氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

10 / 50
眠る者の傍で、やるべきことがある。
毛布を直し、温かいもの口に含ませる。そして、ただ規則正しくなった呼吸の音を聞く。
どこかの世界で、誰かにそうしてもらったことがある気がする。
名前も、顔も、場所も。全ての記録は未だ深い靄に包まれている。
ただ、あの時確かにあった『熱』だけが、記録の空白に焼き付いている。
だから、やる。
それだけのことだった。


01-八.『白い夜の、それぞれ』

火が、揺れていた。

 

三人とも眠っている。けれど、まだ深くはなかった。

 

シリウスは毛布の中で身体を丸め、片手でその端を握っている。もう片方の手は、眠る直前から変わらず、ルドルフのワンピースの裾を掴んだままだった。ラモーヌは壁へ頭を預け、借りた大きな手袋の中で指をわずかに曲げている。ルドルフは一番浅い。目は閉じているのに、眉間にはまだ薄く力が残り、時折、何かを確かめるように耳が動いた。

 

七詩が立ち上がった。棚に置いた薬草を取るためだった。

 

ほんの数歩。その程度の距離だった。

 

それでも、ルドルフの呼吸が変わった。閉じていた瞼がわずかに震える。毛布の外へ出ていた手が床を探るように動き、何かを求める。

 

同時に、シリウスがルドルフの裾を強く握った。ラモーヌの耳も、七詩の足音を追う。

 

七詩は足を止めた。

 

三人とも、目は開けない。それでも身体だけが、自分たちの近くから何かが離れようとしていることを知っている。

 

七詩は棚から薬草を取ると、元の場所へ戻った。

 

ルドルフの手が止まる。シリウスの指から少し力が抜ける。ラモーヌの耳も伏せられた。呼吸が、元へ戻っていった。

 

七詩はしばらく三人を見た。

 

羆がいないことは、この小屋にいる誰よりもよくわかっている。戸は閉じた。火はある。寒さも少しずつ遠ざかっている。今すぐ、この子供たちへ危険が届くようなものはない。

 

しかし、三人の身体にとっては、まだ違うらしい。

 

眠っている間も、世界のどこかに羆がいる。足音が近づいてくる。誰かがいなくなる。置いていかれる。そういうものが、まだ皮膚の下に残っている。

 

七詩はすり鉢を火の近くへ移した。薬草も。水差しも。必要なものを、手を伸ばせば届く場所へ集める。

 

今は、離れない方がいいらしい。

 

それがなぜなのか、七詩には完全にはわからなかった。ただ、そうすれば三人は眠れる。その事実だけはわかった。

 

ルドルフの毛布が肩から少し落ちていた。七詩が掛け直す。

 

その瞬間、眠ったままのルドルフの指が動き、七詩の袖へ触れた。

 

掴むほどの力はない。触れて、そこに何かがあるとわかると、指がそのまま止まる。

 

七詩はその手を見下ろした。

 

「厄介な子だ」

 

小さく言った。呆れているわけでも、嫌がっているわけでもない。ただ、事実を確認するような声音だった。

 

けれど、口にしてから、七詩はほんの少しだけ眉を動かした。

 

今の言葉を、以前にも聞いたことがあるような気がした。

 

誰が。どこで。いつ。

 

そこまで探そうとすると、記録の奥が白く抜けた。声は出てこない。顔も。場所も。

 

ただ、ひどく温かい何かに包まれていた感触だけが、そこに残っていた。

 

七詩はそれ以上を探さなかった。今、必要なものではない。

 

ルドルフの手を毛布の中へ戻す。火に薪を一本足した。橙色の光が、大きくなった。

 

その傍で、三人の意識は少しずつ、七詩にも届かない場所へ沈み始めていた。

 

 

    *

 

 

ルドルフは、走っていた。

 

空は青かった。雪など、どこにもなかった。

 

目の前に道がある。

 

その道は、どこまでも続いていた。

 

庭を抜ける。

 

木立の間を抜ける。

 

柵がある。

 

でも、近づけば門が開いた。

 

次の門も。

 

その次も。

 

ルドルフが走っていけば、世界の方から道を空けてくれる。

 

脚は軽かった。

 

足首も痛くない。

 

息も切れない。

 

地面を蹴るたびに、もっと先まで行ける気がした。

 

楽しかった。

 

