氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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腹が、減った。
秋が終わる。山が眠りに就く前の、最後の匂いがする。
若い。柔らかい。何も知らないものの匂いだ。
近づいてくる。
腹が、減った。
声がする。笑い声だ。無防備な、屈託のない声だ。
境界線を、越えてくる。
腹が、減った。
いい匂いだ。


01-一.「もう少しだけ。丘の手前まで行ったら、戻りましょう」

その日は、メジロアルダンがいなかった。

 

いつもならラモーヌの傍にいることが多い、幼い妹が。朝から少し熱っぽかった。大事ではない。けれど季節の変わり目でもあるからと、今日は部屋で休ませることになった。

 

シンボリ家から客人が来ると聞いていたラモーヌは、応接間へ向かう前に妹の部屋へ寄った。

 

カーテンは半分だけ開けられていた。淡い秋の日差しが、床の上に細長く落ちている。アルダンは大きな布団に半分埋もれていた。

 

「お姉さま」

 

ラモーヌに気づくと、布団の中から片手だけを出した。小さく振る。

 

「もう行くの?」

 

「ええ」

 

ラモーヌはベッドの横まで歩いた。額へ手を置く。朝よりは熱が下がっているような気がした。本当にそうなのかは、ラモーヌにはわからない。けれど、アルダンの顔色は悪くなかった。

 

「ちゃんと休んでいるのよ」

 

「はい」

 

素直な返事だった。それからアルダンは窓を見た。庭の木々が、風に揺れていた。

 

「今日は、お外で遊ぶの?」

 

「たぶん」

 

「いいなあ」

 

羨ましそうだった。恨めしそうではない。ただ、外へ行ける姉を見て、いいなあ、と言った。

 

その横顔を見て、ラモーヌは少し前のことを思い出した。

 

まだ身体が今より弱かった頃。自分も、あの窓のこちら側にいた。妹と二人で並んで、外を見ていたことがある。庭を走る誰かの姿。風に揺れる木。雨。雪。窓一枚隔てた向こうにある、自分たちとは別の世界。

 

あの頃は、眺めることしかできなかった。

 

今は違う。走れる。外へ出られる。自分の脚で、好きなところへ行ける。

 

「お姉さま」

 

アルダンの声で、ラモーヌは顔を戻した。

 

「なぁに」

 

「お土産話、聞かせてね」

 

ラモーヌは少しだけ考えた。

 

「面白いことがあれば」

 

「ふふ。きっとあります」

 

「そうかしら」

 

「だって今日は、ルドルフさんとシリウスさんも来るのでしょう?」

 

「ええ」

 

「なら、きっと」

 

なぜそれだけで面白いことが起きるのか。ラモーヌにはよくわからなかった。けれど、妹が楽しそうだったから、否定する必要もなかった。

 

「では、何か探してくるわ」

 

「はい」

 

ラモーヌは部屋を出た。扉を閉める直前、もう一度だけ振り返る。

 

アルダンは窓の外を見ていた。あの頃の自分と同じように。

 

けれど今日のラモーヌは、窓の向こうへ行けた。

 

 

    *

 

 

シンボリ家の車がメジロ邸へ到着したのは、その少し後だった。

 

玄関先で待っていた使用人が扉を開く。最初に降りたのはスピードシンボリだった。続いて、小さな影が二つ。

 

「わあ……」

 

シンボリルドルフは、車を降りるなり屋敷を見上げた。何度か訪れたことはある。それでも、来るたびに大きいと思う。屋敷だけではない。庭も。門から玄関までの道も。さらにその向こうに広がる木々も。シンボリの家とは、また違った広さだった。

 

「ルドルフ」

 

後ろから声が飛んだ。

 

「口」

 

「え?」

 

「開いてるぞ」

 

シリウスシンボリだった。ルドルフが慌てて口を閉じる。

 

「開いていない」

 

「開いてた」

 

「開いていなかった」

 

「見てたって」

 

「見間違いでは?」

 

「んなわけあるか」

 

「二人とも」

 

