氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
慣れることは、諦めること。
だから彼女は、昨日と同じ悲しみの朝を、何度でも正確にやり直すのだ。
夜が明ける前から、電話が鳴っていた。
昨夜の速報が流れてから、止まらなかった。使用人たちが交代で対応していた。
「現在、対応できる立場にございません」
「詳細についてはお答えできません」
最初の一時間は、まだ人間の声だった。丁寧で、落ち着いていて、この家に長く仕えてきた者たちの声だった。それが、夜が深まるにつれて変わっていった。同じ言葉を繰り返すうちに、声から何かが抜けていった。感情ではなく、もっと根本的な何かが。人が言葉を発している、という実感のようなものが。
廊下の奥で、電話のベルが鳴った。
一度鳴って、使用人が取った。また鳴った。また取った。ベルの音が、夜明け前の静寂の中で、普段より鋭く聞こえた。容赦がなかった。この家が今夜どういう状況にあるかを知った上で、それでも鳴らし続ける種類の電話だった。
一度だけ、受話器の向こうから声が漏れた。
「なんで管理できてなかったんですか」
使用人が、落ち着いた声で答えていた。「現在、対応できる立場にございません」。同じ言葉を、また繰り返していた。
アサマは、それを応接間で聞いていた。
聞いていて、何も言わなかった。言えることが、今夜はなかった。廊下で使用人たちが受け続けている電話の向こうに、外の世界がある。その外の世界が、今夜からこの邸宅の中で起きていることを消費し始めている。その音が、薄い壁一枚を隔てて、ここまで届いていた。
夜明け前の応接間は、死のように静かだった。
その静寂と廊下の喧騒の間に、アサマは一人でいた。
*
捜索班が出ていく前に、スピードが来た。
「報道の窓口、今朝中に整えます。シンボリ家の弁護士を通す形で。昨夜の着信は全部記録させてあります」
「ありがとう」
「今日の捜索範囲は西側を追加します。昨日と重複しない形で」
「わかりました」
スピードは端末を見ながら話していた。指先が、端末の画面の上を正確に動いていた。昨夜から何時間も動き続けてきた指が、恐ろしいほど正確に、次の動作へと移っていた。震えていなかった。止まっていなかった。それがかえって、アサマには重く見えた。止まらないことで、今夜をここまで来た人間の指だった。
捜索班が出発した。
アサマは窓の前に立って、その背中を見ていた。
昨日も、同じ場所に立って、同じ背中を見送った。今日も同じだった。
「行きなさい」
言葉が出た。昨日も言った言葉だ。
山が、朝の光を受けて白く光っていた。
*
昨日と同じ朝だった。
同じ光が窓から差し込んでいた。同じ使用人が朝食を運んできた。同じテーブルに、同じ人間たちが座っていた。ルナ、エプソム、シリウスの父親。全員が、昨日より少し疲れた顔をしていた。それだけが、昨日と違った。
アサマは箸を取った。
食べなければならなかった。昨日もそう思った。昨日も少し食べた。今日も同じように食べる。それがこの邸宅の当主として、今日一日をここで支え続けるための仕事だった。使用人たちが、こちらを見ていた。昨日も見ていた。今日も見ている。大奥様が食べれば、全員が食べられる。
一口食べた。二口目で、手が止まった。
昨日と同じところで、止まった。
アサマは湯飲みを持ちながら、その「同じ」ということを考えていた。
昨日と同じだ、と思った瞬間に、何かが怖くなった。同じであることに慣れていくことが、怖かった。慣れるということは、この状況を「普通」として受け入れていくということだ。あの子たちが山の中にいることを、「当たり前の風景」として処理し始めるということだ。
そうなってはいけない、とアサマは思った。
思いながら、それでも昨日と同じ場所に座って、同じように湯飲みを持っていた。
ルナが、先に箸を置いた。
昨日もそうだった。昨日も、二人の箸はほぼ同時に止まった。今日も同じだった。ルナが置くのを見て、アサマも置いた。置いてから、互いに何も言わなかった。言葉は要らなかった。同じ朝を、同じ重さで迎えているということだけが、今朝の二人の間にあった。
