氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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『雪山、異状なし』。
報告すべきことは何もない。大人にとってそれは最大の絶望。
——けれど、何もないということは、何かがまだそこにあるということでもある。


02-六.「何もありませんでした」

三日目の朝、スピードは鏡を見なかった。

 

洗面台の前に立って、水で顔を叩いた。冷たかった。それだけでよかった。鏡を見れば、三日間の夜が顔に出ているとわかっていた。わかっていたから、見なかった。見てしまえば、何かを認めることになる気がした。

 

鏡を見れば、そこにいるのはただの無力な一人の女だと突きつけられる。今の自分には、その事実を抱えるだけの余裕も、許しも必要なかった。

 

廊下に出ると、使用人の一人がお茶を持ってきた。

 

「召し上がってください」

 

「後で」

 

「……昨日も、そうおっしゃいました」

 

スピードは使用人を見た。若い子だった。目が赤かった。この邸宅に長く仕えている子ではなかった。それでも、三日間、ここにいた。ここにいて、できることをしていた。

 

「後で、必ず飲む」

 

そう言い直した。使用人が頭を下げた。

 

約束だと思った。自分への約束でもあった。戻ってくる。戻ってきて、必ず飲む。それだけのことが、今朝の自分を玄関まで運ぶ一つになっていた。

 

廊下の窓から、外を見た。

 

雪が止んでいた。空が、少しだけ高かった。昨日より、稜線がはっきり見えた。その鮮明さが、かえって落ち着かなかった。山はずっとそこにあった。三日間、何も変わらずそこにあり続けていた。変わったのは、こちら側だけだった。

 

 

    *

 

 

端末を確認した。

 

昨夜のうちに動かせるものは、全部動かした。捜索範囲の拡大。追加人員の手配。報道対応の窓口。費用の問題。シンボリ家とメジロ家が連名で動ける分は、もう動いていた。

 

今朝、残っているのは一つだった。

 

捜索班の後ろについて、山に入ること。

 

邸宅に残ることが、今日はどうしてもできなかった。一日目も、二日目も、ここで動き続けた。動くことで、今日をやり過ごした。でも今日は、それだけでは足りなかった。端末を操作する指先が、昨日と同じ動きをしていた。同じ正確さで、同じ冷静さで動いていた。それが今朝は、自分でも怖かった。慣れている。慣れてしまっている。

 

外套を着た。手袋をはめた。

 

廊下を歩いた。応接間の前で、少し止まった。

 

アサマが、窓の前に立っていた。背中が見えた。声をかけなかった。今朝のアサマに、かける言葉がなかった。あるとすれば、「山に入ってきます」という言葉だけだった。でもそれを言えば、アサマは何と答えるか。答えが怖かった。怖かったから、黙って通り過ぎた。

 

玄関で、中村支部長に一言告げた。

 

「今日は同行します」

 

支部長は、止めなかった。止める言葉を、持っていなかったのだと思う。止める権利も、持っていなかったのかもしれない。ただ頷いて、捜索班の列の後ろに場所を作った。

 

 

    *

 

 

出発前に、中村支部長が捜索班に向かって言った。

 

「今日から、田中さんのご紹介で新しい方に加わっていただきます。地元で山菜採りをされている方で、この山の道を熟知されています」

 

スピードは、その人物を見た。

 

若かった。十七か、十八か。防寒着をしっかり着込んでいた。山仕事用の、動きやすさと暖かさを両立させた装備だった。手拭いは頭に巻いていた。それだけが、山里の娘らしい、飾り気のない印だった。ウマ娘だった。背筋が真っ直ぐで、雪靴を履いたまま、その場で一度だけ体ごと山の方角を確かめるように向いた。地図を見るのではなく、体で方角を確かめる癖のある人間だとわかった。

 

スピードと目が合った。

 

娘は、腰まで折る礼をした。

 

深かった。家業の中で自然に身についた種類の礼だと、一瞬でわかった。

 

スピードは頷いた。それだけだった。名前を聞かなかった。今日の山の中で、必要になれば聞ける。今は出発の時間だった。

 

捜索班が動き始めた。

 

 

    *

 

 

雪は深かった。

 

膝の上まで埋まる場所もあった。かつて重賞を制してきた筋肉が、ここでは雪から自らを救い出すためだけに使われていた。一歩踏み込んで、引き抜いて、また踏み込む。その繰り返しだった。現役の頃、こんな走り方をしたことはなかった。走ることが自分の全てだった時代に、こういう雪の中で一歩ずつ進む自分を想像したことはなかった。

 

防風林を抜けた。

 

沢沿いを歩いた。昨日、捜索班が入ったルートの北側だった。シリウスの父親が言った方角だった。

 

前を歩く娘の足取りを、スピードは少し見ていた。

 

深雪の中で、沈み方が違った。踏み込む前に、一瞬だけ足の裏で雪の質を確かめるような動きがある。雪を読んでいた。どこに踏み込めば沈まないか、どこを避けるべきか、体が先に知っていた。地図を見ていなかった。見る必要がなかった。この山の道が、体の中にあった。

 

娘の耳が、ごく微かに動いた。

 

風の向きを確かめているのか、何かの気配を拾っているのか。スピードには判断できなかった。次の瞬間、娘は足を止め、体ごとゆっくりと山の方角を向いた。見ているのではなかった。聞いているのでもなかった。体全体で、山の今を確かめていた。それが終わると、また歩き始めた。手拭いの端が、風に微かに揺れた。

 

スピードは自分の足元を見た。

 

踏み込むたびに沈んでいた。引き抜くたびに力を使っていた。三日間、山の外で端末を操作してきた体と、この山を毎年歩いてきた体の違いが、雪の中ではっきりと出ていた。自分の体には、この山の道はない。ただ、地図と端末で手繰り寄せてきた情報だけがあった。

