氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
毛布を直し、温かいもの口に含ませる。そして、ただ規則正しくなった呼吸の音を聞く。
どこかの世界で、誰かにそうしてもらったことがある気がする。
名前も、顔も、場所も。全ての記録は未だ深い靄に包まれている。
ただ、あの時確かにあった『熱』だけが、記録の空白に焼き付いている。
だから、やる。
それだけのことだった。
火が、揺れていた。
三人とも、眠っていた。
眠っている、というより、意識が遠のいていた。完全に落ちているわけではなかった。毛布の重さが感じられた。床の硬さが感じられた。暖炉の熱が、少しずつ身体に染み込んでくるのがわかった。でも、目を開ける力がなかった。声を出す力がなかった。ただ、そこにいた。
暖炉の傍で、男が動いていた。
棚から乾燥した草を取り出していた。すり鉢に入れ、石で擂り始めた。規則的な音が、静かに続いた。急いでいなかった。ただ、必要なことをやっていた。
三人を運び込んだ直後に、状態を確かめていた。何が必要かは、その時点でわかっていた。だから動いている。それだけのことだった。
三人の呼吸が、少しずつ深くなっていた。
その境界の場所で、三人はそれぞれ、今日という一日を抱えていた。
ルドルフは、暗い場所にいた。
眠っているのか、起きているのか、わからなかった。でも、考えていた。考えというより、映像が浮かんでは消えた。
メジロ邸の庭。——先代、先々代の頃から縁のある名家へ遊びに来ていた。
その砂利道に、三人分の足跡があった。軽い足跡だった。急いでいない。遊んでいる子供の、気ままな歩幅だった。その足跡の先に、防風林があった。防風林の奥に、境界線があった。
自分が越えた境界線だった。越えては行けない境界線だった。
もう少しだけ、と言った。
一度目に言った時、シリウスが振り返っていた。二度目に言った時、ラモーヌが匂いに気づいていた。三度目に言った時、空は鉛色に変わり始めていた。それでも、自分は止まらなかった。
なぜ止まらなかったのか。
答えは、わかっていた。
自分の脚を疑ったことがなかったからだ。どれだけ走っても疲れなかった。どれだけ遠くへ行っても帰れた。その「力」が、自分を止める理由にならなかった。力があるということは、どこへでも行けるということだと思っていた。どこへでも行けるということは、どこへ行っても大丈夫だということだと思っていた。
今夜、初めて知った。
どこへでも行けることと、どこへ行っても大丈夫なことは、違う。
脚が動くことと、脚を使っていい場所にいることは、違う。
その違いを、シリウスは知っていた。ラモーヌは感じ取っていた。自分だけが、知らなかった。知らないまま、二人を連れていった。——その向こうへ。
足首が、遠くで痛んでいた。
その痛みを、ルドルフは今夜の授業料だと思った。安くない授業料だった。でも、払うべき授業料だった。次は、止まれる。次は、振り返れる。シリウスが振り返る時に、一緒に振り返れる。そういう人間に、なれる。
なれるかどうか、まだわからなかった。
でも、今夜知った。
それだけは、確かだった。
暖炉の火が、瞼の裏に揺れていた。
消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。その一点だけを見ながら、ルドルフの意識は少しずつ深いところへ降りていった。
*
シリウスは、姉貴の、姉貴と呼び慕うスピードシンボリの声を聞いていた。
夢ではなかった。まだそこまで落ちていなかった。でも、目を開けていなかった。目を閉じたまま、暗い場所で姉貴の声を聞いていた。
何を言っているのかは、聞こえなかった。
声の質だけが、届いていた。
姉貴の声は、いつも一定だった。怒っている時も、笑っている時も、根っこの部分が変わらなかった。揺れない部分があった。その揺れない部分が、シリウスにはずっと羨ましかった。いつか自分もああなりたいと思っていた。思いながら、どうすればああなれるのか、わからなかった。
今夜、斜面を下りながら、ルドルフの手を握っていた。
握った手が引っ張られた。ルドルフの重心が崩れた。あの瞬間、シリウスは考えなかった。体重を移していた。考えるより先に、身体が動いていた。
あの感触が、今も手のひらに残っていた。
引っ張られて、移して、均衡を取り戻した。それだけのことだった。それだけのことが、今夜の自分にできた数少ないことの一つだった。声は出なかった。方向はわからなかった。羆には勝てなかった。それでも、手を離さなかった。体重を移せた。
それだけでいい、と今夜は思うことにした。