それだけだった。

 

道の向こうに丘が見える。

 

あそこまで。

 

そう思って走る。

 

丘へ着く。

 

すると、その向こうにもっと高い場所が見える。

 

あそこまで。

 

その向こう。

 

また。

 

その向こう。

 

走れば着ける。

 

着けるなら、行っていい。

 

夢の中では、その二つが一つだった。

 

どこへでも行けた。

 

だから、どこへでも行った。

 

「もう少しだけ」

 

自分の声がした。

 

軽い声だった。

 

笑っていた。

 

丘が遠ざかる。

 

追う。

 

また遠ざかる。

 

それでも走る。

 

何も怖くない。

 

だって、自分は走れる。

 

速い。

 

疲れない。

 

追いつける。

 

戻れる。

 

いつだって。

 

そう思っていた。

 

ふと。

 

何かが足りない。

 

ルドルフは走ったまま耳を動かした。

 

自分の足音。

 

一つ。

 

それだけ。

 

もう二つ、あるはずの音がない。

 

止まった。

 

後ろを見る。

 

道が、長く伸びている。

 

ずっと向こう。

 

小さな影が二つあった。

 

シリウス。

 

ラモーヌ。

 

遠い。

 

どうして。

 

いつもなら、すぐ後ろにいるはずなのに。

 

ルドルフは前を見る。

 

丘がある。

 

あと少し。

 

本当に、少しだけ。

 

後ろを見る。

 

二人。

 

ルドルフの脚が、前へ出かける。

 

止まった。

 

夢の中なのに、なぜ止まったのか。本人にもわからなかった。

 

ただ、今度は丘の方へ行かなかった。

 

来た道へ向きを変えた。

 

走る。

 

シリウスとラモーヌの方へ。

 

一歩。

 

二歩。

 

距離が縮む。

 

そのことが、丘へ近づいていた時より、なぜか嬉しかった。

 

「ルドルフ!」

 

シリウスが呼んだ。怒っている声だった。

 

「勝手に行くな!」

 

「ごめん!」

 

夢のルドルフは、すぐに言えた。

 

現実では、まだ言えていない言葉。

 

ラモーヌが、その隣にいる。いつもの静かな顔。でも、怒っているようにも見えた。困っているようにも。

 

ルドルフは二人の前まで戻った。

 

三人。

 

並ぶ。

 

次の瞬間、景色が変わった。

 

メジロの屋敷。暖かい廊下。窓の向こうには庭。

 

誰かが待っている。

 

アサマ。その隣、腕を組んだスピードシンボリ。

 

二人とも、明らかに怒っている。

 

ルドルフは、それを見て、なぜか胸がいっぱいになった。

 

怒られる。きっと、とても。

 

でも、そこにいる。

 

帰ってきたから、怒られる。

 

明日も、あるから。

 

「……ごめんなさい」

 

また、言えた。

 

次、別の言葉が口まで来る。

 

ありがとう。

 

誰に。

 

シリウス。ラモーヌ。

 

それから、もう一人。

 

顔が、見えない。

 

薪の匂いがした。

 

温かい手が、毛布を直すように肩へ触れる。

 

ルドルフは、その人へ向かって口を開いた。

 

けれど、声になる前に、景色が白くなった。

 

雪ではない。眩しい。朝の光のような白。

 

ありがとうは、また、あとで。

 

明日。

 

そう思った。

 

夢の中にまで、明日という言葉があった。

 

それだけで、今はよかった。

 

ルドルフは、今度こそ走らなかった。

 

白い光の中で、二人の足音を聞きながら、立っていた。

 

それから、その景色もゆっくり遠くなった。

 

 

    *

 

 

シリウスは、音の中にいた。

 

足音だった。

 

前。

 

一つ。

 

自分。

 

一つ。

 

追う。

 

逃げているのではない。

 

前にいるのは、羆ではなかった。

 

ルドルフ。

 

「待て!」

 

叫ぶ。

 

ルドルフが振り返る。

 

笑っている。

 

腹が立った。

 

その顔が、いつもの顔だったから。

 

「待つものか!」

 

夢の中のルドルフが言う。

 

「なら追いつく!」

 

シリウスは地面を蹴った。

 

脚が動く。

 

膝は痛くない。

 

雪もない。

 

土。

 

草。

 

乾いた地面。

 