 

 

    *

 

 

一時間、進んだ。何もなかった。また進んだ。また何もなかった。

 

雪があった。木があった。羆の足跡があった。子供の痕跡は、なかった。

 

羆の足跡は、今日も奥へ向かっていた。間隔は一メートル半から二メートル。急いでいなかった。それは三日間、変わらなかった。急がなくていいと、あの個体は知っている。それが何を意味するのか、スピードはもう考えないようにしていた。考えかけた瞬間に、娘の耳が前に向いた。スピードも止まった。捜索班が止まった。全員が、息を潜めた。

 

十秒ほど、何もなかった。風の音だけが、雪の上を渡っていた。

 

娘の耳が、元に戻った。体から力が抜けるのがわかった。スピード自身も、いつのまにか手袋の中で拳を作っていた。

 

雲が山側から湧き始めた。

 

三日続けて、同じ時間帯に同じ方向から雲が来ていた。この山の癖だと、昨日わかった。覚えたくはなかった。なりたくなかった知識が、今や自分の一部になり始めていた。

 

「引き返します」

 

中村支部長が言った。

 

スピードは、その言葉を聞いた。聞いて、従った。従わなければならないとわかっていた。でも、足が止まった。一秒だけ、止まった。

 

来た方角を振り返った。木立の間から、遠い稜線が見えた。雲が湧き始めていたが、まだ稜線の上は白かった。何もなかった。

 

何もなかった。それだけだった。

 

踏み出した。戻る道を歩いた。

 

前を歩く娘が、一度だけ振り返ってその方角を見た。何かを確かめるように。それから前を向いて、また歩いた。何も言わなかった。

 

スピードも、何も言わなかった。

 

 

    *

 

 

戻る道を歩きながら、スピードは自分の手を見た。

 

手袋の中で、指先の感覚がなかった。動かした。動いた。動いているとわかるのに、感覚がない。それが今日の自分の状態だと思った。動いている。動けている。それでも、どこかの感覚が届かなくなっている。

 

一日目、邸宅の中で端末を操作していた時、指先は正確に動いていた。アサマがそれを見ていた。あの正確さは、強さではなかった。止まれなかっただけだった。止まれなかったから、動き続けていた。その結果が、あの正確さだった。

 

今日の指先は、感覚がない。

 

動いている。正確かどうか、わからない。感覚がないから、確かめる手段がない。

 

それでも、山を歩いた。

 

歩けた。歩けている間は、まだ何かができている。

 

 

    *

 

 

邸宅に戻ったのは、日が傾いた頃だった。

 

玄関で外套を脱いだ。雪が床に落ちた。使用人が拭いていった。何も言わなかった。言う必要がなかった。この三日間で、この邸宅では言葉の省略が自然になっていた。

 

廊下を歩いた。応接間の前で止まった。

 

扉を開けた。

 

アサマが窓の前に立っていた。振り返らなかった。

 

「何もありませんでした」

 

報告ではなかった。確認でもなかった。ただ、声に出した。声に出すことで、今日という一日を終わらせた。

 

アサマは何も言わなかった。言わないことが、答えだとわかっていた。

 

スピードは、椅子に座った。外套を脱いでも、指先の感覚はまだ戻っていなかった。

 

指が、ゆっくりと握られた。強くではなかった。ゆっくりと、確かめるように。掌に、指が一本ずつ折り重なった。握りしめてから、また開いた。感覚が、少しだけ戻った気がした。

 

テーブルの上を見た。

 

昨日、リボンがあった場所だ。今日はない。でもその輪郭が、まだそこに見える気がした。薄い緑。細い布。アサマが受け取った時の顔を、スピードは横から見ていた。

 

あの時、アサマは動かなかった。

 

動けなかったのではなく、動かなかった。その区別が、今日の山を歩いてきてから、より鮮明に見えた。アサマは動かないことで、何かを守っていた。スピードは動き続けることで、同じ何かを守ろうとしていた。方法が違うだけで、守ろうとしているものは同じだったかもしれない。

 

アサマが振り返った。

 

「食べましたか」

 

「山に入る前に、少し」

 

「今日は、それだけですか」

 

「……そうです」

 

アサマは何も言わなかった。言う代わりに、使用人を呼んで、何かを頼んでいた。しばらくして、温かいものが運ばれてきた。

 

スピードは受け取った。

 

両手で包んだ。熱かった。死にかけていた指先の神経を、その熱が無理やり叩き起こした。痛みに近い感覚だった。でも、感覚が戻っている。戻っているということは、まだここにいる。それだけが、今日という一日に自分が得たものだった。

 

 

    *

 

 

夜、スピードは一人で廊下に出た。

 

窓の外を見た。暗かった。山の稜線は見えなかった。雲が出ていた。明日の天候が、今日より悪くなるかもしれなかった。

 

端末を確認した。

 

捜索範囲の拡大について、追加の連絡が来ていた。明日から、北側のルートに一本入れる手はずが整っていた。シリウスの父親が言った方角だった。

 

今日、その方角を実際に歩いた。

 

この山は、方角で読む山ではない。足で読む山だ。地図に書いてある線と、実際に雪の中を歩いた時の感覚は、別のものだった。それはこの三日間で、体が覚えた知識だった。

 

今日、前を歩いた娘は、その知識を最初から持っていた。地図を見なかった。体で読んでいた。毎年この山を歩いてきた積み重ねが、足の裏にあった。プロの救助隊でも猟師でもない。でも、この山の道だけは知っていた。

 

明日も、入る。

 

指先を、もう一度握った。感覚が、今度は少し早く戻ってきた。

 

三日分の山が、この手の中にあった。

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