た。

揺れていた。

一定ではなく、不規則に揺れていた。でも消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。風が来ても、消えなかった。その一点だけが、この部屋の中で変わらずにあり続けていた。

自分のせいで、ここにいる。

その事実は、変わらなかった。シリウスが止めようとした。ラモーヌが何かを感じ取っていた。それでも自分は止まらなかった。もう少しだけ、もう少しだけ、と言い続けて、二人をあの場所まで連れていった。

シリウスの膝が、血で滲んでいる。

ラモーヌのカーディガンの袖が、根元から裂けている。

三人とも、今夜初めて自分の血を見た。

ルドルフは視線を自分の手に落とした。掌に、細かい傷が残っていた。どこかで枝に引っかかった傷だった。走っている間は気づかなかった。今は、じんじんと熱を持っていた。

手が、震えていた。

止めようとした。止まらなかった。毛布を両手で握りしめた。それでも止まらなかった。怖かった、という感覚が、今になって全部戻ってきていた。走っている間は恐怖が燃料になっていた。燃料を使い果たした今、その残骸だけが残っていた。

それでも、火は消えなかった。

 

男が、ラモーヌの傍に膝をついた。

音もなかった。声もなかった。ただ、ラモーヌの手を両手で包んだ。さっきと同じ動作だった。河原でも、同じことをした。必要だから、またやっている。それだけのことだった。

ラモーヌの肩から、また力が抜けた。

気づいていないのかもしれなかった。気づかないまま、力みが抜けていた。耳が、わずかに前へ向いた。安堵した時の動きだった。動いたことに、ラモーヌ自身は気づいていないようだった。

男はそれを確かめてから、静かに手を離した。

耳が、わずかに伏せた。

ラモーヌは何も言わなかった。表情も変わらなかった。ただ、耳だけが正直だった。

 

ルドルフは、それを眺めていた。

意識して見ていたわけではなかった。ただ、目が追っていた。朦朧とした意識の中で、男の動きだけが、なぜかはっきりと映っていた。

言える状態ではなかった。ただ、目が離せなかった。

 

男が近づいてきた。

三人の前で膝をついた。ルドルフと同じ高さになった。

男の目が、ルドルフを見た。

ルドルフは男を見た。

表情がなかった。怖いという意味ではない。穏やかだった。ただ、穏やかなだけだった。三人を助けたことへの高揚も、羆を退けたことへの満足も、何もなかった。ただそこにいるだけの顔だった。こんなことが当たり前だというような、ただそこにいるだけの顔だった。

ルドルフの頬に、手が触れた。

温かかった。

こんなに冷えた場所で、こんなに温かい手があるとは思っていなかった。吹雪の中を歩いてきたはずなのに、どこにもその冷たさがなかった。頬に触れた指先が、傷の周辺を確かめるように動いた。痛かった。でも、その痛みが遠かった。温かさの方が、ずっと近かった。

男の目が、ルドルフの頬の傷を見ていた。それから額を見て、唇の色を見た。確かめるように、でも慌てずに。急いでいなかった。この人はいつも、急いでいない。あの吹雪の中でも、あの羆の前でも、今も。急かない。焦らない。ただ、必要なことを、必要な順番でやっている。

 

「動けるか」

朴訥とした声だった。

ルドルフは首を振った。

動けない、という意味ではなかった。動き方が、わからなかった。どこへ向かえばいいか、何をすればいいか、今この瞬間に何が必要なのか、全部わからなくなっていた。首を振ることだけが、今できた唯一の返答だった。

男はルドルフの目を見た。一秒ほど、そのまま見た。

責めていなかった。当然だとも言わなかった。ただ、見た。見てから、頷いた。それだけだった。それだけなのに、ルドルフの肩から何かが降りた気がした。

男はシリウスに向いた。ラモーヌに向いた。順番に、確かめるように見た。

ラモーヌの顔を、今夜ずっと横目で追っていた。ラモーヌは声を上げなかった。泣かなかった。走っている間も、斜面を下りる間も、河原に叩きつけられた後も、ラモーヌはずっと黙っていた。黙って、足を動かし続けていた。病弱だと聞いていた。走るのが得意ではないと聞いていた。それでも、今夜一番正確に足場を読んでいたのはラモーヌだった。

「下り坂へ」という一言が、なければ。

その言葉が届いていなければ。

三人は今頃、斜面の上にいた。あの爪の下にいたのは間違いなかった。——思い出して、ぞくり、と背筋を悪寒が駆け抜けていった。頭を軽く振ってルドルフは視線を暖炉の火に戻した。

火が揺れていた。揺れながら、消えなかった。

言わなければならないことがある、とルドルフは思った。二人に。今夜ここまで連れてきてしまったことへの謝罪と、それでも手を離さなかったことへの——何か。言葉が見つからなかった。謝罪という言葉では足りない気がした。感謝という言葉では違う気がした。どちらでもあって、どちらでもない何かが、胸の奥にあった。

でも、今夜はまだ言えない気がした。

今夜はまだ、言葉にする前の場所にある。そういう気がした。

 

「名前は」

ルドルフは口を開いた。

声が出た。

かすれていたが、出た。自分でも驚いた。さっきまで出なかった声が、今は出た。暖炉の熱が、少しだけ喉を緩めてくれていたのかもしれなかった。

男が振り返った。ゆっくりとした動きだった。

「……小鳥遊」

少し間があった。

「七詩」

ルドルフはその名前を聞いた。繰り返そうとした。舌が上手く動かなかった。でも、声にした。

「たかなし、ななし」

男は特に何も言わなかった。否定もしなかった。ただ、頷いた。

ルドルフは暖炉の火に目を戻した。

ありがとう、と言おうとした。

言葉が、途中で止まった。止まったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。言葉はあった。ただ、「ありがとう」という五文字が、たった五文字が今夜起きたことの全部に対して、あまりにも小さかった。小さすぎて、出せなかった。

眠くなっていた。

声を出すより、目を閉じる方が先になりそうだった。

それでいいと思った。

今夜はもう、それでいいと思った。ありがとうは、また明日言える。言葉は、もう少し大きくなってから言える。今夜は——この火を見ていればいい。

火が揺れていた。

橙色の光が、三人の顔を照らしていた。シリウスの目が、すでに閉じていた。ラモーヌの呼吸が、少しずつ深くなっていた。

男が何かをしていた。

棚の前に立って、何かを確かめていた。何を確かめているのか、ルドルフにはわからなかった。でも、何かをしていた。この人はいつも、何かをしている。この小屋のことを知っている。この場所に慣れている。ここに住んでいるのだろうと、ぼんやりと思った。

ぼんやりと思いながら、目が重くなっていった。

足首が、また脈を打った。痛い、と思った。でも、遠い。背中の壁が暖かかった。毛布が重かった。重さが心地よかった。吹雪の音が、壁の向こうで続いていた。遠かった。遠くて、届かなかった。

閉じてはいけない、とルドルフは思った。

名前を聞いた。でも、お礼を言っていない。言わなければ。言ってから、眠ればいい。

そう思った瞬間には、もう目が閉じていた。

意志より先に、身体が決めていた。

火が揺れていた。

揺れながら、消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。橙色の光が、三人の顔を照らし続けていた。

外では吹雪が続いていた。雪が積もり続けていた。

でも、ここには火があった。壁があった。毛布があった。

そして——名前を、聞いた。

それで、十分だった。

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