踏めば返ってくる。

 

押せば、押した分だけ、身体が前へ出る。

 

それが、たまらなく気持ちよかった。

 

追う。

 

ルドルフの背中。

 

少しずつ、大きくなる。

 

速い。

 

だから、追いたい。

 

逃げなければならないからではない。

 

置いていかれたくないからでもない。

 

自分で、追いつきたい。

 

それだけ。

 

シリウスは笑っていた。

 

息が苦しい。

 

でも、楽しい。

 

脚が痛い。

 

でも、もっと速く行ける。

 

自分で。

 

決める。

 

もっと。

 

行く。

 

ルドルフの肩へ並ぶ。

 

「追いついた!」

 

「まだだよ」

 

「並んだだろ!」

 

「追い越してない」

 

「じゃあ今からだ!」

 

もう一度、地面を蹴る。

 

半歩。

 

前。

 

ルドルフが横を見る。

 

今度は、悔しそうな顔。

 

それが、嬉しい。

 

走る。

 

二人。

 

並んで。

 

前へ。

 

いつの間にか、後ろにもう一つ、足音があった。

 

軽い。

 

一定。

 

ラモーヌ。

 

シリウスは、少しだけ速度を落とした。

 

意識して、そうした。

 

ルドルフも、同じだけ落とす。

 

三つの足音が、揃った。

 

次の瞬間、地面が白くなる。

 

雪。

 

音が変わる。

 

——ザ。

 

一歩。

 

シリウスの身体が強張った。

 

——ザ。

 

また。

 

背後。

 

来る。

 

逃げろ。

 

頭のどこかが叫ぶ。

 

脚が、前へ出る。

 

けれど、その時。

 

手に、何かがあった。

 

布。

 

掴んでいる。

 

ルドルフの服。

 

現実の手。

 

夢の中では、いつの間にか、ルドルフの手へ変わっていた。

 

「離すな」

 

自分の声。

 

「お前もな」

 

誰かの声。

 

雪が強くなる。

 

前が、見えない。

 

それでも、手。

 

ある。

 

もう一つ。

 

ラモーヌ。

 

三人。

 

いる。

 

そして、別の音。

 

こつ。

 

こつ。

 

規則的。

 

何だ。

 

羆ではない。

 

重くない。

 

夢の中のシリウスが耳を澄ます。

 

こつ。

 

こつ。

 

石が、何かを擦る音。

 

それは、現実の小屋で、七詩が薬草を挽く音だった。

 

危なくない。

 

夢の中では、誰も教えてくれない。

 

それでも、シリウスの身体だけが、そう知っていた。

 

——ザ。

 

羆の足音が、遠くなる。

 

こつ。

 

こつ。

 

近く。

 

一定。

 

また、足音。

 

ルドルフ。

 

ラモーヌ。

 

自分。

 

追うための音。

 

競うための音。

 

生きるために、好きな方向へ走る音。

 

シリウスは、もう一度、地面を蹴った。

 

次は、逃げるためではなかった。

 

自分で、行きたい方へ走った。

 

夢の中。

 

ルドルフが、少し前。

 

だから、追った。

 

 

    *

 

 

ラモーヌは、窓を見ていた。

 

正確には、窓の向こうを見ていた。

 

庭。

 

光。

 

走っているウマ娘。

 

何人も。

 

遠く。

 

地面を蹴る。

 

土が跳ねる。

 

風で髪が流れる。

 

声は、窓越しで、よく聞こえない。

 

隣には、アルダンがいた。

 

小さな椅子。

 

その上。

 

二人で、同じ窓を見ている。

 

外へ出られない日があった。

 

走れない日も、多かった。

 

そういう日は、窓。

 

外。

 

走る脚。

 

ただ、見ていた。

 

羨ましかったのか。

 

ラモーヌ自身にも、その頃はよくわからなかった。

 

ただ、目が離れなかった。

 

脚が地面を蹴る。

 

身体が前へ出る。

 

髪が、風に流れる。

 

見ていると、胸の中まで、少しだけ外へ行くような気がした。

 

「今日は走れるかしら」

 

アルダンの声。

 

どちらへ言ったのか、わからない。

 

ラモーヌは、窓を見る。

 

次の瞬間、窓がなかった。

 

庭に立っている。

 

脚。

 

地面。

 

土。

 