ラモーヌの席を、見た。
空いていた。昨日も空いていた。一昨日も空いていた。今日も空いている。その空き方に、昨日とは少し違う重さがあった。一日ごとに、重さが変わっていく。重くなっていく。あの子が戻らない日が一日増えるたびに、その席の空き方が、少しずつ違う意味を持ち始める。
アサマは目を離した。
窓の外を見た。今日も山は白かった。
*
昼前の無線は、昨日と同じ内容だった。
「羆の足跡を確認。子供の痕跡は確認できず。積雪が続いています」
スピードが受けた。アサマは隣で聞いた。同じ言葉だった。同じ声で、同じ重さで届いた。
「続けてください」
スピードが言った。それも昨日と同じだった。
無線が切れてから、二人は少しの間、何も言わなかった。
「昨日と同じ報告だ」
スピードが言った。
「ええ」
「それが何を意味するか」
「わかっています」
わかっている。言葉にはしなかった。言葉にしてしまえば、それが今日の事実として固まる。昨日も見つからなかった。今日も見つからなかった。その「二日」という数字が、今日で確定する。
アサマは窓に手を当てた。
冷たかった。昨日も冷たかった。一昨日も冷たかった。ガラスはいつも同じ温度でそこにあった。変わるのは、触れるこちら側だけだった。
*
午後の捜索班が戻ってきたのは、日が傾いた頃だった。
中村支部長が、応接間に入ってきた。昨日より疲れた顔をしていた。外套の泥汚れが、昨日より多かった。それだけで、今日の山の状態がわかった。
「本日の捜索範囲を報告します」
地図が広げられた。
赤い線が、また増えていた。昨日の線の隣に、今日の線が加わっていた。二日分の赤い線が、地図の上に重なっていた。それでも、白い部分の方がまだ多かった。
「子供の痕跡は——」
「ただ」と、中村支部長が続けた。
アサマは顔を上げた。「ただ」という言葉に、何かが引っかかった。昨日はなかった言葉だ。
「隊員の一人が、木の枝に引っかかっているものを見つけました」
外套のポケットから、透明な袋を取り出した。中に、細いものが入っていた。
リボンだった。
薄い緑色をしていた。片端がほつれて、雪と泥に汚れていた。
アサマは立ち上がった。受け取った。
袋越しに見た。ビニール越しに、冷たさと微かな湿り気が伝わってきた。山の冷気が、そのままそこに閉じ込められていた。応接間の暖かさの中で、その袋だけが別の温度を持っていた。
薄い緑。細い布。
ルドルフのものではなかった。ルドルフはリボンを嫌う。シリウスのものでもなかった。シリウスはリボンを使わない。
ラモーヌのものだった。
見るまでもなかった。この色を、何年もこの家で見てきた。緑が好きだった。薄い色を好んだ。細いリボンを、いつも丁寧に結んでいた。
見ながら、アサマは一つのことを考えた。考えてはいけないと思いながら、考えた。
なぜ、枝に引っかかっていたのか。
走って逃げる途中で引っかかったのか。あるいは、何かに振り回された時に千切れたのか。リボンが引っかかるという動作の前に、どういう動作があったのか。何があれば、リボンが枝に残るのか。
考えを止めた。
止めなければ、この部屋に立っていられなかった。
袋越しに感じる冷たさが、指先から伝わってきた。この冷たさの中に、あの子がいた。今日もそこにいた。その確かさだけを、今は持っていることにした。
スピードに差し出した。スピードは受け取り、一瞥した。それから目を逸らした。逸らした先に何があるわけでもなかった。ただ、それ以上見ていられなかった。
部屋の中が、静かになった。
「誰の」
誰かが小さく言いかけ、止まった。
言いかけた言葉が、空中で止まって、消えた。言わなくても、この部屋にいる全員がわかっていた。わかっていたから、誰も続きを言わなかった。言葉にすれば、それが現実の一部として固まる。今日だけは、固まらないままにしておきたかった。
「他には」とスピードが聞いた。
「羆の足跡が、今日も奥へ向かっていました。急いでいない」
