氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

27 / 42
足跡を確かめた。
化生は今夜、南へ向かっていた。
だから、大丈夫だ。
——だが、少女たちにそれを説明する言葉を持っていなかった。
この小屋の外で何が起きているか。
知らせることが、正しいのかどうかも、わからなかった。
だから、大丈夫だ、とだけ言った。
嘘ではなかった。


03-三.「大丈夫だ」

目が、小屋の中を動いていた。

 

脚は動かなかった。でも、目は動いた。動かせるものを動かしていた。それだけのことだったが、今のルドルフにはそれしかなかった。

 

薪ストーブを見た。

 

土と石で作られていた。買ったものではなかった。誰かが、この場所で、材料を集めて作ったものだった。継ぎ目に、土を練って詰めた跡がある。石の選び方が均等だった。中には不自然に切り揃えられたような形の石も混じっていた。熱が均等に回るように、計算して積んでいる。素人の仕事ではなかった。

 

棚を見た。

 

乾燥した草が、種類ごとに束ねられていた。どれが何かはわからなかった。でも、整理されていた。使う順番か、あるいは組み合わせの順番か、何らかの論理で並んでいた。その隣に、木を削って作った器が重ねられていた。昨日飲んだ液体を入れた器だった。縁が、長く使われた跡で滑らかになっていた。

 

鍋を見た。

 

鉄だった。厚かった。大きかった。この山で作れるものではなかった。どこかから、持ち込んだものだった。使い込まれていた。底に、長年の焦げ跡が染み込んでいた。

 

包帯を見た。

 

自分の手首に巻かれていた。清潔だった。布の織り目が細かかった。山の中で手に入るものではなかった。これも、どこかから来ていた。

 

この小屋の中にあるものが、どこから来たのか。

 

ルドルフは天井を見た。木の板でできた天井だった。継ぎ目が均等だった。腐った廃屋を、一から修復した跡だった。屋根を葺いた跡がある。壁に泥を塗った跡がある。一人でやった仕事ではないかもしれなかった。でも、この山の中で、誰かがやった仕事だった。

 

いつ、やったのか。

 

どれだけの時間をかけて、やったのか。

 

答えは、聞けばわかるかもしれなかった。聞けば、教えてくれるかもしれなかった。でも、聞くことと、答えが返ってくることは、別のことだとわかっていた。この男は昨日から、聞かれたことしか答えなかった。聞かれたことも、最小限しか答えなかった。

 

整理しようとした。

 

昨日からのことを、順番に並べようとした。脚を診てもらった。小屋まで運んでもらった。今朝は外に連れて行ってもらった。服を作ってもらっている。全部、この男が、何も言わずにやっていた。並べると、多かった。多すぎて、うまく処理できなかった。頭が、途中で止まった。

 

わからなかった。

 

この男が何者なのか。なぜここにいるのか。なぜ三人を助けたのか。聞けばよかった。聞けなかった。聞く言葉を探しているうちに、別のことを考え始めていた。

 

 

    ※

 

 

「匂いがする」

 

ラモーヌが言った。

 

天井を見ていたルドルフが、ラモーヌを見た。ラモーヌは棚の方を見ていた。鼻が、微かに動いていた。

 

「あの鍋」

 

「鍋が?」

 

「鍋の匂いじゃない。鍋に染み込んでいる匂い。煮たものの匂いが、何層も重なってる」

 

シリウスが棚の鍋を見た。

 

「何が重なってるの」

 

「草。それから、何かの脂。魚かもしれない。山菜も混じってる。ずっと前から、ここで使われてた匂いがする」

 

「ずっと前、というのはどれくらい」

 

「わからない。でも、最近だけじゃない」

 

ラモーヌは鼻を動かすのをやめた。

 

「あと、包帯」

 

「包帯?」

 

「布の匂い。山の外の匂いがする。ここで作ったものじゃない。誰かが、外から持ってきた」

 

外から。

 

ルドルフはその言葉を聞いた。外から持ってきた。この山の外から、誰かが持ってきた。男が持ってきたのか。それとも別の誰かが持ってきたのか。

 

聞こうとした。

 

聞く前に、別の問いが出てきた。

 

 

    ※

 

 

「あの」

 

ルドルフが言った。

 

男が振り返った。

 

さっきから、何かを縫っていた。服だった。三人分の服を作ると言っていた。昨夜から縫い始めていた。今もその続きをしていた。急いでいなかった。丁寧だった。一針ずつ、均等だった。

 

「名前」

 

「名前は言った」

 

「わかってる」

 

ルドルフは少し止まった。

 