裸の感触に近いほど、はっきり足の裏へ返ってくる。

 

一歩、踏む。

 

身体が、前へ出る。

 

風。

 

頬。

 

耳の後ろ。

 

髪の間。

 

抜けていく。

 

もう一歩。

 

速くなる。

 

息。

 

胸へ入る。

 

苦しくない。

 

もっと。

 

ラモーヌは、走った。

 

誰かに勝ちたいわけではなかった。

 

前に、目標もない。

 

ただ、走る。

 

それだけ。

 

地面を蹴れば、身体が動く。

 

風が、自分の周りに生まれる。

 

景色が、横へ流れる。

 

それが、嬉しかった。

 

好き。

 

そういう言葉が、浮かんだ。

 

でも、それだけでは、少し足りない気がした。

 

何が足りないのか、まだわからない。

 

ただ、これをなくしたくない。

 

ずっと、こうしていたい。

 

そう思った。

 

その瞬間、足元へ白いものが落ちた。

 

雪。

 

一片。

 

次。

 

もう一つ。

 

地面が白くなる。

 

風が冷たくなる。

 

足の裏の感触が消える。

 

踏んだはずなのに、返ってこない。

 

脚。

 

動かない。

 

ラモーヌの胸が、締まる。

 

怖い。

 

羆とは、少し違う。

 

窓。

 

思い出す。

 

また、あそこへ、戻るの。

 

外を見ているだけの場所へ。

 

自分の脚で、ここへ来られない場所へ。

 

嫌。

 

夢の中で、初めて、強くそう思った。

 

走れなくなるのが、嫌。

 

風を、なくすのが、嫌。

 

地面を、蹴れなくなるのが、嫌。

 

もっと、走りたい。

 

その願いは、言葉よりも先に、身体の中にあった。

 

冷えた手を、誰かの手が包む。

 

温かい。

 

河原で、あった。

 

あの手。

 

指先。

 

少しずつ、感覚が戻る。

 

雪が、溶ける。

 

また、土。

 

ラモーヌは、一歩、踏んだ。

 

返ってくる。

 

地面。

 

もう一歩。

 

風。

 

走れる。

 

胸の奥に、何かが灯る。

 

それに、まだ名前はなかった。

 

けれど、いつか、きっと、この感覚を呼ぶための言葉が必要になる。

 

夢のラモーヌは、そんなことすら考えず、ただ走った。

 

そして、窓辺。

 

アルダン。

 

また、景色が変わる。

 

アルダンが、こちらを見ている。

 

「お土産話、聞かせてね」

 

あの日の声。

 

ラモーヌは、ポケットへ手を入れた。

 

羽根。

 

あるはず。

 

指先。

 

何か。

 

硬い。

 

引き出す。

 

白い夢の中で、羽根の形が崩れた。

 

軸。

 

途中。

 

折れている。

 

羽枝が、いくつも、ほどけている。

 

 

    *

 

 

ラモーヌの目が開いた。

 

火。橙。木の天井。小屋。

 

夢ではなかった。

 

ほんの少しだけ、起きた。身体はまだほとんど眠っている。視線だけが動く。

 

七詩。火のそば。いる。

 

その姿を確認した瞬間、胸の奥にあったものが少し静かになった。

 

ラモーヌはポケットへ手を入れた。手袋は外されていた。指が、まだ思うように動かない。それでも奥へ。指先へ羽根が触れる。

 

取り出す。

 

夢と、同じだった。

 

軸が折れていた。羽枝も、ところどころほどけている。

 

雪。転倒。何度も押し潰した。当然だった。

 

ラモーヌは羽根をしばらく見ていた。

 

アルダン。顔が浮かぶ。

 

持って帰る。そう決めたもの。きれいなまま、持って帰るつもりだった。

 

もう、きれいではない。

 

指先で羽枝を整えようとする。うまくいかない。一本、戻す。別の一本が開く。軸。折れている。

 

どうしても、元にはならない。

 

ラモーヌの耳が伏せた。

 

七詩がすり鉢を置いた。何も言わず、少しだけこちらへ近づく。その気配が、すぐ近くに来る。

 

ラモーヌは顔を上げない。七詩も羽根に手を出さない。

 

ただ、そばにいる。

 

火。毛布。温度。

 

ラモーヌはもう一度、羽根を見る。

 

きれいではない。でも、ある。なくしていない。

 

