氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
明けない夜の底で、大人たちは永遠に来ない報せを待つ。
救いがとうの昔に訪れていることなど、知る由もなく。
夜が明けたのか、それとも夜がまだ続いているのか、しばらくわからなかった。
窓の外の色が、黒から藍へ変わっていた。それだけだった。アサマは応接間の椅子に座ったまま、その変化を見ていた。眠ろうとしなかった。眠れる状態でもなかった。椅子に座って、窓を見て、一秒ずつ夜が薄れていくのを待っていた。
いつからそうしていたのか、わからなかった。
柱時計が六時を打った。
廊下から、足音が増え始めた。重い靴底が石の床を踏む音。装備を確かめる金属の触れ合う音。誰かが低い声で無線の周波数を確認している。夜明けを待っていた人間たちが、一斉に動き始めていた。その音を聞くたびに、アサマは自分がまだここにいることを確かめた。
扉が開いた。
スピードだった。外套を着ていた。手袋をはめていた。昨夜から着替えていないのか、外套の肩に昨夜の雪の痕が残っていた。
「捜索班、出発できます」
「行きなさい」
アサマは窓から目を離さずに言った。
足音が廊下を遠ざかった。玄関扉が開き、冷気が廊下の奥まで流れ込んでくる気配がした。それから閉まった。複数の足音が、外の雪を踏んでいく音が、壁越しに聞こえた。遠ざかる。遠ざかる。やがて、聞こえなくなった。
窓の外で、捜索班の姿が防風林の方角へ消えていくのが見えた。
小さくなっていく。小さくなるほど、白の中に溶けていく。最後の一人が防風林の影に入った瞬間、消えた。消えた、というより、山に飲まれた。
行きなさい、と言った。その言葉しか出なかった。ありがとう、とも、頼みます、とも、言えなかった。言葉にすれば、何かが確定する気がした。この一日が、どういう一日になるのかが、言葉にした瞬間に決まってしまう気がした。だから、行きなさい、とだけ言った。
山が、朝の光を受けて白く光っていた。
美しかった。腹立たしいほど、美しかった。
*
捜索班が出ていってしばらくして、玄関の方から足音が届いた。
夜通し、アサマとスピード以外にこの邸宅に残っていたのは、私設警備隊の隊長と警察の連絡担当の若い隊員だけだった。それが今朝、変わった。
シリウスの父親とエプソムが、夜明けと同時に到着した。夜のうちに移動を始め、空港で合流し、そのまま車を走らせてきたのだろう。外套に残った冷気の質が、長時間移動してきた人間のものだった。
廊下を歩きながら、客間の一つから低い声が聞こえた。シリウスの父親だった。誰かと電話をしていた。内容は聞き取れなかった。聞こうとしなかった。
ただ、何をしているのかは察せられた。シンボリの分家として持ちうる伝手を、夜明けと同時に動かしているのだろう。民間の捜索会社か、あるいは独自のルートで山に詳しい人間を手配しようとしているのか。金と人脈で動かせるものを、全て動かそうとしている。それがこの人の今朝の戦い方だった。しかしアサマには、その努力が山の前でどこまで通用するか、昨夜から考え続けていた。この天候と、この積雪と、この山の広さの前では、金も人脈も、等しく小さかった。
別の客間の前を通った時、扉が少し開いていた。
エプソムが座っていた。窓の外を見ていた。手を膝の上に置いて、まっすぐ山の方角を見ていた。アサマの気配に気づいたのか、顔を向けた。目が合った。
何も言わなかった。アサマも何も言わなかった。
それだけでよかった。言葉を交わすより、目が合った、ということの方が、今朝は重かった。アサマは廊下を進んだ。エプソムの扉が、静かに閉まった。
食堂に入ると、ルナがいた。
到着したのは、ほんの少し前だろう。外套はすでに脱いでいたが、まだ旅の疲れが顔に残っていた。テーブルの端に座って、手の中の湯飲みを見ていた。お茶を飲んでいるのではなかった。ただ、持っていた。温かいものを持っているということだけが、今朝の目的のように見えた。
アサマが席に着くと、ルナが顔を上げた。
「昨夜は」
「眠れませんでした」
ルナが先に言った。アサマが聞く前に。眠れましたか、という問いの答えを、先に置いた。
「私も」とアサマは言った。
それだけだった。それ以上は言わなかった。
ルナは湯飲みを見たまま、少しの間、黙っていた。その横顔を、アサマはそっと見た。ルドルフによく似た顔だった。いや、逆だ。ルドルフがこの顔に似ているのだ。
夫が帝王学を叩き込んだ娘が、夜中に熱を出して泣いていたことがある、とルナが言っていたことがあった。シンボリ家の後継として育てられていたその娘が、高熱でうなされながらただ泣いていた夜に、握った手があんなに小さかった、と。今のルナの手は、湯飲みをただ包んでいた。握りしめてもいなかった。力が入っていなかった。その手の力のなさが、今朝のルナの全てを語っていた。