気恥ずかしかった。なぜ気恥ずかしいのか、うまく言えなかった。昨日から、この男に世話になっている。脚を診てもらった。小屋まで運んでもらった。今朝は外に連れて行ってもらった。その全部が、今、一つの場所に重なっていた。整理できていなかった。整理できないまま、それでも聞かなければならなかった。

 

「小鳥遊、と呼んでいい?」

 

声が、少し変だった。

 

普段のルドルフの声ではなかった。整理しきれていない何かが、声の端に乗っていた。

 

男は少し間を置いた。

 

「構わない」

 

それだけだった。

 

それだけだったが、何かが少し定まった。名前がある。呼んでいい。それだけのことが、今のルドルフには、思ったより大きかった。

 

シリウスが、男を見ていた。

 

小鳥遊。

 

頭の中で、その名前を一度繰り返した。繰り返しながら、今朝のことを思い出した。外に連れて行かれた時のことを。自分では動けなかった。男の手がなければ、ストーブの前から動くことすらできなかった。それが、今もどこかに刺さっていた。

 

守る側のはずだった。

 

ルドルフの隣にいる時も、ラモーヌの傍にいる時も、自分が何とかするつもりだった。なのに、今朝から何もできていない。名前を呼ぶことも、今朝できたことの一つだとしたら——シリウスには、それ以外に何も思い当たらなかった。

 

奥歯を噛んだ。何も言わなかった。

 

ラモーヌは火を見ていた。

 

小鳥遊七詩。

 

名前を、聞いた。それだけだった。それ以上のことは、何もわからなかった。この男が何者なのか。なぜここにいるのか。なぜあの羆が退いたのか。どれを聞いても、答えが返ってくる気がしなかった。

 

だから、聞かなかった。

 

 

    ※

 

 

窓の外が、気になっていた。

 

三人とも、気になっていた。気になっていることを、三人とも知っていた。知っていたが、誰も口にしなかった。口にすれば、現実になる気がした。

 

昨日、あの羆に追われていた。

 

あの重さ。あの速さ。目の前の男が間に入ってくれなければ、今頃——。

 

想像してしまい、身体が震えた。震えてから、気づいた。まだ怖かった。退いたが、消えていない。それはわかっていた。わかっていたから、窓の外が気になった。音がするたびに、身体が強張った。風が枝を揺らす音。雪が落ちる音。遠くで何かが動く気配。そのたびに、昨日の記憶が戻ってきた。

 

ラモーヌの耳が、時折、窓の方向に向いていた。

 

向いて、何も聞こえないとわかって、また戻った。戻っても、しばらくすればまた向いていた。意識してのことではなかった。耳が先に反応していた。

 

シリウスは、三度、窓の外に目をやった。

 

三度とも、何もなかった。雪と、木々と、夕方に向かう光があるだけだった。それでも、四度目の視線が窓に向かっていた。

 

ルドルフは、天井を見たまま、考えていた。

 

来るのか。今夜も来るのか。退いたのは昨日だけか。今夜はどうなのか。男は何か知っているのか。知っているとしたら、なぜ何も言わないのか。

 

聞かなければ、とルドルフは思った。

 

でも、シリウスが先だった。

 

 

    ※

 

 

「小鳥遊」

 

シリウスが言った。

 

男が手を止めた。

 

「あの羆。今夜も来るのか」

 

部屋が静かになった。

 

男は少し間を置いた。針を、布の上に置いた。振り返った。三人を順番に見た。シリウスを見て、ルドルフを見て、ラモーヌを見た。

 

「来るかもしれない」

 

シリウスの目が、細くなった。

 

「来るかもしれない、というのは」

 

「わからない、ということだ。あの個体は、わからない動き方をする」

 

「昨日退いたのは」

 

「今夜も退くとは限らない」

 

シリウスは、その答えを聞いた。

 

正直な答えだった。大丈夫だとは言わなかった。来ないとも言わなかった。わからないと言った。この男が「わからない」と言う時は、本当にわからない時だとわかっていた。慰めのために「大丈夫だ」と言う人間ではないとわかっていた。

 

だから、余計に怖かった。

 

「どうすればいい」

 

「動くな。音を立てるな。来たとしても、俺が戻るまで扉を開けるな」

 

「戻るまで、というのは」

 

男は少し間を置いた。

 

「今夜、確かめに行く」

 

 

    ※

 

 

窓の光が、消えた。

 

小屋の中に、ストーブの橙色だけが残った。電気がなかった。当たり前のことだった。この小屋に、そんなものはない。わかっていた。わかっていたのに、炎が揺れるたびに影が動いた。壁に、天井に、揺れる影が広がった。

