氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
秋が終わる。山が眠りに就く前の、最後の匂いがする。
若い。柔らかい。何も知らないものの匂いだ。
近づいてくる。
腹が、減った。
声がする。笑い声だ。無防備な、屈託のない声だ。
境界線を、越えてくる。
腹が、減った。
いい匂いだ。
その日は、メジロアルダンがいなかった。
いつもならラモーヌの傍にいることが多い、幼い妹が。朝から少し熱っぽかった。大事ではない。けれど季節の変わり目でもあるからと、今日は部屋で休ませることになった。
シンボリ家から客人が来ると聞いていたラモーヌは、応接間へ向かう前に妹の部屋へ寄った。
カーテンは半分だけ開けられていた。淡い秋の日差しが、床の上に細長く落ちている。アルダンは大きな布団に半分埋もれていた。
「お姉さま」
ラモーヌに気づくと、布団の中から片手だけを出した。小さく振る。
「もう行くの?」
「ええ」
ラモーヌはベッドの横まで歩いた。額へ手を置く。朝よりは熱が下がっているような気がした。本当にそうなのかは、ラモーヌにはわからない。けれど、アルダンの顔色は悪くなかった。
「ちゃんと休んでいるのよ」
「はい」
素直な返事だった。それからアルダンは窓を見た。庭の木々が、風に揺れていた。
「今日は、お外で遊ぶの?」
「たぶん」
「いいなあ」
羨ましそうだった。恨めしそうではない。ただ、外へ行ける姉を見て、いいなあ、と言った。
その横顔を見て、ラモーヌは少し前のことを思い出した。
まだ身体が今より弱かった頃。自分も、あの窓のこちら側にいた。妹と二人で並んで、外を見ていたことがある。庭を走る誰かの姿。風に揺れる木。雨。雪。窓一枚隔てた向こうにある、自分たちとは別の世界。
あの頃は、眺めることしかできなかった。
今は違う。走れる。外へ出られる。自分の脚で、好きなところへ行ける。
「お姉さま」
アルダンの声で、ラモーヌは顔を戻した。
「なぁに」
「お土産話、聞かせてね」
ラモーヌは少しだけ考えた。
「面白いことがあれば」
「ふふ。きっとあります」
「そうかしら」
「だって今日は、ルドルフさんとシリウスさんも来るのでしょう?」
「ええ」
「なら、きっと」
なぜそれだけで面白いことが起きるのか。ラモーヌにはよくわからなかった。けれど、妹が楽しそうだったから、否定する必要もなかった。
「では、何か探してくるわ」
「はい」
ラモーヌは部屋を出た。扉を閉める直前、もう一度だけ振り返る。
アルダンは窓の外を見ていた。あの頃の自分と同じように。
けれど今日のラモーヌは、窓の向こうへ行けた。
*
シンボリ家の車がメジロ邸へ到着したのは、その少し後だった。
玄関先で待っていた使用人が扉を開く。最初に降りたのはスピードシンボリだった。続いて、小さな影が二つ。
「わあ……」
シンボリルドルフは、車を降りるなり屋敷を見上げた。何度か訪れたことはある。それでも、来るたびに大きいと思う。屋敷だけではない。庭も。門から玄関までの道も。さらにその向こうに広がる木々も。シンボリの家とは、また違った広さだった。
「ルドルフ」
後ろから声が飛んだ。
「口」
「え?」
「開いてるぞ」
シリウスシンボリだった。ルドルフが慌てて口を閉じる。
「開いていない」
「開いてた」
「開いていなかった」
「見てたって」
「見間違いでは?」
「んなわけあるか」
「二人とも」
前を歩いていたスピードシンボリが振り返った。声は静かだった。それだけで、二人の口が同時に止まる。
「今日はメジロの家に招かれて来ている。わかっているな?」
「はい」
ルドルフはすぐに背筋を伸ばした。シリウスは少し遅れて、
「わかってるよ」
と答える。
「なら結構。くれぐれも、先方に迷惑をかけるな」
「もちろんです」
「特にシリウス」
「なんで私だけなんだよ」
「今の返事でわからないなら、もう一度最初から説明するぞ」