姉貴はいつも言っていた。
できなかったことを数えるより、できたことを一つ覚えておけ、と。
シリウスはそれが嫌いだった。できなかったことの方が多い時に、できたことを数えることが、言い訳のように思えていた。でも今夜は——今夜だけは、そうしてもいい気がした。
手を、離さなかった。
それだけを、今夜の自分のものにしていいと思った。
毛布が、肩に触れていた。さっき震えた。震えたことが、少し恥ずかしかった。でも、震えた、ということは、温かさを受け取った、ということだ。受け取れた。それでいい。
姉貴の声が、遠くなっていった。
遠くなりながら、消えなかった。揺れない部分だけが、暗い場所に残っていた。
その声の残滓を、シリウスは胸の奥にしまった。
*
ラモーヌは、窓の外を見ていた。
夢の中の窓だった。
窓の外には、庭があった。メジロ邸の庭ではなかった。もっと小さい庭だった。どこの庭かわからなかったが、見覚えがあった。子供の頃に、よく見ていた庭だった。
庭に、走っているウマ娘たちがいた。
遠かった。窓越しだから、遠かった。声は聞こえなかった。笑っているのか、何かを叫んでいるのかも、わからなかった。ただ、走っていた。脚が地面を蹴るたびに、土が跳ねた。風が起きた。それが窓越しでもわかった。
ラモーヌは、その窓から離れなかった。
走れなかった頃のことを、ラモーヌは今夜初めて正直に思い出した。
走れなかった。生まれつき、身体のどこかが上手く動かなかった。走ると息が切れた。走ると頭が痛くなった。他のウマ娘が当たり前にやっていることが、自分にはできなかった。できないから、窓の外を見ていた。見ていることしか、できなかった。
その頃、隣にいたのが妹のメジロアルダンだった。
アルダンも、身体が強くなかった。二人で室内に並んで、外を見ていた。ラモーヌが絵を描いていると、アルダンが隣で眺めていた。何を描いたのか、もう覚えていない。でも、アルダンが静かに傍にいた感触は、今でも覚えていた。
走れるようになった時のことも、覚えていた。
最初の一歩目。風が頬を叩いた。土が足の裏で弾けた。息が、胸の奥まで入ってきた。
ああ、これだ、と思った。
これが、自分のものだ、と思った。
その感覚が、今夜の河原で消えかけた。
脚が動かなかった。雪の上に崩れ落ちた。立て、と命令しても、脚が応えなかった。あの瞬間、窓の外を見ていた頃のことを思い出した。また戻るのかと思った。あの窓の前に、また立つのかと思った。
でも、戻らなかった。
男が来た。
暖かい手が、凍えた指を包んだ。それだけで、肩から力が抜けた。立てた。足が前に出た。光の方へ向かえた。
走ることを愛している、と今夜初めて思った。
教わったのではなかった。誰かに言われたのでもなかった。失いかけた瞬間に、初めて自分の言葉として出てきた。愛している。走ることを。脚が地面を蹴る感触を。風が頬を叩く瞬間を。
夢の窓が、少しずつ遠くなっていった。
庭を走るウマ娘たちの姿が、霞んでいった。でも、消える前に——その中の一人が、こちらを向いた気がした。
向いて、笑った気がした。
ラモーヌは、その笑顔が誰のものかを確かめる前に、深い眠りに落ちていた。
*
三人の意識が、境界の場所へ落ちていく前に、男は動いていた。
鍋から、温かいものを椀に移した。草の匂いがした。甘くはなかった。それでも、身体の芯から温めるために必要なものが入っていた。
三人の唇に、順番に当てた。
飲める量は、わずかだった。意識が遠い状態で、一度に飲ませれば負担になる。少しずつでいい。今夜は、それで十分だった。ルドルフが、喉を小さく動かした。シリウスが、眉をわずかに動かした。ラモーヌが、静かに飲んだ。
それだけで、男は次の作業に移った。
薪ストーブに、新しい薪をくべた。火が少し大きくなった。橙色の光が、また部屋の隅々まで満ちた。三人の顔が、その光の中に照らされた。男は一度だけ、三人を見た。それから、視線を火に戻した。
すり鉢を取り出した。
乾燥した草を入れて、石で擂り始めた。規則的な音が、静かに続いた。急いでいなかった。夜が明けるまでに、やっておくべきことがある。それだけだった。
三人の状態は、把握していた。
河原で保護した時点で、すでに確かめていた。羆を退かせた後、三人に触れることで状況を診た。ルドルフの足首。シリウスの末端。ラモーヌの手。それぞれの損傷の深さと、回復に必要なものを、背負いながら計算していた。三人を小屋に運び込んだ直後、毛布をかける動作の中に、ごく自然に介入した。気づかれなかった。気づかれる必要もなかった。
ただ、間に合わなかった部分を補っただけだった。
