氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
化生は今夜、南へ向かっていた。
だから、大丈夫だ。
——だが、少女たちにそれを説明する言葉を持っていなかった。
この小屋の外で何が起きているか。
知らせることが、正しいのかどうかも、わからなかった。
だから、大丈夫だ、とだけ言った。
嘘ではなかった。
目が、小屋の中を動いていた。
脚は動かなかった。でも、目は動いた。動かせるものを動かしていた。それだけのことだったが、今のルドルフにはそれしかなかった。
薪ストーブを見た。
土と石で作られていた。買ったものではなかった。誰かが、この場所で、材料を集めて作ったものだった。継ぎ目に、土を練って詰めた跡がある。石の選び方が均等だった。中には不自然に切り揃えられたような形の石も混じっていた。熱が均等に回るように、計算して積んでいる。素人の仕事ではなかった。
棚を見た。
乾燥した草が、種類ごとに束ねられていた。どれが何かはわからなかった。でも、整理されていた。使う順番か、あるいは組み合わせの順番か、何らかの論理で並んでいた。その隣に、木を削って作った器が重ねられていた。昨日飲んだ液体を入れた器だった。縁が、長く使われた跡で滑らかになっていた。
鍋を見た。
鉄だった。厚かった。大きかった。この山で作れるものではなかった。どこかから、持ち込んだものだった。使い込まれていた。底に、長年の焦げ跡が染み込んでいた。
包帯を見た。
自分の手首に巻かれていた。清潔だった。布の織り目が細かかった。山の中で手に入るものではなかった。これも、どこかから来ていた。
この小屋の中にあるものが、どこから来たのか。
ルドルフは天井を見た。木の板でできた天井だった。継ぎ目が均等だった。腐った廃屋を、一から修復した跡だった。屋根を葺いた跡がある。壁に泥を塗った跡がある。一人でやった仕事ではないかもしれなかった。でも、この山の中で、誰かがやった仕事だった。
いつ、やったのか。
どれだけの時間をかけて、やったのか。
答えは、聞けばわかるかもしれなかった。聞けば、教えてくれるかもしれなかった。でも、聞くことと、答えが返ってくることは、別のことだとわかっていた。この男は昨日から、聞かれたことしか答えなかった。聞かれたことも、最小限しか答えなかった。
整理しようとした。
昨日からのことを、順番に並べようとした。脚を診てもらった。小屋まで運んでもらった。今朝は外に連れて行ってもらった。服を作ってもらっている。全部、この男が、何も言わずにやっていた。並べると、多かった。多すぎて、うまく処理できなかった。頭が、途中で止まった。
わからなかった。
この男が何者なのか。なぜここにいるのか。なぜ三人を助けたのか。聞けばよかった。聞けなかった。聞く言葉を探しているうちに、別のことを考え始めていた。
※
「匂いがする」
ラモーヌが言った。
天井を見ていたルドルフが、ラモーヌを見た。ラモーヌは棚の方を見ていた。鼻が、微かに動いていた。
「あの鍋」
「鍋が?」
「鍋の匂いじゃない。鍋に染み込んでいる匂い。煮たものの匂いが、何層も重なってる」
シリウスが棚の鍋を見た。
「何が重なってるの」
「草。それから、何かの脂。魚かもしれない。山菜も混じってる。ずっと前から、ここで使われてた匂いがする」
「ずっと前、というのはどれくらい」
「わからない。でも、最近だけじゃない」
ラモーヌは鼻を動かすのをやめた。
「あと、包帯」
「包帯?」
「布の匂い。山の外の匂いがする。ここで作ったものじゃない。誰かが、外から持ってきた」
外から。
ルドルフはその言葉を聞いた。外から持ってきた。この山の外から、誰かが持ってきた。男が持ってきたのか。それとも別の誰かが持ってきたのか。
聞こうとした。
聞く前に、別の問いが出てきた。
※
「あの」
ルドルフが言った。
男が振り返った。
さっきから、何かを縫っていた。服だった。三人分の服を作ると言っていた。昨夜から縫い始めていた。今もその続きをしていた。急いでいなかった。丁寧だった。一針ずつ、均等だった。
