氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
カチャリ、と茶器が鳴った。
エアグルーヴが、紅茶を入れ直していた。二杯目だった。さっき入れたものが冷めていた。冷めていたことに気づかなかった。気づいた時には、もう飲める温度ではなかった。
「続きを聞かせてやれよ」
シリウスが言った。
いつもの声だった。少し低くて、少し乱暴で、でも芯があった。ブライアンの握りしめた手が、少しだけ緩んだのを確かめてから、シリウスは視線を前に戻した。
「落ちた後のことを話す、って言いかけてたじゃないか」
ルドルフは窓の外を見た。
夕暮れが、完全な夜へと変わりかけていた。橙色が消えて、藍色が滲み始めていた。その藍色が、あの夜の小屋の外の色に似ていると、ルドルフは思った。
「落ちた後のことは」
ルドルフは言った。
「朝になって、目が覚めた」
「脚は」
「動いた」
シリウスが短く言った。ラモーヌが静かに頷いた。
それだけだった。それ以上の説明を、二人はしなかった。する必要がなかった。動いた、という二文字の中に、あの朝の全てが入っていた。
エアグルーヴは自分のカップを両手で包んでいた。
動いた。
その言葉が、胸の中で妙な重さを持った。動いた、ということは、動かない可能性があった、ということだ。動かない可能性があったのに、動いた。それがどういうことか、エアグルーヴには想像することしかできなかった。想像して、想像が追いつかなかった。
動かない間、三人はどうしていたのか。誰が何をしていたのか。聞けばわかるかもしれなかった。でも、聞けなかった。会長が「色々と」と言って止まった、あの一拍が、その答えだった。
※
「その間も、あの男が世話をしてくれた」
ルドルフが続けた。
「どんな世話を」
テイオーが聞いた。
ルドルフは少し止まった。
止まったことに、エアグルーヴは気づいた。ブライアンの目が、わずかに動いた。
「……色々と」
それだけだった。
続きが来なかった。来ないとわかった瞬間に、エアグルーヴは何かを察した。語れない部分がある。語れる状態ではない部分が。
シリウスが、少し視線を外した。
ラモーヌはカップを見ていた。冷めかけた紅茶の水面を、ただ見ていた。
「三人とも、最初はまともに動けなかった」
ルドルフが続けた。「起き上がることも、寝返りを打つことも、一人ではできなかった。それでも、毎日、少しずつ動くようになっていった」
「どれくらいで」
「三週間、と言われていた」
テイオーが息を飲んだ。
「三週間……」
「三週間、あの山の中にいた」
部屋が静かになった。
三週間。テイオーは指を折ろうとして、やめた。数えることが、何かを確定させる気がした。
「怖かった?」
テイオーが聞いた。
ルドルフは少し間を置いた。
「毎朝、夢を見た」
「夢?」
「怖い夢を」
それだけ言って、また止まった。
エアグルーヴはルドルフの横顔を見た。窓の外を見ていた。藍色の空を。その目が、夢の話をしている目とは少し違う温度をしていた。
「どんな夢」
「……三人で、走っていた。でも、一人ずつ、消えていく夢だ」
テイオーが、息を止めた。
「消えていく、というのは」
「気づいた時には、いなくなっている。足音が、二つになって、一つになって——気づいたら、一人だった」
小さな沈黙があった。
「毎朝、その夢で目が覚めた」
ルドルフは続けた。「最初のうちは、目が覚めるたびに隣を確かめた。二人がいるかどうか。いるとわかって、少し息ができた。それを、何度も繰り返した」
「今は」
ブライアンが言った。
部屋の隅から、低い声だった。咥えていた枝が、わずかに動いた。
ルドルフが、ブライアンを見た。
「今は」
少し間を置いた。
「見なくなった」
「いつから」
「……いつからだろう」
ルドルフは少し考えた。考えながら、シリウスを見た。シリウスは視線を逸らさなかった。ラモーヌも、カップから目を離して、ルドルフを見ていた。
「毎日、少しずつ動けるようになっていった。それと一緒に、夢も、少しずつ薄くなっていった気がする」
「なぜ」
「わからない」
正直に言った。少し間を置いてから、続けた。
「なに——理由を言葉にするのは難しいが。ただ——毎朝、目が覚めるたびに、二人がいた。それだけが続いた。続いていくうちに、夢より、その事実の方が重くなっていった」
ブライアンは何も言わなかった。
言わなかったが、握りしめていた手が、また少し緩んだ。
※
「その人の名前、聞けた?」
テイオーが言った。