「……いい」
スピードシンボリの口元が、わずかに緩んだ。シリウスがそれを見逃さない。
「今、笑っただろ」
「何のことだ?」
「絶対笑った」
「気のせいだ」
「ジジイみたいなこと言いやがって」
「誰がジジイだ」
「そういうとこ」
「シリウス」
「なんだよ」
「後で話がある」
「ほら、そういうとこだって!」
ルドルフが隣で肩を震わせていた。シリウスが睨む。
「笑うな」
「笑っていない」
「じゃあこっち見ろ」
ルドルフは反対側を向いた。肩はまだ揺れていた。
「お前な……!」
「はい、そこまで」
スピードシンボリが二人の頭へ、それぞれ片手を置いた。力は込めていない。それでも二人とも大人しくなる。
「元気なのは結構だ。余ってるなら庭で走ってこい。ただし」
指が離れる。
「言われたことは守れ」
「はい」
ルドルフは即答した。シリウスも、
「……わかったよ」
と続けた。今度は少し真面目だった。
その返事を聞いてから、スピードシンボリは玄関へ向き直った。幼い二人は、その背中を追った。ルドルフは真っ直ぐに。シリウスは、ほんの少しだけルドルフより前へ出ようとしながら。
*
応接間には、午後の光が差し込んでいた。
銀のティーポットから湯気が立っている。白いクロス。磨かれたカトラリー。菓子皿には、形を揃えたクッキーが並べられていた。
子供の身体には少し大きすぎる椅子に、ルドルフとシリウスが並んで座っている。向かいにはラモーヌ。その少し離れた位置で、メジロアサマとスピードシンボリが茶を飲んでいた。
「アルダンは?」
スピードシンボリが訊いた。
「今朝、少し熱を出しまして」
アサマが答えた。
「大事には至っておりません。今日は念のため休ませています」
「そうか」
「本人は、こちらへ来たがっていましたけれど」
スピードシンボリが短く笑う。
「元気になってからいくらでも会える。今は寝てるのが仕事だな」
ラモーヌはカップを両手で包んだまま、その話を聞いていた。仕事。眠ることが。少し変なの、と思った。けれど声にはしなかった。
「ラモーヌ」
アサマが呼ぶ。
「はい」
「後ほど、もう一度アルダンの様子を見てあげてください」
「もちろん」
「ありがとう」
それだけだった。大仰に褒めることもない。幼い相手だからと子供扱いすることもない。ラモーヌにとって、それが祖母との普通の会話だった。
「ところで、二人とも随分と背が伸びましたね」
アサマの視線が、正面の二人へ向いた。ルドルフが姿勢を正す。シリウスも、一応正した。
「はい。この前測った時より、また少し伸びました」
「どっちが高い?」
スピードシンボリが横から口を挟んだ。ルドルフとシリウスの視線がぶつかった。
「私です」
「私だろ」
ほぼ同時だった。アサマが微笑む。
「仲がよろしいこと」
「よくありません」
「よくねぇよ」
また同時だった。今度はスピードシンボリが声を上げて笑った。
「その返しまで揃うなら十分だろ」
応接間が、少しだけ賑やかになった。シンボリ家から二人が来る日は、いつもそうだった。
ラモーヌはカップの向こうから、その様子を眺めていた。
ルドルフとシリウスは、よく張り合う。座る位置。歩く速さ。菓子を取る順番。窓までどちらが早く行けるか。どうでもよさそうなことまで、何かと競争になる。
たいてい最初に走り出すのはルドルフだった。そしてシリウスが追う。シリウスの方から始めることもある。その場合は、ルドルフが追う。
二人とも、相手が前にいることが嫌なのだろうか。ラモーヌには、まだよくわからなかった。けれど、見ていて退屈はしなかった。
「ラモーヌ」
気づけば、そのルドルフがこちらを見ていた。
「なぁに」
「聞いていた?」
「何を?」
シリウスが呆れた顔をした。
「だから。ルドルフがさっきから話しかけてるだろ」
「……ごめんなさい」
「丘の話」
ルドルフが身を乗り出す。その目が、妙に輝いていた。
