氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
山は何も答えない。それでも人は、見えないものを信じて歩き出す。
長い夜の先にある、再開の夜明けに向けて。
下山したのは、日が完全に落ちた後だった。
捜索班が邸宅の敷地に戻った時、コハギは少しだけ足が止まった。
朝は暗いうちに集合して、点呼が終わったらすぐに山へ向かった。だから気づかなかった。今朝は実感がなかった。でも今、こうして玄関の灯りの下に立つと、改めてわかった。田中さんに頼まれて来た。それだけのことだった。それだけのことのはずだったのに、足が少しだけ遅くなった。
玄関先で雪靴を叩いた。積もった雪が、固まりになって地面に落ちた。一日分の山が、そこに落ちた。膝から下が重かった。重さに慣れてしまっていた。慣れたくなかったが、慣れていた。
扉が開いた。
使用人が、タオルを持って立っていた。黒い服だった。きちんとしていた。コハギが今まで見てきた誰とも、少し違う種類の人だった。
「お疲れ様でした」
「あ、ありがとう……ございます」
腰まで折った。折りながら、場違いなことをしている気がした。折り方が深すぎたかもしれない。でも他にどうすればよいかわからなかった。
受け取ったタオルで手を拭いた。指先に、少しずつ感覚が戻ってきた。
耳が、ごく微かに動いた。
邸宅の中から、いくつかの気配が届いていた。人が動いている音。廊下の奥で誰かが話している声。それから——電話を取る声が、また聞こえた。意識してのことではなかった。耳が先に拾っていた。
使用人の顔を、少しだけ見ていた。
疲れていた。それはわかった。でも、それだけではなかった。別の種類の疲れが、その顔に出ていた。
コハギには、それがわかった。
店先に立っていると、一日に何十人、何百人という顔を見る。それぞれが、それぞれの疲れ方をしている。長く店に立っていると、疲れの種類が少しずつわかるようになる。この人の顔は、外からの圧力に晒され続けた人の顔だった。何度も同じ言葉を繰り返して、それでも丁寧に対応し続けた人の顔だった。
三日間、この場所でも別の戦いがあったのだと思った。
今日も、何もなかった。
*
山を深く識る者は、みな同じことを言う。
神隠し、という言葉がある。コハギはその言葉を、幼い頃から何度も聞いてきた。祖父の祖父の時代に、この山域で何人かが消えた。猟師が消えた。山菜採りが消えた。翌日に出てきた者もいた。出てこなかった者もいた。出てきた者は、何があったか語らなかった。語れなかったのか、語らなかったのか、今となってはわからない。
山には、そういう場所がある。
コハギは、この土地に代々根づく口伝を、幼い頃に民謡のひとつとして聞いた覚えがあった。ただ、山を歩くうちに、体でわかるようになった。踏み込んでよい場所と、踏み込んではいけない場所がある。線があるわけではない。標識があるわけでもない。でも、足の裏が知っている。空気が変わる場所がある。音が変わる場所がある。そこに、長く留まってはいけない。
コハギが競走の世界へ向かわなかったのは、速さへの興味が薄かったからではない。
この山が、そういうことを教えてくれたからだ。速さを競うよりも、山と話す方法を覚える方が、自分には合っていた。女将がそう言ったわけでもなかった。ただ、幼い頃から山に入るうちに、そうなっていた。
今日、捜索班が入ったルートの、さらに奥に、コハギが一人なら踏み込める場所がある。
その場所のことを、今夜少しだけ考えた。
*
邸宅の中に入る前に、コハギは一度だけ振り返った。
山が、暗闇の中にあった。稜線は見えなかった。どこまでが山でどこからが空なのか、もうわからなかった。ただ、そこにあることだけがわかった。今日も、明日も、あの山はそこにある。
耳が、また動いた。
山の方角に向いていた。意識してのことではなかった。体が先に反応していた。何かを聞き取ろうとしていた。聞こえなかった。雪の音だけが、静かに届いていた。
灯りがついていた。
邸宅の窓に、いくつも灯りがついていた。誰かが座っている。誰かが立っている。誰かが、窓の外を見ているかもしれない。
コハギは、その灯りを少しの間、見ていた。
中に入るべきだとわかっていた。体を温めなければならない。明日も山に入るために、今夜休まなければならない。それはわかっていた。
でも、すぐには動けなかった。
あの灯りの中にいる人たちが、何を抱えているか、コハギには直接わからなかった。田中さんから聞いた話と、中村支部長から聞いた話と、山を歩いて感じたことだけが、コハギの知っていることだった。子供が三人、行方不明になっている。三日が経った。まだ見つかっていない。
