氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
古い紙の匂いがする。
道立図書館の郷土資料室に、その記録は眠っていた。表紙は黄ばみ、綴じ糸が一部ほつれている。紙の端は湿気を吸って波打ち、何度も開かれた頁だけが、ほかよりわずかに黒ずんでいた。墨で記された文字は薄れている。それでも、まだ読める。
大正十三年冬 某郡某村 凶事ニ関スル記録
十一月某日
夜半、村外レノ農家ニテ異変アリ。
翌朝、家人ノ惨死体ヲ発見ス。
獣害ト思シキ痕跡アルモ、足跡ノ大サ尋常ナラズ。
納屋の戸は外側から破られていた。柱には深い傷が残され、家畜小屋の一部は倒壊していた。死体の状態について記したと思われる箇所は、後世になって墨で塗り潰されている。何がそこに書かれていたのかは分からない。ただ、その下に一文だけ残っていた。
「羆ノ仕業ト見ル者多シ」
その横に、別の筆跡。
「然レドモ大キサ合ハズ」
それ以上の説明はなかった。
同月
捜索隊、山中ニ入ル。
足跡ヲ追フモ中途ニテ消失。
渡渉シテ痕跡ヲ晦マシタルモノト推測サル。
沢へ下った跡はあった。そこまでは追えた。だが対岸に、続きはなかった。上流にも、下流にも。数名の猟師が半日にわたって周辺を捜索したが、獣が川から上がった形跡は発見されなかったという。記録者は「流水ニヨリ痕跡流失セルモノナラン」と結論づけている。
その直後に、小さな文字で追記がある。
「然レドモ雪上ニモ無シ」
翌月
再ビ被害アリ。
今度ハ隣村ナリ。
距離実ニ三十里。
同一個体ノ仕業トナス説アルモ、信ズル者少ナシ。
獣ガ斯クモ広範囲ヲ移動スルハ、未ダ曾テ聞カザル所ナリ。
被害現場には、やはり大きな足跡があった。最初の村で採取されたものと似ていたという。だが当時は足型を正確に保存する術も乏しく、同一個体であったことを示す資料は残っていない。
さらに記録には、この冬、周辺の川沿いで鹿の死骸が相次いで見つかったことが記されている。いずれも大型獣による食害と判断された。一部では川岸まで足跡を追跡できた。そして、そこで途切れた。
同月末
討伐隊ヲ編成ス。
総勢十数名。
村一番ノ猟犬五頭ヲ伴ヒ、老練ナル猟師モ加ハル。
然ルニ入山直前、全テノ犬地ヲ這フ如ク伏シ、尾ヲ股間ニ巻キテ震慄シ、一歩モ動カザルニ至ル。
鞭打ツモ起タズ、血ヲ吐ク如ク吠エ立テ、入山ヲ拒絶セリ。
猟犬はいずれも熊猟に慣れていた。少なくとも、そう伝えられている。そのうち二頭はそれ以前にも羆を追った経験があり、一頭は前年の猟で主人を熊の接近から救った犬だった。
それでも、その日だけは山へ入ろうとしなかった。綱を引けば伏せた。抱き上げて進もうとすれば暴れた。山の方角へ顔を向けることさえ嫌がったという。
猟師ノ一人、
「熊ニ怯エタルニ非ズ」
ト言フ。
何に怯えていたのかは書かれていない。
止ムナク人間ノミニテ入山。
以降、記録途絶ユ。
次の頁は存在しない。破れた跡だけが残っている。最初から綴じられていなかったのか、後から抜き取られたのか、判別できない。
ただ、冊子の後半には、これとは別の時期に行われた聞き取りの断片が挟まれている。
「奥山ニ入リテ帰ラザル猟師、昔ヨリ有リ」
「雪崩又ハ凍死ト思ハルルモ、亡骸見ツカラザル者有リ」
「犬ヲ連レズ入リタル者ニ多シト言フ者アレド、確カナラズ」
氏名も、人数も、正確な年代も書かれていない。
事故だったのかもしれない。冬の北海道の山では、人間が消える理由などいくらでもある。吹雪。雪崩。低体温。転落。道迷い。沢への滑落。そして、羆。わざわざ別の何かを想定する必要はない。
さらに古い伝承を書き写したと思われる紙片には、こうある。
「山奥ニ神ガカリタル熊アリ」
「悪シキモノ憑キタル羆、犬コレヲ知リテ近寄ラズ」
その横には、後世の研究者らしき鉛筆書きで、一言だけ記されていた。
「俗信」
最初の記録へ戻る。討伐隊の記事が途絶えた頁。その余白に、後から書き加えられた文字がある。墨の色が違う。筆跡も違う。誰が書いたのかは分からない。いつ書かれたのかも分からない。
「化生ナリ。
羆ニ非ズ。
何ゾ別ノ怪物ナリ」
それだけだった。
この記録が書かれてから、およそ百年が経った。
*
同じ資料室の、別の書架にある。
郷土資料ではない。行政文書の複写を綴じたもので、目録には整理番号だけが振られている。表紙に押されるはずの受付印がない。どこかで一度、正規の流れから外れた冊子だった。
【取扱注意(関係機関限り)】
令和六年九月十一日
関係機関 各位
北海道 環境生活部 自然環境局
(公印省略)
特定有害鳥獣(ヒグマ)による被害状況および今後の対応について(報告)
本年度において確認された特定個体(以下「当該個体」という。)による農業等被害の状況、およびこれまでの対応経緯等について、下記の通り報告する。
記
1.被害の概要