ラモーヌはその目を知っていた。何かを見つけた時。何かを確かめたくなった時。ルドルフはこういう顔をする。
「庭の向こうに丘が見えたでしょう?」
「ええ」
「その向こう、見たことある?」
「ないわ」
「気にならない?」
「さあ」
「私は気になる」
聞かれているのに、自分で答えた。シリウスがクッキーを噛みながら、
「お前が気になるのは聞く前からわかってる」
と言った。
「でも、向こう側に何があるのか知りたくない?」
「山だろ」
「その山から見える景色」
「木じゃねぇの」
「行ってみなければわからない」
「だから行く気かよ」
「まだそうとは言っていない」
ルドルフの口元が笑っていた。シリウスがじっと見る。
「その顔で?」
「どういう意味?」
「行く顔してる」
「顔で予定は決まらないよ」
「じゃあ行かないのか?」
一拍。
「……庭には出たい」
「ほらな」
ラモーヌが二人を眺めていると、廊下の棚に置かれていた新聞が目に入った。朝、使用人が置いたものだろう。折り畳まれた紙面の端。見出しだけが読める。
――特定個体による被害、今季も――
熊。そんな文字もあったように思う。
その意味まで目で追う前に。
「ラモーヌ」
また呼ばれた。振り向く。ルドルフだった。
「少しだけ外に出ない?」
その言葉の方が、新聞の記事よりずっと面白そうだった。
ラモーヌはカップを置いた。
「いいわよ」
シリウスが立ち上がる。
「私も行く」
「競争ではないよ」
「誰も競争だなんて言ってねぇだろ」
「そう?」
「その顔やめろ」
ルドルフが笑った。
菓子皿には、クッキーが一枚だけ残っていた。
*
「外へ行くのですか?」
アサマが訊いた。三人が揃って振り返る。
「はい」
ルドルフが代表して答えた。
「少し庭を見てきます」
「そうですか」
アサマは窓へ目を向けた。空は晴れている。風も強くない。午後の時間はまだ残っていた。
「では、日が落ちる前には戻ってきなさい」
「はい」
「それから」
三人の耳が向く。
「庭より先へは行かないように」
ルドルフが瞬きをした。
「庭より先?」
「防風林の向こうは、もう庭師の手が十分に入っていません」
アサマの声は穏やかだった。叱っているわけでも、脅しているわけでもない。
「山は、子供が遊ぶために整えられた場所ではありませんから」
「わかりました」
ルドルフは頷いた。
「シリウスも」
「わかってるよ」
「ラモーヌ」
「はい」
三人の返事を確認すると、アサマは微笑んだ。
「では、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
三人が駆け出していく。廊下から、
「走るな」
とスピードシンボリの声が飛んだ。足音が止まる。数秒。今度は少しだけ静かな足音になった。
アサマがティーカップへ口をつける。
「素直ですね」
「最初の三十秒くらいはな」
「聞こえてるぞー!」
遠くからシリウスの声がした。スピードシンボリは笑った。
*
その日の午後は、どこまでも穏やかだった。
庭へ飛び出した瞬間、ルドルフが走った。
「おい!」
当然、シリウスも走った。
「競争じゃないんじゃなかったのか!」
「競争とは言ってない!」
「走ってんじゃねぇか!」
「走りたいから走ってるだけ!」
「だったら私も走る!」
二人の速度が上がる。砂利が軽く跳ねた。
「廊下では走ってないよ!」
「そういう問題じゃねぇ!」
ラモーヌは少し後ろから二人を見る。速い。二人とも。けれど、今のラモーヌにも追えない速さではなかった。
少し考えてから、ラモーヌも走った。
空気が変わる。室内にいた時とは違う。一歩ごとに景色が後ろへ流れていく。風が頬に触れる。スカートの裾が揺れる。土と芝の匂い。庭木の葉が擦れる音。足の裏へ返ってくる地面の感触。
嫌いではなかった。むしろ、好きなのだと思う。まだ、その感覚に名前はなかったけれど。
「ラモーヌ!」
前方からルドルフの声。
「遅いよ!」
ラモーヌは少しだけ速度を上げた。
