氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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動かない、ということの意味を、彼女たちはまだ知らない。
動けないことと、動かないことは、違う。
限界まで動いた身体が、今、正直になっている。
それは敗北ではない。
ぴくり、と動いた。
それが、今日の全てだ。
今日の全てを、明日へ繋げばいい。


03-二.「今はそれで十分だ」

また、走っていた。

 

どこかは、わからなかった。木々の間だった。足元が、湿っていた。腐葉土ではなかった。もっと白く、乾いた灰のようなものだった。踏むたびに沈んだ。沈んでも、音がしなかった。

 

自分の足音が、しなかった。

 

後ろから、何かが来ていた。重さではなかった。音もなかった。来ているとわかるのに、何もなかった。空気が、少しずつ薄くなっていくような、そういう来方だった。

 

三人分の足音が、あるはずだった。

 

なかった。

 

右後ろも、左後ろも、最初からなかった。いつなくなったのか、わからなかった。「ラモーヌ」と呼んだつもりだった。声にならなかった。「シリウス」と呼んだつもりだった。唇が動いただけだった。声は出た。音にならなかった。

 

走ろうとした。

 

脚が、重かった。命令が、どこかで途切れた。途切れた先で、溶けた。膝まで灰が這い上がってくるような、そういう重さだった。進んでいるのか、同じ場所にいるのか、わからなかった。木々が、同じ木々にしか見えなかった。

 

同じ景色が、続いた。

 

枝が動いていた。風はなかった。風がないのに、枝がゆっくりと向きを変えていた。こちらを向いていた。向いていることに、気づかなければよかった。気づいてしまった。

 

——止まるな。

 

自分の声だった。遠かった。冷たかった。自分の声なのに、どこか別のものが言っているようだった。

 

脚が、止まった。止めたのではなかった。止まった。

 

前に、何かがいた。

 

大きかった。でも、音がなかった。息の音も、爪の音も、足音も、何もなかった。ただ、いた。白い靄の中で、輪郭だけが黒く浮かんでいた。近づいてくる。近づいているのに、距離がわからなかった。縮まっているのかどうかも、わからなかった。

 

首の後ろに、冷たさが触れた。

 

生温かくなかった。昨夜の、あの温度ではなかった。冷たかった。そこだけ、音も、空気も、消えていた。

 

その瞬間、世界が白くなった。

 

 

    ※

 

 

目が覚めた時、光の色が変わっていた。

 

朝の白い光ではなかった。もう少し傾いた、昼過ぎの光だった。窓から差し込む角度が、目を閉じた時とは違っていた。どれだけ眠っていたのか、わからなかった。わからなかったが、身体は知っていた。重さが、今朝とは種類が違った。今朝の重さは痛みと恐怖の中にあった。今の重さは、深く眠った後の重さだった。

 

シリウスは天井を見た。

 

節目がある。木目がある。ストーブの光ではなく、窓の光が天井に落ちていた。火の音がしていた。針が布を通る、かすかな音がしていた。

 

起き上がろうとした。

 

動かなかった。

 

今朝は動いた。脚を動かした。少しだけ動いた。確かに動いた。なのに、今は——。

 

もう一度、動かそうとした。

 

動かなかった。

 

脳から、命令を飛ばした。走るための命令ではなかった。起き上がるための、ただそれだけの命令だった。いつもなら、考えるより先に身体が動く。神経の糸が火花を散らして、命令を受け取る。それが、今は届かなかった。命令が、途中で消えた。冷たい泥の中に落ちて、そのまま沈んでいくような感覚だった。

 

自分の身体なのに、自分のものではないような。

 

腕も、脚も、言うことを聞かなかった。痛みがある。熱がある。でも、それだけだった。動け、と命令しても、身体が応えなかった。

 

走れないウマ娘に、何が残るか。

 

その問いが、静かな小屋の中で膨らんだ。答えを出そうとした。出てこなかった。出てこなかったから、また天井を見た。木目が、光の角度で少しだけ違う顔をしていた。

 

今朝は動いたのに。

 

答えは、少し考えればわかった。

 

今朝は、怖かった。悪夢があった。目が覚めた時、まだ恐怖が身体に残っていた。昨夜も同じだった。羆がいた。逃げなければ死ぬとわかっていた。身体が限界を超えていた。超えていたのに、動いた。恐怖が、痛みより速かった。アドレナリンが、身体の正直さを上回っていた。

 

