氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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三人分の泣き声が、小屋の中に満ちた。
声を出す者。声を殺す者。音のない涙だけの者。
それぞれが、それぞれの形で壊れていた。
——壊れているのではない、と思い直した。
解けている、のだ。
張り詰めていたものが、ようやく解けている。
頭に手を置いた。
それ以外に、やり方がわからなかった。


03-一.「走れる」

三人で、見知らぬ場所を走っていた。

 

ここが何処かは当の昔にわからなくなっていた。今はただ走らなければならない、走り続けなければならない、決して足を止めてはならないと、脳が、身体が、本能が訴えかけていた。だから、とにかくがむしゃらだった。

 

足が地面を蹴るたびに、土の感触が返ってきた。湿った土だった。秋の終わりのような、柔らかい土だった。木々の間を抜けて、斜面を下って、沢を越えた。走れていた。脚が動いていた。それだけが、今この瞬間に確かなことだった。

 

後ろから、何かが来ていた。

 

振り返らなかった。振り返る必要がなかった。来ていることは、背中でわかった。重さが、空気を変えていた。その変化が、足を速くさせた。

 

三人分の足音が、地面を叩いていた。

 

自分の足音。右後ろの足音。左後ろの足音。三つが重なって、斜面に響いていた。走れている。三人とも走れている。それだけでよかった。走れている間は、まだ間に合う。

 

沢を越えた。岩を避けた。木の根を踏んで、身体が傾いて、立て直した。

 

その時だった。

 

足音が、二つになった。

 

右後ろの音が、消えた。

 

一瞬だった。気づいた時にはもう、なかった。転んだ音もしなかった。叫び声もなかった。ただ、消えた。あったものが、なくなった。

 

「ラモーヌ」

 

呼んだ。

 

返事がなかった。

 

もう一度呼んだ。返事がなかった。振り返った。木々の間に、何もなかった。さっきまでそこにいた。足音があった。気配があった。なのに、何もなかった。

 

足が、止まった。

 

左後ろから、足音がした。

 

「シリウス」

 

「ここにいる」

 

声がした。シリウスの声だった。振り返った。シリウスがいた。顔は見えなかった。顔は見えなかったけど、シリウスだった。声がそうだったから。

 

「行くぞ。このままじゃ追いつかれる」

 

気づけば息も整っていた。ラモーヌのことが気がかりだったが、それを気にしている場合ではないと、また何かに急かされるように走ることを再開した。

 

二人で、走った。

 

「シリウス」

 

「ここにいる」

 

声がした。いつものシリウスの声だった。ほっと息が出た。何かに安心したような、そんな息だった。

 

だから走った。とにかく走った。

 

後ろから何かが迫ってきていた。止まっていなかった。距離が、縮まっていた。走れているのに、縮まっていた。速くしているのに、縮まっていた。おかしかった。おかしいとわかっていた。でも、足が止まらなかった。止まれなかった。止まれば終わる。

 

「シリウス」

 

「ここにいる」

 

また同じ声がした。

 

だから走り続けた。

 

消えたラモーヌのことを思い出して、嗚咽が込み上げてきた。堪えた。走りながら、堪えた。何かが目尻の端から溢れそうになって、袖で拭った。

 

斜面が続いた。木々が続いた。終わらなかった。どこまで走っても、同じ景色が続いた。走っているのに、同じ場所にいるようだった。

 

左後ろの足音が、消えた。

 

「シリウス」

 

返事がなかった。

 

「シリウス」

 

返事がなかった。振り返った。何もなかった。木々の間に、何もなかった。

 

ルドルフは一人だった。

 

足音が、一つになった。

 

また立ち止まった。辺りを見回しても木々に覆われていて、ここが何処かわからなかった。心臓が早鐘を打つように鳴った。胸に手を当てて、今度こそ胃から溢れそうになる何かをぐっと堪えた。

 

——止まるな。

 

声が聞こえた気がした。自分の声だった。自分でも驚くほど、冷めた声だった。

 

立ち止まってはいけないことを思い出して、またルドルフは走り始めた。息は不自然なほど整っていた。だから走れた。

 

自分の足音だけが、地面を叩いていた。一つの音だけが、斜面に響いていた。

 

走った。走り続けた。止まる理由がなかった。止まれば終わる。終わりたくなかった。脚が鳴っていた。嗚咽が、今度は堪えられなかった。漏れた。漏れながら、走った。

 

——ズシン。

 

音がした。重い音だった。

 

口から溢れそうになる声を圧し殺して、これまで以上に必死に足を動かした。でも、後ろから迫ってくるものの重さが、もう背中ではなく首の後ろにあった。

 

生温かかった。

 