「名前」
「名前は言った」
「わかってる」
ルドルフは少し止まった。
気恥ずかしかった。なぜ気恥ずかしいのか、うまく言えなかった。昨日から、この男に世話になっている。脚を診てもらった。小屋まで運んでもらった。今朝は外に連れて行ってもらった。その全部が、今、一つの場所に重なっていた。整理できていなかった。整理できないまま、それでも聞かなければならなかった。
「小鳥遊、と呼んでいい?」
声が、少し変だった。
普段のルドルフの声ではなかった。整理しきれていない何かが、声の端に乗っていた。
男は少し間を置いた。
「構わない」
それだけだった。
それだけだったが、何かが少し定まった。名前がある。呼んでいい。それだけのことが、今のルドルフには、思ったより大きかった。
シリウスが、男を見ていた。
小鳥遊。
頭の中で、その名前を一度繰り返した。繰り返しながら、今朝のことを思い出した。外に連れて行かれた時のことを。自分では動けなかった。男の手がなければ、ストーブの前から動くことすらできなかった。それが、今もどこかに刺さっていた。
守る側のはずだった。
ルドルフの隣にいる時も、ラモーヌの傍にいる時も、自分が何とかするつもりだった。なのに、今朝から何もできていない。名前を呼ぶことも、今朝できたことの一つだとしたら——シリウスには、それ以外に何も思い当たらなかった。
奥歯を噛んだ。何も言わなかった。
ラモーヌは火を見ていた。
小鳥遊七詩。
名前を、聞いた。それだけだった。それ以上のことは、何もわからなかった。この男が何者なのか。なぜここにいるのか。なぜあの羆が退いたのか。どれを聞いても、答えが返ってくる気がしなかった。
だから、聞かなかった。
※
窓の外が、気になっていた。
三人とも、気になっていた。気になっていることを、三人とも知っていた。知っていたが、誰も口にしなかった。口にすれば、現実になる気がした。
昨日、あの羆に追われていた。
あの重さ。あの速さ。目の前の男が間に入ってくれなければ、今頃——。
想像してしまい、身体が震えた。震えてから、気づいた。まだ怖かった。退いたが、消えていない。それはわかっていた。わかっていたから、窓の外が気になった。音がするたびに、身体が強張った。風が枝を揺らす音。雪が落ちる音。遠くで何かが動く気配。そのたびに、昨日の記憶が戻ってきた。
ラモーヌの耳が、時折、窓の方向に向いていた。
向いて、何も聞こえないとわかって、また戻った。戻っても、しばらくすればまた向いていた。意識してのことではなかった。耳が先に反応していた。
シリウスは、三度、窓の外に目をやった。
三度とも、何もなかった。雪と、木々と、夕方に向かう光があるだけだった。それでも、四度目の視線が窓に向かっていた。
ルドルフは、天井を見たまま、考えていた。
来るのか。今夜も来るのか。退いたのは昨日だけか。今夜はどうなのか。男は何か知っているのか。知っているとしたら、なぜ何も言わないのか。
聞かなければ、とルドルフは思った。
でも、シリウスが先だった。
※
「小鳥遊」
シリウスが言った。
男が手を止めた。
「あの羆。今夜も来るのか」
部屋が静かになった。
男は少し間を置いた。針を、布の上に置いた。振り返った。三人を順番に見た。シリウスを見て、ルドルフを見て、ラモーヌを見た。
「来るかもしれない」
シリウスの目が、細くなった。
「来るかもしれない、というのは」
「わからない、ということだ。あの個体は、わからない動き方をする」
「昨日退いたのは」
「今夜も退くとは限らない」
シリウスは、その答えを聞いた。
正直な答えだった。大丈夫だとは言わなかった。来ないとも言わなかった。わからないと言った。この男が「わからない」と言う時は、本当にわからない時だとわかっていた。慰めのために「大丈夫だ」と言う人間ではないとわかっていた。
だから、余計に怖かった。
「どうすればいい」
「動くな。音を立てるな。来たとしても、俺が戻るまで扉を開けるな」
「戻るまで、というのは」
男は少し間を置いた。