前を歩いていたスピードシンボリが振り返った。声は静かだった。それだけで、二人の口が同時に止まる。

 

「今日はメジロの家に招かれて来ている。わかっているな?」

 

「はい」

 

ルドルフはすぐに背筋を伸ばした。シリウスは少し遅れて、

 

「わかってるよ」

 

と答える。

 

「なら結構。くれぐれも、先方に迷惑をかけるな」

 

「もちろんです」

 

「特にシリウス」

 

「なんで私だけなんだよ」

 

「今の返事でわからないなら、もう一度最初から説明するぞ」

 

「……いい」

 

スピードシンボリの口元が、わずかに緩んだ。シリウスがそれを見逃さない。

 

「今、笑っただろ」

 

「何のことだ?」

 

「絶対笑った」

 

「気のせいだ」

 

「ジジイみたいなこと言いやがって」

 

「誰がジジイだ」

 

「そういうとこ」

 

「シリウス」

 

「なんだよ」

 

「後で話がある」

 

「ほら、そういうとこだって!」

 

ルドルフが隣で肩を震わせていた。シリウスが睨む。

 

「笑うな」

 

「笑っていない」

 

「じゃあこっち見ろ」

 

ルドルフは反対側を向いた。肩はまだ揺れていた。

 

「お前な……!」

 

「はい、そこまで」

 

スピードシンボリが二人の頭へ、それぞれ片手を置いた。力は込めていない。それでも二人とも大人しくなる。

 

「元気なのは結構だ。余ってるなら庭で走ってこい。ただし」

 

指が離れる。

 

「言われたことは守れ」

 

「はい」

 

ルドルフは即答した。シリウスも、

 

「……わかったよ」

 

と続けた。今度は少し真面目だった。

 

その返事を聞いてから、スピードシンボリは玄関へ向き直った。幼い二人は、その背中を追った。ルドルフは真っ直ぐに。シリウスは、ほんの少しだけルドルフより前へ出ようとしながら。

 

 

    *

 

 

応接間には、午後の光が差し込んでいた。

 

銀のティーポットから湯気が立っている。白いクロス。磨かれたカトラリー。菓子皿には、形を揃えたクッキーが並べられていた。

 

子供の身体には少し大きすぎる椅子に、ルドルフとシリウスが並んで座っている。向かいにはラモーヌ。その少し離れた位置で、メジロアサマとスピードシンボリが茶を飲んでいた。

 

「アルダンは?」

 

スピードシンボリが訊いた。

 

「今朝、少し熱を出しまして」

 

アサマが答えた。

 

「大事には至っておりません。今日は念のため休ませています」

 

「そうか」

 

「本人は、こちらへ来たがっていましたけれど」

 

スピードシンボリが短く笑う。

 

「元気になってからいくらでも会える。今は寝てるのが仕事だな」

 

ラモーヌはカップを両手で包んだまま、その話を聞いていた。仕事。眠ることが。少し変なの、と思った。けれど声にはしなかった。

 

「ラモーヌ」

 

アサマが呼ぶ。

 

「はい」

 

「後ほど、もう一度アルダンの様子を見てあげてください」

 

「もちろん」

 

「ありがとう」

 

それだけだった。大仰に褒めることもない。幼い相手だからと子供扱いすることもない。ラモーヌにとって、それが祖母との普通の会話だった。

 

「ところで、二人とも随分と背が伸びましたね」

 

アサマの視線が、正面の二人へ向いた。ルドルフが姿勢を正す。シリウスも、一応正した。

 

「はい。この前測った時より、また少し伸びました」

 

「どっちが高い?」

 

スピードシンボリが横から口を挟んだ。ルドルフとシリウスの視線がぶつかった。

 

「私です」

 

「私だろ」

 

ほぼ同時だった。アサマが微笑む。

 

「仲がよろしいこと」

 

「よくありません」

 

「よくねぇよ」

 

また同時だった。今度はスピードシンボリが声を上げて笑った。

 

「その返しまで揃うなら十分だろ」

 