それだけだった。
それだけなのに、灯りが重く見えた。
*
今日、捜索班の中でスピードシンボリと言葉を交わすことはなかった。
名前は、田中さんから聞いていた。現役時代のことも、少しだけ聞いていた。海を渡って、世界と戦ったウマ娘だということを。それ以上のことは知らなかった。知る必要もなかった。
山の中では、肩書も名前も関係なかった。
ただ、雪を踏んで、進んで、引き返した。それだけだった。
一つだけ、気になったことがあった。
引き返すという判断が出た時、スピードシンボリが一秒だけ足を止めた。来た方角を振り返った。その目が、どこかを見ていた。何もなかった。稜線の上に、雲が湧いていた。それだけだった。
でも、その目の向きが、コハギには少しだけわかる気がした。
何かを探している目だった。何かがあるはずだという目だった。
コハギも同じ方向を見た。何もなかった。稜線の上に、雲が湧いていた。風が変わっていた。
尾が、微かに揺れた。
意識してのことではなかった。ただ、その方角を見ていたら、そうなっていた。
何もなかった。今日は、何もなかった。
*
部屋に戻って、地図を広げた。
今日歩いたルートを、指でなぞった。北側の沢沿い。昨日より少し奥まで入った。それでも、白い部分の方がまだ多かった。
指が、ある場所で止まった。
夏に、沢沿いで声をかけた人がいた。秋にも会った。山に詳しい人だった。どこに泊まっているのか、聞かなかった。聞く理由がなかった。ただ、あのあたりに詳しい人間だということはわかっていた。
あの廃屋跡は、とても人が住めるような場所ではなかった。
だが、あの谷筋なら猛吹雪でも風を避けられ、冬でも凍らない湧水がある。この山のことを体で知っている人間なら、どこかに住める場所を見つけているかもしれない。あの人が今もこの山にいるなら、何かを知っているかもしれない。
確かめる手段はなかった。
ただ、指がその場所に止まったまま、しばらく動かなかった。
地図の上の、その一点を見ていた。
*
窓から、邸宅の灯りが見えた。
消えていなかった。今夜もまだ、灯りがついていた。
あの灯りの中で、大人たちが座っている。目を閉じることもできないまま、夜を過ごしている。それが三日目の夜だった。明日、捜索は続く。コハギも、また山に入る。また何もないかもしれない。それでも、入る。
雪靴を、脱がなかった。
椅子に座っても、足の裏にはまだ今日の山が張り付いていた。明日の朝、またすぐ動けるように。それだけの理由だった。
外では、雪が降り続けていた。
音もなく、ただ降り続けていた。今夜も積もる。明日の朝、また雪が深くなっている。また一から探す。それが続く。
山は、今夜も何も言わなかった。
答えを持っているのに、言わなかった。あるいは、コハギには聞こえない言葉で、ずっと何かを言い続けているのかもしれなかった。
どちらかは、わからなかった。
邸宅の灯りが、雪の中に滲んでいた。
温かそうに見えた。温かいのだろうと思った。あの灯りの中にいる人たちは、体は温かい場所にいる。でもその温かさが、今夜は何の意味も持っていないだろうということも、なんとなくわかった。
コハギは窓から目を離した。
地図をもう一度見た。明日歩くルートを確かめた。どこまで入れるか。天候が崩れるとしたら何時頃か。体で覚えている山の感触と、地図の線を照らし合わせた。
耳が、もう一度だけ動いた。
山の方角だった。
確かめるように、一瞬だけ向いて、また戻った。
確かめ終えてから、地図を折りたたんだ。
明日も、山に入る。
それだけが、今夜のコハギに残っていることだった。
雪は降り続けた。
邸宅の灯りは、消えなかった。
山は、答えなかった。
これにて、第二章『問いは白く、沈黙は黒く、明けぬ夜はただ長く。』は幕を下ろします。
ここまで、ルドルフたちの不在が生み出す重圧と、それを取り囲む社会の喧騒を意識して書き進めてきました。捜索は続いています。答えは、まだ出ていません。大人たちが抱えた三日間の重さは、この章が終わっても消えることがありません。
ここまでご覧いただいた方はすでにご存知かもしれませんが、ルドルフたちは山の中で保護されてにいます。下りるのは、まだ少し先の話です。しかし、それを知っているのは今のところ、貴方だけです。
二十一日間という時間が、静かに流れています。
第三章『痛みは蒼く、悪夢は昏く、届く名前はなお熱く。』近日投下予定です。
また次の物語でお会いしましょう。
――雪は、まだ降り続けています。