氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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第三章です。
本章では、傷を負った少女たちが男との生活で如何にして立ち直っていくのかをテーマに本編を書いていく予定です。

よろしくお願いします。
(ルドルフたちの様子は、次話以降)


痛みは蒼く、悪夢は昏く、届く名前はなお熱く。
03-序.「今夜は、来ない」


小屋から、十五歩。

 

男は雪の上で、足を止めた。

それ以上は、動かなかった。動けない理由は、足元の雪ではなかった。

 

背後の小屋に、三つの呼吸がある。

浅い。速い。眠っているが、眠りの底には落ちていない。昨夜の記憶が、まだ身体に張り付いている。音が変われば、目が覚める。目が覚めて、この小屋に自分がいなければ——。

 

だから、十五歩だった。

それ以上は、離れられない。

 

足元の雪に、風が当たる。細かく、白く舞い上がる。夜気が肌に刺さった。吹雪ではなかった。ただ、冷えていた。昨夜より冷えていた。気温が下がるほど、雪は締まり、音が遠くまで届く。それは人間にとっても、獣にとっても、同じことだった。

 

男は、闇を見た。

 

針葉樹の黒い影が、山の裾から連なっている。その奥に、もっと深い闇があった。木々の間に入ればわかる。昼でも薄暗く、夜は底が消える。先ほどまで、その底に何かがいた。今も、いる。

 

遠ざかっていない。

 

ただ、動きが止まっている。

 

 

    ※

 

 

化生が、男を見ていた。

 

見ていた、というより——値踏みしていた。

 

木立の縁から五十歩。倒木の影。雪の中に腹を沈めて、体温を逃がさずに静止している。昨夜、枝一本で自分を退けたものが、今、小屋の前に立っている。

 

退けられた。その事実を、化生は反芻した。

 

昨夜の接触で、二つのことがわかった。

 

一つ。あれは、獲物ではない。

二つ。あれが何かは、まだわからない。

 

わからないものに、化生は慎重だった。わからないものには近づかない。近づかないままで、正体を探る。探り終えるまで、動かない。

 

その慎重さが、どこから来たのかは、化生自身にもわからない。

 

見たわけではない。それでも、憶えている。

喰ったわけではない。それでも、憶えている。

戦ったわけではない。それでも、憶えている。

——身体が。魂が。内なる鼓動の中に根付く何かが、そう囁いている。

 

先祖が持ち帰ったものが、血の中に刻まれている。喰らった獲物の記憶が、骨の芯まで染み込んでいる。何代前の記憶かは、もうわからない。ただ、憶えている。あの山の奥での出来事も——今夜の、あの信号も。

 

昨夜から、あれを見定めている。

 

何かが、おかしかった。

 

あの小屋の前に立っているものは、単独だった。武器を持っていない。罠を仕掛けていない。犬もいない。それだけなら、ただの人間だ。弱い。仕留めることは、難しくない。

 

だが、退いた。

 

退いた理由を、化生は言葉にできなかった。言葉にする必要もなかった。血が、退けと言った。本能が、退けと言った。昨夜から染み込んでいるはずのない記憶が——どこかの先祖が感じた何かが——あの小屋の前に立つものを前にして、全身から滲み出てきた。

 

だから、今も、探り続けている。

 

 

    ※

 

 

男は、化生がどこにいるか、わかっていた。

 

木立の縁から五十歩。倒木の影。気配が、そこに淀んでいた。気配というより、重さだった。あの質量が、雪の上に沈んでいる。静止している。でも、消えていない。

 

消える気がない。

 

それが、男にはわかった。あの個体は、今夜ここを離れるつもりがない。昨夜の接触の続きを、この距離でやっている。答え合わせをしている。

 

厄介だ、と思った。

感情のない、乾いた認識だった。厄介だと思ったが、驚かなかった。あの個体が昨夜の接触程度で縄張りを捨てるとは、最初から思っていなかった。

 

問題は、自分の選択肢が少ないことだった。

 

本来なら、こちらから近づいて話をつける。話をつける、というのは穏やかな表現だが、やることはシンプルだ。この山から出ていくか、眠るか。どちらかを選ばせる。選ばなければ、選ばせる。

 

できない。

 

小屋の中に、三つの呼吸がある。浅く、速く、まだ眠りの底にない。

 

男が小屋から離れれば、その三つの呼吸が目を覚ます可能性がある。目を覚まして、小屋の中に自分がいないと知る。昨夜の記憶がある身体で、自分がいない小屋で、あの呼吸が何をするか。

 

しない。

動かせない。

 

十五歩が、限界だった。

 

 

    ※

 

 

化生は、動かなかった。

 

小屋の前のものも、動かなかった。

 

二つの存在が、雪の中で静止したまま、互いを見据え続けた。

 

時間が経った。

どれだけ経ったか、化生には関係がなかった。時間を持て余すことを、知らない。待つことは、生きることだった。血の中にある記憶がそう言っていた。先祖が覚えた待ち方が、この身体を動かしていた。

 

しかし、今夜は何かが違った。

 

待ちながら、化生は小屋を見ていた。

 

光が、隙間から漏れていた。薪が燃えている。温かさが、この距離まで届いてくるわけはなかった。それでも、光が見えた。煙の匂いが、風に乗って届いた。あの光の中に、昨夜仕留め損ねた三つの命がある。小さな命だった。あの夜、三つの命は消えかけていた。河原で膝をつき、爪の下に落ちる寸前まで追い詰めた。それを、あの小屋の前のものが拾い上げた。