今は、怖くない。

 

小屋の中にいる。火がある。安全だ。

 

だから、身体が正直になった。正直になった身体は、昨夜と今朝どれだけ無理をしたかを、今になって報告してきていた。報告の形が、この動かなさだった。

 

動けない。

 

自力では、動けない。

 

それが何を意味するのか。

 

全部だ、とシリウスは思った。起き上がることも、寝返りも、外に出ることも、飲むことも——全部が、誰かの手を借りなければ動かない。この小屋の中で、それを頼める相手は一人しかいない。選べない。選ぶ余地が、最初からなかった。

 

天井を見た。

 

木目が、光の角度で少しだけ違う顔をしていた。

 

 

    ※

 

 

毛皮が、肩まで覆っていた。

 

厚かった。温かかった。分厚い毛皮が、身体全体を包んでいた。

 

その下が、どうなっているか。

 

シリウスはしばらく、確かめなかった。確かめなくても、わかっていた。今朝、眠りに落ちる前から、うっすらとわかっていた。でも、確かめれば現実になる。現実にしたくなかった。

 

確かめた。

 

毛皮があった。その下に肌があった。その間に、何もなかった。

 

昨夜着ていた外套が、ない。シャツが、ない。何も、ない。

 

毛皮を握った。

 

指に力が入った。関節が白くなるほど、握った。奥歯を噛んだ。声は出なかった。出さなかった。出してはいけない気がした。

 

隣を見た。

 

ルドルフが目を開けていた。

 

目が合った。

 

ルドルフも、毛皮を両手で掴んでいた。唇が、一文字に結ばれていた。視線が、一瞬だけシリウスと合って、それから床に落ちた。

 

言葉は、なかった。

 

言うべき言葉が、なかった。言える言葉も、なかった。ただ、同じ夜を過ごしたとわかった。同じ朝を迎えているとわかった。それだけで、十分だった。

 

反対側で、ラモーヌの耳が、ゆっくりと伏せられていた。目を閉じたまま、何かを受け取っているような静けさだった。

 

 

    ※

 

 

「起きたか」

 

男の声がした。

 

ストーブの前で、何かを煎じていた。振り返らなかった。声だけがこちらに届いた。

 

「……起きた」

 

シリウスが答えた。

 

「痛みは」

 

「ある」

 

「動かしてみろ」

 

シリウスは脚を動かそうとした。

 

ぴくり、と動いた。動いた、というより、動いた気がした、という程度だった。今朝より動かなかった。今朝より、ずっと動かなかった。

 

「……動かない」

 

「動いている」

 

「これが?」

 

「今はそれで十分だ」

 

十分、という言葉の意味が、シリウスにはわからなかった。十分ではないと思った。でも、男が「十分だ」と言えば、十分なのかもしれなかった。この男が嘘をつかないことは、昨夜からわかっていた。

 

 

    ※

 

 

問題は、動けないことだった。

 

動けない、というのは、ただ脚が動かないということではなかった。

 

全部だった。

 

寝返りを打つことも、起き上がることも、一人ではできなかった。今朝、悪夢から目が覚めた時は、まだ少し動けていた気がした。今は、それもできなかった。

 

ということは。

 

「あの」

 

シリウスが言った。

 

男が向いた。

 

「今日——朝、私、一度目が覚めなかったか」

 

男は少し間を置いた。

 

「覚めた」

 

「その時、外に……」

 

言葉が止まった。

 

続きを言おうとした。言葉が出てこなかった。出てこなかったが、身体は覚えていた。意識が朦朧としたまま、支えられて、外の冷たい空気を吸った。小屋の脇に、板を渡しただけの粗末なものが用意されていた。そこまで、連れて行かれた。

 

「……あんたが、私を抱えて」

 

「必要な処置をした」

 

男は振り返らなかった。煎じている鍋を、かき混ぜていた。

 

「それだけか」

 

「それだけだ」

 

シリウスは天井を見た。

 

唇を、噛んだ。

 

情欲がなかった、ということはわかっていた。この男に、そういう気配がないことは、昨夜からわかっていた。わかっていた。わかっていた上で、それとは別のところで、何かが痛かった。自分のことが、自分でできなかった。それだけのことが、どこか深いところを刺していた。

 

「……必要なことをしただけ、って言うんでしょ」

 

「そうだ」

 

答えが返ってきた。

 