本年度における当該個体による被害(確認分)は以下の通りである。
(1)春季被害(石狩管内)
酪農家所有の牛舎の一部損壊、および成牛一頭の食害。現場に残された爪痕、足跡、構造物の損壊状況等から、体長二・七メートル超、体重四百キログラム以上の大型個体と推定。
(2)夏季被害(空知管内)
養豚場の外囲フェンス(高さ二メートル)の損壊、および豚三頭の所在不明。周囲五十メートルにわたり血痕および足跡を確認。付近の林縁から追跡を試みたものの、河川付近で不能となる。
(3)初秋被害(胆振管内)
八月下旬から九月上旬にかけて、養鶏場の鶏舎の一部損壊、および鶏四十二羽の食害。現地において大型ヒグマとみられる足跡および体毛を採取。
※被害地点間の最大距離は百五十キロメートルを超過。一般的な雄ヒグマの行動圏と比較して著しく広範囲であり、同一個体によるものと仮定した場合、極めて高い移動能力を有すると考えられる。
なお、現在までに採取された資料のみでは、すべての被害を同一個体によるものと断定することはできない。一方、足跡の大きさ、歩幅、構造物の破壊状況、移動経路等に複数の共通点が認められるため、本報告書では暫定的に同一個体として取り扱う。
また、当該個体との関連が疑われるものとして、以下の痕跡が報告されている。
・山林内におけるエゾシカ等の大型野生動物の食害
・河川に遡上したサケの捕食
・堅果類および山菜等の植物性食物の採食
・倒木、腐朽木等を破壊した昆虫類採食痕
・家畜飼育施設への侵入
当該個体がこれらすべてに関与した証拠はない。しかし、これらが事実である場合、山林、河川、人里を季節に応じて移動し、極めて多様な食物資源を利用していることになる。
2.当該個体の特異性および専門家の所見
現地調査の結果、当該個体には以下の特異な生態・行動が認められる。
(1)越冬活動
過去三年間にわたり、積雪期における活動痕跡を確認。通常の冬眠期間中にも移動および採食を継続している可能性がある。競合個体の活動低下を利用した生息域の独占、あるいは通常個体を大幅に上回る栄養要求量に起因するものとの仮説があるが、現時点では確定していない。
(2)対人接触の回避行動
現在までに、当該個体によるものと確定した人身被害の報告はない。家畜飼育施設や人家周辺へ複数回接近しているにもかかわらず、住民との直接接触事例は極めて少ない。このことから、人間の活動時間帯を認識し、意図的に接触を避けている可能性が指摘されている。一部専門家からは、大規模な捕獲活動を誘発する危険を回避しているとの意見も提出された。
ただし、確認可能な人身被害が存在しないことをもって、当該個体が人間を攻撃しないと判断することは適当ではない。
過去の未解決行方不明事案について照合を行ったものの、古い事案の多くは入山日時、経路、天候、装備等の情報が不足しており、関連性を検証することはできなかった。山中へ単独で入った猟師、林業関係者等の未帰還例も複数確認される。そのうち数件について、「猟犬を伴っていなかった」との証言が残る。ただし記録の正確性を担保できず、当該個体および類似個体との関連を示す証拠はない。
(3)痕跡の隠蔽と高い警戒心
渡河による足跡の断絶、バックトラック(引き返し行動)、岩場等を利用した追跡困難な経路の選択が複数回確認されている。野生動物において同様の行動自体は存在するものの、当該個体では頻度が高い。追跡者の存在を認識した上で行っているか否かについては、意見が分かれている。
3.目撃証言について
当該個体と思われる大型獣について、過去三年間に複数の目撃情報が寄せられている。いずれも「通常のヒグマより明らかに大きかった」という点では概ね一致する。
一方、毛色については証言が一致しない。
・「黒かった」
・「黒褐色であった」
・「茶に近い色をしていた」
・「灰色がかって見えた」
・「雪の上では、淡い色に見えた」
目撃時刻、天候、距離等が一定せず、暗所における色覚および目撃者の心理状態による誤認の可能性が高いため、個体識別資料としての使用は適当でないと判断された。したがって、毛色については参考情報に留める。
4.対応経緯および現状の課題
現在、関係猟友会等へ捕獲・駆除を依頼中であるが、以下の要因により難航している。
(1)管轄区域の広域性
複数の振興局・市町村を跨ぐ移動により、行政対応の一元化および予算措置の調整が困難。
(2)冬季における捜索の限界
積雪および日照時間の短縮により、実働時間が極めて限定的である。また当該個体が積雪期にも活動していると仮定した場合、人員側のみが行動制限を受ける状況となる。
(3)捜索犬(猟犬)の運用における特異事案
現場投入した訓練済みの捜索犬複数頭が、当該個体の痕跡付近において激しい忌避反応を示し、追跡不能となる事例が頻発している。報告された反応は以下の通り。
