氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
動いている間だけは、心が壊れずに済むから。
その無意味な闘争の美しさを、安全な場所から見届けよう。
夜明け前、スピードは廊下に出た。
応接間の扉を開けた時、アサマが椅子に座っていた。窓の外を見ていた。背中だけで、一晩中そうしていたとわかった。声をかけなかった。かける言葉がなかった。それに、アサマは今、声をかけられる状態ではない。かけられた瞬間に、何かが崩れる。そういう背中だった。
スピードは廊下に戻った。
装備の確認をした。捜索班の装備ではない。自分が今日一日この邸宅の中で動くための、別の種類の準備だった。端末を確認する。昨夜のうちに入れた連絡の返信が、いくつか届いていた。捜索範囲の拡大に必要な人員の手配。山岳救助の専門家への照会。シンボリ家が持つ伝手を、夜のうちに片端から当たっていた。
返信を読みながら、廊下を歩いた。
窓の外が、少しずつ白んでいた。
捜索班が出発した。玄関扉が開いて、冷気が入って、また閉まった。スピードは玄関ホールで、その音を聞いていた。出ていく背中を見送りたかった。でも今朝は、アサマが窓の前にいる。アサマが見送る。自分はここで、別のことをする。
役割分担だ、と思った。
そう思わなければ、今朝は動けなかった。
*
シリウスの父親とエプソムが来た時、スピードは玄関で出迎えた。
二人とも、長時間移動してきた顔だった。それでも姿勢が崩れていなかった。崩れないようにしている、ということが見えた。崩れないようにすることで、今夜をここまで来たのだろう。
「よく来てくださいました」
それだけ言った。他に言える言葉がなかった。
エプソムが小さく頷いた。シリウスの父親は無言だった。無言のまま、靴を脱いで、廊下に上がった。それだけで、この人が今夜何を考えてここまで来たかがわかった。言葉より早く、行動が全てを語っていた。
客間に案内した後、廊下に戻ろうとした時、シリウスの父親が振り返った。
「捜索の範囲は」
低い声だった。報告を求めているのではなかった。確認をしていた。自分がここに来るまでの間に、どこまで動いているのかを、確かめていた。
「入山口から東側、沢沿いを中心に。今朝から西側のルートを追加します」
「北は」
スピードは少し止まった。
「まだ入れていません。積雪と傾斜で、今の装備では難しいと猟友会の判断が出ています」
シリウスの父親は頷かなかった。頷く代わりに、廊下の窓の外を見た。山の方角を、しばらく見ていた。
「あの子は」と、低く言った。「北側が好きだった」
根拠ではなかった。データでもなかった。ただ、父親としての記憶が口から出た。それだけだった。スピードはその言葉を、すぐには答えられなかった。合理的ではない。北側への捜索は今の状況では危険を伴う。そう答えるべきだった。
でも、その言葉を切り捨てることが、できなかった。
「覚えておきます」
それだけ言った。シリウスの父親は何も言わなかった。廊下を歩いて、客間の扉を閉めた。
廊下を戻りながら、エプソムの部屋の前を通った。扉が少し開いていた。
エプソムは窓の外を見ていた。山の方角ではなかった。廊下の奥の方を、一度だけ見た。
*
午前のうちに、山岳救助の専門家と電話をした。
最初は話が噛み合わなかった。相手は正論を言っていた。この天候では二次遭難の危険がある。捜索班の安全を確保した上での判断が必要だ。今夜中の追加投入は難しい。一つ一つは、全部正しかった。
「シンボリです」
スピードは言った。
「シンボリ家が費用を持ちます。金額は問いません。ただ、明日の朝一番で動ける準備だけはさせてください」
電話口の向こうが、少し静かになった。
「シンボリ……スピードシンボリさんですか」
「そうです」
また、間があった。
「わかりました」と、男は言った。「明日の朝、動ける体制を整えます」
態度が変わったのは、名前のせいか、金のせいか、あるいはその両方か。どちらでもよかった。動いてもらえれば、それでよかった。通話が終わってから、スピードは端末をポケットにしまった。
名前を使った。
現役を退いてから、自分の名前をこういう形で使ったことはなかった。使うべき時があれば使う、と思っていた。今がその時だとわかっていた。それでも、使った後の感触は、思っていたより重かった。
重さを確かめるように、一度だけ手を握った。
それから、次の連絡先を探した。
*
昼前に、無線が入った。
アサマの隣で聞いた。
埋まる、という言葉が、受話器を通して届いた。残らない、ではなく、埋まる。その違いを男は丁寧に説明した。スピードはその説明を聞きながら、頭の中で別のことを計算していた。
積雪が一晩で三十センチ増えた。この気温と降雪量が続けば、明日はさらに積もる。積もるほど、捜索は難しくなる。難しくなる前に、今日できることを全部やっておく必要がある。
無線が切れた後、アサマが「食べましたか」と聞いた。
「後で」と答えた。
「今、食べなさい」とアサマが言った。
従った。
食堂に行った。使用人が何かを出してくれた。何を食べたか、あまり覚えていない。口に入れて、飲み込んだ。それだけだった。
食べながら、窓の外を見た。
雪が降っていた。
あの子は、寒いのが苦手だった。
思い出したのは、突然だった。窓の外の雪を見ていたら、浮かんだ。幼いシリウスの顔が。まだ今より少し幼い頃だった。冬の庭で、シンボリ家の子供たちが走っていた。ルドルフは平気な顔をしていた。シリウスは、耳が折れていた。寒さで後ろへ倒れていた。それでも走っていた。走りながら、口を一文字に結んでいた。