吐息が、首の後ろにかかった。生温かかった。生き物の温度だった。甘ったるい匂いが混じっていた。鉄の匂いと、もっと奥の、言葉にならない何かが混じっていた。

 

足が、止まった。

 

止めようとしたわけではなかった。止まった。

 

前に、何かがいた。

 

いつからそこにいたのかわからなかった。気づいた時にはもう、そこにいた。大きかった。ルドルフより、ずっと大きかった。

 

顎から、温かい何かが滴っていた。

 

雪の上に落ちて——雪がないはずなのに、そこだけ雪があった——そこだけが深く、どろりと黒く沈んでいた。

 

前脚が、上がった。

 

爪が、光った。

 

振り下ろされる、その——

 

 

    ※

 

 

冷たかったはずの世界が、急に熱を帯びた。

 

いや、熱いのではない。

 

痛いのだ。

 

眠っていた神経が、一斉に目を覚ました。足首から膝へ。膝から腰へ。指の先から手首へ。全部が同時に、痛みを送ってきた。

 

声が出なかった。出そうとしたが、出なかった。息を吸うことで精一杯だった。肺が、一度に空気を求めていた。

 

血が、動いていた。昨夜まで動いていなかったものが、今は動いていた。動くたびに、痛かった。熱かった。

 

それが、今朝最初にわかったことだった。

 

痛い。

 

生きている。

 

大きく息を吐いた。

 

目が開いていた。いつ開いたかわからなかった。天井があった。木の板でできた天井だった。節目がある。木目がある。ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。

 

ルドルフは、しばらく天井を見ていた。

 

呼吸が、少しずつ落ち着いていった。

 

落ち着きながら、隣を見た。

 

ラモーヌがいた。

 

目を閉じていた。眠っていた。毛皮の下で、浅く、規則的に、息をしていた。胸が、上下していた。生きていた。

 

反対側を見た。

 

シリウスがいた。

 

天井を見ていた。目が開いていた。眠っていなかった。ルドルフが見ていることに気づいて、視線が合った。

 

何も言わなかった。

 

言わなくても、わかった。シリウスの目に、夢の残滓があった。同じものを見ていたかどうかはわからなかった。でも、同じ夜の中にいたことはわかった。

 

シリウスの耳が、ごく微かに動いた。ルドルフを確かめるように、向いた。それだけだった。言葉ではなかった。でも、それだけで十分だった。

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

ストーブが、ぱちりと鳴った。

 

その音で、ラモーヌが目を開けた。天井を見た。それからルドルフを見た。それからシリウスを見た。

 

三人とも、いた。

 

ラモーヌの目から、何かが滲みかけた。滲みかけて、止まった。止めた、というより、止まった。止めるだけの力が、まだあった。

 

三人とも、しばらく何も言わなかった。

 

言わなくてよかった。言う必要がなかった。三人がいる、ということが、今この瞬間の全てだった。

 

男が、近づいてきた。

 

気配もなかった。足音もなかった。気づいた時には、そこにいた。しゃがんで、ルドルフの頭に手を置いた。

 

何も言わなかった。

 

撫でた。

 

ただそれだけだった。力も入っていなかった。特別な技術もなかった。ただ、置いた。置いたまま、動かした。それだけのことだった。

 

でも。

 

目の端から何かが零れて、頬を濡らすのがわかった。

 

怖かった。怖くて、怖くて仕方がなかった。ルドルフは声を出して泣いた。誰に憚ることもなく泣いた。嗚咽が喉から漏れ、肩が震え、涙が止まらなかった。幼い女の子の泣き声だった。ずっと、怖かったのだ。走り続けても走り続けても、消えていく足音と、独りになる恐怖が、胸の奥に刻まれていた。

 

シリウスは唇を強く噛みしめていた。声を出さなかった。「くっ」という小さな唸りが、喉の奥から一度だけ漏れた。肩が、細かく震えていた。尻尾の先が、毛皮の下でかたく巻かれているのがルドルフには見えた。泣くことを許せないような、悔しさが混じった震えだった。でも、涙は止められなかった。

 

ラモーヌは目を閉じたまま、静かに息を吐いた。右目元の泣きぼくろを、一筋の涙が伝った。声は出なかった。鼻が微かに動いた。薪の煙と、男の匂いと、三人の体温が、確かにここにあることを確かめるように動いた。涙は熱かった。零れることを、彼女は静かに受け止めていた。

 

男は何も言わなかった。三人が落ち着くまで、ただそこにいた。

 

 

    ※

 

 

どれだけ時間が経ったか、わからなかった。

 

泣き止んでから、ルドルフは自分の手首を見た。

 

白い布が巻かれていた。清潔な、丁寧に巻かれた包帯だった。どこにあったのか、わからなかった。昨夜の吹雪の中に、包帯を持っていた覚えはなかった。

 

