氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
報告すべきことは何もない。大人にとってそれは最大の絶望。
——けれど、何もないということは、何かがまだそこにあるということでもある。
三日目の朝、スピードは鏡を見なかった。
洗面台の前に立って、水で顔を叩いた。冷たかった。それだけでよかった。鏡を見れば、三日間の夜が顔に出ているとわかっていた。わかっていたから、見なかった。見てしまえば、何かを認めることになる気がした。
鏡を見れば、そこにいるのはただの無力な一人の女だと突きつけられる。今の自分には、その事実を抱えるだけの余裕も、許しも必要なかった。
廊下に出ると、使用人の一人がお茶を持ってきた。
「召し上がってください」
「後で」
「……昨日も、そうおっしゃいました」
スピードは使用人を見た。若い子だった。目が赤かった。この邸宅に長く仕えている子ではなかった。それでも、三日間、ここにいた。ここにいて、できることをしていた。
「後で、必ず飲む」
そう言い直した。使用人が頭を下げた。
約束だと思った。自分への約束でもあった。戻ってくる。戻ってきて、必ず飲む。それだけのことが、今朝の自分を玄関まで運ぶ一つになっていた。
廊下の窓から、外を見た。
雪が止んでいた。空が、少しだけ高かった。昨日より、稜線がはっきり見えた。その鮮明さが、かえって落ち着かなかった。山はずっとそこにあった。三日間、何も変わらずそこにあり続けていた。変わったのは、こちら側だけだった。
*
端末を確認した。
昨夜のうちに動かせるものは、全部動かした。捜索範囲の拡大。追加人員の手配。報道対応の窓口。費用の問題。シンボリ家とメジロ家が連名で動ける分は、もう動いていた。
今朝、残っているのは一つだった。
捜索班の後ろについて、山に入ること。
邸宅に残ることが、今日はどうしてもできなかった。一日目も、二日目も、ここで動き続けた。動くことで、今日をやり過ごした。でも今日は、それだけでは足りなかった。端末を操作する指先が、昨日と同じ動きをしていた。同じ正確さで、同じ冷静さで動いていた。それが今朝は、自分でも怖かった。慣れている。慣れてしまっている。
外套を着た。手袋をはめた。
廊下を歩いた。応接間の前で、少し止まった。
アサマが、窓の前に立っていた。背中が見えた。声をかけなかった。今朝のアサマに、かける言葉がなかった。あるとすれば、「山に入ってきます」という言葉だけだった。でもそれを言えば、アサマは何と答えるか。答えが怖かった。怖かったから、黙って通り過ぎた。
玄関で、中村支部長に一言告げた。
「今日は同行します」
支部長は、止めなかった。止める言葉を、持っていなかったのだと思う。止める権利も、持っていなかったのかもしれない。ただ頷いて、捜索班の列の後ろに場所を作った。
*
出発前に、中村支部長が捜索班に向かって言った。
「今日から、田中さんのご紹介で新しい方に加わっていただきます。地元で山菜採りをされている方で、この山の道を熟知されています」
スピードは、その人物を見た。
若かった。十七か、十八か。防寒着をしっかり着込んでいた。山仕事用の、動きやすさと暖かさを両立させた装備だった。手拭いは頭に巻いていた。それだけが、山里の娘らしい、飾り気のない印だった。ウマ娘だった。背筋が真っ直ぐで、雪靴を履いたまま、その場で一度だけ体ごと山の方角を確かめるように向いた。地図を見るのではなく、体で方角を確かめる癖のある人間だとわかった。
スピードと目が合った。
娘は、腰まで折る礼をした。
深かった。家業の中で自然に身についた種類の礼だと、一瞬でわかった。
スピードは頷いた。それだけだった。名前を聞かなかった。今日の山の中で、必要になれば聞ける。今は出発の時間だった。
捜索班が動き始めた。
*
雪は深かった。
膝の上まで埋まる場所もあった。かつて重賞を制してきた筋肉が、ここでは雪から自らを救い出すためだけに使われていた。一歩踏み込んで、引き抜いて、また踏み込む。その繰り返しだった。現役の頃、こんな走り方をしたことはなかった。走ることが自分の全てだった時代に、こういう雪の中で一歩ずつ進む自分を想像したことはなかった。
防風林を抜けた。
沢沿いを歩いた。昨日、捜索班が入ったルートの北側だった。シリウスの父親が言った方角だった。
前を歩く娘の足取りを、スピードは少し見ていた。
深雪の中で、沈み方が違った。踏み込む前に、一瞬だけ足の裏で雪の質を確かめるような動きがある。雪を読んでいた。どこに踏み込めば沈まないか、どこを避けるべきか、体が先に知っていた。地図を見ていなかった。見る必要がなかった。この山の道が、体の中にあった。
娘の耳が、ごく微かに動いた。
風の向きを確かめているのか、何かの気配を拾っているのか。スピードには判断できなかった。次の瞬間、娘は足を止め、体ごとゆっくりと山の方角を向いた。見ているのではなかった。聞いているのでもなかった。体全体で、山の今を確かめていた。それが終わると、また歩き始めた。手拭いの端が、風に微かに揺れた。
スピードは自分の足元を見た。
踏み込むたびに沈んでいた。引き抜くたびに力を使っていた。三日間、山の外で端末を操作してきた体と、この山を毎年歩いてきた体の違いが、雪の中ではっきりと出ていた。自分の体には、この山の道はない。ただ、地図と端末で手繰り寄せてきた情報だけがあった。