応接間が、少しだけ賑やかになった。シンボリ家から二人が来る日は、いつもそうだった。

 

ラモーヌはカップの向こうから、その様子を眺めていた。

 

ルドルフとシリウスは、よく張り合う。座る位置。歩く速さ。菓子を取る順番。窓までどちらが早く行けるか。どうでもよさそうなことまで、何かと競争になる。

 

たいてい最初に走り出すのはルドルフだった。そしてシリウスが追う。シリウスの方から始めることもある。その場合は、ルドルフが追う。

 

二人とも、相手が前にいることが嫌なのだろうか。ラモーヌには、まだよくわからなかった。けれど、見ていて退屈はしなかった。

 

「ラモーヌ」

 

気づけば、そのルドルフがこちらを見ていた。

 

「なぁに」

 

「聞いていた?」

 

「何を?」

 

シリウスが呆れた顔をした。

 

「だから。ルドルフがさっきから話しかけてるだろ」

 

「……ごめんなさい」

 

「丘の話」

 

ルドルフが身を乗り出す。その目が、妙に輝いていた。

 

ラモーヌはその目を知っていた。何かを見つけた時。何かを確かめたくなった時。ルドルフはこういう顔をする。

 

「庭の向こうに丘が見えたでしょう?」

 

「ええ」

 

「その向こう、見たことある?」

 

「ないわ」

 

「気にならない?」

 

「さあ」

 

「私は気になる」

 

聞かれているのに、自分で答えた。シリウスがクッキーを噛みながら、

 

「お前が気になるのは聞く前からわかってる」

 

と言った。

 

「でも、向こう側に何があるのか知りたくない?」

 

「山だろ」

 

「その山から見える景色」

 

「木じゃねぇの」

 

「行ってみなければわからない」

 

「だから行く気かよ」

 

「まだそうとは言っていない」

 

ルドルフの口元が笑っていた。シリウスがじっと見る。

 

「その顔で?」

 

「どういう意味?」

 

「行く顔してる」

 

「顔で予定は決まらないよ」

 

「じゃあ行かないのか?」

 

一拍。

 

「……庭には出たい」

 

「ほらな」

 

ラモーヌが二人を眺めていると、廊下の棚に置かれていた新聞が目に入った。朝、使用人が置いたものだろう。折り畳まれた紙面の端。見出しだけが読める。

 

――特定個体による被害、今季も――

 

熊。そんな文字もあったように思う。

 

その意味まで目で追う前に。

 

「ラモーヌ」

 

また呼ばれた。振り向く。ルドルフだった。

 

「少しだけ外に出ない?」

 

その言葉の方が、新聞の記事よりずっと面白そうだった。

 

ラモーヌはカップを置いた。

 

「いいわよ」

 

シリウスが立ち上がる。

 

「私も行く」

 

「競争ではないよ」

 

「誰も競争だなんて言ってねぇだろ」

 

「そう?」

 

「その顔やめろ」

 

ルドルフが笑った。

 

菓子皿には、クッキーが一枚だけ残っていた。

 

 

    *

 

 

「外へ行くのですか?」

 

アサマが訊いた。三人が揃って振り返る。

 

「はい」

 

ルドルフが代表して答えた。

 

「少し庭を見てきます」

 

「そうですか」

 

アサマは窓へ目を向けた。空は晴れている。風も強くない。午後の時間はまだ残っていた。

 

「では、日が落ちる前には戻ってきなさい」

 

「はい」

 

「それから」

 

三人の耳が向く。

 

「庭より先へは行かないように」

 

ルドルフが瞬きをした。

 

「庭より先?」

 

「防風林の向こうは、もう庭師の手が十分に入っていません」

 

アサマの声は穏やかだった。叱っているわけでも、脅しているわけでもない。

 

「山は、子供が遊ぶために整えられた場所ではありませんから」

 

「わかりました」

 

ルドルフは頷いた。

 

「シリウスも」

 

「わかってるよ」

 

「ラモーヌ」

 

「はい」

 

三人の返事を確認すると、アサマは微笑んだ。

 