 

シリウスの胃が、冷えた。

 

影が動くたびに、身体が反応した。影だとわかっていた。わかっていても、反応した。

 

三人とも、黙っていた。

 

暗かった。こんなに暗い夜を、三人とも知らなかった。

 

男が立ち上がった。

 

外套を手に取った。熊の毛皮を仕立てた、重い外套だった。それを羽織った。帯を締めた。腰に、何かを確かめた。

 

三人の心拍が、上がった。

 

無意識だった。意識していなかったのに、上がっていた。身体が先に知っていた。この人が出ていく。外に出ていく。昨日あのものがいた場所に、出ていく。

 

視線が、泳いだ。

 

扉を見た。男を見た。窓を見た。また男を見た。何かを言おうとした。言葉が出てこなかった。

 

「少し出る」

 

男が言った。

 

「動くな」

 

付け加えた。三人を見た。動けないとわかっている目だった。それでも、言った。

 

扉に手をかけた。

 

「待って」

 

ルドルフが言った。

 

男が振り返った。

 

「……どこまで行くの」

 

「山の縁まで」

 

「何を確かめに」

 

「足跡を見る。今夜どこにいるかを確かめる」

 

ルドルフは男を見た。

 

昨日、あの羆の前に立った人だった。枝一本で退かせた人だった。でも、今夜は三人がここにいる。三人が、この小屋にいる。

 

「……一人で行くの」

 

「ああ」

 

「危なくないの」

 

男は少し間を置いた。

 

「大丈夫だ」

 

「それは」

 

「すぐ戻る」

 

ルドルフは、その言葉を聞いた。

 

大丈夫だ、と言った。すぐ戻る、と言った。根拠を言わなかった。でも、この男が根拠なく言葉を置かないことは、昨日からわかっていた。大丈夫だと言ったのは、大丈夫だからだ。すぐ戻ると言ったのは、戻るからだ。

 

少し、息をついた。

 

扉が開いた。

 

冷気が入った。

 

扉が閉まった。

 

 

    ※

 

 

足音が、遠ざかっていった。

 

雪を踏む音だった。規則的だった。急いでいなかった。一歩ずつ、確かめるように踏んでいた。

 

十歩。

 

まだ聞こえていた。

 

二十歩。

 

小さくなっていた。

 

三十歩。

 

消えた。

 

小屋の中が、静かになった。

 

静かだった。静かすぎた。ストーブが燃える音だけがあった。それ以外は、何もなかった。その何もなさが、かえって耳に刺さった。

 

ラモーヌの耳が、窓の方向に向いていた。

 

何かを聞こうとしていた。聞こえなかった。足音の気配が、少しずつ薄れていった。男の存在が、遠くなっていった。

 

遠くなるにつれて、じわじわと、不安が戻ってきた。

 

鼻が、微かに動いた。

 

男の匂いが、まだ小屋の中に薄く残っていた。外套の獣皮の匂いと、草の煎じ薬の匂いと、火の匂い。それらが混ざって、まだここにあった。動けない頃のことを、ふと思った。あの頃も、誰かがそばにいるかどうかを、匂いで確かめていた。今も同じことをしていた。

 

それに気づいて、耳がまた伏せられた。

 

抑えていたものが、戻ってきた。昨日の記憶が、また動き始めた。あの重さ。あの音。首の後ろにかかった吐息の温度。

 

炎が揺れた。

 

影が動いた。

 

シリウスの呼吸が、一瞬止まった。影だとわかっていた。男が出ていった後の、ただの炎の揺れだとわかっていた。わかっていても、止まった。

 

窓を見た。

 

暗くなっていた。夕方が、夜に変わりかけていた。木々の輪郭が、暗闇の中に溶けていった。どこかに、あの羆がいる。今夜もどこかに、いる。

 

扉の方を、見た。

 

閉まっていた。静かだった。

 

すぐ戻る、と言った。

 

大丈夫だ、と言った。

 

それだけを、今夜の拠り所にするしかなかった。

 

ルドルフは毛皮を握った。関節が白くなるほど握った。それから、少しだけ力を抜いた。

 

今日できたことを、一つ覚えておけ。

 

名前を聞いた。

 

小鳥遊、と呼んでいい、と聞いた。構わない、と答えが返ってきた。

 

それが、今日の一つだった。

 

ストーブが、ぱちりと鳴った。

 

影が、また揺れた。

 

三人は、扉が開くのを待った。静かに、ただ待った。小屋の外で、足音が戻ってくるのを、待った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。