・伏せたまま動かなくなる
・尾を巻く
・異常に吠え続ける
・進行方向とは逆へ逃走しようとする
・指示に反応しなくなる
当初は大型ヒグマの臭気に対する通常の恐怖反応と考えられた。しかし、過去にヒグマの追跡経験を有する猟犬においても同様の事例が発生した。原因は特定できていない。
これにより、従来の「犬による追い上げ」は事実上不可能な状況にある。
5.推定体格について
当初、現場に残された爪痕および足跡等から、当該個体は体長二・七メートル超、体重四百キログラム以上と推定された。しかしその後、複数地点に残された足跡幅、歩幅、積雪への沈下量、家畜および構造物の損壊状況等について再検討を実施した結果、初期推定値を大幅に上回る可能性が指摘されている。
専門家の一人は、「既知の道内大型個体の延長として説明する場合、複数の痕跡との間に整合しない点が残る」と報告した。
体重推定については誤差が大きく、現段階で数値を確定することはできない。
一方、内部検討資料には、こうある。
「極端な推定を採用した場合、八百キログラムを超過する可能性についても完全には排除できない」
その一文には、線が引かれていた。強調のためなのか。削除するためなのか。判別できなかった。
6.大型化要因に関する所見
当該個体の体格について、豊富な栄養資源、長期間にわたる広域採食、冬眠期間の短縮または消失等、複数の環境的要因が検討されている。また一部の専門家からは、「環境要因だけでなく、個体の遺伝的素因についても検討すべきである」との意見が提出された。
過去に道内で報告された大型個体との系統的関連についても調査案が提出されているが、比較可能な試料が不足している。
現時点において、既知のエゾヒグマと異なる系統であることを示す証拠はない。したがって本報告書では、著しく大型のエゾヒグマと推定される個体として取り扱う。
7.留意事項
本報告書の内容は内部情報とし、一般への開示は厳に慎むこと。特に推定体重、過去の未解決行方不明事案、および捜索犬に発生している特異反応については、情報の確度が十分でないため確定情報として取り扱わないこと。
詳細は別添資料を参照されたい。
以上
*
この冊子には、正式な文書には残らないはずの書き込みがいくつか挟まっている。複写を綴じる際に、原本の余白ごと写し取ってしまったものらしい。
担当調査員の一人は、現地視察後にこう記している。
「百年前の記録を読んだ。
同じだった。
全て、同じだった」
何が同じだったのかは書かれていない。巨大な足跡。広すぎる移動範囲。川で途切れる痕跡。冬の活動。犬の異常反応。あるいは、山へ入ったまま、戻らなかった人間。
その後の聞き取りに対し、調査員本人は「行動上の類似性について記しただけだ」と説明している。それ以上は語らなかった。
また専門家の一人は、報告書の余白にこう書き残している。
「この個体は、追われていることを知っている。
知った上で、山にいる」
報告書は、そこで終わっていた。
別添資料は存在しなかった。少なくとも、その冊子には綴じられていなかった。ただし資料目録の末尾には、一行だけ、こう記されていた。
「別添:当該個体によるものと推測される捕食現場の非公式記録
※本冊子より分離保管」
分離保管先は記載されていない。紛失したのかもしれない。誤って廃棄されたのかもしれない。あるいは、別の部署へ移されたまま所在が分からなくなっただけなのかもしれない。
そこに何が記されていたのか。誰がそれを見たのか。記録から知ることはできなかった。
*
大正の記録と、令和の報告書。百年の時を隔てて、二つの文書は同じものを別の言葉で記していた。一方は、羆ではない、と書いた。一方は、最後までヒグマと書いた。
どちらが正しいのかは分からない。そもそも、同じものについて書かれた記録なのかさえ分からない。
百年前のものと、今、山にいるもの。足跡が似ている。行動が似ている。犬が怯える。それだけだ。
同じ個体であるはずがない。
ならば。
何が、同じなのか。
*
そして、その秋。
メジロ家の庭師が手を入れた砂利道に、三人分の足跡が続いた日があった。軽い足跡だった。急いでいない。逃げてもいない。遊んでいる子供の、気ままな歩幅だった。三つの足跡は時折重なり、また離れ、並んで続いていた。
その先には、防風林があった。
三人分の足跡は、その奥へと続いていた。
2026/10/05
順番とタイトルの一部を入れ替え。
本文加筆。
2026/04/01
慣れないスマホ操作、久しぶりの投稿、拡張された追加機能…。
ダメだ、全然使いこなせない。
時系列は、本体が競馬史を全く知らないのでアプリ準拠(令和)にしましたが、シングレのようにするべきなのか、かなり悩みました。
ただ平成初期とか、昭和末期にしてしまうと舞台設定に無理が出てくるような気もしたんですよね。
どうすれば良かったんだ…。