氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
境界はいつも静かに越えられ、時計の針だけが取り返しのつかない午後を指す。
——けれど貴方は知っている。その空白の向こう側を。
銀のティーポットが、誰にも触れられないまま冷めていた。
午後のお茶の時間に合わせて用意されたそれは、テーブルの上で静かに熱を失い続けている。傍らには、三人分の菓子皿がそのままだった。食べかけのクッキーが一枚、ラモーヌの席に残っている。席を立つ時、彼女はきっと戻るつもりだったのだろう。戻るつもりで、残したのだろう。
アサマはそのクッキーを見ていた。
見ながら、今朝のことを思い出していた。朝、ラモーヌが応接間に入ってきた時、カーディガンを着ていた。薄手の、淡い色のカーディガンだった。今年はもう少し厚いものを着なさいと言おうとして、言いそびれた。言いそびれたのは、ルドルフとシリウスが先にやってきて、三人の笑い声が部屋を満たしたからだった。笑い声の中で、カーディガンのことを忘れた。
忘れたまま、あの子は出ていった。
執事のベルナールが戻ってきたのは、捜索を始めてから四十分後のことだった。
玄関ホールに入ってくる彼の顔を見た瞬間、アサマには全てがわかった。何かを言う前から、その顔が全てを語っていた。顔色ではなかった。歩き方だった。四十年、この家に仕えてきた男の歩き方が、今日だけは違った。重かった。引きずっているわけではない。ただ、一歩ごとに何かを堪えながら歩いている人間の歩き方だった。
「……おりません。庭園の隅々、温室の裏、敷地の東端に至るまで」
報告する彼の指先が、微かに震えていた。四十年、この家に仕えてきたベルナールの指先が。アサマはその震えを見て、初めて自分の手も同じだと気がついた。着物の袂の中で、知らぬ間に握りしめていた。いつから握りしめていたのか、わからなかった。
「センサーのログを」
傍らにいたスピードシンボリが、静かに言った。
警備担当の使用人が震える手で端末を差し出す。スピードシンボリはそれを受け取り、無言でログを遡った。
午後二時十七分。
赤外線センサーの反応が、敷地北東の防風林付近で三点、ほぼ同時に消えている。消えた、というより——境界を越えた瞬間に検知範囲の外へ出た、ということだ。
「二時間以上前だ」
誰も何も言わなかった。
二時間。この気温の低下速度で、薄着の子供が屋外に二時間。数字としては単純だった。しかしその数字が持つ意味を、その場の全員が理解しているから、誰も声に出せなかった。声に出せば、それが現実になる気がした。
アサマは窓の外に目を向けた。
数時間前まで秋の穏やかな光が差し込んでいた窓の向こうに、今は鉛色の壁が迫っていた。山側から流れ込んできた暗雲が、空の青を残らず塗り潰している。風が出てきた。庭の木々が大きくしなり、枯れ葉が窓を叩いていった。
あの子たちが出ていった方角だ。
アサマは視線を窓から引き剥がし、振り返った。玄関ホールに集まった使用人たちの顔を見渡した。二十年、三十年とこの家に仕えてきた者たちの顔が、一様に青ざめていた。全員が、アサマを見ていた。次の言葉を待っていた。
この人たちは、自分を見ている。
アサマは、それを改めて理解した。今この場所で、自分が崩れれば、全員が崩れる。崩れている場合ではない。まだ、崩れてはいけない。
「警察と消防への連絡は」
「すでに入れております。ただ、この天候では——」
「ヘリは」
「視界不良で飛べないと。地上からの捜索隊を編成中とのことですが、到着まで最短でも一時間半かかると」
一時間半。
アサマは目を閉じた。一秒だけ閉じて、また開いた。頭の中で計算する。気温の低下速度。子供の体温。薄着で屋外に三時間以上いた場合の身体への影響。数字は冷静に並ぶのに、その数字が指し示す先を、思考が拒絶していた。ウマ娘という種は、その強靭な肉体を維持するために膨大な熱量を消費する。それは逆を言えば、エネルギーが枯渇した瞬間に、通常より速く深く、体温を失うということだった。
「地元の猟友会に連絡しなさい」
アサマの声は、自分でも驚くほど平静だった。
「この山を知っている人間が必要です。警察の山岳救助隊が来るまでの間、地理を把握している者の意見を聞かなければなりません」
「はい」と返事をした使用人が、廊下へ走っていく。その足音が遠ざかっていく間、ホールは静かだった。