「今夜、確かめに行く」
※
窓の光が、消えた。
小屋の中に、ストーブの橙色だけが残った。電気がなかった。当たり前のことだった。この小屋に、そんなものはない。わかっていた。わかっていたのに、炎が揺れるたびに影が動いた。壁に、天井に、揺れる影が広がった。
シリウスの胃が、冷えた。
影が動くたびに、身体が反応した。影だとわかっていた。わかっていても、反応した。
三人とも、黙っていた。
暗かった。こんなに暗い夜を、三人とも知らなかった。
男が立ち上がった。
外套を手に取った。熊の毛皮を仕立てた、重い外套だった。それを羽織った。帯を締めた。腰に、何かを確かめた。
三人の心拍が、上がった。
無意識だった。意識していなかったのに、上がっていた。身体が先に知っていた。この人が出ていく。外に出ていく。昨日あのものがいた場所に、出ていく。
視線が、泳いだ。
扉を見た。男を見た。窓を見た。また男を見た。何かを言おうとした。言葉が出てこなかった。
「少し出る」
男が言った。
「動くな」
付け加えた。三人を見た。動けないとわかっている目だった。それでも、言った。
扉に手をかけた。
「待って」
ルドルフが言った。
男が振り返った。
「……どこまで行くの」
「山の縁まで」
「何を確かめに」
「足跡を見る。今夜どこにいるかを確かめる」
ルドルフは男を見た。
昨日、あの羆の前に立った人だった。枝一本で退かせた人だった。でも、今夜は三人がここにいる。三人が、この小屋にいる。
「……一人で行くの」
「ああ」
「危なくないの」
男は少し間を置いた。
「大丈夫だ」
「それは」
「すぐ戻る」
ルドルフは、その言葉を聞いた。
大丈夫だ、と言った。すぐ戻る、と言った。根拠を言わなかった。でも、この男が根拠なく言葉を置かないことは、昨日からわかっていた。大丈夫だと言ったのは、大丈夫だからだ。すぐ戻ると言ったのは、戻るからだ。
少し、息をついた。
扉が開いた。
冷気が入った。
扉が閉まった。
※
足音が、遠ざかっていった。
雪を踏む音だった。規則的だった。急いでいなかった。一歩ずつ、確かめるように踏んでいた。
十歩。
まだ聞こえていた。
二十歩。
小さくなっていた。
三十歩。
消えた。
小屋の中が、静かになった。
静かだった。静かすぎた。ストーブが燃える音だけがあった。それ以外は、何もなかった。その何もなさが、かえって耳に刺さった。
ラモーヌの耳が、窓の方向に向いていた。
何かを聞こうとしていた。聞こえなかった。足音の気配が、少しずつ薄れていった。男の存在が、遠くなっていった。
遠くなるにつれて、じわじわと、不安が戻ってきた。
鼻が、微かに動いた。
男の匂いが、まだ小屋の中に薄く残っていた。外套の獣皮の匂いと、草の煎じ薬の匂いと、火の匂い。それらが混ざって、まだここにあった。動けない頃のことを、ふと思った。あの頃も、誰かがそばにいるかどうかを、匂いで確かめていた。今も同じことをしていた。
それに気づいて、耳がまた伏せられた。
抑えていたものが、戻ってきた。昨日の記憶が、また動き始めた。あの重さ。あの音。首の後ろにかかった吐息の温度。
炎が揺れた。
影が動いた。
シリウスの呼吸が、一瞬止まった。影だとわかっていた。男が出ていった後の、ただの炎の揺れだとわかっていた。わかっていても、止まった。
窓を見た。
暗くなっていた。夕方が、夜に変わりかけていた。木々の輪郭が、暗闇の中に溶けていった。どこかに、あの羆がいる。今夜もどこかに、いる。
扉の方を、見た。
閉まっていた。静かだった。
すぐ戻る、と言った。
大丈夫だ、と言った。
それだけを、今夜の拠り所にするしかなかった。
ルドルフは毛皮を握った。関節が白くなるほど握った。それから、少しだけ力を抜いた。
今日できたことを、一つ覚えておけ。
名前を聞いた。
小鳥遊、と呼んでいい、と聞いた。構わない、と答えが返ってきた。
それが、今日の一つだった。
ストーブが、ぱちりと鳴った。
影が、また揺れた。
三人は、扉が開くのを待った。静かに、ただ待った。小屋の外で、足音が戻ってくるのを、待った。