「では、行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

三人が駆け出していく。廊下から、

 

「走るな」

 

とスピードシンボリの声が飛んだ。足音が止まる。数秒。今度は少しだけ静かな足音になった。

 

アサマがティーカップへ口をつける。

 

「素直ですね」

 

「最初の三十秒くらいはな」

 

「聞こえてるぞー!」

 

遠くからシリウスの声がした。スピードシンボリは笑った。

 

 

    *

 

 

その日の午後は、どこまでも穏やかだった。

 

庭へ飛び出した瞬間、ルドルフが走った。

 

「おい!」

 

当然、シリウスも走った。

 

「競争じゃないんじゃなかったのか!」

 

「競争とは言ってない!」

 

「走ってんじゃねぇか!」

 

「走りたいから走ってるだけ!」

 

「だったら私も走る!」

 

二人の速度が上がる。砂利が軽く跳ねた。

 

「廊下では走ってないよ!」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

ラモーヌは少し後ろから二人を見る。速い。二人とも。けれど、今のラモーヌにも追えない速さではなかった。

 

少し考えてから、ラモーヌも走った。

 

空気が変わる。室内にいた時とは違う。一歩ごとに景色が後ろへ流れていく。風が頬に触れる。スカートの裾が揺れる。土と芝の匂い。庭木の葉が擦れる音。足の裏へ返ってくる地面の感触。

 

嫌いではなかった。むしろ、好きなのだと思う。まだ、その感覚に名前はなかったけれど。

 

「ラモーヌ!」

 

前方からルドルフの声。

 

「遅いよ!」

 

ラモーヌは少しだけ速度を上げた。

 

「今行くわ」

 

シリウスが横目で後ろを見る。

 

「ほら、追いついてきたぞ」

 

「なら、もう少し速くてもいいね」

 

「は?」

 

ルドルフが加速した。

 

「おい、待て!」

 

シリウスも追う。ラモーヌは二人を見た。そして、もう少しだけ、速く走った。

 

庭の端まで着いた時、一着はルドルフだった。ほんの少し遅れてシリウス。ラモーヌはさらに後ろ。

 

「私の勝ち」

 

ルドルフが胸を張った。

 

「勝手に始めた競争だろ!」

 

「でも追ってきたじゃない」

 

「お前が逃げるからだ!」

 

「逃げてはいないよ」

 

「じゃあもう一回!」

 

「いいよ」

 

また走り出そうとした二人を、ラモーヌが呼び止めた。

 

「ねえ」

 

「何?」

 

「何だよ」

 

ラモーヌは地面を指差した。丸いものが落ちていた。どんぐり。一つではない。落ち葉の中にいくつも転がっている。

 

「大きい」

 

ルドルフが拾う。

 

「こっちの方がでかい」

 

シリウスも別の一つを拾った。当然のように、それも競争になった。

 

庭は広かった。三人で遊ぶには十分すぎるほど。生け垣の間を抜け、落ち葉を踏み、木の根を飛び越え、どちらが遠くまで石を飛ばせるか競った。途中で見つけた赤い木の実を、これは食べられるのかと三人で眺めた。結局わからなかったから、食べなかった。わからないものを口に入れてはいけない。ラモーヌはそう教わっていたし、二人も同じらしかった。

 

そのうち、誰が勝ったのかも曖昧になった。何度も勝った。何度も負けた。それでも、それぞれ自分が一番勝ったと思っていた。

 

笑い声が、秋の庭に響いていた。

 

 

    *

 

 

応接間にも、その声は届いていた。

 

スピードシンボリはカップを傾けながら窓の外を見る。芝生の向こうを、三つの小さな影が横切った。先頭がルドルフ。そのすぐ後ろをシリウス。少し離れてラモーヌ。だが次に見た時には、シリウスが前にいた。その後ろから、ルドルフが追っている。

 

「元気なものですね」

 

アサマが言った。

 

「ああ」

 

「シンボリのお二人は、いつもああなのですか?」

 

「だいたいな。放っとくと何でも勝負にする」

 

