氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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03-幕間一.『――今夜は、来なかった』

カチャリ、と茶器が鳴った。

 

エアグルーヴが、紅茶を入れ直していた。二杯目だった。さっき入れたものが冷めていた。冷めていたことに気づかなかった。気づいた時には、もう飲める温度ではなかった。

 

「続きを聞かせてやれよ」

 

シリウスが言った。

 

いつもの声だった。少し低くて、少し乱暴で、でも芯があった。ブライアンの握りしめた手が、少しだけ緩んだのを確かめてから、シリウスは視線を前に戻した。

 

「落ちた後のことを話す、って言いかけてたじゃないか」

 

ルドルフは窓の外を見た。

 

夕暮れが、完全な夜へと変わりかけていた。橙色が消えて、藍色が滲み始めていた。その藍色が、あの夜の小屋の外の色に似ていると、ルドルフは思った。

 

「落ちた後のことは」

 

ルドルフは言った。

 

「朝になって、目が覚めた」

 

「脚は」

 

「動いた」

 

シリウスが短く言った。ラモーヌが静かに頷いた。

 

それだけだった。それ以上の説明を、二人はしなかった。する必要がなかった。動いた、という二文字の中に、あの朝の全てが入っていた。

 

エアグルーヴは自分のカップを両手で包んでいた。

 

動いた。

 

その言葉が、胸の中で妙な重さを持った。動いた、ということは、動かない可能性があった、ということだ。動かない可能性があったのに、動いた。それがどういうことか、エアグルーヴには想像することしかできなかった。想像して、想像が追いつかなかった。

 

動かない間、三人はどうしていたのか。誰が何をしていたのか。聞けばわかるかもしれなかった。でも、聞けなかった。会長が「色々と」と言って止まった、あの一拍が、その答えだった。

 

 

    ※

 

 

「その間も、あの男が世話をしてくれた」

 

ルドルフが続けた。

 

「どんな世話を」

 

テイオーが聞いた。

 

ルドルフは少し止まった。

 

止まったことに、エアグルーヴは気づいた。ブライアンの目が、わずかに動いた。

 

「……色々と」

 

それだけだった。

 

続きが来なかった。来ないとわかった瞬間に、エアグルーヴは何かを察した。語れない部分がある。語れる状態ではない部分が。

 

シリウスが、少し視線を外した。

 

ラモーヌはカップを見ていた。冷めかけた紅茶の水面を、ただ見ていた。

 

「三人とも、最初はまともに動けなかった」

 

ルドルフが続けた。「起き上がることも、寝返りを打つことも、一人ではできなかった。それでも、毎日、少しずつ動くようになっていった」

 

「どれくらいで」

 

「三週間、と言われていた」

 

テイオーが息を飲んだ。

 

「三週間……」

 

「三週間、あの山の中にいた」

 

部屋が静かになった。

 

三週間。テイオーは指を折ろうとして、やめた。数えることが、何かを確定させる気がした。

 

「怖かった?」

 

テイオーが聞いた。

 

ルドルフは少し間を置いた。

 

「毎朝、夢を見た」

 

「夢?」

 

「怖い夢を」

 

それだけ言って、また止まった。

 

エアグルーヴはルドルフの横顔を見た。窓の外を見ていた。藍色の空を。その目が、夢の話をしている目とは少し違う温度をしていた。

 

「どんな夢」

 

「……三人で、走っていた。でも、一人ずつ、消えていく夢だ」

 

テイオーが、息を止めた。

 

「消えていく、というのは」

 

「気づいた時には、いなくなっている。足音が、二つになって、一つになって——気づいたら、一人だった」

 

小さな沈黙があった。

 

「毎朝、その夢で目が覚めた」

 

ルドルフは続けた。「最初のうちは、目が覚めるたびに隣を確かめた。二人がいるかどうか。いるとわかって、少し息ができた。それを、何度も繰り返した」

 

「今は」

 

ブライアンが言った。

 

部屋の隅から、低い声だった。咥えていた枝が、わずかに動いた。

 

ルドルフが、ブライアンを見た。

 

「今は」

 

少し間を置いた。

 

「見なくなった」

 

「いつから」

 

「……いつからだろう」

 

ルドルフは少し考えた。考えながら、シリウスを見た。シリウスは視線を逸らさなかった。ラモーヌも、カップから目を離して、ルドルフを見ていた。

 

「毎日、少しずつ動けるようになっていった。それと一緒に、夢も、少しずつ薄くなっていった気がする」

 

「なぜ」

 

「わからない」

 

正直に言った。少し間を置いてから、続けた。

 

「なに——理由を言葉にするのは難しいが。ただ——毎朝、目が覚めるたびに、二人がいた。それだけが続いた。続いていくうちに、夢より、その事実の方が重くなっていった」

 

ブライアンは何も言わなかった。

 

言わなかったが、握りしめていた手が、また少し緩んだ。

 

 

    ※

 

 

「その人の名前、聞けた?」

 

テイオーが言った。

 

声が、さっきより落ち着いていた。べそをかいていた目が、今は別の光を持っていた。話の続きを待っている目だった。

 