スピードシンボリは端末を持ったまま、センサーのログを見ていた。
二時十七分という数字を、何度も確認していた。確認するたびに変わるわけでもないのに、目が離せなかった。
自分たちが庭でお茶を飲んでいた時間だ。
三人がはしゃいでいる声を、大人たちは微笑ましく聞いていた。少し騒がしいとさえ思っていた。止めなかった。止める言葉が、浮かばなかった。その同じ時間に、あの子たちは防風林の奥へ消えていったのだ。
端末をテーブルに置いた。
置く時、少しだけ力が入った。テーブルが小さく鳴った。それだけだった。
「ラモーヌは、カーディガン一枚だったかしら」
アサマが言った。問いではなかった。答えを求めているわけでもなかった。ただ声に出さずにいられなかっただけだ。着物の袂の中で、指が掌に食い込んでいた。
スピードシンボリは答えなかった。
窓の外で、最初の雪が舞い始めていた。一粒、二粒、庭の石畳に落ちて消えた。それからは早かった。雪は一度降り始めると、あっという間に視界を塗り替えていった。庭の輪郭が滲んだ。防風林の影が白い帳の向こうに消えていった。
あの子たちが越えていった境界線が、今は雪の中にある。
*
猟友会への連絡がついたのは、それから二十分後だった。
電話口に出たのは、この山で三十年以上猟をしているという男だった。声は低く、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。それがかえって、スピードシンボリの背筋を冷やした。
「羆の目撃情報が出ています」
開口一番、その言葉だった。
「先週から、この辺りで痕跡が複数確認されていた。冬眠できていない個体がいると思っていましたが——」
一拍、止まった。
「——三日前のニュース、ご覧になりましたか」
スピードシンボリは、隣のアサマを見た。
アサマは窓の外を向いたまま、ほんのわずかに頷いた。見ていた、という意味だった。スピードシンボリはアサマの横顔を一秒だけ見てから、受話器に向き直った。
「ええ」
「……そうですか」
短い沈黙があった。その沈黙の重さが、言葉よりも多くを語っていた。
「今夜、山に入れますか」
「入れません」
即答だった。
「この雪の状態では、私たちでも遭難します。夜明けに備えて準備はします。夜明けと同時に入ります。それが、お嬢さんたちのためにできる、今夜一番の仕事です」
「一つだけ」
スピードシンボリは、次の言葉をわずかに間を置いてから出した。
「遭遇した場合——あの子たちは」
「奴がヒトを襲わないのは、そこが『ヒトの領域』だと知っているからです」
静かな声だった。
「牛舎や鶏舎を荒らすのは——そこに踏み込んでも、ヒトが直接手を出してこないとわかっているからです。隙がある。計算できる。だから入る」
一息ついた。
「ヒトそのものには、手を出さない。今のところは。それがなぜかは、わからない。ただ、そういう個体です。ヒトの領域の境界を、奴は正確に引いている。そしてその境界を、お嬢さんたちは越えた」
「越えた先では——」
「計算次第です」
通話が切れる、直前だった。
「——ただ」
男が、もう一度口を開いた。
「三日前、ここから少し離れたところで被害が出ています。規模でいえば、十分に腹を満たしていてもおかしくはない」
一息。
「可能性があるとすれば——それにかけるしかない。奴が空腹でなければ、ですが」
今度こそ、通話が切れた。
スピードシンボリは受話器をゆっくり置いた。その手が、テーブルの縁を一瞬だけ強く握った。それだけだった。
腹が満ちていれば。
その言葉と、計算次第、という言葉が、耳の中で交互に響いていた。どちらが本当のことを言っているのか。どちらにかけるべきなのか。かけることと、信じることは、今夜は違う気がした。かけるしかないから、かける。信じているから、かけるのではない。
それでも。
その細い可能性を、スピードシンボリは胸の奥にしまった。捨てなかった。今夜この場所で立っているために、捨てることができなかった。
アサマは窓に手を当てていた。
いつからそうしていたのか、スピードシンボリには見えていなかった。ガラスに触れたまま、動かなかった。その手が、何かを確かめているように見えた。冷たさを確かめているのか。それとも、ガラスの向こうにあるものを確かめているのか。
しばらくして、手を離した。
掌に、ガラスの冷たさが残っているだろうと、スピードシンボリは思った。
*
「先遣隊を出します」とアサマが言った。