お土産。それだけでは、ないかもしれない。

 

話。なら、ある。たくさん。

 

丘。森。雪。シリウス。ルドルフ。羆。知らない人。暖かい手。

 

帰ったら、話せる。

 

そう思った。

 

ラモーヌは壊れた羽根を胸元へそっと置いた。握らない。潰れないように。毛布の上。

 

七詩が、乾いた布を一枚、その下へ差し入れた。

 

それだけ。

 

ラモーヌは見た。七詩。次。布。羽根。

 

もう一度、目を閉じた。

 

今度は、窓の夢へは戻らなかった。

 

ただ、風だけが残っていた。走る時の、頬を抜ける風。

 

その感触を抱いたまま、深く沈んでいった。

 

 

    *

 

 

三人の意識が深い場所へ落ちていく間も、七詩は動いていた。

 

ただし、遠くへは行かなかった。

 

最初のうちは、立ち上がるたび誰かが反応した。水を取るために二歩離れれば、ルドルフの眉が寄る。薪を選ぶために背中を向ければ、シリウスの指がルドルフの服を強く掴む。棚の上段へ手を伸ばし、音が一瞬途切れるだけで、ラモーヌの耳が持ち上がる。

 

だから、七詩は仕事を火の近くへ集めた。

 

すり鉢。乾燥させた草。布。水。小さな鍋。

 

三人から、手を伸ばしても届かない程度。けれど、気配が消えない程度。その距離で必要なことをする。

 

湯を沸かした。乾燥させた葉を少量入れる。匂いが出る。苦み。草。少しだけ木のような甘さ。

 

眠っている三人へ、一度に多くは飲ませない。身体を起こす必要もない。唇へ、少し。喉が動くのを確認する。

 

ルドルフ。次、シリウス。ラモーヌ。

 

飲めなければ止める。飲めるなら、もう少し。それだけ。

 

ルドルフの左足は、布を重ねて高くしておく。無理に動かさない。シリウスの膝は、汚れを落として乾いた布を当てる。ラモーヌの指は、色を見ながら、急に熱を入れすぎない。

 

七詩にとっては、特別なことではなかった。必要な順番を、ただ守っている。

 

羆を退けるより、こちらの方が難しいとすら少し思った。

 

羆なら、わかる。

 

腹が減れば、食う。危険を感じれば、退く。生きる。次を残す。それだけ。そこに大きな矛盾はない。

 

少女たちは、わからない。

 

動けなくなるまで逃げた。恐ろしいはずの場所で、互いのために足を止めた。一人ならもっと速く進めた場面が、何度もあった。それでも、誰も一人で行かなかった。

 

最後、羆の前で、ルドルフは七詩へ、逃げろ、と言った。

 

助けて、ではなかった。

 

自分が食われようとしているのに、初めて会った者へ、逃げろ、そう言った。

 

その理屈が、七詩にはまだうまくわからなかった。

 

正しいか、正しくないか。そういう問題でもない。ただ、そうした。その事実。

 

手を離さなかったことも、同じだった。

 

理由を言葉にすれば、いくらでも作れる。友情。恐怖。責任。執着。けれど、そのどれか一つへ収めると、何かが違う。

 

七詩は、そういうものを長く、記憶とは呼ばなくなっていた。

 

記録。出来事。結果。因果。それなら、残せる。余計な重みを持たずに済む。

 

今日のことも、記録できる。

 

三人。山へ入る。羆と接触。逃走。消耗。負傷。河原。保護。現在、睡眠。

 

そう並べれば、簡単だった。

 

けれど、そこに、どうしても一行に収まらないものがある。

 

三人の手。ルドルフの、逃げて。ラモーヌが、温かいと言った時にわずかに伏せた耳。シリウスが、眠りながら、まだルドルフの裾を掴んでいること。

 

そういうもの。

 

七詩には、何のために必要なのかわからない。必要ではないのかもしれない。

 

でも、残る。記録の中に、勝手に、熱を持って残る。

 

七詩は火へ薪を足した。橙色が明るくなる。

 

その色を見た瞬間、また、ひどく古い何かが浮かんだ。

 

火。布。温かい液体。誰かの手。自分の額へ触れる。

 

顔は見えない。名前も出てこない。場所も知らない。声すら、ほとんど残っていない。

 

