氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
声を出す者。声を殺す者。音のない涙だけの者。
それぞれが、それぞれの形で壊れていた。
——壊れているのではない、と思い直した。
解けている、のだ。
張り詰めていたものが、ようやく解けている。
頭に手を置いた。
それ以外に、やり方がわからなかった。
三人で、見知らぬ場所を走っていた。
ここが何処かは当の昔にわからなくなっていた。今はただ走らなければならない、走り続けなければならない、決して足を止めてはならないと、脳が、身体が、本能が訴えかけていた。だから、とにかくがむしゃらだった。
足が地面を蹴るたびに、土の感触が返ってきた。湿った土だった。秋の終わりのような、柔らかい土だった。木々の間を抜けて、斜面を下って、沢を越えた。走れていた。脚が動いていた。それだけが、今この瞬間に確かなことだった。
後ろから、何かが来ていた。
振り返らなかった。振り返る必要がなかった。来ていることは、背中でわかった。重さが、空気を変えていた。その変化が、足を速くさせた。
三人分の足音が、地面を叩いていた。
自分の足音。右後ろの足音。左後ろの足音。三つが重なって、斜面に響いていた。走れている。三人とも走れている。それだけでよかった。走れている間は、まだ間に合う。
沢を越えた。岩を避けた。木の根を踏んで、身体が傾いて、立て直した。
その時だった。
足音が、二つになった。
右後ろの音が、消えた。
一瞬だった。気づいた時にはもう、なかった。転んだ音もしなかった。叫び声もなかった。ただ、消えた。あったものが、なくなった。
「ラモーヌ」
呼んだ。
返事がなかった。
もう一度呼んだ。返事がなかった。振り返った。木々の間に、何もなかった。さっきまでそこにいた。足音があった。気配があった。なのに、何もなかった。
足が、止まった。
左後ろから、足音がした。
「シリウス」
「ここにいる」
声がした。シリウスの声だった。振り返った。シリウスがいた。顔は見えなかった。顔は見えなかったけど、シリウスだった。声がそうだったから。
「行くぞ。このままじゃ追いつかれる」
気づけば息も整っていた。ラモーヌのことが気がかりだったが、それを気にしている場合ではないと、また何かに急かされるように走ることを再開した。
二人で、走った。
「シリウス」
「ここにいる」
声がした。いつものシリウスの声だった。ほっと息が出た。何かに安心したような、そんな息だった。
だから走った。とにかく走った。
後ろから何かが迫ってきていた。止まっていなかった。距離が、縮まっていた。走れているのに、縮まっていた。速くしているのに、縮まっていた。おかしかった。おかしいとわかっていた。でも、足が止まらなかった。止まれなかった。止まれば終わる。
「シリウス」
「ここにいる」
また同じ声がした。
だから走り続けた。
消えたラモーヌのことを思い出して、嗚咽が込み上げてきた。堪えた。走りながら、堪えた。何かが目尻の端から溢れそうになって、袖で拭った。
斜面が続いた。木々が続いた。終わらなかった。どこまで走っても、同じ景色が続いた。走っているのに、同じ場所にいるようだった。
左後ろの足音が、消えた。
「シリウス」
返事がなかった。
「シリウス」
返事がなかった。振り返った。何もなかった。木々の間に、何もなかった。
ルドルフは一人だった。
足音が、一つになった。
また立ち止まった。辺りを見回しても木々に覆われていて、ここが何処かわからなかった。心臓が早鐘を打つように鳴った。胸に手を当てて、今度こそ胃から溢れそうになる何かをぐっと堪えた。
——止まるな。
声が聞こえた気がした。自分の声だった。自分でも驚くほど、冷めた声だった。
立ち止まってはいけないことを思い出して、またルドルフは走り始めた。息は不自然なほど整っていた。だから走れた。
自分の足音だけが、地面を叩いていた。一つの音だけが、斜面に響いていた。
走った。走り続けた。止まる理由がなかった。止まれば終わる。終わりたくなかった。脚が鳴っていた。嗚咽が、今度は堪えられなかった。漏れた。漏れながら、走った。
——ズシン。
音がした。重い音だった。
口から溢れそうになる声を圧し殺して、これまで以上に必死に足を動かした。でも、後ろから迫ってくるものの重さが、もう背中ではなく首の後ろにあった。
生温かかった。