ルドルフは一拍、止まった。

 

止まったことで、部屋の空気が少し変わった。エアグルーヴが手を止めた。ブライアンの目が、わずかに動いた。テイオーが息を詰めた。

 

ルドルフは窓の外を見たまま、言った。

 

「小鳥遊七詩、と名乗った」

 

沈黙が来た。

 

テイオーが口を開いた。

 

「……名前、あるんだ」

 

当たり前のことを言った。言ってから、自分でも気づいたように頬を赤くした。でも、それは正直な反応だった。この夜まで、その人物は「男」として語られ続けてきた。羆の前に立った者。枝一本で退かせた者。三人を背負って雪の中を歩いた者。名前のない、輪郭だけの存在として。

 

それに、名前があった。

 

「たかなし、ななし」

 

ラモーヌが繰り返した。

 

静かな声だった。繰り返しながら、その名前を確かめているような口調だった。鼻が、微かに動いた。あの小屋の匂いを、一瞬だけ思い出したような、そういう動き方だった。

 

エアグルーヴは、その名前を聞いた瞬間に、何かが引っかかった。

 

小鳥遊。鷹が無し。たかなし。

 

七詩。ななし。名無し。

 

名無しの権兵衛、という言葉が、頭の片隅に浮かんだ。浮かんで、消えた。消えたが、引っかかりは残った。この名前は、名前の形をした何か別のものではないか。そう思った。でも、声には出さなかった。今夜はそういう夜ではない気がした。

 

ブライアンは何も言わなかった。

 

言わなかったが、目が動いていた。ルドルフを見た。シリウスを見た。ラモーヌを見た。三人を順番に見て、それから視線を落とした。

 

三人の顔が、同じ温度をしていた。

 

名前を口にした時の、あの一拍の間。ルドルフが窓の外を見ながら言った時の、声の質。それが何を意味するのか、ブライアンには言葉にできなかった。言葉にしなくても、わかった。

 

この三人にとって、その名前は——単なる固有名詞ではない。

 

 

    ※

 

 

「その人は、今も」

 

エアグルーヴが言いかけた。

 

「今も、あの山にいると思う」

 

ルドルフが答えた。

 

「私たちが帰った後も、ずっとあそこにいるのだと思う。何も言わなかった。何かを語る人ではなかったから」

 

部屋が静かになった。

 

エアグルーヴはカップを見た。何かを聞こうとして、やめた。聞いても、答えが返ってくる気がしなかった。そういう種類の話だとわかった。

 

「……一つだけ、聞いていいか」

 

ブライアンが言った。

 

壁から離れていた。いつの間にか、背中が壁から離れていた。

 

「いいだろ」とシリウスが答えた。

 

ブライアンは少し間を置いた。

 

「三週間、怖くなかったのか。あの羆が、また来るかもしれない場所に、いたんだろう」

 

ルドルフは少し考えた。

 

「怖かった」

 

「毎晩?」

 

「毎晩」

 

「それでも、いたのか」

 

「いるしかなかった。動けなかったから」

 

「動けるようになってからも」

 

ルドルフは少し止まった。

 

「動けるようになってからは——」

 

シリウスが続けた。

 

「いたかった」

 

短く言った。

 

ブライアンが、シリウスを見た。

 

シリウスは視線を逸らさなかった。

 

「いるしかなかった、から始まって、いたい、に変わった。それだけのことだ」

 

ブライアンはしばらく、シリウスを見ていた。

 

それから、また天井を見た。

 

膝の上の手が、開いていた。いつの間にか、握りしめていた手が、開いていた。

 

 

    ※

 

 

窓の外では、夜が深くなっていた。

 

風が出てきていた。校舎の木が揺れていた。遠くの山の方角に、雲が出ていた。

 

ルドルフは窓の外を見ていた。

 

あの夜のことを、考えていた。男が雪の中から戻ってきて、扉を開けた時のことを。

 

——今夜は、来なかった。

 

息を吐きながら、男がそう言った。今夜は来なかった、と。それだけを言って、外套を脱いで、また薪をくべた。それだけだった。

 

その言葉が、三人の最初の夜の拠り所になった。

 

来なかった。だから、今夜も眠れる。明日も、動ける。それだけが、あの山の中での夜の区切りだった。

 

「続きは」

 

テイオーが言った。

 

「まだある?」

 

ルドルフは少し考えた。

 

「ある」

 

「聞かせてくれる?」

 

「また今度にしよう」

 

テイオーが少し残念そうな顔をした。でも、頷いた。

 

エアグルーヴが立ち上がった。片付けを始めた。カップを集めた。手が、今度は震えていなかった。

 

ブライアンは、まだ天井を見ていた。

 

「なあ」

 

シリウスに向けた声だった。

 

「なに」

 

「その人、今夜も山にいるんだろう」

 

「たぶんね」

 

「寒いな」

 

「そうね」

 

シリウスが短く答えた。

 

それだけだった。

 

カチャリ、と茶器が鳴った。

 

エアグルーヴが最後のカップを片付けた。

 

窓の外で、風が木を揺らした。

 

それだけが、今夜の終わりだった。

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