「今行くわ」
シリウスが横目で後ろを見る。
「ほら、追いついてきたぞ」
「なら、もう少し速くてもいいね」
「は?」
ルドルフが加速した。
「おい、待て!」
シリウスも追う。ラモーヌは二人を見た。そして、もう少しだけ、速く走った。
庭の端まで着いた時、一着はルドルフだった。ほんの少し遅れてシリウス。ラモーヌはさらに後ろ。
「私の勝ち」
ルドルフが胸を張った。
「勝手に始めた競争だろ!」
「でも追ってきたじゃない」
「お前が逃げるからだ!」
「逃げてはいないよ」
「じゃあもう一回!」
「いいよ」
また走り出そうとした二人を、ラモーヌが呼び止めた。
「ねえ」
「何?」
「何だよ」
ラモーヌは地面を指差した。丸いものが落ちていた。どんぐり。一つではない。落ち葉の中にいくつも転がっている。
「大きい」
ルドルフが拾う。
「こっちの方がでかい」
シリウスも別の一つを拾った。当然のように、それも競争になった。
庭は広かった。三人で遊ぶには十分すぎるほど。生け垣の間を抜け、落ち葉を踏み、木の根を飛び越え、どちらが遠くまで石を飛ばせるか競った。途中で見つけた赤い木の実を、これは食べられるのかと三人で眺めた。結局わからなかったから、食べなかった。わからないものを口に入れてはいけない。ラモーヌはそう教わっていたし、二人も同じらしかった。
そのうち、誰が勝ったのかも曖昧になった。何度も勝った。何度も負けた。それでも、それぞれ自分が一番勝ったと思っていた。
笑い声が、秋の庭に響いていた。
*
応接間にも、その声は届いていた。
スピードシンボリはカップを傾けながら窓の外を見る。芝生の向こうを、三つの小さな影が横切った。先頭がルドルフ。そのすぐ後ろをシリウス。少し離れてラモーヌ。だが次に見た時には、シリウスが前にいた。その後ろから、ルドルフが追っている。
「元気なものですね」
アサマが言った。
「ああ」
「シンボリのお二人は、いつもああなのですか?」
「だいたいな。放っとくと何でも勝負にする」
「よいことではありませんか」
「まあな」
スピードシンボリは窓の外を見たまま答えた。
ルドルフ。シリウス。同じ場所から走り始めても、走り方は違う。
ルドルフは前を見る。迷わない。自分が進む場所を、自分自身が疑っていない。シリウスはその背中を見る。追う。そして追いつこうとする。
あの二人がこれからどこまで行くのか。まだわからない。わからないから、面白い。
庭の向こうで、三人の姿が生け垣に隠れた。
少し騒がしかった。はしゃぎすぎだとも思った。でも、止めなかった。
ああして子供たちが走り回る声を聞いていると、胸のどこかに、ひどく穏やかなものが落ちてくる。自分がまだ今より若く、ただ前だけを見てターフを走っていた頃。その頃の何かに似ている気がした。何に似ているのかは、うまく言葉にできなかった。
「お茶、もう一杯いかがですか」
アサマがティーポットを持ち上げる。
「ああ。いただこう」
庭の方から、また笑い声が聞こえた。まだ近かった。
二人は、何も気にしなかった。
*
最初に防風林まで行こうと言い出したのは、やはりルドルフだった。
庭の西側。整えられた植え込みの向こうに、背の高いエゾマツが連なっている。遠くから見れば一本の暗い壁に見える。その先に、昼間、応接間の窓から見えた丘があった。
「ねえ」
ルドルフが立ち止まる。シリウスが嫌そうな顔をした。
「なんだよ」
「あそこ」
「嫌な予感しかしねぇ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「丘の近くまで行ってみない?」
ほらな。そんな顔でシリウスが額を押さえた。
ラモーヌは二人の横から丘を見る。ここからなら、木々の間に上の方だけが見える。それほど遠くには見えない。
「庭より先へ行くなって言われただろ」
シリウスが言った。
「防風林までなら庭じゃない?」
「屁理屈」
「まだ越えるとは言ってない」