吐息が、首の後ろにかかった。生温かかった。生き物の温度だった。甘ったるい匂いが混じっていた。鉄の匂いと、もっと奥の、言葉にならない何かが混じっていた。
足が、止まった。
止めようとしたわけではなかった。止まった。
前に、何かがいた。
いつからそこにいたのかわからなかった。気づいた時にはもう、そこにいた。大きかった。ルドルフより、ずっと大きかった。
顎から、温かい何かが滴っていた。
雪の上に落ちて——雪がないはずなのに、そこだけ雪があった——そこだけが深く、どろりと黒く沈んでいた。
前脚が、上がった。
爪が、光った。
振り下ろされる、その——
※
冷たかったはずの世界が、急に熱を帯びた。
いや、熱いのではない。
痛いのだ。
眠っていた神経が、一斉に目を覚ました。足首から膝へ。膝から腰へ。指の先から手首へ。全部が同時に、痛みを送ってきた。
声が出なかった。出そうとしたが、出なかった。息を吸うことで精一杯だった。肺が、一度に空気を求めていた。
血が、動いていた。昨夜まで動いていなかったものが、今は動いていた。動くたびに、痛かった。熱かった。
それが、今朝最初にわかったことだった。
痛い。
生きている。
大きく息を吐いた。
目が開いていた。いつ開いたかわからなかった。天井があった。木の板でできた天井だった。節目がある。木目がある。ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。
ルドルフは、しばらく天井を見ていた。
呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
落ち着きながら、隣を見た。
ラモーヌがいた。
目を閉じていた。眠っていた。毛皮の下で、浅く、規則的に、息をしていた。胸が、上下していた。生きていた。
反対側を見た。
シリウスがいた。
天井を見ていた。目が開いていた。眠っていなかった。ルドルフが見ていることに気づいて、視線が合った。
何も言わなかった。
言わなくても、わかった。シリウスの目に、夢の残滓があった。同じものを見ていたかどうかはわからなかった。でも、同じ夜の中にいたことはわかった。
シリウスの耳が、ごく微かに動いた。ルドルフを確かめるように、向いた。それだけだった。言葉ではなかった。でも、それだけで十分だった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ストーブが、ぱちりと鳴った。
その音で、ラモーヌが目を開けた。天井を見た。それからルドルフを見た。それからシリウスを見た。
三人とも、いた。
ラモーヌの目から、何かが滲みかけた。滲みかけて、止まった。止めた、というより、止まった。止めるだけの力が、まだあった。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
言わなくてよかった。言う必要がなかった。三人がいる、ということが、今この瞬間の全てだった。
男が、近づいてきた。
気配もなかった。足音もなかった。気づいた時には、そこにいた。しゃがんで、ルドルフの頭に手を置いた。
何も言わなかった。
撫でた。
ただそれだけだった。力も入っていなかった。特別な技術もなかった。ただ、置いた。置いたまま、動かした。それだけのことだった。
でも。
目の端から何かが零れて、頬を濡らすのがわかった。
怖かった。怖くて、怖くて仕方がなかった。ルドルフは声を出して泣いた。誰に憚ることもなく泣いた。嗚咽が喉から漏れ、肩が震え、涙が止まらなかった。幼い女の子の泣き声だった。ずっと、怖かったのだ。走り続けても走り続けても、消えていく足音と、独りになる恐怖が、胸の奥に刻まれていた。
シリウスは唇を強く噛みしめていた。声を出さなかった。「くっ」という小さな唸りが、喉の奥から一度だけ漏れた。肩が、細かく震えていた。尻尾の先が、毛皮の下でかたく巻かれているのがルドルフには見えた。泣くことを許せないような、悔しさが混じった震えだった。でも、涙は止められなかった。
ラモーヌは目を閉じたまま、静かに息を吐いた。右目元の泣きぼくろを、一筋の涙が伝った。声は出なかった。鼻が微かに動いた。薪の煙と、男の匂いと、三人の体温が、確かにここにあることを確かめるように動いた。涙は熱かった。零れることを、彼女は静かに受け止めていた。
男は何も言わなかった。三人が落ち着くまで、ただそこにいた。
※