声が、さっきより落ち着いていた。べそをかいていた目が、今は別の光を持っていた。話の続きを待っている目だった。
ルドルフは一拍、止まった。
止まったことで、部屋の空気が少し変わった。エアグルーヴが手を止めた。ブライアンの目が、わずかに動いた。テイオーが息を詰めた。
ルドルフは窓の外を見たまま、言った。
「小鳥遊七詩、と名乗った」
沈黙が来た。
テイオーが口を開いた。
「……名前、あるんだ」
当たり前のことを言った。言ってから、自分でも気づいたように頬を赤くした。でも、それは正直な反応だった。この夜まで、その人物は「男」として語られ続けてきた。羆の前に立った者。枝一本で退かせた者。三人を背負って雪の中を歩いた者。名前のない、輪郭だけの存在として。
それに、名前があった。
「たかなし、ななし」
ラモーヌが繰り返した。
静かな声だった。繰り返しながら、その名前を確かめているような口調だった。鼻が、微かに動いた。あの小屋の匂いを、一瞬だけ思い出したような、そういう動き方だった。
エアグルーヴは、その名前を聞いた瞬間に、何かが引っかかった。
小鳥遊。鷹が無し。たかなし。
七詩。ななし。名無し。
名無しの権兵衛、という言葉が、頭の片隅に浮かんだ。浮かんで、消えた。消えたが、引っかかりは残った。この名前は、名前の形をした何か別のものではないか。そう思った。でも、声には出さなかった。今夜はそういう夜ではない気がした。
ブライアンは何も言わなかった。
言わなかったが、目が動いていた。ルドルフを見た。シリウスを見た。ラモーヌを見た。三人を順番に見て、それから視線を落とした。
三人の顔が、同じ温度をしていた。
名前を口にした時の、あの一拍の間。ルドルフが窓の外を見ながら言った時の、声の質。それが何を意味するのか、ブライアンには言葉にできなかった。言葉にしなくても、わかった。
この三人にとって、その名前は——単なる固有名詞ではない。
※
「その人は、今も」
エアグルーヴが言いかけた。
「今も、あの山にいると思う」
ルドルフが答えた。
「私たちが帰った後も、ずっとあそこにいるのだと思う。何も言わなかった。何かを語る人ではなかったから」
部屋が静かになった。
エアグルーヴはカップを見た。何かを聞こうとして、やめた。聞いても、答えが返ってくる気がしなかった。そういう種類の話だとわかった。
「……一つだけ、聞いていいか」
ブライアンが言った。
壁から離れていた。いつの間にか、背中が壁から離れていた。
「いいだろ」とシリウスが答えた。
ブライアンは少し間を置いた。
「三週間、怖くなかったのか。あの羆が、また来るかもしれない場所に、いたんだろう」
ルドルフは少し考えた。
「怖かった」
「毎晩?」
「毎晩」
「それでも、いたのか」
「いるしかなかった。動けなかったから」
「動けるようになってからも」
ルドルフは少し止まった。
「動けるようになってからは——」
シリウスが続けた。
「いたかった」
短く言った。
ブライアンが、シリウスを見た。
シリウスは視線を逸らさなかった。
「いるしかなかった、から始まって、いたい、に変わった。それだけのことだ」
ブライアンはしばらく、シリウスを見ていた。
それから、また天井を見た。
膝の上の手が、開いていた。いつの間にか、握りしめていた手が、開いていた。
※
窓の外では、夜が深くなっていた。
風が出てきていた。校舎の木が揺れていた。遠くの山の方角に、雲が出ていた。
ルドルフは窓の外を見ていた。
あの夜のことを、考えていた。男が雪の中から戻ってきて、扉を開けた時のことを。
——今夜は、来なかった。
息を吐きながら、男がそう言った。今夜は来なかった、と。それだけを言って、外套を脱いで、また薪をくべた。それだけだった。
その言葉が、三人の最初の夜の拠り所になった。
来なかった。だから、今夜も眠れる。明日も、動ける。それだけが、あの山の中での夜の区切りだった。
「続きは」
テイオーが言った。
「まだある?」
ルドルフは少し考えた。
「ある」
「聞かせてくれる?」
「また今度にしよう」
テイオーが少し残念そうな顔をした。でも、頷いた。
エアグルーヴが立ち上がった。片付けを始めた。カップを集めた。手が、今度は震えていなかった。
ブライアンは、まだ天井を見ていた。
「なあ」
シリウスに向けた声だった。
「なに」
「その人、今夜も山にいるんだろう」
「たぶんね」
「寒いな」
「そうね」
シリウスが短く答えた。
それだけだった。
カチャリ、と茶器が鳴った。
エアグルーヴが最後のカップを片付けた。
窓の外で、風が木を揺らした。
それだけが、今夜の終わりだった。