「よいことではありませんか」

 

「まあな」

 

スピードシンボリは窓の外を見たまま答えた。

 

ルドルフ。シリウス。同じ場所から走り始めても、走り方は違う。

 

ルドルフは前を見る。迷わない。自分が進む場所を、自分自身が疑っていない。シリウスはその背中を見る。追う。そして追いつこうとする。

 

あの二人がこれからどこまで行くのか。まだわからない。わからないから、面白い。

 

庭の向こうで、三人の姿が生け垣に隠れた。

 

少し騒がしかった。はしゃぎすぎだとも思った。でも、止めなかった。

 

ああして子供たちが走り回る声を聞いていると、胸のどこかに、ひどく穏やかなものが落ちてくる。自分がまだ今より若く、ただ前だけを見てターフを走っていた頃。その頃の何かに似ている気がした。何に似ているのかは、うまく言葉にできなかった。

 

「お茶、もう一杯いかがですか」

 

アサマがティーポットを持ち上げる。

 

「ああ。いただこう」

 

庭の方から、また笑い声が聞こえた。まだ近かった。

 

二人は、何も気にしなかった。

 

 

    *

 

 

最初に防風林まで行こうと言い出したのは、やはりルドルフだった。

 

庭の西側。整えられた植え込みの向こうに、背の高いエゾマツが連なっている。遠くから見れば一本の暗い壁に見える。その先に、昼間、応接間の窓から見えた丘があった。

 

「ねえ」

 

ルドルフが立ち止まる。シリウスが嫌そうな顔をした。

 

「なんだよ」

 

「あそこ」

 

「嫌な予感しかしねぇ」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

「顔に書いてある」

 

「丘の近くまで行ってみない?」

 

ほらな。そんな顔でシリウスが額を押さえた。

 

ラモーヌは二人の横から丘を見る。ここからなら、木々の間に上の方だけが見える。それほど遠くには見えない。

 

「庭より先へ行くなって言われただろ」

 

シリウスが言った。

 

「防風林までなら庭じゃない?」

 

「屁理屈」

 

「まだ越えるとは言ってない」

 

「さっきも同じこと言ってたよな」

 

「では、防風林の手前まで」

 

ルドルフが歩き出す。シリウスは追わない。

 

「ルドルフ」

 

「なに?」

 

「戻ろうぜ」

 

そこで初めて、ルドルフが完全に立ち止まった。

 

「もう?」

 

「結構遊んだだろ」

 

確かに。屋敷を出てから、ずいぶん時間が経っている。日差しも少しだけ傾いていた。

 

ラモーヌは空を見る。まだ夕方ではない。けれど、午後の一番明るい時間は過ぎている。

 

「……そうね」

 

ラモーヌが言った。シリウスが少し意外そうにこちらを見る。

 

「ほら」

 

「でも」

 

ルドルフは丘を見る。

 

「すぐそこだよ」

 

「そう見えるだけだろ」

 

「防風林のところまで行って、それから戻る」

 

「本当に?」

 

「もちろん」

 

シリウスはルドルフを見る。ルドルフも見る。しばらく睨み合う。

 

「……そこまでだからな」

 

先に折れたのはシリウスだった。

 

「うん」

 

ルドルフが笑う。シリウスが歩き出す。ルドルフの隣へ。

 

「何笑ってんだ」

 

「別に」

 

「ムカつく」

 

ラモーヌは少し後ろからついていった。

 

戻ることはできた。ここで。三人とも。

 

屋敷の方角は、まだよく見えていた。来た道もわかる。走ればすぐだ。そのことを、三人とも知っていた。

 

だからこそ、あと少しくらいなら何も変わらないと思った。

 

 

    *

 

 

防風林の中は、庭より少し暗かった。それだけだった。

 

怖くはない。エゾマツが太陽を遮っているから、影が増えただけだ。足元には落ちた枝があり、茶色い針葉が積もっている。庭師の手も入っていた。古い枝は切られ、歩きやすい場所はある程度均されている。ところどころに、作業の跡も残っている。

 