急いでいない。
その言葉が、アサマの胸の中に落ちた。落ちて、そこに留まった。急いでいないということは、何かを追いかけているわけではない。ということは——。考えかけて、止めた。
「明日も、入ります」
中村支部長が言った。昨日も同じ言葉を言った。でも今日の声は、昨日より少し重かった。義務として言っているのか、それとも、この二日間山を歩いてきた人間として言わずにいられないのか。判断できなかった。どちらでもよかった。その言葉だけを、受け取った。
「頼みます」
それだけ言った。
*
夕食の席に、リボンの話は出なかった。
誰も言わなかった。言えなかった。食事をしながら、全員がそれぞれの場所でリボンのことを考えていた。考えながら、口には出さなかった。声にすれば、それがこの場所の現実になる。今夜だけは、現実にしたくなかった。
食事が終わった後、アサマは一人で応接間に残った。
他の人間たちは、それぞれの場所へ散っていった。シリウスの父親は廊下に出た。エプソムは客間に戻った。スピードは端末を持って、別の部屋へ行った。
ルナだけが、残った。
窓の前に立っていた。山の方角を見ていた。暗くて、何も見えないはずだった。それでも見ていた。アサマも、その背中を見ていた。
しばらくして、ルナが振り返った。
目が合った。
何も言わなかった。言葉は要らなかった。この二日間、朝食で同時に箸を止め、夕食で同時に黙った。その積み重ねが、今夜ここにあった。
「今日、リボンが見つかりました」
アサマは言った。
「ええ」とルナは言った。「聞きました」
「明日も、捜索班が入ります」
「ええ」
それだけだった。それだけで、十分だった。ルナは一度だけ目を閉じた。開いた時には、何かが決まっていた。また窓の外を向いた。二人は並んで、暗い山の方角を見ていた。
静かになった。
アサマはテーブルの上を見た。
透明な袋は、もう手元にはなかった。中村支部長が記録として持ち帰った。でも、その輪郭はまだ目の前にある気がした。薄い緑。細い布。片端のほつれ。袋越しに伝わってきた、山の冷たさ。
あの子が今日もあの山にいることの、唯一の証拠だった。
いる、ということの証拠だった。それだけは確かだった。今日この山の中のどこかに、あの子がいた。いたから、リボンが残った。残ったから、見つかった。
アサマは目を閉じた。一秒だけ閉じた。
開いた目で、窓の外を見た。
暗かった。山の稜線は見えなかった。でも、そこにある。山はそこにある。あの子たちも、そこにいる。
今夜も、山は答えなかった。
ただ雪が降り続けた。昨日も、今日も、明日も、同じように。
廊下から、スピードの足音が戻ってきた。扉が開いた。
「アサマ」
「なに」
「明日の捜索範囲を、北側に広げることを中村支部長と話し合いました」
「シリウスのお父様から、お話は聞いています」
「ええ」
二人は少しの間、黙っていた。
「それでいいと思います」とアサマが言った。「判断はあなたたちに任せます」
スピードは頷いた。扉を閉めずに、廊下に立ったまま、外を見た。アサマは応接間から、スピードの背中を見ていた。
この二日間で、少しずつ何かが変わっていた。変わっているのに、何も変わっていないように見えた。毎朝捜索班が出て、毎夕戻ってくる。その繰り返しの中で、全員の何かが、少しずつ削れていた。
「眠れそうですか」とアサマが聞いた。
「眠れません」とスピードが言った。「でも横になります。明日も動かなければならないので」
「そうしなさい」
足音が遠ざかっていった。
アサマは一人になった。
柱時計が鳴っていた。一秒ずつ、鳴り続けていた。二日分の一秒が、今夜もここで積み上がっていく。
リボンが、今日見つかった。
それだけが、今日という一日に残ったことだった。
昨日(2026/4/20)、評価バーに色が付きました。
評価をいただきありがとうございます。
二章も終盤ですが、引き続き楽しんでいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
※予約投稿の日時をミスしてました…