「さっきも同じこと言ってたよな」
「では、防風林の手前まで」
ルドルフが歩き出す。シリウスは追わない。
「ルドルフ」
「なに?」
「戻ろうぜ」
そこで初めて、ルドルフが完全に立ち止まった。
「もう?」
「結構遊んだだろ」
確かに。屋敷を出てから、ずいぶん時間が経っている。日差しも少しだけ傾いていた。
ラモーヌは空を見る。まだ夕方ではない。けれど、午後の一番明るい時間は過ぎている。
「……そうね」
ラモーヌが言った。シリウスが少し意外そうにこちらを見る。
「ほら」
「でも」
ルドルフは丘を見る。
「すぐそこだよ」
「そう見えるだけだろ」
「防風林のところまで行って、それから戻る」
「本当に?」
「もちろん」
シリウスはルドルフを見る。ルドルフも見る。しばらく睨み合う。
「……そこまでだからな」
先に折れたのはシリウスだった。
「うん」
ルドルフが笑う。シリウスが歩き出す。ルドルフの隣へ。
「何笑ってんだ」
「別に」
「ムカつく」
ラモーヌは少し後ろからついていった。
戻ることはできた。ここで。三人とも。
屋敷の方角は、まだよく見えていた。来た道もわかる。走ればすぐだ。そのことを、三人とも知っていた。
だからこそ、あと少しくらいなら何も変わらないと思った。
*
防風林の中は、庭より少し暗かった。それだけだった。
怖くはない。エゾマツが太陽を遮っているから、影が増えただけだ。足元には落ちた枝があり、茶色い針葉が積もっている。庭師の手も入っていた。古い枝は切られ、歩きやすい場所はある程度均されている。ところどころに、作業の跡も残っている。
「ほら」
ルドルフが言う。
「ちゃんと道がある」
「庭師の道だろ」
「道は道」
「その理屈でどこまで行くつもりだよ」
「防風林までと言ったでしょう?」
「もう入ってるだろうが」
ルドルフは周りを見る。それから、
「なら、出口まで」
と言った。シリウスの耳がぴくりと動いた。
「お前な」
「向こう側へ抜けるだけ」
「それを行くって言うんだろ」
「でも、もう半分くらい来たかもしれない」
「なんでわかるんだよ」
「なんとなく」
「私が言ったら理由にならねぇって言うくせに」
ルドルフは笑った。
この頃の三人には、森と呼ぶほどの場所ではなかった。木が多いだけ。庭の続き。少し暗い遊び場。その程度だった。
木の根をまたぐ。枝を避ける。少し高い場所へ登る。下りる。二人がまた速度を上げかけて、ラモーヌが、
「ここでは走らない方がいいわ」
と言った。二人が振り返る。
「根が出ているから」
足元。地面から太い根が盛り上がっている。ルドルフが頷いた。
「そうだね」
シリウスも、
「転ぶと面倒だな」
と言った。
それからしばらくは歩いた。
三人の中で、ラモーヌだけが時折違うところを見ていた。樹皮。苔。枝の形。地面の色。何が面白いというわけでもない。目に入ったものを見ているだけ。
一本、枝の曲がった木があった。
「変な形」
ラモーヌが言った。ルドルフが見る。
「本当だ」
シリウスも見る。
「鹿でもぶつかったんじゃねぇの?」
「鹿って木にぶつかるの?」
「知らねぇ」
「なら適当に言ったね」
「うるせぇ」
三人はまた歩いた。
少し先で、ラモーヌがきれいな羽根を拾った。
「鳥?」
ルドルフが覗き込む。
「たぶん」
「持って帰る?」
ラモーヌは考える。
「アルダンに見せる」
「じゃあ折るなよ」
シリウスが言った。ラモーヌはカーディガンのポケットへ、そっと羽根をしまった。
「ありがとう」
別に礼を言われるようなことではない。シリウスはそういう顔をした。けれど何も言わなかった。
森の向こうに、まだ丘が見えていた。先ほどより、少し大きくなっている気がする。
「ほら」
ルドルフが指差す。
「あそこ。近くなったでしょう?」
「だからなんだよ」
「もうちょっと」
シリウスが足を止めた。
「……ルドルフ」
「なに?」
「さっき防風林までって言ったよな」
「言った」