どれだけ時間が経ったか、わからなかった。
泣き止んでから、ルドルフは自分の手首を見た。
白い布が巻かれていた。清潔な、丁寧に巻かれた包帯だった。どこにあったのか、わからなかった。昨夜の吹雪の中に、包帯を持っていた覚えはなかった。
足首は、別のもので固定されていた。
薄く柔らかい何かだった。触れてみると、鞣された革だった。獣の皮を薄く鞣して、帯状にしたものだった。丁寧に、足首の形に沿って巻かれていた。
誰かが、夜のうちにやっていた。
男がストーブの前に戻っていた。何かを煎じていた。振り返らなかった。
「脚を動かしてみろ」
ルドルフは動かそうとした。
動いた。昨夜より少しだけ動いた気がした。でも、動いた。
男は頷いた。それだけだった。褒めなかった。驚かなかった。確認した事実を確かめた、それだけだった。
「ねえ」
シリウスが言った。
男が向いた。
「帰れるの。いつ」
男は少し間を置いた。
「今は帰れない」
「なんで」
「この雪の量では、外から人は来られない。今の状態で動いても、途中で倒れる」
「じゃあいつだよ」
「三週間あれば、動ける状態に戻る」
三週間。
その言葉が、小屋の中に置かれた。
シリウスの目が、細くなった。
三週間。帰らなければならない。動かなければならない。なのに、脚が動かない。今すぐここを出たくても、出られない。その事実が、三週間という数字と重なって、胃の奥に沈んだ。
「選ぶのはお前たちだ」男は静かに言った。「動けばどうなるかを言っている」
シリウスは男を見た。
怒鳴っていなかった。感情がなかった。ただ、事実だけがあった。この男が事実しか言わないことは、昨夜からわかっていた。わかっていたから、言い返す言葉が出てこなかった。
しばらく、静かだった。
ストーブが鳴った。外の雪が、窓を掠めた。
「……せめて」
ルドルフが言った。シリウスよりも、少し小さい声だった。泣き止んで間もない喉が、まだ少しだけ掠れていた。言いながら、自分で少し恥ずかしかった。さっきまで声を出して泣いていた自分が、今度は切実な顔でものを頼んでいる。わかっていても、言わないわけにはいかなかった。
「連絡だけでも、させてもらえないかしら」
男が、小屋の中を見渡した。
ルドルフは、その視線につられた。
棚がある。鍋がある。薪ストーブがある。毛皮がある。男が使っているらしい道具が、壁に沿って並んでいる。それだけだった。ガラスの画面も、電池も、電波を示す何かも、この小屋の中のどこにもなかった。
ルドルフは、小屋の中を見渡したまま、言葉が続かなかった。
続かない理由を、言葉にする必要がなかった。
「……そう、ね」
ルドルフはそれだけ言った。
シリウスは何も言わなかった。自分の膝を見ていた。ラモーヌは火を見ていた。三人とも、しばらく何も言わなかった。
「……走れるようになるの」
シリウスが言った。
声が変わっていた。普段のシリウスの声ではなかった。問いというより、縋るものを探している声だった。
「本当に」
男は少し間を置いた。
「走れる」
断言だった。
慰めではなかった。根拠を問い返す気になれなかった。この男が嘘をつかないことは、昨夜の足首への手つきで、もうわかっていた。
シリウスの喉が、小さく動いた。
何かを飲み込む動きだった。言葉ではなかった。泣き声でもなかった。ただ、何かが喉を通った。それから、呼吸が少しだけ深くなった。
ルドルフは、その呼吸を聞いていた。
走れる。
その言葉が、夢の中でずっと追いかけてきた重さを、少しだけ遠くへ押しやった。完全には消えなかった。消えないとわかっていた。でも、少しだけ遠くなった。
ラモーヌは火を見ていた。
炎が揺れていた。ぱちり、と薪が爆ぜた。火の粉が一瞬だけ散って、消えた。鼻が、微かに動いた。薪の煙の匂いが、三人の体温と混ざって、小屋の中に満ちていた。
脚を、また動かした。
痛かった。熱かった。重かった。
全部、自分の脚から届いてきた。
男は作業に戻っていた。
ストーブの傍に、何かが置いてあった。ルドルフはしばらくそれを見ていた。毛皮だった。薄く、柔らかく鞣された毛皮が、折り畳んで置かれていた。隣に、太い針と、腱を細く割いたような糸が並んでいた。男の手元ではなく、それとは別の場所に。三つ、折り畳まれていた。
何のために置いてあるのか、わからなかった。
でも、三つある、ということだけはわかった。
規則的な音が、また続いた。外の吹雪には関係なく、この小さな場所の中で、今朝が静かに明けていった。