氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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ある朝、目を覚ますと、世界は巨大な空白に変わっていた。
境界はいつも静かに越えられ、時計の針だけが取り返しのつかない午後を指す。
——けれど貴方は知っている。その空白の向こう側を。


02-一.『午後二時十七分』

銀のティーポットが、誰にも触れられないまま冷めていた。

 

午後のお茶の時間に合わせて用意されたそれは、テーブルの上で静かに熱を失い続けている。傍らには、三人分の菓子皿がそのままだった。食べかけのクッキーが一枚、ラモーヌの席に残っている。席を立つ時、彼女はきっと戻るつもりだったのだろう。戻るつもりで、残したのだろう。

 

アサマはそのクッキーを見ていた。

 

見ながら、今朝のことを思い出していた。朝、ラモーヌが応接間に入ってきた時、カーディガンを着ていた。薄手の、淡い色のカーディガンだった。今年はもう少し厚いものを着なさいと言おうとして、言いそびれた。言いそびれたのは、ルドルフとシリウスが先にやってきて、三人の笑い声が部屋を満たしたからだった。笑い声の中で、カーディガンのことを忘れた。

 

忘れたまま、あの子は出ていった。

 

執事のベルナールが戻ってきたのは、捜索を始めてから四十分後のことだった。

 

玄関ホールに入ってくる彼の顔を見た瞬間、アサマには全てがわかった。何かを言う前から、その顔が全てを語っていた。顔色ではなかった。歩き方だった。四十年、この家に仕えてきた男の歩き方が、今日だけは違った。重かった。引きずっているわけではない。ただ、一歩ごとに何かを堪えながら歩いている人間の歩き方だった。

 

「……おりません。庭園の隅々、温室の裏、敷地の東端に至るまで」

 

報告する彼の指先が、微かに震えていた。四十年、この家に仕えてきたベルナールの指先が。アサマはその震えを見て、初めて自分の手も同じだと気がついた。着物の袂の中で、知らぬ間に握りしめていた。いつから握りしめていたのか、わからなかった。

 

「センサーのログを」

 

傍らにいたスピードシンボリが、静かに言った。

 

警備担当の使用人が震える手で端末を差し出す。スピードシンボリはそれを受け取り、無言でログを遡った。

 

午後二時十七分。

 

赤外線センサーの反応が、敷地北東の防風林付近で三点、ほぼ同時に消えている。消えた、というより——境界を越えた瞬間に検知範囲の外へ出た、ということだ。

 

「二時間以上前だ」

 

誰も何も言わなかった。

 

二時間。この気温の低下速度で、薄着の子供が屋外に二時間。数字としては単純だった。しかしその数字が持つ意味を、その場の全員が理解しているから、誰も声に出せなかった。声に出せば、それが現実になる気がした。

 

アサマは窓の外に目を向けた。

 

数時間前まで秋の穏やかな光が差し込んでいた窓の向こうに、今は鉛色の壁が迫っていた。山側から流れ込んできた暗雲が、空の青を残らず塗り潰している。風が出てきた。庭の木々が大きくしなり、枯れ葉が窓を叩いていった。

 

あの子たちが出ていった方角だ。

 

アサマは視線を窓から引き剥がし、振り返った。玄関ホールに集まった使用人たちの顔を見渡した。二十年、三十年とこの家に仕えてきた者たちの顔が、一様に青ざめていた。全員が、アサマを見ていた。次の言葉を待っていた。

 

この人たちは、自分を見ている。

 

アサマは、それを改めて理解した。今この場所で、自分が崩れれば、全員が崩れる。崩れている場合ではない。まだ、崩れてはいけない。

 

「警察と消防への連絡は」

 

「すでに入れております。ただ、この天候では——」

 

「ヘリは」

 

「視界不良で飛べないと。地上からの捜索隊を編成中とのことですが、到着まで最短でも一時間半かかると」

 

一時間半。

 

アサマは目を閉じた。一秒だけ閉じて、また開いた。頭の中で計算する。気温の低下速度。子供の体温。薄着で屋外に三時間以上いた場合の身体への影響。数字は冷静に並ぶのに、その数字が指し示す先を、思考が拒絶していた。ウマ娘という種は、その強靭な肉体を維持するために膨大な熱量を消費する。それは逆を言えば、エネルギーが枯渇した瞬間に、通常より速く深く、体温を失うということだった。

 

「地元の猟友会に連絡しなさい」

 

アサマの声は、自分でも驚くほど平静だった。

 

「この山を知っている人間が必要です。警察の山岳救助隊が来るまでの間、地理を把握している者の意見を聞かなければなりません」

 

「はい」と返事をした使用人が、廊下へ走っていく。その足音が遠ざかっていく間、ホールは静かだった。

 

スピードシンボリは端末を持ったまま、センサーのログを見ていた。

 