「ほら」

 

ルドルフが言う。

 

「ちゃんと道がある」

 

「庭師の道だろ」

 

「道は道」

 

「その理屈でどこまで行くつもりだよ」

 

「防風林までと言ったでしょう?」

 

「もう入ってるだろうが」

 

ルドルフは周りを見る。それから、

 

「なら、出口まで」

 

と言った。シリウスの耳がぴくりと動いた。

 

「お前な」

 

「向こう側へ抜けるだけ」

 

「それを行くって言うんだろ」

 

「でも、もう半分くらい来たかもしれない」

 

「なんでわかるんだよ」

 

「なんとなく」

 

「私が言ったら理由にならねぇって言うくせに」

 

ルドルフは笑った。

 

この頃の三人には、森と呼ぶほどの場所ではなかった。木が多いだけ。庭の続き。少し暗い遊び場。その程度だった。

 

木の根をまたぐ。枝を避ける。少し高い場所へ登る。下りる。二人がまた速度を上げかけて、ラモーヌが、

 

「ここでは走らない方がいいわ」

 

と言った。二人が振り返る。

 

「根が出ているから」

 

足元。地面から太い根が盛り上がっている。ルドルフが頷いた。

 

「そうだね」

 

シリウスも、

 

「転ぶと面倒だな」

 

と言った。

 

それからしばらくは歩いた。

 

三人の中で、ラモーヌだけが時折違うところを見ていた。樹皮。苔。枝の形。地面の色。何が面白いというわけでもない。目に入ったものを見ているだけ。

 

一本、枝の曲がった木があった。

 

「変な形」

 

ラモーヌが言った。ルドルフが見る。

 

「本当だ」

 

シリウスも見る。

 

「鹿でもぶつかったんじゃねぇの?」

 

「鹿って木にぶつかるの?」

 

「知らねぇ」

 

「なら適当に言ったね」

 

「うるせぇ」

 

三人はまた歩いた。

 

少し先で、ラモーヌがきれいな羽根を拾った。

 

「鳥?」

 

ルドルフが覗き込む。

 

「たぶん」

 

「持って帰る?」

 

ラモーヌは考える。

 

「アルダンに見せる」

 

「じゃあ折るなよ」

 

シリウスが言った。ラモーヌはカーディガンのポケットへ、そっと羽根をしまった。

 

「ありがとう」

 

別に礼を言われるようなことではない。シリウスはそういう顔をした。けれど何も言わなかった。

 

森の向こうに、まだ丘が見えていた。先ほどより、少し大きくなっている気がする。

 

「ほら」

 

ルドルフが指差す。

 

「あそこ。近くなったでしょう?」

 

「だからなんだよ」

 

「もうちょっと」

 

シリウスが足を止めた。

 

「……ルドルフ」

 

「なに?」

 

「さっき防風林までって言ったよな」

 

「言った」

 

「その次、出口までって言った」

 

「うん」

 

「今度は?」

 

ルドルフも止まった。少し考える。

 

「……丘の手前まで?」

 

「増えてんだろうが!」

 

ラモーヌが少し笑った。

 

「ラモーヌも笑うなよ」

 

「ごめんなさい」

 

「笑ってるじゃねぇか」

 

「ふふ」

 

「おい」

 

ルドルフまで笑う。

 

「シリウス」

 

「なんだよ!」

 

「もう少しだけ」

 

その言葉は、最初は本当にただの子供のわがままだった。あと少し遊びたい。あと少し見たい。あと少し走りたい。それだけ。

 

「丘の手前まで行ったら、戻りましょう」

 

シリウスが目を細める。

 

「絶対だな?」

 

「絶対」

 

「日が落ちる前だぞ」

 

「もちろん」

 

「アサマさんに怒られても知らねぇからな」

 

「怒られないよ。間に合えば」

 

「そういう問題じゃねぇだろ……」

 

それでも、シリウスは歩いた。ルドルフの横へ並んだ。

 

ラモーヌは、その背中を見ていた。

 

