氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
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胆振新報デジタル版 10月20日 12:14配信
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【続報】胆振管内・大型ヒグマ出没
捜索難航 専門家「前例のない個体」と警鐘
胆振管内で活動が確認されている大型ヒグマについて、
関係機関による捜索・追跡活動が続いているが、
難航していることが20日、関係者への取材でわかった。
当該個体の痕跡は複数地点で確認されているものの、
渡河による足跡の断絶や方向転換など、
通常の個体には見られない行動が繰り返されており、
猟友会による追跡が困難な状況が続いている。
胆振総合振興局の担当者は
「越冬せず活動を継続していること自体が異例。
引き続き周辺住民への注意喚起を行う」と述べた。
ヒグマ研究の専門家は
「記録的な暖秋で降雪が遅れていることも
活動域の拡大に影響している可能性がある。
ただし気候だけでは説明のつかない部分も多く、
この個体には前例のない特性が見られる」と指摘。
山林・防風林付近での行動には
引き続き十分な注意を呼びかけている。
□ この記事へのコメント(112件)
▼ 人気コメント
「もう何週間も捜索してるのに見つからないって、どういうこと」
「うちの近くでも足跡が出たって聞いた。怖い」
「犬が追えないって本当ですか。どこかで読んだけど」
「百年前にも同じような記録があるって誰かが言ってたな」
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*
「コハギ、飯だよ」
声がかかったのは、昼をとっくに過ぎた頃だった。
店先で干し作業をしていた娘は、手を止めて立ち上がった。手拭いで手を拭きながら、土間を抜けて居間に入る。古い家だった。板の間に低いちゃぶ台が置いてあって、その向こうにテレビがある。音量が少し大きめなのは、女将の耳が遠くなってきたからだ。
「また遅くなって」
女将が言いながら、湯気の立つ椀を並べた。六十を過ぎた、骨太の女だった。手が大きかった。山仕事と仕込み仕事で鍛えられた、力強い手だった。
コハギは座って、椀を受け取った。
テレビから、アナウンサーの声が流れていた。
——胆振管内で活動が確認されている大型ヒグマについて——
コハギの手が、止まった。
一秒だけ止まって、また動いた。椀を両手で包んで、画面を見た。地図が映っていた。赤い印が、山の稜線に沿っていくつか打たれていた。
「……そこらへんじゃないかい」
女将が言った。茶を注ぎながら、画面を横目で見ていた。
「あんたが夏から秋にかけて入ってた山の、あのあたり」
コハギは画面から目を離さなかった。
「……そうだと思う」
「やっぱりね」
女将はそれだけ言って、自分の椀を手に取った。
しばらく、二人でテレビを見ていた。アナウンサーが続けた。捜索が難航していること。犬が追えないこと。前例のない個体であるという専門家の言葉。コハギはその言葉を、一つ一つ聞いていた。
知っていた、とは言えない。
ただ、夏に沢沿いを歩いていた時、一度だけ足跡を見たことがあった。深かった。間隔が広かった。今年の春先に入った時とは、明らかに違う足跡だった。その時はそれだけだった。深く考えなかった。境界線を弁えて、沢の左岸を歩いて、戻ってきた。
「入れるかい、来週」
女将が聞いた。
「……どうだろう」
「無理だったら言いな」
「うん」
それだけだった。女将はそれ以上聞かなかった。この山を長く知っている女だった。引き際の判断を娘に任せることも、長くやってきた。
コハギは椀に視線を落とした。
夏の交換のことを、少し考えた。熊の胆嚢を受け取って、塩と麻縄と薬草を持っていった。それだけでは釣り合わないと思った。商人の娘として、それは許せなかった。だから棚の奥にしまってあった寸胴鍋も持っていった。厚手の、使い込まれた鍋だった。中身を詰めたまま背負って沢沿いを歩いた。重かった。
渡した時、相手は鍋を持ち上げて、重さを確かめた。
重そうには見えなかった。
それだけだった。
コハギはそれが気に入っていた。気に入っていた、とその時は思っていた。
秋にも一度、沢沿いで声をかけた。茶葉になる野草を乾かしたものを持っていった。特に頼まれたわけではなかった。ただ、持っていきたかった。向こうは何も言わなかった。受け取って、腰まで頭を下げるコハギに、小さく頷いただけだった。
それが最後だった。
雪が降り始めてからは、あの沢沿いには入っていない。
「大きい鍋、持ってったって言ってたね」
女将が唐突に言った。
コハギは顔を上げた。
「……うん」
「あの人、まだいるのかね。この時期に」
「わからない」
正直に言った。わからなかった。沢沿いで会った人間だった。どこに泊まっているのか、何をしているのか、それ以上のことは何も知らなかった。あのあたりには廃屋跡があったが、とても人が住めるような場所ではなかった。ヒトがいるにしても、山小屋か、あるいは別のどこかだろうと思っていた。
ただ、山には詳しい人間だった。それだけはわかった。
こうして記憶の縁をなぞってみると、妙な点が多い男だった。
「足りたかねえ」
女将がぽつりと言った。鍋のことを言っているのかどうか、コハギにはわからなかった。
「足りたと思う」
それだけ答えた。
テレビの中で、地図の赤い印が画面に広がっていた。
コハギは、その印と印の間を、しばらく目で追っていた。あの沢はどのあたりになるだろう。自分が毎年歩いてきた道は、この地図のどのあたりを通っているだろう。耳が、ごく微かに動いた。意識してのことではなかった。山の方角を確かめる時、体が先に反応する癖だった。
「……ご馳走様」
椀を置いて、立ち上がった。
「もう行くのかい」
「干し作業、終わってないから」
「そうかい」
女将は特に引き止めなかった。コハギは手拭いを頭に巻き直して、店先に戻った。
外は、曇っていた。
山の方角を、一度だけ見た。稜線が、低い雲の下に沈んでいた。今日はどこも見えなかった。何もわからなかった。ただ、山は今日もそこにあった。
コハギは干し作業に戻った。
手を動かしながら、テレビの地図の赤い印を、まだ頭の中で追っていた。
雪靴は、まだ脱いでいなかった。
この時、時計の針は午後一時を少し回ったところだった。