「その次、出口までって言った」
「うん」
「今度は?」
ルドルフも止まった。少し考える。
「……丘の手前まで?」
「増えてんだろうが!」
ラモーヌが少し笑った。
「ラモーヌも笑うなよ」
「ごめんなさい」
「笑ってるじゃねぇか」
「ふふ」
「おい」
ルドルフまで笑う。
「シリウス」
「なんだよ!」
「もう少しだけ」
その言葉は、最初は本当にただの子供のわがままだった。あと少し遊びたい。あと少し見たい。あと少し走りたい。それだけ。
「丘の手前まで行ったら、戻りましょう」
シリウスが目を細める。
「絶対だな?」
「絶対」
「日が落ちる前だぞ」
「もちろん」
「アサマさんに怒られても知らねぇからな」
「怒られないよ。間に合えば」
「そういう問題じゃねぇだろ……」
それでも、シリウスは歩いた。ルドルフの横へ並んだ。
ラモーヌは、その背中を見ていた。
戻るなら、今なのだろうと思った。理由はない。ただ、屋敷で言われたことを守るなら、もう十分だ。
それでも、足は止まらなかった。
ポケットの中に、アルダンへ見せる羽根が入っている。もう一つくらい、何か面白いものが見つかるかもしれない。丘の向こうに、何があるのか。少しだけ、気になっていた。
だから、ラモーヌも歩いた。
*
置いていかれるのが嫌だった。
自分だけ戻るのも嫌だった。それ以上に、ルドルフだけが先へ行くのが、シリウスにはどうしても気に入らなかった。
ならば一緒に行って、自分の目で確かめる。その方がいい。
そう決めた。決めたのは、自分だった。
前を歩くルドルフの背中を、シリウスは見ていた。
この背中に、ずっと食らいついてきた。先へ行く。なら追う。速く走る。なら追いつく。できると言う。なら自分にもできる。そうやってきた。
ルドルフは自分の脚を疑わない。一度も疑ったことがない。走れば速い。遠くへ行ける。疲れても休めば、また走れる。大人たちに褒められてきた。同年代の子より、ずっと遠くまで走れた。
だから、遠くへ行くことと帰れなくなることが、あの中でまだ結びついていない。
シリウスにはそれがわかっていた。わかっていて、追った。
自分だってできる。そう思っていたからだ。
*
少しずつ。本当に、少しずつだった。
最初に消えたのは、砂利だった。次に、刈り揃えられた草がなくなった。庭木の間隔が崩れた。切られた枝がなくなった。人が通りやすいよう除けられていた倒木が、そのまま横たわるようになった。整えられた土が消え、足の下が腐葉土に変わった。
一歩。また一歩。
変化は小さかった。だから、どこからが庭で、どこからが庭ではないのか。三人にはわからなかった。
ただ、シリウスは何度か後ろを振り返った。
一度目は、大きな木の横を通った時。二度目は、庭師のものらしい古い一輪車が木立の向こうへ見えなくなった時。三度目は、振り返っても屋敷の屋根が見えなくなった時。
「……なあ」
「何?」
ルドルフが振り向く。
「屋敷、見えなくなったぞ」
ラモーヌも振り返った。確かに、見えない。けれど、来た方向はわかる。ような気がした。
ルドルフも確認した。
「あっちだよ」
指を差す。
「走ればすぐ」
「本当だろうな?」
「私たちの脚なら大丈夫」
その言葉には、何の迷いもなかった。
「大丈夫」
もう一度言う。
シリウスは、その顔を見た。自信に満ちていた。いつもの顔だった。
「……わかったよ」
シリウスは答えた。
「でも丘までだ」
「うん」
「今度こそ」
「わかってる」
そのやり取りを聞きながら、ラモーヌは地面を見ていた。
靴の下で鳴る音が、少し変わっている。庭では乾いた落ち葉が、ぱりぱりと音を立てた。ここでは、積もった葉が湿っている。踏むと、柔らかく沈む。音を吸い込む。
それが面白くて、ラモーヌは一度、わざと強く踏んだ。鈍い音。もう一度。やはり同じ。
「何してるの?」
ルドルフが訊く。
「音が違うの」
「音?」
ルドルフも踏む。ず、と靴が沈んだ。
「本当だ」