戻るなら、今なのだろうと思った。理由はない。ただ、屋敷で言われたことを守るなら、もう十分だ。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

ポケットの中に、アルダンへ見せる羽根が入っている。もう一つくらい、何か面白いものが見つかるかもしれない。丘の向こうに、何があるのか。少しだけ、気になっていた。

 

だから、ラモーヌも歩いた。

 

 

    *

 

 

置いていかれるのが嫌だった。

 

自分だけ戻るのも嫌だった。それ以上に、ルドルフだけが先へ行くのが、シリウスにはどうしても気に入らなかった。

 

ならば一緒に行って、自分の目で確かめる。その方がいい。

 

そう決めた。決めたのは、自分だった。

 

前を歩くルドルフの背中を、シリウスは見ていた。

 

この背中に、ずっと食らいついてきた。先へ行く。なら追う。速く走る。なら追いつく。できると言う。なら自分にもできる。そうやってきた。

 

ルドルフは自分の脚を疑わない。一度も疑ったことがない。走れば速い。遠くへ行ける。疲れても休めば、また走れる。大人たちに褒められてきた。同年代の子より、ずっと遠くまで走れた。

 

だから、遠くへ行くことと帰れなくなることが、あの中でまだ結びついていない。

 

シリウスにはそれがわかっていた。わかっていて、追った。

 

自分だってできる。そう思っていたからだ。

 

 

    *

 

 

少しずつ。本当に、少しずつだった。

 

最初に消えたのは、砂利だった。次に、刈り揃えられた草がなくなった。庭木の間隔が崩れた。切られた枝がなくなった。人が通りやすいよう除けられていた倒木が、そのまま横たわるようになった。整えられた土が消え、足の下が腐葉土に変わった。

 

一歩。また一歩。

 

変化は小さかった。だから、どこからが庭で、どこからが庭ではないのか。三人にはわからなかった。

 

ただ、シリウスは何度か後ろを振り返った。

 

一度目は、大きな木の横を通った時。二度目は、庭師のものらしい古い一輪車が木立の向こうへ見えなくなった時。三度目は、振り返っても屋敷の屋根が見えなくなった時。

 

「……なあ」

 

「何?」

 

ルドルフが振り向く。

 

「屋敷、見えなくなったぞ」

 

ラモーヌも振り返った。確かに、見えない。けれど、来た方向はわかる。ような気がした。

 

ルドルフも確認した。

 

「あっちだよ」

 

指を差す。

 

「走ればすぐ」

 

「本当だろうな?」

 

「私たちの脚なら大丈夫」

 

その言葉には、何の迷いもなかった。

 

「大丈夫」

 

もう一度言う。

 

シリウスは、その顔を見た。自信に満ちていた。いつもの顔だった。

 

「……わかったよ」

 

シリウスは答えた。

 

「でも丘までだ」

 

「うん」

 

「今度こそ」

 

「わかってる」

 

そのやり取りを聞きながら、ラモーヌは地面を見ていた。

 

靴の下で鳴る音が、少し変わっている。庭では乾いた落ち葉が、ぱりぱりと音を立てた。ここでは、積もった葉が湿っている。踏むと、柔らかく沈む。音を吸い込む。

 

それが面白くて、ラモーヌは一度、わざと強く踏んだ。鈍い音。もう一度。やはり同じ。

 

「何してるの?」

 

ルドルフが訊く。

 

「音が違うの」

 

「音?」

 

ルドルフも踏む。ず、と靴が沈んだ。

 

「本当だ」

 

シリウスまで踏む。

 

「泥っぽいな」

 

三人は、その程度にしか思わなかった。

 

その先も、歩いた。

 

空が、少し狭くなった。エゾマツの枝が上で重なっている。それでも、まだ明るい。十分に見える。

 

鳥の声も、聞こえていた。ただ、庭の近くより少なくなった。一羽。遠くで鳴く。しばらくして、別の一羽が返す。風が吹く。枝が擦れる。どこかで葉が落ちる。三人の足音。それだけ。

 

ラモーヌの耳が、一度だけ動いた。

 

