氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
そして、揺れる炎は暖かかった。
夜が明ける。
恐ろしい森の魔法は解け、怪物は吹雪の向こうへ霞んでいった。
あれは、幻だったのだろうか。
そう問うには、毛皮の温もりが、あまりにも確かなままで。
目を覚ます。
呆れるほど平和な、いつかの午後の日向の中で。
これは、いつかどこかであったかもしれない、午後の話だ。
ある日、訪れたある場所で。
枯れ枝を口に咥えたまま、男が一人、横になっていた。毛皮の上に転がって、特に何もしていなかった。目が開いているのか閉じているのか、遠目にはわからなかった。
「……」
「……」
「……」
三人とも、しばらく何も言わなかった。
あの夜のことを、それぞれの形で覚えていた。羆の前に立った背中を覚えていた。枝一本で巨体を退かせた瞬間を覚えていた。吹雪の中を、三人分の重さを抱えて一歩も乱れずに歩いた足音を覚えていた。
「……これが」
シリウスが言いかけた。
「そう」
ラモーヌが答えた。
「あの人が」
「そう」
「枯れ枝一本で羆を」
「そうよ」
男が寝返りを打った。枝が、口から落ちた。手が伸びて、また咥えた。それだけだった。
ルドルフは少し間を置いてから、静かに言った。
「……人は、見かけによらないものだね」
命の恩人だった。歩き方を含めた様々なことの師でもあった。感謝してもしきれない存在のはずだった。
あの夜の静謐さ、異質さのようなものは、欠片も見られなかった。
決して片付けが苦手というわけでもないはずなのに、散らかった部屋だった。否、本人の基準からすれば、これでも十二分に整理されている方なのかもしれない。視線の奥でグースカ寝ている当人からすれば、の話だが。
「足の踏み場もないじゃねぇか」
誰の声だったか。ルドルフか、シリウスか、ラモーヌか、あるいは三人同時か。
かき分けて進むこともできる。無理やり起こすこともできる。ただ、それをした結果、積み上がったものが崩れて目も当てられない惨事に直面したことが——三人のうち少なくとも一人には——あるだけに、最初の一歩が踏み出せないまま固まっていた。
すると、部屋の主がのそりと起き上がった。
熊みたいだった。体格の話ではなく、動作が。
「……」
視線が合った。
「……」
「……」
「……」
誰も声が出なかった。
「……おはよう」
「もう昼よ」
状況を把握したらしい男が口を開いた。ラモーヌが静かに糺した。
「……そうか」
寝起きで頭が回っていないのかもしれない。それでも、どこまでもあの時と同じ言葉遣いだった。あの小屋で世話になっていた間、眠っている様子など一度も見なかったのに、どこまでも人間らしい仕草だった。
「……どうした」
「たまには顔を見たくなってね」
ルドルフが言った。シリウスが鼻を鳴らした。ラモーヌは何も言わなかったが、否定もしなかった。
「そうか」
会話が途切れた。
昔からこれだった。必要なことを、必要なだけしかしない。ちゃんと起きて意識がはっきりしてくれば、また違うのかもしれない。今はダメかもしれないと思った。
誰も、何も言わなかった。
妙な凄みがあった。散らかった部屋の真ん中で、寝起きの優男が枯れ枝を咥えて座っているだけなのに、妙な凄みがあった。そういうところだけは、昔も今も変わらないと三人は思った。
沈黙が続いた。
続いたところで、男がまた横になった。
「……寝るの」
「もう少し」
「ちょっと、私たちがいるんだけど」
「わかってる」
わかっていて、寝た。
三人は顔を見合わせた。
それから、ほぼ同時に、小さく息を吐いた。笑い声というより、諦めが音になった感じだった。でも、悪くなかった。
しばらく待った。
待つしかなかった。