 

拾い上げた、ということは——そのものが、あの三つを、守っている。

 

守っている。その行動が、化生の中で何かと重なった。

縄張りを守る。縄張りの内側のものを守る。

それは、血の中にある。

 

だから——腑に落ちた。

 

あの小屋の前のものは、縄張りの内側のものを守るために、自分の前に立っている。縄張りから離れないために、自分のところに来ない。

 

来ない。

 

血が、そう告げていた。

 

 

    ※

 

 

男は、気づいていた。

 

化生がこちらを窺っていることも。

その過程で、何かを理解しつつあることも。

 

厄介だ、とまた思った。

今度は少し、意味が違った。

 

頭のいい獣は、扱いが難しい。頭がいいから、余計なことに気づく。気づいた上で、動き方を変える。昨夜、枝一本で退けた。退けたことを、あの個体は記憶している。記憶した上で、今夜は別の角度から来ている。

 

自分が小屋から離れられないことを、もし気づいたとしたら。

 

その先を、男は考えた。考えて、一つの答えが出た。

 

あの個体が今夜選ぶのは、おそらく二つのうちの一つだ。

 

一つ目。今夜はこのまま引く。情報を集める。来夜以降に備える。

 

二つ目。自分が動けないと確信した時点で、そこを突く。

 

どちらかだ。

今夜は、一つ目だと思った。

 

根拠は、感覚だった。理由を言語化しろと言われても、できない。ただ、そう感じた。あの個体は、今夜はまだ動かない。確信を得ていない。確信を得るまで、来ない。

 

だから、今夜は——来ない。

 

そう思って、男は一度目を閉じた。

閉じて、開けた。木立の影に、気配はまだあった。

 

来ない。

だが、いる。

 

その差が、問題だった。

 

男は足元の雪に、ゆっくりと手を伸ばした。

 

素手で雪を掬った。冷たかった。掌の熱が、すぐに奪われた。かまわず、握った。固めた。小さな球になった。

 

何をするでもなく、男はその雪玉を右手の中で転がした。

 

それだけだった。

 

投げなかった。声も出さなかった。ただ、手の中で転がした。それだけのことが、この場の空気を、わずかに変えた。何が変わったかは、説明できない。ただ——木立の奥の気配が、一拍だけ止まった。止まって、硬くなった。

 

硬くなってから、また元に戻った。

 

男は雪玉を、静かに雪の上に置いた。

置いた雪玉は、何でもなかった。ただの雪の固まりだった。それが、なぜあの気配を一拍止めたのか。説明できない。男自身にも、説明しなかった。ただ、置いた。

 

来ない。

だが、いる。

 

それが、今夜の答えだった。

 

 

    ※

 

 

化生が、動いた。

 

動いた、というより——向きを変えた。

 

正確には、頭だけが動いた。小屋から、別の方角へ。木立の奥、斜面の上の方角。鼻が動いた。何かの気配を捉えていた。

 

エゾシカだった。

 

三百メートルほど上の斜面に、小群がいる。昨夜の吹雪で移動できず、今夜の晴れ間で動き始めた。臆病な動物だが、腹が減っている。腹が減った獣は、少しだけ慎重さを手放す。

 

化生は、その気配を確かめた。

 

小屋の前のものを、もう一度見た。動いていなかった。動くつもりがなかった。

 

そちらに向かっても、追ってこない。

 

確かめた上で、腹の中で計算した。今夜、小屋の前のものの正体を知ることはできない。あちらも動かない。こちらも動けない。膠着した状況で消耗するより、今夜は腹を満たす方が利がある。腹を満たして、また明日、来ればいい。

 

この山は、逃げない。

あの小屋も、逃げない。

 

化生は立ち上がった。

 

重い身体が、音もなく雪の上を動いた。倒木の影から出て、斜面へ向かう。一歩ごとに、あれほどの質量が雪を踏んでいるとは思えないほど静かだった。足跡だけが残った。深く、大きく、確かな足跡が、木立の中へと続いていた。それが消えると、後には何もなかった。雪と、夜と、風だけが残った。

 

木立の奥に、影はもうなかった。

 

 

    ※

 

 

男は、気配が遠ざかるのを聞いた。

 

遠ざかっている、と確かめてから、息を一度吐いた。

 

息は、白くならなかった。

 

去った、とは思わなかった。一時間後には戻るかもしれない。明日の夜も来る。来て、また探る。その繰り返しが、しばらく続く。あの個体は、諦めない。諦め方を、覚えていない。

 

それが、あの個体の強さだった。

 

男は十五歩を、もと来た方向に戻した。

 

小屋の扉に手をかけた。冷たかった。引いて、中に入った。温かさが、顔に当たった。薪ストーブの熱が、小屋の空気に均等に満ちていた。

 

三つの呼吸が、まだあった。

浅い。速い。でも、続いていた。

 

男は扉を閉めた。

閉めてから、ストーブに薪を一本くべた。火が、少しだけ大きくなった。

 

今夜は来ない。

 

だが、いる。

 

その事実が、この小屋の外の雪の上に、足跡として残っていた。朝になれば、新しい雪がそれを埋めるかもしれない。埋めても、足跡は消えない。跡の下に、残り続ける。

 

男はストーブの前に座った。

 

三つの呼吸が、少しだけ深くなっていた。眠りの底に向かっていた。

 

それだけで、今夜は十分だった。

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