使用人が朝食を運んできた。
アサマは箸を取った。一口、食べた。食べなければならなかった。体を保たなければならない。この邸宅の当主として、今日一日をここで支え続けるために。使用人たちの視線が、こちらに向いていた。向いていることを、アサマは知っていた。大奥様が食べれば、全員が食べられる。食べなければ、全員が食べられなくなる。
それでも、二口目で箸が止まった。
ルナも、ほとんど食べなかった。箸を置いた時、二人の動作が、ほぼ同時だった。
使用人が静かに下げていった。
*
待つということを、これほど意識したことはなかった。
レースの前夜は、怖かった。でも動くことができた。準備をして、体を動かして、明日のために整えることができた。そして朝が来れば走った。走ることで、怖さより先に脚が動いた。
今は、その脚が使えない。
競走ウマ娘として走り続けた年月の中で、アサマは幾度も負けた。敗れて、悔いて、また走った。その繰り返しの中で積み上げてきたものがあった。脚が動く限り、やり直せると信じてきた。しかし今は違う。脚があっても、走れない。この雪の深さの中では、ウマ娘の脚力はむしろ枷になる。踏み込むほど沈み、引き抜くほど体力を奪われる。最も誇るべきものが、最も役に立たない。それが今朝の、この邸宅の中にいる全員の、共通した無力だった。
スピードも同じはずだ、とアサマは思った。幾度も海を渡り、世界と戦ってきた脚が、今朝は廊下を歩くことしかできない。その脚で捜索の手続きを進め、できることを探して動き続けている。走れないから、走れる場所を探して動いている。
アサマは窓を見た。
冷たそうだった。ガラスの向こうの気温が、見ただけで伝わってきた。この冷たさの向こうに、あの子たちはいる。いるとしたら、この冷たさの向こうにいる。そう思い続けることが、今の自分にできる唯一のことだった。
*
昼前に、無線が入った。
スピードが受けた。アサマは隣で聞いていた。
「羆の足跡を確認。入山口から東へ、断続的に続いています。ただし子供の痕跡は——積雪が深すぎて、確認できません。昨夜の降雪で、三十センチ以上積み増しています」
「埋まった、ということですか」とスピードが聞いた。
「残らない、というより——埋まる、という言い方が正確です。痕跡は消えたのではなく、下にある。ただ、今の装備と人員では掘り返せる量じゃない」
「続けてください」
「わかりました。午後も入ります」
無線が切れた。
埋まる。
アサマはその言葉を、頭の中で繰り返した。残らない、ではなく、埋まる。消えたのではなく、下にある。下にある、ということは、まだそこにある。ある、ということは——。
考えを止めた。止めなければ、続きが怖かった。
「何か、食べましたか」
アサマはスピードに聞いた。
「……後で」
「今、食べなさい」
命令ではなかった。命令より静かな声だった。スピードはアサマを見た。アサマは窓の外を見ていた。こちらを見ていなかった。それでも、言葉は届いていた。
「わかった」
席を立つ足音が、廊下へ遠ざかっていった。
アサマは窓に手を当てたまま、動かなかった。自分はいつ食べただろうと思った。朝、少し食べた。それだけだった。食べなければならない。体を保たなければならない。この邸宅の当主として、この場所に立ち続けなければならない。
それはわかっていた。わかっていたが、食べるということが、今日はひどく遠かった。
*
午後の捜索も、何も見つからなかった。
捜索班が戻ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。中村支部長が、応接間に入ってきた。外套についた雪を玄関で払ってから来たのだろう、それでも肩の縫い目のあたりに白いものが残っていた。
「本日の捜索範囲を、地図で報告します」
テーブルに地図が広げられた。
今日歩いたルートが、赤いペンで書き込まれていた。防風林の入り口から東へ、沢沿いへ、枝分かれして戻ってくる形の線だった。アサマはその線を見た。今日一日で、人間の足が届いた場所の輪郭だった。
白い部分の方が、圧倒的に多かった。
「この範囲で、子供の痕跡は確認できませんでした。羆の足跡は三か所で確認。いずれも奥へ向かっています」
「明日は」スピードが聞いた。
「西側のルートに入ります。今日と重複しない範囲で、できる限り広げます」
「頼みます」
中村支部長が頷いた。立ち上がる前に、少し間を置いた。帽子を手に持ったまま、少し俯いた。言いかけて、やめた様子だった。
「何か」アサマが聞いた。
男は少し間を置いた。プロの猟師の目をしていた。この山を何十年も歩いてきた目だった。その目が一瞬だけ、地図の白い部分を見た。赤い線の外側の、誰もまだ踏んでいない広大な白を。それから顔を上げた。言いかけた言葉を、飲み込んだのだとわかった。飲み込んだ先に何があったのかを、アサマは問わなかった。問えばこの部屋の空気が変わる。今日だけは、変えたくなかった。