足首は、別のもので固定されていた。

 

薄く柔らかい何かだった。触れてみると、鞣された革だった。獣の皮を薄く鞣して、帯状にしたものだった。丁寧に、足首の形に沿って巻かれていた。

 

誰かが、夜のうちにやっていた。

 

男がストーブの前に戻っていた。何かを煎じていた。振り返らなかった。

 

「脚を動かしてみろ」

 

ルドルフは動かそうとした。

 

動いた。昨夜より少しだけ動いた気がした。でも、動いた。

 

男は頷いた。それだけだった。褒めなかった。驚かなかった。確認した事実を確かめた、それだけだった。

 

「ねえ」

 

シリウスが言った。

 

男が向いた。

 

「帰れるの。いつ」

 

男は少し間を置いた。

 

「今は帰れない」

 

「なんで」

 

「この雪の量では、外から人は来られない。今の状態で動いても、途中で倒れる」

 

「じゃあいつだよ」

 

「三週間あれば、動ける状態に戻る」

 

三週間。

 

その言葉が、小屋の中に置かれた。

 

シリウスの目が、細くなった。

 

三週間。帰らなければならない。動かなければならない。なのに、脚が動かない。今すぐここを出たくても、出られない。その事実が、三週間という数字と重なって、胃の奥に沈んだ。

 

「選ぶのはお前たちだ」男は静かに言った。「動けばどうなるかを言っている」

 

シリウスは男を見た。

 

怒鳴っていなかった。感情がなかった。ただ、事実だけがあった。この男が事実しか言わないことは、昨夜からわかっていた。わかっていたから、言い返す言葉が出てこなかった。

 

しばらく、静かだった。

 

ストーブが鳴った。外の雪が、窓を掠めた。

 

「……せめて」

 

ルドルフが言った。シリウスよりも、少し小さい声だった。泣き止んで間もない喉が、まだ少しだけ掠れていた。言いながら、自分で少し恥ずかしかった。さっきまで声を出して泣いていた自分が、今度は切実な顔でものを頼んでいる。わかっていても、言わないわけにはいかなかった。

 

「連絡だけでも、させてもらえないかしら」

 

男が、小屋の中を見渡した。

 

ルドルフは、その視線につられた。

 

棚がある。鍋がある。薪ストーブがある。毛皮がある。男が使っているらしい道具が、壁に沿って並んでいる。それだけだった。ガラスの画面も、電池も、電波を示す何かも、この小屋の中のどこにもなかった。

 

ルドルフは、小屋の中を見渡したまま、言葉が続かなかった。

 

続かない理由を、言葉にする必要がなかった。

 

「……そう、ね」

 

ルドルフはそれだけ言った。

 

シリウスは何も言わなかった。自分の膝を見ていた。ラモーヌは火を見ていた。三人とも、しばらく何も言わなかった。

 

「……走れるようになるの」

 

シリウスが言った。

 

声が変わっていた。普段のシリウスの声ではなかった。問いというより、縋るものを探している声だった。

 

「本当に」

 

男は少し間を置いた。

 

「走れる」

 

断言だった。

 

慰めではなかった。根拠を問い返す気になれなかった。この男が嘘をつかないことは、昨夜の足首への手つきで、もうわかっていた。

 

シリウスの喉が、小さく動いた。

 

何かを飲み込む動きだった。言葉ではなかった。泣き声でもなかった。ただ、何かが喉を通った。それから、呼吸が少しだけ深くなった。

 

ルドルフは、その呼吸を聞いていた。

 

走れる。

 

その言葉が、夢の中でずっと追いかけてきた重さを、少しだけ遠くへ押しやった。完全には消えなかった。消えないとわかっていた。でも、少しだけ遠くなった。

 

ラモーヌは火を見ていた。

 

炎が揺れていた。ぱちり、と薪が爆ぜた。火の粉が一瞬だけ散って、消えた。鼻が、微かに動いた。薪の煙の匂いが、三人の体温と混ざって、小屋の中に満ちていた。

 

脚を、また動かした。

 

痛かった。熱かった。重かった。

 

全部、自分の脚から届いてきた。

 

男は作業に戻っていた。

 

ストーブの傍に、何かが置いてあった。ルドルフはしばらくそれを見ていた。毛皮だった。薄く、柔らかく鞣された毛皮が、折り畳んで置かれていた。隣に、太い針と、腱を細く割いたような糸が並んでいた。男の手元ではなく、それとは別の場所に。三つ、折り畳まれていた。

 

何のために置いてあるのか、わからなかった。

 

でも、三つある、ということだけはわかった。

 

規則的な音が、また続いた。外の吹雪には関係なく、この小さな場所の中で、今朝が静かに明けていった。

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