氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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涙の国は、とても秘密に満ちている。
慣れることは、諦めること。
だから彼女は、昨日と同じ悲しみの朝を、何度でも正確にやり直すのだ。


02-五.『明日も動かなければならないので』

夜が明ける前から、電話が鳴っていた。

 

昨夜の速報が流れてから、止まらなかった。使用人たちが交代で対応していた。

 

「現在、対応できる立場にございません」

 

「詳細についてはお答えできません」

 

最初の一時間は、まだ人間の声だった。丁寧で、落ち着いていて、この家に長く仕えてきた者たちの声だった。それが、夜が深まるにつれて変わっていった。同じ言葉を繰り返すうちに、声から何かが抜けていった。感情ではなく、もっと根本的な何かが。人が言葉を発している、という実感のようなものが。

 

廊下の奥で、電話のベルが鳴った。

 

一度鳴って、使用人が取った。また鳴った。また取った。ベルの音が、夜明け前の静寂の中で、普段より鋭く聞こえた。容赦がなかった。この家が今夜どういう状況にあるかを知った上で、それでも鳴らし続ける種類の電話だった。

 

一度だけ、受話器の向こうから声が漏れた。

 

「なんで管理できてなかったんですか」

 

使用人が、落ち着いた声で答えていた。「現在、対応できる立場にございません」。同じ言葉を、また繰り返していた。

 

アサマは、それを応接間で聞いていた。

 

聞いていて、何も言わなかった。言えることが、今夜はなかった。廊下で使用人たちが受け続けている電話の向こうに、外の世界がある。その外の世界が、今夜からこの邸宅の中で起きていることを消費し始めている。その音が、薄い壁一枚を隔てて、ここまで届いていた。

 

夜明け前の応接間は、死のように静かだった。

 

その静寂と廊下の喧騒の間に、アサマは一人でいた。

 

 

    *

 

 

捜索班が出ていく前に、スピードが来た。

 

「報道の窓口、今朝中に整えます。シンボリ家の弁護士を通す形で。昨夜の着信は全部記録させてあります」

 

「ありがとう」

 

「今日の捜索範囲は西側を追加します。昨日と重複しない形で」

 

「わかりました」

 

スピードは端末を見ながら話していた。指先が、端末の画面の上を正確に動いていた。昨夜から何時間も動き続けてきた指が、恐ろしいほど正確に、次の動作へと移っていた。震えていなかった。止まっていなかった。それがかえって、アサマには重く見えた。止まらないことで、今夜をここまで来た人間の指だった。

 

捜索班が出発した。

 

アサマは窓の前に立って、その背中を見ていた。

 

昨日も、同じ場所に立って、同じ背中を見送った。今日も同じだった。

 

「行きなさい」

 

言葉が出た。昨日も言った言葉だ。

 

山が、朝の光を受けて白く光っていた。

 

 

    *

 

 

昨日と同じ朝だった。

 

同じ光が窓から差し込んでいた。同じ使用人が朝食を運んできた。同じテーブルに、同じ人間たちが座っていた。ルナ、エプソム、シリウスの父親。全員が、昨日より少し疲れた顔をしていた。それだけが、昨日と違った。

 

アサマは箸を取った。

 

食べなければならなかった。昨日もそう思った。昨日も少し食べた。今日も同じように食べる。それがこの邸宅の当主として、今日一日をここで支え続けるための仕事だった。使用人たちが、こちらを見ていた。昨日も見ていた。今日も見ている。大奥様が食べれば、全員が食べられる。

 

一口食べた。二口目で、手が止まった。

 

昨日と同じところで、止まった。

 

アサマは湯飲みを持ちながら、その「同じ」ということを考えていた。

 

昨日と同じだ、と思った瞬間に、何かが怖くなった。同じであることに慣れていくことが、怖かった。慣れるということは、この状況を「普通」として受け入れていくということだ。あの子たちが山の中にいることを、「当たり前の風景」として処理し始めるということだ。

 

そうなってはいけない、とアサマは思った。

 

思いながら、それでも昨日と同じ場所に座って、同じように湯飲みを持っていた。

 

ルナが、先に箸を置いた。

 

昨日もそうだった。昨日も、二人の箸はほぼ同時に止まった。今日も同じだった。ルナが置くのを見て、アサマも置いた。置いてから、互いに何も言わなかった。言葉は要らなかった。同じ朝を、同じ重さで迎えているということだけが、今朝の二人の間にあった。