壊れかけていたものを、壊れないように少し手伝っただけだった。
男は草を擂りながら、窓の外を見た。
吹雪が続いていた。夜明けまで、まだ時間がある。
羆のことを、考えた。
あの個体は、今夜ここを退いた。退いたが、去ってはいない。匂いが残っていた。あの眼の質が変わった時、男にはわかった。未知のものを前にした時の後退だった。恐怖ではなく、判断の保留だった。
判断を保留できる個体は、戻ってくる。
条件が変われば、判断が変わる。男という未知の存在がいなければ、三人は再び標的になる。この山で十数年生きてきた個体が、一度退いたからといって諦めるはずがなかった。あれは狡い。狡く、飢えている。飢えているから、諦めない。まだ近くにいることを男は知っていた。離れた場所でこちらを窺っていることを把握していた。——夜明けに、山に入る必要について考えた。
既に安堵の息を吐いて眠る三人に目を向けた。
少女たちが回復するまでの間、この場所の周囲を安全にしておく必要があった。それは、男にとって自然な判断だった。頼まれたわけではなかった。見返りを求めているわけでもなかった。ただ、必要なことだった。必要なことをやる。
——たすけて。
声ならぬ聲を、聞いていた。生きたい、死にたくないという生の鼓動を、確かに聞いていた。遠く離れていても届いた。この山の空気を伝って、世界の織物を揺らして、届いた。男はそれを「歌」と呼んでいた。言葉にすれば嘘になる何かを、そう呼んでいた。あの三人は、一度も助けを求める言葉を出さなかった。それでも、聞こえた。聞こえてしまえば、動く理由はそれで十分だった。
それだけのことだった。
すり鉢の音が、続いた。
男は作業をしながら、三人のことを考えた。
考えた、というより、記録した。今夜起きたことを、静かに整理した。記憶として抱えるには、あまりにも多くのことがあった。だから記録する。それだけのことだった。
この少女たちは、境界線を越えた。越えたことに気づかなかった。気づかないまま、深く入った。それは無謀だった。でも——男には、責める気がなかった。責める理由がなかった。子供が境界線を越える。それは、どの世界でも起きることだった。どの時代でも、どの場所でも。好奇心が、危険より先に脚を動かす。その結果として、今夜があった。
三人は、手を離さなかった。
その事実を、男は視ていた。静かに、記録の中に収めた。
斜面を下りながら、あれだけの状況で、手を離さなかった。転んでも、足首を傷めても、離さなかった。それは、脚力でも速さでも、運でもなかった。
男には、それが何かわかっていた。
言葉にはしなかった。する必要がなかった。ただ、わかっていた。
鍋に水を足した。火にかけた。明朝、三人が目覚めた時に飲ませるものを、今夜のうちに仕込んでおく。回復には時間がかかる。時間がかかることは、わかっていた。
どれくらいここにいることになるのか、男にはまだわからなかった。
わからなかったが、急く気もなかった。
行き先というものを、男は持っていなかった。正確には——持っていたことがあったかもしれないが、今は記録の奥に沈んでいて、取り出せなかった。どこかへ向かっていた。向かいながら、また旅を続けていた。この山に来る前も、そうだった。来る前も、その前も。どこへ向かっているのか、気づけば着いていた。それだけのことが、気が遠くなるほど続いていた。
「……また迷子になったの?」
姉の声が、記憶の底から浮かんだ気がした。正確には記憶ではなく、記録だった。感情の重みが薄れた、ただの記録。それでも声の質だけは残っていた。呆れていて、でも心配していて、どちらが本当かわからない声だった。
姉が付けてくれた不可視の首輪がある。引かれた時だけ、男には行き先ができる。どこかの世界、どこかの場所に立つ姉の元へ、初めて迷わずに辿り着ける。そうでない限り、世界を渡る男がどこへ辿り着くかは、男自身にもわからなかった。
——迷子ではない、と男は思った。旅をしているのだ。
それでいい、と思っていた。
いつもそう思っていた。
窓の外で、吹雪が少しだけ弱まった。
夜明けが、近づいていた。
男は鍋をかき混ぜながら、暖炉の火を見た。揺れていた。不規則に揺れていたが、消えなかった。
三人の呼吸が、部屋の中に聞こえた。
深く、静かな呼吸だった。
生きている。
それだけが、今夜この場所にある全てだった。男には、それで十分だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
すり鉢の音が、夜明けまで続いた。
やがて、分厚い雲の切れ間から白み始めた光が、窓枠を薄く切り取った。男は静かに立ち上がり、小屋の扉へ手をかけた。