氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
晩秋の風が、トレセン学園の窓を細かく揺らしていた。
夕暮れの光が、生徒会室の茶器の影を長く伸ばしていた。伸びた影が、テーブルの端まで届きそうだった。もう少しすれば、夜になる。
十一月も末に差し掛かったこの時期、校舎の中にはどこかそわそわとした空気が漂っている。先週末のジャパンカップの余韻が、まだ学園全体に残っていた。芝二千四百メートルのターフを、世界レコードとなるタイムで駆け抜けたウマ娘たちの走り。スタンドが一体となって揺れたあの瞬間の熱が、一週間経った今もまだ空気の中に溶け残っている。
生徒会室も、例外ではなかった。
もっとも、今日ここに漂っている空気の質は、レースの熱とは少し違った。
「………」
ナリタブライアンが、口に加えていた枝を落とした。
拾う素振りも見せず、ただ扉の方を見ていた。切れ長の目が、心なしか見開かれている。普段であれば、どんな状況でも微動だにしないこのウマ娘が、だ。
エアグルーヴは書類から顔を上げたまま、しばらく動けなかった。副会長として生徒会業務が板についてきた彼女が、ぽかんと口を開けているのは珍しいことだった。自分でも気づいていないらしく、書類を持った手が宙に浮いたまま止まっている。
扉の前に立っている二人を、生徒会室の面々が等しく凝視していた。
一人は、長身をわずかに傾けて柱に肩を預けるようにしている。ダークブラウンのロングヘアに、前髪の白い流星模様。鋭い目つきは相変わらずだが、今は何かを懐かしむような、少し遠い光がある。シリウスシンボリ。海外のターフで名を馳せ、後進のウマ娘たちにとって「その背中を追え」という意味での先達となった彼女が、珍しく学園の敷地に姿を見せていた。遠征帰りなのか、旅の埃がわずかに残るような、そういう佇まいだった。
もう一人は、黒髪をシニヨンに結い上げ、流星を模したメッシュを揺らしながら、部屋の中を静かに見渡している。右目元の泣きぼくろ。現役を退いた今もなお、その佇まいには人を黙らせる何かがある。メジロラモーヌ。史上初のトリプルティアラを達成した、メジロが誇る至宝。彼女もまた、こうして生徒会室の敷居を跨ぐことなど、まずなかった。
その二人が、今日は揃って、ここにいた。
「なんで——」
廊下から威勢のいい声が聞こえたのは、その時だった。
勢いよく扉が開いた。元気のいい足音が、一歩踏み込んで、止まった。
トウカイテイオーだった。
「——えっ、シリウスとラモーヌ!? なんでこんなところにいるの!?」
明日は槍でも降るのかと言わんばかりの顔で、敬愛するシンボリルドルフへ向き直った。その目が「カイチョー、説明してよ!」と雄弁に語っている。
ルドルフは書類から目を上げ、僅かに目を細めた。
「……『今日』は少し、特別な日だからね。年に一度、こうして三人で同じ茶を飲む。ただそれだけのことさ」
「あんときのルドルフは今よりやんちゃで、俺たちを引っ張り回した挙げ句にあの騒動だったからな」
シリウスが肩を竦めながら言った。
「まったく。酷い目にあわされたわね」
ラモーヌが静かに、しかし確かに同意する。
「な——!」
ルドルフは僅かに眉を上げた。
「そういう君たちだって、私を止めなかったじゃないか」
「止めたぜ」
「止めたわよ」
二人の声が、珍しく揃った。
「だけど、あの時のルドルフは、あとちょっとってガンガン奥地に先行してただろ?ついていかなかったら逆に怒りそうだったし」
「………」
ルドルフは観念するように、頬に手を当てた。反論の言葉が、珍しく出てこなかった。
それを見たテイオーが、ぱっと顔を輝かせた。
「ねぇ!三人で盛り上がってないで、何があったのか聞かせてよ!いいでしょ!」
テイオーはそこで一拍置いて、くるりと振り返った。
「ブライアンも、エアグルーヴも、聞きたいよね!?」
ナリタブライアンは落とした枝をまだ拾っていなかった。
「……あぁ」
それだけだった。短すぎる肯定だったが、否定ではなかった。
エアグルーヴが、宙に浮いたままだった書類をようやく机に置いた。
「その……会長たちが問題ないとおっしゃるなら。私どもも、同席させていただいても」
言いながら、自分でも少し言い訳がましいと思ったのか、僅かに視線を逸らした。
ルドルフは二人を見た。それからテイオーを見た。それから、シリウスとラモーヌを見た。
そして小さく、息を吐いた。
「よくはないが、そうだな。……たまには昔を思い出してみても、いいかもしれない」
シリウスが小さく鼻を鳴らした。ラモーヌが、静かに茶碗を両手で包んだ。
三人の視線が、ほんの一瞬だけ、同じ場所を見た。
窓の外の、晩秋の空だ。
あの日も、同じ季節だった。もっと幼くて、もっと無謀で、自分たちの脚がどこまでも続く万能の翼だと信じていた頃の話だ。
「昔話は退屈かもしれないが」とルドルフは言った。「聞くなら最後まで聞きなさい。途中でやめたくなっても、やめさせない」
「え、なにそれこわ——」
「怖い話だからね」
ルドルフは静かに言った。目が笑ってはいなかった。
テイオーが、初めて少しだけ黙った。
夕日の橙色が、テイオーの瞳に反射していた。揺れていた。その橙色が、あの夜の焚き火の色に似ていると、この部屋の三人だけが知っていた。
ブライアンの目が、わずかに細くなった。口から枝が落ちたことにも、気づいていないようだった。エアグルーヴは背筋を伸ばしたまま、口を閉じた。
それを見た後でラモーヌが口を開いた。
「あれは、秋の終わりのことよ。私たちがまだずっと小さかった頃の話」
窓の外で、風が鳴った。