ただ、近くに誰かがいた。その者が離れると、嫌だった。目を開けた。戻ってくると、また眠った。

 

そんな、自分のものなのか、誰か別の者のものなのかすら曖昧な記録。

 

その中で、たった一つ、熱だけが消えていなかった。

 

七詩は自分の手を見る。

 

先ほど、ラモーヌの手を包んだ手。ルドルフの毛布を直した手。シリウスを抱えた手。

 

どうすれば子供が安心するのか、七詩は知らない。何を言えば怖くなくなるのかも知らない。

 

羆に対する方が、よほど簡単だった。

 

退け。それで通じた。

 

この三人には、何を言えばいいのか、わからない。

 

だから、温める。毛布を掛ける。火を切らさない。喉が乾かないようにする。近くにいる。

 

かつて、誰かがそうしたように。

 

それだけ。

 

模倣なのかもしれなかった。何を模倣しているのか、本人にももうわからない。

 

それでも、ルドルフの眉間から少しずつ力が抜けている。シリウスの指も、さっきより緩い。ラモーヌの耳は、もう七詩が手を動かしても追わない。

 

なら、今はこれでいい。

 

七詩はそう判断した。

 

羆については、夜が明ければ確かめる必要がある。

 

退いた。それだけ。死んだわけではない。遠くへ去ったとも限らない。雪が止めば、痕跡を見ればいい。

 

今、外へ出る必要はない。

 

七詩は窓を見る。

 

白い。まだ、雪。

 

今すぐ、行かなくてもいい。

 

背後。三つの呼吸。そこにある。

 

 

    *

 

 

七詩は座ったまま、薬草を挽いた。

 

こつ。

 

こつ。

 

規則的な音がしばらく続く。

 

ルドルフ、動かない。シリウス、動かない。ラモーヌ、動かない。

 

少し前までは、音が変われば誰かが反応した。

 

今は、眠っている。深い。

 

呼吸。吸う。吐く。吸う。吐く。

 

三つ。違う速さ。それでも、続いている。

 

生きている。

 

七詩はすり鉢を置いた。静かになった。

 

それでも、三人は目を覚まさなかった。

 

今度は、七詩が立ち上がった。

 

ルドルフの眉、動かない。シリウスの手、ルドルフの裾を掴んだまま。でも、強くならない。ラモーヌの耳、伏せたまま。

 

七詩は一歩、離れる。

 

誰も起きない。

 

もう一歩。

 

それでも、眠っている。

 

ようやく、身体のどこかが、この場所を危険ではないと認め始めたらしい。

 

七詩は窓辺へ行った。外を見る。

 

吹雪は、かなり弱くなっていた。雲の底。ほんの少し、色が変わっている。

 

黒。灰色。その向こうから、白。

 

夜明け。

 

七詩は火へ戻った。大きめの薪を一本入れる。朝まで保つ。

 

ラモーヌの毛布の上。乾いた布。その上に、折れた羽根。

 

軸、折れている。羽枝、ほどけている。

 

七詩はそれを見た。

 

直そうとはしなかった。

 

本人が持ち帰るのだろう。それなら、今はそのままでいい。

 

ルドルフの顔。眠っている。もう、見張ろうとはしていない。

 

シリウス。まだ、裾を掴んでいる。

 

七詩は、その手を外そうとは思わなかった。必要なら、そのままでいい。

 

三人、眠る。ストーブ、燃える。毛皮、温かい。

 

七詩は、その光景を見た。

 

記録する。それで終わるはずだった。

 

なのに、なぜか、ほんの少しだけ長く見ていた。

 

理由はわからなかった。

 

わからないまま、窓が白み始める。

 

一筋。朝の光。木枠を細く照らした。

 

白い夜が、ようやく終わろうとしていた。

 

七詩は立ち上がった。

 

今度は、誰も反応しない。

 

扉へ向かう。一歩。二歩。

 

三人の呼吸は、変わらない。

 

七詩は、そこで一度だけ振り返った。

 

火。毛皮。三人。

 

その中心に、まだ、昨夜の恐怖が残っている。消えたわけではない。たぶん、しばらく消えない。

 

それでも、今は眠っている。

 

それで、十分だった。

 

七詩は小屋の扉へ手をかけた。

 

外には、夜の雪を全部抱えたまま、白い山が朝を待っていた。




2026/10/05
本文加筆。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。