二時十七分という数字を、何度も確認していた。確認するたびに変わるわけでもないのに、目が離せなかった。

 

自分たちが庭でお茶を飲んでいた時間だ。

 

三人がはしゃいでいる声を、大人たちは微笑ましく聞いていた。少し騒がしいとさえ思っていた。止めなかった。止める言葉が、浮かばなかった。その同じ時間に、あの子たちは防風林の奥へ消えていったのだ。

 

端末をテーブルに置いた。

 

置く時、少しだけ力が入った。テーブルが小さく鳴った。それだけだった。

 

「ラモーヌは、カーディガン一枚だったかしら」

 

アサマが言った。問いではなかった。答えを求めているわけでもなかった。ただ声に出さずにいられなかっただけだ。着物の袂の中で、指が掌に食い込んでいた。

 

スピードシンボリは答えなかった。

 

窓の外で、最初の雪が舞い始めていた。一粒、二粒、庭の石畳に落ちて消えた。それからは早かった。雪は一度降り始めると、あっという間に視界を塗り替えていった。庭の輪郭が滲んだ。防風林の影が白い帳の向こうに消えていった。

 

あの子たちが越えていった境界線が、今は雪の中にある。

 

 

    *

 

 

猟友会への連絡がついたのは、それから二十分後だった。

 

電話口に出たのは、この山で三十年以上猟をしているという男だった。声は低く、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。それがかえって、スピードシンボリの背筋を冷やした。

 

「羆の目撃情報が出ています」

 

開口一番、その言葉だった。

 

「先週から、この辺りで痕跡が複数確認されていた。冬眠できていない個体がいると思っていましたが——」

 

一拍、止まった。

 

「——三日前のニュース、ご覧になりましたか」

 

スピードシンボリは、隣のアサマを見た。

 

アサマは窓の外を向いたまま、ほんのわずかに頷いた。見ていた、という意味だった。スピードシンボリはアサマの横顔を一秒だけ見てから、受話器に向き直った。

 

「ええ」

 

「……そうですか」

 

短い沈黙があった。その沈黙の重さが、言葉よりも多くを語っていた。

 

「今夜、山に入れますか」

 

「入れません」

 

即答だった。

 

「この雪の状態では、私たちでも遭難します。夜明けに備えて準備はします。夜明けと同時に入ります。それが、お嬢さんたちのためにできる、今夜一番の仕事です」

 

「一つだけ」

 

スピードシンボリは、次の言葉をわずかに間を置いてから出した。

 

「遭遇した場合——あの子たちは」

 

「奴がヒトを襲わないのは、そこが『ヒトの領域』だと知っているからです」

 

静かな声だった。

 

「牛舎や鶏舎を荒らすのは——そこに踏み込んでも、ヒトが直接手を出してこないとわかっているからです。隙がある。計算できる。だから入る」

 

一息ついた。

 

「ヒトそのものには、手を出さない。今のところは。それがなぜかは、わからない。ただ、そういう個体です。ヒトの領域の境界を、奴は正確に引いている。そしてその境界を、お嬢さんたちは越えた」

 

「越えた先では——」

 

「計算次第です」

 

通話が切れる、直前だった。

 

「——ただ」

 

男が、もう一度口を開いた。

 

「三日前、ここから少し離れたところで被害が出ています。規模でいえば、十分に腹を満たしていてもおかしくはない」

 

一息。

 

「可能性があるとすれば——それにかけるしかない。奴が空腹でなければ、ですが」

 

今度こそ、通話が切れた。

 

スピードシンボリは受話器をゆっくり置いた。その手が、テーブルの縁を一瞬だけ強く握った。それだけだった。

 

腹が満ちていれば。

 

その言葉と、計算次第、という言葉が、耳の中で交互に響いていた。どちらが本当のことを言っているのか。どちらにかけるべきなのか。かけることと、信じることは、今夜は違う気がした。かけるしかないから、かける。信じているから、かけるのではない。

 

それでも。

 

その細い可能性を、スピードシンボリは胸の奥にしまった。捨てなかった。今夜この場所で立っているために、捨てることができなかった。

 

アサマは窓に手を当てていた。

 

いつからそうしていたのか、スピードシンボリには見えていなかった。ガラスに触れたまま、動かなかった。その手が、何かを確かめているように見えた。冷たさを確かめているのか。それとも、ガラスの向こうにあるものを確かめているのか。

 

しばらくして、手を離した。

 

掌に、ガラスの冷たさが残っているだろうと、スピードシンボリは思った。

 

 

    *

 

 

「先遣隊を出します」とアサマが言った。

 

使用人たちに向けた声だった。

 

「警備隊から四名。まだ雪が積もりきる前に、入山口付近だけでも確認してきなさい。深くは入らない。入れる状態でもない。ただ、行けるところまで行って、戻ってきなさい」

 