「……いえ」男は首を振った。「明日も、入ります」
それだけ言って、部屋を出た。足音が廊下を遠ざかっていった。
応接間に、残された人間たちが座っていた。アサマ、スピード、ルナ、エプソム、シリウスの父親。それぞれが、地図の上の赤い線を見ていた。今日歩いた場所。今日歩かなかった場所。明日歩く場所。
誰も何も言わなかった。
赤い線は、地図の端まで届いていなかった。まだ先がある。まだ歩いていない場所がある。それが今日唯一の、確かなことだった。
ルナが、地図から目を離した。窓の外を見た。もう山の稜線は見えなかった。暗くなっていた。一日が終わっていた。
「明日も」ルナが言った。誰に言ったわけでもなかった。でも全員が聞いた。
「ええ」とアサマが答えた。「明日も」
*
夕食は、誰もあまり食べなかった。
食べようとしていた。食べなければならないとわかっていた。でも、手が止まった。箸が止まった。誰かが少し食べて、置いた。それを見た別の誰かも、置いた。
使用人が静かに下げていった。
アサマはお茶を一口飲んだ。温かかった。温かいものを飲むということが、今夜は少し助かった。温かさが胃の底に落ちて、それだけで、今日をもう少し続けられる気がした。
シリウスの父親が、静かに席を立った。廊下に出る足音がした。どこへ行くのかはわからなかった。確かめなかった。この邸宅の中で、それぞれが今夜の過ごし方を探していた。探して、見つけた者が動き、見つけられなかった者は、ただそこに座っていた。
アサマはテーブルの上を見た。
ラモーヌの席があった。誰も座っていなかった。
今日初めて、その席を正面から見た気がした。昨日も見ていた。でも今日は、違う見方をしていた。空いている、という事実が、今日だけ違う形で目に入った。なぜ今日なのかは、わからなかった。
ただ、微かに匂いがした気がした。
あの子がいつも使っていた石鹸の匂い。毎朝律儀に使う、柑橘系の軽い匂い。本当にそれが残っているのか、それとも自分の記憶が呼び起こしているだけなのか、判断できなかった。ただ、確かめたくなかった。確かめて、何もなければ、その事実が今夜のこの部屋には重すぎた。
アサマはお茶を、もう一口飲んだ。
*
夕食の後、使用人の一人が廊下を小走りで来た。
扉をノックして、開けた。
「あの——テレビで、速報が——」
使用人は続きを言えなかった。言う前にスピードが立ち上がっていた。廊下に出た。テレビのある部屋まで、数秒だった。
画面に、赤いテロップが流れていた。
——胆振管内で子供三人が行方不明 一昼夜以上経過 警察が捜索
それだけだった。アナウンサーが短く読み上げて、次のニュースに移った。
アサマはテレビの前に立ったまま、動かなかった。
家名は出ていなかった。場所の詳細も出ていなかった。ただ、事実だけが流れた。子供三人。一昼夜以上。警察が捜索している。それだけが、今夜全国に流れた。
「誰が情報を」スピードが言った。
「わかりません」
わかりません、という言葉が、思ったより重く聞こえた。
その時、廊下の電話が鳴った。
一度鳴って、使用人が取った。それから応接間の電話が鳴った。それも使用人が取った。玄関先で誰かの端末が鳴った。速報が流れた瞬間から、外の世界が動き始めていた。記者か、知人か、あるいは単なる野次馬か。何者であれ、この邸宅の中で起きていることを、外の世界は今夜から消費し始める。この廊下で電話を取り続ける使用人たちの声が、壁越しに届いた。
応接間には、死のような静寂があった。
その静寂と廊下の喧騒の間に、薄い壁一枚があった。
アサマはその壁を、見た。
「今夜は、答えなくていい」アサマは言った。「着信は全部使用人に取らせなさい。対応は明朝でいい」
テレビの天気予報が始まった。山間部、曇りのち雪。アサマはそれを一秒だけ見て、目を離した。
廊下を歩いて戻る途中、窓の前で止まった。
真っ暗だった。山の稜線は見えなかった。庭も見えなかった。自分の顔が、ガラスに映っていた。
知らない顔だった。
一日で、こんなにも変わるものかと思った。昨日の夜明けに、捜索班を初めて送り出した。それから一日が経った。何も見つからなかった。明日また送り出す。また何も見つからないかもしれない。それでも送り出す。そういう一日が、これから続く。
どれだけ続くのか、わからなかった。
「アサマ」スピードが言った。
「なに」
「眠れますか」
少し間を置いた。
「眠れないでしょうね」
「俺も」
それだけだった。それ以上は言わなかった。
二人は廊下を歩いた。応接間に戻った。中にいた人間たちが、顔を上げた。アサマが椅子に座った。スピードも座った。
時計が鳴っていた。一秒ずつ、鳴り続けていた。
明日も、山に入る。それだけが、今夜のこの部屋に残っている確かなことだった。