「寒いか」と聞いたら、「別に」と言った。
「シンボリだから」と続けた。六つか七つの子供が、シンボリだから、と言った。その言い方が、妙に大人びていて、でも声が少し震えていた。
スピードは着ていた外套を脱いで、あの子の肩に投げた。
シリウスは受け取った。受け取ってから、しばらく何も言わなかった。それから小さな声で「ありがとう」と言った。シンボリの子供が、ありがとうと言った。その声だけが、今でも耳に残っていた。
外套を投げた手の感触が、まだある気がした。
あの子の肩が、小さかった。
*
午後の報告を、中村支部長から聞いた。
地図が広げられた。赤い線が書き込まれていた。スピードはその線を見ながら、白い部分の広さを測っていた。今日歩かなかった場所。明日歩く場所。明後日に回さざるを得ない場所。
線が増えるたびに、残りが見えてくる。
残りが見えることは、進んでいる証拠だ。そう思おうとした。思いながら、地図の端まで届いていない赤い線を見ていた。
中村支部長が言いかけて、やめるのをスピードは見ていた。
何を言いかけたのか、わかった。プロの目をしている人間が飲み込む言葉は、だいたい同じ種類だ。言わなかったことに、感謝した。言葉にならないまま、この部屋の空気に溶けていった方がよかった。
「明日も、入ります」という言葉だけを、受け取った。
それで十分だった。
*
夕食の席で、スピードはほとんど食べなかった。
昼に食べた。だからもう少し食べられると思っていた。でも、箸が止まった。皿の上のものを見ていた。見ているうちに、手が動かなくなった。
ラモーヌの席が、空いていた。
今日初めて気づいた、という感覚があった。正確には昨日から空いていた。昨夜も空いていた。でも今夜は、その空き方が違った。今日一日、何も見つからなかった。明日も何も見つからないかもしれない。そういう一日の積み重ねの先に、その空いた席がある。
スピードは箸を置いた。
シリウスの父親が席を立った。エプソムが、テーブルの上の一点を見ていた。ルナが、お茶を持っていた。アサマが、お茶を一口飲んでいた。
誰も何も言わなかった。
それぞれが、それぞれの場所で、今夜の重さを抱えていた。同じ部屋にいて、同じ時間を過ごしていて、それでも誰一人として同じ重さではなかった。ラモーヌの祖母としての重さと、シリウスの母としての重さと、ルドルフの母としての重さと。スピードの重さは、その中でどこに置けばいいのか、今夜もわからなかった。
保護者、という言葉が浮かんだ。
自分は保護者だったのか、と思った。ルドルフとシリウスにとって、自分はそういう存在だったのか。シンボリ家の大先輩として、目をかけてきた。特にシリウスには。でもそれは保護者と呼べるものだったのか。今夜この部屋にいる資格が、自分にあるのか。
あると思った。
思わなければ、今夜この部屋に座っていられなかった。
*
速報が流れた時、スピードは廊下にいた。
使用人が小走りで来て、テレビのある部屋へ向かった。その背中を見た瞬間、わかった。立ち上がる前に、わかっていた。
画面のテロップを読んだ。
子供三人。一昼夜以上。警察が捜索。
家名は出ていなかった。それだけはよかった。それだけは、今夜まだ間に合っていた。
「誰が情報を」
自分の声が出ていた。
「わかりません」とアサマが言った。
その時、端末が鳴った。
画面を見た。知らない番号だった。記者か、あるいは情報を嗅ぎつけた誰かか。切った。また鳴った。別の番号だった。また切った。廊下の電話も鳴っていた。使用人が取った。また鳴った。速報が流れた瞬間から、外の世界が一斉に動き始めていた。
端末に、SNSの通知が届いた。
開かなかった。でも、文面の一部が画面に表示されていた。
「メジロ」という文字が見えた。
切った。
外の世界にとって、これは消費される話だ。可哀想な子供たちの遭難事故として。あるいは名家の令嬢たちの失踪として。今夜からそれが始まる。情報が広がるほど、制御が難しくなる。明朝、対応の窓口を整える必要がある。シンボリ家とメジロ家が連名で動けば、ある程度は抑えられる。ある程度は。
全部は、無理だ。
それはわかっていた。
「今夜は、答えなくていい」とアサマが言った。「着信は全部使用人に取らせなさい。対応は明朝でいい」
従った。端末をポケットにしまった。
でも頭の中では、すでに明日の段取りを組んでいた。誰に何を話すか。何を話さないか。どこまでなら出せる情報か。動いていれば、考えずにすんだ。今もそうだった。考えることを、実務に変換し続けることで、今夜をここまで来ていた。
廊下の窓の前で、アサマが止まっていた。
スピードも窓の外を見た。真っ暗だった。山は見えなかった。見えないとわかっていても、その方角を向いていた。
「アサマ」
呼んでいた。呼んでから、何を言うか考えた。
「眠れますか」
それだけ出てきた。
「眠れないでしょうね」とアサマが言った。
「俺も」
それだけだった。他に言える言葉が、今夜はなかった。
応接間に戻った。椅子に座った。シリウスの父親が戻ってきていた。エプソムがいた。ルナがいた。全員が、それぞれの場所に座っていた。
時計が鳴っていた。
一秒ずつ、鳴り続けていた。スピードはその音を聞きながら、今夜かけた電話の数を数えた。数えて、明日かけなければならない電話の数を数えた。動ける間は動く。動けなくなったら、また動ける方法を探す。
それが今夜の、戦い方だった。
シリウスが、寒いのが苦手だということを、また思い出した。
今度は、考えるのをやめなかった。あの子の肩に、今夜も外套をかけてやれない。その事実だけを、静かに抱えていた。