どれくらい経っただろうか。部屋の主が、今度こそ起き上がった。目が、さっきより開いていた。枝を咥え直して、三人を順番に見た。見てから、立ち上がった。特に何も言わなかったが、外に出る気らしかった。三人もついていった。
外の空気は、思ったより温かかった。
「もう少し片付けたらどうだ」
歩きながら、シリウスが言った。「苦手じゃないだろ、あんた」
「この間片付けた」
「……あれで?」
「あれで」
断言だった。迷いがなかった。三人は顔を見合わせた。
「なんであれだけ積み上がるんだ」
ルドルフが聞いた。
「いろいろ回っているうちに、もらえるんだ」
「もらえる」
「みんないい人だな」
言い切った。心底そう思っているらしかった。
「誰に」
ラモーヌが続けた。少し静かな声だった。
「この間は、山の麓の茶屋の娘さんに。その前は、街はずれで薬草を売っている婆さんに。あとは——」
男は少し考えた。考えながら、遠い目をした。遠い目というより、何かを記録から引き出している目だった。
「峠を越えた先に、道場がある。そこの師範代が、なかなか見どころのある娘でな」
三人の歩調が、わずかに乱れた。
「師範代」
「ああ。腕が立つ。目つきがいい。教えがいがある」
「……ふうん」
「ふうん」
「……そう」
声の温度が、三人とも、微妙に下がっていた。
男は気づいていないのか、気づいていて言わないのか、どちらかわからない顔で続けた。
「茶屋の娘さんも、よく差し入れを持ってきてくれる。気が利く」
「……そう」
「婆さんも、根はいい人だ。口は悪いが」
「……婆さんはいいわよ、別に」
ラモーヌが言った。
シリウスが小さく頷いた。
ルドルフは何も言わなかったが、耳が微妙な角度になっていた。
男は枝を咥え直した。
何かに気づいた様子もなく、少し先を歩いていた。
「顔を見に来てくれるのは、ありがたい」
振り返らずに言った。「また来い」
三人は、また顔を見合わせた。
ルドルフの耳が、わずかに前へ向いていた。
シリウスの尻尾が、一度だけ揺れた。イライラした時のクシャクシャではなく、もっと柔らかい揺れ方だった。
ラモーヌは何も言わなかった。表情も変わらなかった。ただ、耳の角度が、少しだけ変わっていた。
三人とも、互いの反応を見た。
見てから、何も言わなかった。
言わなくてよかった。
男の背中が、少し先を歩いていた。
あの夜と同じ背中だった。対して三人とも無垢な子供から随分と大人びた。身体も心も。けれど、男は変わってなどいなかった——むしろ少し、否かなり、ズボラになったようにすら見える——その事を誰も口にはしなかった。口にすれば、また別の問いが始まる気がした。
それから少し歩いた先で、男の口から枝が落ちた。
今度は拾わなかった。
そのまま歩き続けた。
「……拾わないのか」
誰かが問うた。
「また拾う」
男は答えた。あの日の夜に聞いた朴訥とした声だった。
それを聞いて三人は、今度こそ笑った。
声に出して、笑った。
——もっとも、それがいつのことなのか、どこの話なのか、誰も確かめなかった。
確かめなくても、また来ればいい。
そう思えることが、すでに答えだった。
これにて、第一章『呼気は白く、死は黒く、揺れる炎は暖かく。』は幕を下ろします。
ここまで、逃げ場のないホラーとしての質感と、圧倒的な自然の脅威を意識して書き進めてきました。少女たちは辛うじて窮地を脱しましたが、その代償は決して軽くありません。凍てついた身体と傷ついた心には、癒えるための相応の時間が必要となるでしょう。
ここで綴った暖かな午後のひととき、それは過酷な夜が見せた束の間の夢か、あるいは確かな現か。
彼女たちが眠りについている間、屋敷の側ではまた別の、焦燥に満ちた時間が流れています。
第二章『問いは白く、沈黙は黒く、明けぬ夜はただ長く。』近日投下予定です。
また次の物語でお会いしましょう。
――それでは、良い夢を。