予想通りの答えだった。予想通りだったから、少しだけ、息が楽になった。なぜ楽になるのか、わからなかった。わからなかったが、楽になった。感情がない分、軽くない。軽くないから、受け取れる。この男の言葉には、そういう重さがあった。

 

 

    ※

 

 

ラモーヌが目を開けた。

 

天井を見た。それからシリウスを見た。シリウスの様子を見た。

 

何も言わなかった。

 

ラモーヌは自分の手を確かめた。指先を一本ずつ、曲げた。曲がった。痛かった。でも、曲がった。それから、起き上がろうとした。

 

動かなかった。

 

そうか、とラモーヌは思った。シリウスと同じだった。今朝の恐怖と熱が、眠る間に引いている。引いた分だけ、身体が正直になっている。

 

動けない。

 

動けないということは、全部が——。

 

ラモーヌの耳が、また少し伏せられた。毛皮を、静かに握った。視線を天井に戻した。それだけだった。声は出なかった。表情も、大きく変わらなかった。

 

「……動けないのね」

 

ラモーヌが言った。問いではなかった。確認だった。

 

「動けない」とシリウスが答えた。

 

「今朝は動けたのに」

 

「今朝は怖かったから」

 

ラモーヌは少し間を置いた。

 

「そういうことか」

 

「そういうことだと思う」

 

二人とも、天井を見た。

 

ルドルフが口を開いた。

 

「……私も、さっき確かめた」

 

「動かなかったでしょ」

 

「動かなかった」

 

三人とも、しばらく天井を見ていた。

 

ストーブが鳴った。針が布を通る音が、また聞こえた。外の光が、窓から静かに差し込んでいた。

 

 

    ※

 

 

男が立ち上がった。

 

棚の方へ行った。何かを持ってきた。

 

鍋だった。木の器に、どろりと濁った液体を移した。草の匂いがした。苦い匂いだった。甘さは一切なかった。泥と枯れ葉を煮詰めたような匂いだった。

 

ラモーヌの鼻が、微かに動いた。

 

知っている匂いではなかった。でも、何かを混ぜてある匂いだとわかった。一種類ではない。複数の草が、重なっている。それぞれが何かはわからなかった。わからなかったが、害のない匂いだとわかった。この小屋の中にある匂いと、同じ系統だった。

 

「飲め。熱があるうちは、これが血になる」

 

器を、シリウスの口元に運んだ。

 

シリウスは受け取ろうとした。指が、器を保持できなかった。男の大きな手が、器を支えたまま、口元に当てた。

 

飲んだ。

 

苦かった。舌が痺れるほどの苦味だった。飲み込むまでの一瞬、喉が拒否しようとした。でも、飲んだ。飲んで、胃に落ちた。

 

落ちた瞬間だった。

 

冷え切っていた身体の芯の、どこか深いところに、小さな熱が灯った。灯った、というより、思い出した。熱があったことを、身体が思い出した。芯から少しずつ、何かが広がっていった。

 

ルドルフは受け取ろうとして、受け取れなかった。指が、言うことを聞かなかった。男の手が器を傾けた。ただそれだけのことが、どこか遠くに落ちていった。泣くほどのことではなかった。でも、泣くほどのことではないとわかっているのに、喉の奥で何かが詰まった。

 

ラモーヌは目を閉じたまま、口元に当てられた器の温度だけを感じていた。感じながら、何も考えなかった。考えない方が、飲めた。

 

三人とも、しばらく黙っていた。

 

苦かった。苦かったが、確かに何かが変わった。身体の中で、何かが動き始めていた。

 

 

    ※

 

 

男が、また立ち上がった。

 

今度は布を持ってきた。

 

粗末だった。古い何かを解いて、縫い直したものだった。形は簡単だった。頭を通す穴があって、両脇が縫われているだけの、貫頭衣に近いものだった。それが三枚、男の手にあった。

 

無言だった。

 

ルドルフの傍に来た。背中に手を回した。大きな手だった。ルドルフの上体を、静かに起こした。

 

支えがなければ、崩れていた。それだけの力しか残っていなかった。毛皮が滑り落ちた。冷たい空気が、肌を叩いた。

 

シリウスは目を逸らした。

 

逸らしながら、奥歯を噛んだ。見ていられなかった。見ていられなかったのは、ルドルフへの配慮だけではなかった。次は自分だとわかっていた。それが、どこか遠くて近いところにあった。

 

布が、頭から被せられる音がした。

 

男の指先が、包帯の結び目を整える音がした。

 