「どうした?」

 

シリウスが気づいた。

 

「何でもないわ」

 

「そうか?」

 

「ええ」

 

本当に、何でもなかった。少し静かになったと思っただけ。山の方へ来たのだから、そういうものなのだろう。ラモーヌはそう思った。それ以上、考えなかった。

 

前ではルドルフが、何かを見つけたらしい。

 

「二人とも」

 

呼ばれる。大きな倒木だった。幹には苔が生え、半分ほど土へ沈んでいる。

 

「これを越えたら、丘がもっと見えると思う」

 

「なんで?」

 

「向こうが少し高くなってる」

 

ルドルフはもう、幹へ手をついている。シリウスがため息をついた。

 

「お前、本当に止まらねぇな」

 

「止まってるよ」

 

「今だけだろ」

 

「越えるためだから」

 

「屁理屈ばっかり覚えやがって」

 

ルドルフが先に越えた。着地する。振り返る。

 

「ほら」

 

シリウスも越えた。

 

ラモーヌは最後だった。倒木へ手を置く。苔が、ひんやりとしていた。身体を持ち上げる。向こうへ脚を下ろす。

 

その時。

 

ラモーヌは、倒木の手前側に小さな印があることに気づいた。

 

木の幹に巻かれた、古びた麻縄。その先には、色の抜けた布片が結ばれている。

 

こちら側にだけ。同じ印が、いくつか続いていた。向こう側には、見当たらない。

 

何のための印なのかは、わからなかった。

 

「ラモーヌ?」

 

ルドルフが呼ぶ。

 

ラモーヌは麻縄を見る。それから、向こうにいる二人を見る。

 

「何でもないわ」

 

倒木を越えた。

 

三人が並ぶ。

 

ここまで来ても、何も起きていなかった。怪我もしていない。迷ってもいない。空はまだ明るい。三人とも笑える。走れる。帰ろうと思えば、帰れる。

 

少なくとも、三人はそう思っていた。

 

ルドルフが前を見る。木々の向こう。丘の輪郭が、少しだけ近くに見えた。その顔が輝く。

 

「ほら。やっぱり、もうすぐだよ」

 

シリウスが肩をすくめる。

 

「丘までだからな」

 

「わかってる」

 

ラモーヌは、ポケットの上から羽根に触れた。折れていない。アルダンに見せられる。

 

「行きましょう」

 

自分からそう言った。

 

ルドルフが笑う。シリウスも歩き出す。

 

三つの小さな背中が、木々の間を進んでいく。

 

誰かに呼ばれたわけではない。誰かに押されたわけでもない。追われていたわけでもない。ただ、もう少し先を見たかった。それだけだった。

 

庭師が均した砂利道は、もうずっと後ろにある。剪定された生け垣も。暖かな応接間も。銀のティーポットも。一枚だけ残ったクッキーも。大人たちの声も。アルダンが外を眺めていた窓も。

 

三人には、もう見えなかった。

 

それでもまだ、帰れなくなったとは、誰も思っていなかった。

 

三人の脚は、軽かった。遊びに出た時と、何も変わらない歩幅で。

 

ルドルフが先へ。シリウスがその横へ。ラモーヌが少し後ろから。

 

三人は、そのまま奥へ進んだ。

 

庭師の足跡が続いていた場所から、その先へ。人の手が届く場所から、届かない場所へ。

 

一歩。

 

三人は、自分たちの脚で越えた。




【舞台設定について】
本作の幼少期エピソードは、三人がまだ七〜八歳頃、トレセン学園入学前の時期を舞台としています。

スピードシンボリは現役を退いて間もない頃。引退直後の鋭さと若さをまだ身に纏ったまま、親交の深いメジロ家をシンボリ家の二人——幼いルドルフとシリウスを伴って訪れていました。
メジロ家からは、年の近いラモーヌが同席しています。

正直、それぞれの言葉遣い(台詞回し)には自信なんてありません。
ですが、読者の方々に少しでも多く楽しんでいただければ幸いです。


2026/10/05
本文加筆。
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