 

ラモーヌの席を、見た。

 

空いていた。昨日も空いていた。一昨日も空いていた。今日も空いている。その空き方に、昨日とは少し違う重さがあった。一日ごとに、重さが変わっていく。重くなっていく。あの子が戻らない日が一日増えるたびに、その席の空き方が、少しずつ違う意味を持ち始める。

 

アサマは目を離した。

 

窓の外を見た。今日も山は白かった。

 

 

    *

 

 

昼前の無線は、昨日と同じ内容だった。

 

「羆の足跡を確認。子供の痕跡は確認できず。積雪が続いています」

 

スピードが受けた。アサマは隣で聞いた。同じ言葉だった。同じ声で、同じ重さで届いた。

 

「続けてください」

 

スピードが言った。それも昨日と同じだった。

 

無線が切れてから、二人は少しの間、何も言わなかった。

 

「昨日と同じ報告だ」

 

スピードが言った。

 

「ええ」

 

「それが何を意味するか」

 

「わかっています」

 

わかっている。言葉にはしなかった。言葉にしてしまえば、それが今日の事実として固まる。昨日も見つからなかった。今日も見つからなかった。その「二日」という数字が、今日で確定する。

 

アサマは窓に手を当てた。

 

冷たかった。昨日も冷たかった。一昨日も冷たかった。ガラスはいつも同じ温度でそこにあった。変わるのは、触れるこちら側だけだった。

 

 

    *

 

 

午後の捜索班が戻ってきたのは、日が傾いた頃だった。

 

中村支部長が、応接間に入ってきた。昨日より疲れた顔をしていた。外套の泥汚れが、昨日より多かった。それだけで、今日の山の状態がわかった。

 

「本日の捜索範囲を報告します」

 

地図が広げられた。

 

赤い線が、また増えていた。昨日の線の隣に、今日の線が加わっていた。二日分の赤い線が、地図の上に重なっていた。それでも、白い部分の方がまだ多かった。

 

「子供の痕跡は——」

 

「ただ」と、中村支部長が続けた。

 

アサマは顔を上げた。「ただ」という言葉に、何かが引っかかった。昨日はなかった言葉だ。

 

「隊員の一人が、木の枝に引っかかっているものを見つけました」

 

外套のポケットから、透明な袋を取り出した。中に、細いものが入っていた。

 

リボンだった。

 

薄い緑色をしていた。片端がほつれて、雪と泥に汚れていた。

 

アサマは立ち上がった。受け取った。

 

袋越しに見た。ビニール越しに、冷たさと微かな湿り気が伝わってきた。山の冷気が、そのままそこに閉じ込められていた。応接間の暖かさの中で、その袋だけが別の温度を持っていた。

 

薄い緑。細い布。

 

ルドルフのものではなかった。ルドルフはリボンを嫌う。シリウスのものでもなかった。シリウスはリボンを使わない。

 

ラモーヌのものだった。

 

見るまでもなかった。この色を、何年もこの家で見てきた。緑が好きだった。薄い色を好んだ。細いリボンを、いつも丁寧に結んでいた。

 

見ながら、アサマは一つのことを考えた。考えてはいけないと思いながら、考えた。

 

なぜ、枝に引っかかっていたのか。

 

走って逃げる途中で引っかかったのか。あるいは、何かに振り回された時に千切れたのか。リボンが引っかかるという動作の前に、どういう動作があったのか。何があれば、リボンが枝に残るのか。

 

考えを止めた。

 

止めなければ、この部屋に立っていられなかった。

 

袋越しに感じる冷たさが、指先から伝わってきた。この冷たさの中に、あの子がいた。今日もそこにいた。その確かさだけを、今は持っていることにした。

 

スピードに差し出した。スピードは受け取り、一瞥した。それから目を逸らした。逸らした先に何があるわけでもなかった。ただ、それ以上見ていられなかった。

 

部屋の中が、静かになった。

 

「誰の」

 

誰かが小さく言いかけ、止まった。

 

言いかけた言葉が、空中で止まって、消えた。言わなくても、この部屋にいる全員がわかっていた。わかっていたから、誰も続きを言わなかった。言葉にすれば、それが現実の一部として固まる。今日だけは、固まらないままにしておきたかった。

 