「……っ」

 

ルドルフの、声にならない息が聞こえた。

 

それだけだった。それ以上は出なかった。出さなかった。でも、確かに聞こえた。

 

シリウスの番が来た。

 

男の手が、背中に回った。大きかった。冷たくなかった。この山の外の冷たさを、どこにも持っていなかった。起こされる間、シリウスは天井を見ていた。見ていることしか、できなかった。

 

毛皮が落ちた。

 

冷気が来た。

 

布が被せられた。

 

肌を覆った瞬間、何かが緩んだ。緩んだのが何なのか、わからなかった。でも、緩んだ。毛皮を握っていた指の力が、少しだけ抜けた。素肌よりは、落ち着く。それだけのことだった。それだけのことが、今は大きかった。

 

ラモーヌの番が来た。

 

ラモーヌは目を閉じていた。男の手が動く間、ずっと閉じていた。布が被さった後、少しだけ目を開けた。自分の胸元を見た。粗末な布だった。縫い目が、一針ずつ丁寧に並んでいた。

 

「……いつから作ってたの」

 

ルドルフが言った。

 

「昨夜から」

 

「昨夜から」

 

「縫い物をしていた」

 

縫い物をしていた。昨夜、三人が眠った後も、男は作業を続けていた。針を動かしていた。それが、これだった。

 

「腕は通せるか」

 

「……たぶん」

 

「最低限のものだ。まともな服は、一週間もあれば作れる。それまで我慢しろ」

 

我慢しろ、と言った。

 

命令だった。でも、冷たくなかった。ただ、事実を言っていた。一週間で、まともな服が作れる。だから、それまでこれを着ていろ。それだけのことだった。それだけのことが、今のシリウスには、少しだけ重かった。

 

一週間後には、これよりましな状態になっている。

 

男がそう言っている。男が言ったことは、これまで全部、事実だった。

 

 

    ※

 

 

しばらく、誰も話さなかった。

 

ストーブが、ぱちりと鳴った。外の光が、また少し傾いた気がした。

 

「あの」

 

シリウスが言った。

 

男が向いた。

 

「これから、どうなる。今日より明日、どれだけ動けるようになる」

 

男は少し間を置いた。

 

「今日できたことを、一つ覚えておけ。明日はそれより一つ多くなる」

 

シリウスは、その言葉を聞いた。

 

聞いた瞬間、何かが引っかかった。

 

同じ言葉ではなかった。でも、同じ場所から来ている言葉だった。

 

できなかったことを数えるより、できたことを一つ覚えておけ——姉貴が、いつもそう言っていた。シリウスはその言葉が嫌いだった。できなかったことの方が多い時に、できたことを数えることが、言い訳のように思えていた。一番でなければ意味がない。完璧に動けなければ価値がない。そう信じていた。

 

でも今は。

 

あの時の、あの目が浮かんだ。

 

少し悲しそうで、それでいて何かを見透かしているような目だった。あの目が言いたかったことが、今になって、少しだけわかった気がした。

 

今朝、脚が動いた。

 

ぴくり、とだけ動いた。それだけだった。走れなかった。立てなかった。歩けなかった。でも、動いた。

 

それが、今日できたことだった。

 

「……そう」

 

シリウスは短く言った。

 

それだけだった。それ以上は言わなかった。言わなかったが、何かが、少しだけ動いた気がした。胸の奥の、固いところが。姉貴の声と、この男の言葉が、暗い場所で静かに重なっていた。

 

男は作業に戻っていた。

 

一針ずつ、何かを縫っていた。急いでいなかった。丁寧だった。

 

ルドルフは自分の手を見た。粗末な布の袖から、指先が出ていた。包帯が巻かれていた。昨夜より、指の色が少しだけ変わっている気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。でも、気がした。

 

今日できたことを、一つ覚えておけ。

 

指の色が、変わっている気がした。それだけでよかった。それだけを、今日の一つにしていいのかもしれなかった。

 

ラモーヌは火を見ていた。

 

炎が揺れていた。ぱちり、と薪が爆ぜた。火の粉が一瞬だけ散って、消えた。

 

脚を、また動かした。

 

痛かった。熱かった。

 

でも、動いた。

 

今日できたことを、一つ覚えておけ。

 

動いた。それだけが、今日の一つだった。

 

外の光が、少しずつ傾いていた。昼が、夕方に向かっていた。一日目が、静かに終わっていった。

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