シリウスまで踏む。
「泥っぽいな」
三人は、その程度にしか思わなかった。
その先も、歩いた。
空が、少し狭くなった。エゾマツの枝が上で重なっている。それでも、まだ明るい。十分に見える。
鳥の声も、聞こえていた。ただ、庭の近くより少なくなった。一羽。遠くで鳴く。しばらくして、別の一羽が返す。風が吹く。枝が擦れる。どこかで葉が落ちる。三人の足音。それだけ。
ラモーヌの耳が、一度だけ動いた。
「どうした?」
シリウスが気づいた。
「何でもないわ」
「そうか?」
「ええ」
本当に、何でもなかった。少し静かになったと思っただけ。山の方へ来たのだから、そういうものなのだろう。ラモーヌはそう思った。それ以上、考えなかった。
前ではルドルフが、何かを見つけたらしい。
「二人とも」
呼ばれる。大きな倒木だった。幹には苔が生え、半分ほど土へ沈んでいる。
「これを越えたら、丘がもっと見えると思う」
「なんで?」
「向こうが少し高くなってる」
ルドルフはもう、幹へ手をついている。シリウスがため息をついた。
「お前、本当に止まらねぇな」
「止まってるよ」
「今だけだろ」
「越えるためだから」
「屁理屈ばっかり覚えやがって」
ルドルフが先に越えた。着地する。振り返る。
「ほら」
シリウスも越えた。
ラモーヌは最後だった。倒木へ手を置く。苔が、ひんやりとしていた。身体を持ち上げる。向こうへ脚を下ろす。
その時。
ラモーヌは、倒木の手前側に小さな印があることに気づいた。
木の幹に巻かれた、古びた麻縄。その先には、色の抜けた布片が結ばれている。
こちら側にだけ。同じ印が、いくつか続いていた。向こう側には、見当たらない。
何のための印なのかは、わからなかった。
「ラモーヌ?」
ルドルフが呼ぶ。
ラモーヌは麻縄を見る。それから、向こうにいる二人を見る。
「何でもないわ」
倒木を越えた。
三人が並ぶ。
ここまで来ても、何も起きていなかった。怪我もしていない。迷ってもいない。空はまだ明るい。三人とも笑える。走れる。帰ろうと思えば、帰れる。
少なくとも、三人はそう思っていた。
ルドルフが前を見る。木々の向こう。丘の輪郭が、少しだけ近くに見えた。その顔が輝く。
「ほら。やっぱり、もうすぐだよ」
シリウスが肩をすくめる。
「丘までだからな」
「わかってる」
ラモーヌは、ポケットの上から羽根に触れた。折れていない。アルダンに見せられる。
「行きましょう」
自分からそう言った。
ルドルフが笑う。シリウスも歩き出す。
三つの小さな背中が、木々の間を進んでいく。
誰かに呼ばれたわけではない。誰かに押されたわけでもない。追われていたわけでもない。ただ、もう少し先を見たかった。それだけだった。
庭師が均した砂利道は、もうずっと後ろにある。剪定された生け垣も。暖かな応接間も。銀のティーポットも。一枚だけ残ったクッキーも。大人たちの声も。アルダンが外を眺めていた窓も。
三人には、もう見えなかった。
それでもまだ、帰れなくなったとは、誰も思っていなかった。
三人の脚は、軽かった。遊びに出た時と、何も変わらない歩幅で。
ルドルフが先へ。シリウスがその横へ。ラモーヌが少し後ろから。
三人は、そのまま奥へ進んだ。
庭師の足跡が続いていた場所から、その先へ。人の手が届く場所から、届かない場所へ。
一歩。
三人は、自分たちの脚で越えた。
【舞台設定について】
本作の幼少期エピソードは、三人がまだ七〜八歳頃、トレセン学園入学前の時期を舞台としています。
スピードシンボリは現役を退いて間もない頃。引退直後の鋭さと若さをまだ身に纏ったまま、親交の深いメジロ家をシンボリ家の二人——幼いルドルフとシリウスを伴って訪れていました。
メジロ家からは、年の近いラモーヌが同席しています。
正直、それぞれの言葉遣い(台詞回し)には自信なんてありません。
ですが、読者の方々に少しでも多く楽しんでいただければ幸いです。
2026/10/05
本文加筆。