*
一時間、進んだ。何もなかった。また進んだ。また何もなかった。
雪があった。木があった。羆の足跡があった。子供の痕跡は、なかった。
羆の足跡は、今日も奥へ向かっていた。間隔は一メートル半から二メートル。急いでいなかった。それは三日間、変わらなかった。急がなくていいと、あの個体は知っている。それが何を意味するのか、スピードはもう考えないようにしていた。考えかけた瞬間に、娘の耳が前に向いた。スピードも止まった。捜索班が止まった。全員が、息を潜めた。
十秒ほど、何もなかった。風の音だけが、雪の上を渡っていた。
娘の耳が、元に戻った。体から力が抜けるのがわかった。スピード自身も、いつのまにか手袋の中で拳を作っていた。
雲が山側から湧き始めた。
三日続けて、同じ時間帯に同じ方向から雲が来ていた。この山の癖だと、昨日わかった。覚えたくはなかった。なりたくなかった知識が、今や自分の一部になり始めていた。
「引き返します」
中村支部長が言った。
スピードは、その言葉を聞いた。聞いて、従った。従わなければならないとわかっていた。でも、足が止まった。一秒だけ、止まった。
来た方角を振り返った。木立の間から、遠い稜線が見えた。雲が湧き始めていたが、まだ稜線の上は白かった。何もなかった。
何もなかった。それだけだった。
踏み出した。戻る道を歩いた。
前を歩く娘が、一度だけ振り返ってその方角を見た。何かを確かめるように。それから前を向いて、また歩いた。何も言わなかった。
スピードも、何も言わなかった。
*
戻る道を歩きながら、スピードは自分の手を見た。
手袋の中で、指先の感覚がなかった。動かした。動いた。動いているとわかるのに、感覚がない。それが今日の自分の状態だと思った。動いている。動けている。それでも、どこかの感覚が届かなくなっている。
一日目、邸宅の中で端末を操作していた時、指先は正確に動いていた。アサマがそれを見ていた。あの正確さは、強さではなかった。止まれなかっただけだった。止まれなかったから、動き続けていた。その結果が、あの正確さだった。
今日の指先は、感覚がない。
動いている。正確かどうか、わからない。感覚がないから、確かめる手段がない。
それでも、山を歩いた。
歩けた。歩けている間は、まだ何かができている。
*
邸宅に戻ったのは、日が傾いた頃だった。
玄関で外套を脱いだ。雪が床に落ちた。使用人が拭いていった。何も言わなかった。言う必要がなかった。この三日間で、この邸宅では言葉の省略が自然になっていた。
廊下を歩いた。応接間の前で止まった。
扉を開けた。
アサマが窓の前に立っていた。振り返らなかった。
「何もありませんでした」
報告ではなかった。確認でもなかった。ただ、声に出した。声に出すことで、今日という一日を終わらせた。
アサマは何も言わなかった。言わないことが、答えだとわかっていた。
スピードは、椅子に座った。外套を脱いでも、指先の感覚はまだ戻っていなかった。
指が、ゆっくりと握られた。強くではなかった。ゆっくりと、確かめるように。掌に、指が一本ずつ折り重なった。握りしめてから、また開いた。感覚が、少しだけ戻った気がした。
テーブルの上を見た。
昨日、リボンがあった場所だ。今日はない。でもその輪郭が、まだそこに見える気がした。薄い緑。細い布。アサマが受け取った時の顔を、スピードは横から見ていた。
あの時、アサマは動かなかった。
動けなかったのではなく、動かなかった。その区別が、今日の山を歩いてきてから、より鮮明に見えた。アサマは動かないことで、何かを守っていた。スピードは動き続けることで、同じ何かを守ろうとしていた。方法が違うだけで、守ろうとしているものは同じだったかもしれない。
アサマが振り返った。
「食べましたか」
「山に入る前に、少し」
「今日は、それだけですか」
「……そうです」
アサマは何も言わなかった。言う代わりに、使用人を呼んで、何かを頼んでいた。しばらくして、温かいものが運ばれてきた。
スピードは受け取った。
両手で包んだ。熱かった。死にかけていた指先の神経を、その熱が無理やり叩き起こした。痛みに近い感覚だった。でも、感覚が戻っている。戻っているということは、まだここにいる。それだけが、今日という一日に自分が得たものだった。
*
夜、スピードは一人で廊下に出た。
窓の外を見た。暗かった。山の稜線は見えなかった。雲が出ていた。明日の天候が、今日より悪くなるかもしれなかった。
端末を確認した。
捜索範囲の拡大について、追加の連絡が来ていた。明日から、北側のルートに一本入れる手はずが整っていた。シリウスの父親が言った方角だった。
今日、その方角を実際に歩いた。
この山は、方角で読む山ではない。足で読む山だ。地図に書いてある線と、実際に雪の中を歩いた時の感覚は、別のものだった。それはこの三日間で、体が覚えた知識だった。
今日、前を歩いた娘は、その知識を最初から持っていた。地図を見なかった。体で読んでいた。毎年この山を歩いてきた積み重ねが、足の裏にあった。プロの救助隊でも猟師でもない。でも、この山の道だけは知っていた。
明日も、入る。
指先を、もう一度握った。感覚が、今度は少し早く戻ってきた。
三日分の山が、この手の中にあった。