使用人たちに向けた声だった。
「警備隊から四名。まだ雪が積もりきる前に、入山口付近だけでも確認してきなさい。深くは入らない。入れる状態でもない。ただ、行けるところまで行って、戻ってきなさい」
隊長格の男が頷いた。四人が動いた。外套を着込む音がした。装備を確かめる金属の音がした。玄関扉が開き、冷気が廊下の奥まで流れ込んできた。それから閉まった。
複数の足音が、外の雪を踏んでいく音が、壁越しに聞こえた。遠ざかる。遠ざかる。やがて、聞こえなくなった。
ホールが、静かになった。
廊下から別の足音が近づいてきた。私設警備隊の隊長だった。雪と泥で外套が汚れている。先ほど車で先行偵察に出ていた組だ。
「報告します。車は麓の手前、およそ二キロの地点で停止しました。道が雪で塞がれています。除雪には最低でも二時間かかる見込みです」
「迂回路は」
「確認しましたが、この視界では安全に走れる状態ではありません。徒歩での前進を検討しましたが——」
隊長は言葉を切った。続きを言いたくなさそうだった。
「言いなさい」とアサマが促した。
「徒歩での前進も、現時点では推奨できません。膝上まで積もった湿雪の中では、ウマ娘の脚力が却って負荷になります。一歩踏み込むごとに深く沈み、引き抜くだけで体力を大幅に消耗する。視界もほぼゼロで、方向の維持が困難です」
ホールが静まり返った。
その沈黙を破るように、玄関扉が内側から開いた。若い警備のウマ娘だった。外套の前を掴んだまま、今にも飛び出しそうな顔をしていた。耳が前に倒れていた。尾が、外套の裾から見えた。逆立っていた。
「あの——」
「待ちなさい」
スピードシンボリが言った。怒鳴っていない。それでも少女の足が止まった。
「外の雪を見なさい」
少女が窓を見た。玄関前の石畳が、すでに膝の高さまで埋もれている。湿った重雪だ。踏み込めば脚が沈む。走る前に、まず脚を引き抜かなければならない。ウマ娘の瞬発力は、そういう局面では推進力ではなく、関節を痛める力に変わる。
「走れる地面じゃない」
少女は唇を噛んだ。目が赤くなっていた。
「でも——」
「わかってる」
スピードシンボリの声は、さっきより少し低かった。
少女を見た。一秒だけ、正面から見た。かつて、止まれと言われて止まれなかった自分の影が、そこにあった。それから窓の外に目を戻した。
「今夜は準備をする。体を温めて、装備を整えて、夜明けに備える。それが今夜できる唯一のことだ」
少女は何も言わなかった。しばらくしてから、小さく頷いた。外套の前から手を離して、一歩下がった。
スピードシンボリはそれ以上何も言わなかった。
窓の外を見た。吹雪が本格的になってきた。庭の木が大きくしなって、枝が窓を叩く音がした。視界が白く塗り潰されていく。あの子たちが消えた防風林の方角は、もうどこにあるかもわからなかった。
アサマが近づいてきた。二人並んで、窓の外を見た。
「猟友会は」
「夜明けに入ると。それが今夜できる最善だと言っていた」
「そう」
アサマはそれだけ言った。
二人の間に、しばらく言葉がなかった。外の吹雪の音だけが、ホールに響いていた。
「あの子たちは」とアサマが言いかけた。
止まった。
続きは出てこなかった。主語だけが宙に浮いたまま、消えていった。出してはいけないと思ったのかもしれない。出したところで、答えは誰も持っていないから。でも主語だけは、出てしまった。あの子たちは、という言葉が、ホールの空気の中に溶けて、消えた。
消えた後の方が、重かった。
スピードシンボリは窓ガラスに映る自分の顔を見た。知らない顔だと思った。こんな顔を自分がするとは、思っていなかった。現役の頃、どんな局面でも崩れなかった顔が、今夜は知らない形をしていた。
「夜明けまで、何時間ある」
「五時間と少し」
「長いな」
「ええ」とアサマが答えた。「長いわ」
廊下の奥で、柱時計が鳴った。カチ、カチ、と規則正しい音が、吹雪の音を突き抜けて届いた。一秒。また一秒。止まらなかった。止まるはずがなかった。あの子たちが消えてから、この時計はずっと鳴り続けている。
アサマは窓に手を当てた。
冷たかった。ガラスの向こうの気温が、掌に伝わってきた。
この冷たさの向こうに、あの子たちがいる。
いるとしたら、この冷たさの向こうにいる。
手を離した。掌に、ガラスの冷たさが残った。その感触が消えるまで、アサマは動かなかった。
二人は、先遣隊の足音が戻ってくるものかどうか、廊下の方を見ていた。