「他には」とスピードが聞いた。

 

「羆の足跡が、今日も奥へ向かっていました。急いでいない」

 

急いでいない。

 

その言葉が、アサマの胸の中に落ちた。落ちて、そこに留まった。急いでいないということは、何かを追いかけているわけではない。ということは——。考えかけて、止めた。

 

「明日も、入ります」

 

中村支部長が言った。昨日も同じ言葉を言った。でも今日の声は、昨日より少し重かった。義務として言っているのか、それとも、この二日間山を歩いてきた人間として言わずにいられないのか。判断できなかった。どちらでもよかった。その言葉だけを、受け取った。

 

「頼みます」

 

それだけ言った。

 

 

    *

 

 

夕食の席に、リボンの話は出なかった。

 

誰も言わなかった。言えなかった。食事をしながら、全員がそれぞれの場所でリボンのことを考えていた。考えながら、口には出さなかった。声にすれば、それがこの場所の現実になる。今夜だけは、現実にしたくなかった。

 

食事が終わった後、アサマは一人で応接間に残った。

 

他の人間たちは、それぞれの場所へ散っていった。シリウスの父親は廊下に出た。エプソムは客間に戻った。スピードは端末を持って、別の部屋へ行った。

 

ルナだけが、残った。

 

窓の前に立っていた。山の方角を見ていた。暗くて、何も見えないはずだった。それでも見ていた。アサマも、その背中を見ていた。

 

しばらくして、ルナが振り返った。

 

目が合った。

 

何も言わなかった。言葉は要らなかった。この二日間、朝食で同時に箸を止め、夕食で同時に黙った。その積み重ねが、今夜ここにあった。

 

「今日、リボンが見つかりました」

 

アサマは言った。

 

「ええ」とルナは言った。「聞きました」

 

「明日も、捜索班が入ります」

 

「ええ」

 

それだけだった。それだけで、十分だった。ルナは一度だけ目を閉じた。開いた時には、何かが決まっていた。また窓の外を向いた。二人は並んで、暗い山の方角を見ていた。

 

静かになった。

 

アサマはテーブルの上を見た。

 

透明な袋は、もう手元にはなかった。中村支部長が記録として持ち帰った。でも、その輪郭はまだ目の前にある気がした。薄い緑。細い布。片端のほつれ。袋越しに伝わってきた、山の冷たさ。

 

あの子が今日もあの山にいることの、唯一の証拠だった。

 

いる、ということの証拠だった。それだけは確かだった。今日この山の中のどこかに、あの子がいた。いたから、リボンが残った。残ったから、見つかった。

 

アサマは目を閉じた。一秒だけ閉じた。

 

開いた目で、窓の外を見た。

 

暗かった。山の稜線は見えなかった。でも、そこにある。山はそこにある。あの子たちも、そこにいる。

 

今夜も、山は答えなかった。

 

ただ雪が降り続けた。昨日も、今日も、明日も、同じように。

 

廊下から、スピードの足音が戻ってきた。扉が開いた。

 

「アサマ」

 

「なに」

 

「明日の捜索範囲を、北側に広げることを中村支部長と話し合いました」

 

「シリウスのお父様から、お話は聞いています」

 

「ええ」

 

二人は少しの間、黙っていた。

 

「それでいいと思います」とアサマが言った。「判断はあなたたちに任せます」

 

スピードは頷いた。扉を閉めずに、廊下に立ったまま、外を見た。アサマは応接間から、スピードの背中を見ていた。

 

この二日間で、少しずつ何かが変わっていた。変わっているのに、何も変わっていないように見えた。毎朝捜索班が出て、毎夕戻ってくる。その繰り返しの中で、全員の何かが、少しずつ削れていた。

 

「眠れそうですか」とアサマが聞いた。

 

「眠れません」とスピードが言った。「でも横になります。明日も動かなければならないので」

 

「そうしなさい」

 

足音が遠ざかっていった。

 

アサマは一人になった。

 

柱時計が鳴っていた。一秒ずつ、鳴り続けていた。二日分の一秒が、今夜もここで積み上がっていく。

 

リボンが、今日見つかった。

 

それだけが、今日という一日に残ったことだった。




昨日(2026/4/20)、評価バーに色が付きました。
評価をいただきありがとうございます。

二章も終盤ですが、引き続き楽しんでいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。

※予約投稿の日時をミスしてました…
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