隊長格の男が頷いた。四人が動いた。外套を着込む音がした。装備を確かめる金属の音がした。玄関扉が開き、冷気が廊下の奥まで流れ込んできた。それから閉まった。

 

複数の足音が、外の雪を踏んでいく音が、壁越しに聞こえた。遠ざかる。遠ざかる。やがて、聞こえなくなった。

 

ホールが、静かになった。

 

廊下から別の足音が近づいてきた。私設警備隊の隊長だった。雪と泥で外套が汚れている。先ほど車で先行偵察に出ていた組だ。

 

「報告します。車は麓の手前、およそ二キロの地点で停止しました。道が雪で塞がれています。除雪には最低でも二時間かかる見込みです」

 

「迂回路は」

 

「確認しましたが、この視界では安全に走れる状態ではありません。徒歩での前進を検討しましたが——」

 

隊長は言葉を切った。続きを言いたくなさそうだった。

 

「言いなさい」とアサマが促した。

 

「徒歩での前進も、現時点では推奨できません。膝上まで積もった湿雪の中では、ウマ娘の脚力が却って負荷になります。一歩踏み込むごとに深く沈み、引き抜くだけで体力を大幅に消耗する。視界もほぼゼロで、方向の維持が困難です」

 

ホールが静まり返った。

 

その沈黙を破るように、玄関扉が内側から開いた。若い警備のウマ娘だった。外套の前を掴んだまま、今にも飛び出しそうな顔をしていた。耳が前に倒れていた。尾が、外套の裾から見えた。逆立っていた。

 

「あの——」

 

「待ちなさい」

 

スピードシンボリが言った。怒鳴っていない。それでも少女の足が止まった。

 

「外の雪を見なさい」

 

少女が窓を見た。玄関前の石畳が、すでに膝の高さまで埋もれている。湿った重雪だ。踏み込めば脚が沈む。走る前に、まず脚を引き抜かなければならない。ウマ娘の瞬発力は、そういう局面では推進力ではなく、関節を痛める力に変わる。

 

「走れる地面じゃない」

 

少女は唇を噛んだ。目が赤くなっていた。

 

「でも——」

 

「わかってる」

 

スピードシンボリの声は、さっきより少し低かった。

 

少女を見た。一秒だけ、正面から見た。かつて、止まれと言われて止まれなかった自分の影が、そこにあった。それから窓の外に目を戻した。

 

「今夜は準備をする。体を温めて、装備を整えて、夜明けに備える。それが今夜できる唯一のことだ」

 

少女は何も言わなかった。しばらくしてから、小さく頷いた。外套の前から手を離して、一歩下がった。

 

スピードシンボリはそれ以上何も言わなかった。

 

窓の外を見た。吹雪が本格的になってきた。庭の木が大きくしなって、枝が窓を叩く音がした。視界が白く塗り潰されていく。あの子たちが消えた防風林の方角は、もうどこにあるかもわからなかった。

 

アサマが近づいてきた。二人並んで、窓の外を見た。

 

「猟友会は」

 

「夜明けに入ると。それが今夜できる最善だと言っていた」

 

「そう」

 

アサマはそれだけ言った。

 

二人の間に、しばらく言葉がなかった。外の吹雪の音だけが、ホールに響いていた。

 

「あの子たちは」とアサマが言いかけた。

 

止まった。

 

続きは出てこなかった。主語だけが宙に浮いたまま、消えていった。出してはいけないと思ったのかもしれない。出したところで、答えは誰も持っていないから。でも主語だけは、出てしまった。あの子たちは、という言葉が、ホールの空気の中に溶けて、消えた。

 

消えた後の方が、重かった。

 

スピードシンボリは窓ガラスに映る自分の顔を見た。知らない顔だと思った。こんな顔を自分がするとは、思っていなかった。現役の頃、どんな局面でも崩れなかった顔が、今夜は知らない形をしていた。

 

「夜明けまで、何時間ある」

 

「五時間と少し」

 

「長いな」

 

「ええ」とアサマが答えた。「長いわ」

 

廊下の奥で、柱時計が鳴った。カチ、カチ、と規則正しい音が、吹雪の音を突き抜けて届いた。一秒。また一秒。止まらなかった。止まるはずがなかった。あの子たちが消えてから、この時計はずっと鳴り続けている。

 

アサマは窓に手を当てた。

 

冷たかった。ガラスの向こうの気温が、掌に伝わってきた。

 

この冷たさの向こうに、あの子たちがいる。

 

いるとしたら、この冷たさの向こうにいる。

 

手を離した。掌に、ガラスの冷たさが残った。その感触が消えるまで、アサマは動かなかった。

 

二人は、先遣隊の足音が戻ってくるものかどうか、廊下の方を見ていた。

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