氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
また水が、床を叩いた。
彼女たちはまだ、床に命令している。
床と話していない。
やってみせた。
理屈ではない。身体が知っていることは、身体でしか渡せない。
どの『記録』にも、その渡し方は載っていなかった。
霧だった。
山ではなかった。山のはずなのに、山ではなかった。木々があった。雪があった。
でも、霧が全てを飲んでいた。三歩先が見えなかった。二歩先が見えなかった。
一歩先だけが、かろうじてある。
走っていた。
なぜ走っているのかわからなかった。走らなければならないとわかっていた。
わかっているから、走っていた。でも、景色が変わらなかった。一歩踏み出すたびに、
同じ霧があった。同じ木の輪郭があった。
二人がいない、ということに、気づいていた。
いつからいないのかはわからなかった。最初からいなかったのかもしれなかった。
足音は、自分の一つだけだった。呼ぼうとした。声にならなかった。
呼べないまま走り続けることが、この霧の中での正しい在り方なのだと、
世界が教えているような気がした。
自分の手足が、おかしかった。
走りながら、自分の腕を見た。異様に長い気がした。次の瞬間には、逆に短すぎる気がした。
地面はすぐそこにあるはずなのに、一歩踏み出すたびに、永遠に届かないどこかへ足を伸ばしているような感覚があった。自分が「どこに立っているのか」が、霧の中で少しずつ溶けていった。
前に進んでいるのか、その場で足踏みをしているのか、わからなかった。
景色が変わらないのではなく——景色を変えることを、世界が許していなかった。
音がした。
雪を、重い質量が引きずる音だった。足音と呼んでいいのかもわからなかった。
乾いた雪が押し潰され、軋み、何か巨大なものが動く時の、粘り気のある音だった。
自分の足音は、この霧の中で完全に消えていた。
なのに、後ろから来る「それ」の音だけが、鼓膜で聞くものではなかった。
背後で雪が圧し潰されるたびに、その振動がルドルフの脊髄を直接なぞるように這い上がってきた。それは音というより、物理的な質量の移動だった。
振り返ればそこに、想像を絶する重さが形を持たないまま迫っていることが、肌に触れる空気の密度の変化でわかった。
振り返ろうとした。
振り返れなかった。首が動かなかった。動かないまま、音だけが近づいていた。
姿が見えなかった。見えないから、余計に怖かった。見えれば、まだ測れた。
でも、見えなかった。
突然、足が沈んだ。
膝まで雪に飲まれた。ただの雪ではなかった。底なし沼のように、脚に絡みついてくる雪だった。引き抜こうとした。抜けなかった。もう一度引き抜こうとした。抜けなかった。
どれほど力を込めても、雪が吸盤のように脚に吸い付き、筋肉の熱を奪っていった。
走るための脚が、世界から拒絶されて、縫い付けられていた。
世界そのものが、彼女から「走る権利」を取り上げようとしていた。
これが罰なのだと、霧が言っていた。
言葉ではなかった。霧の質感が、雪の重さが、二人のいない静けさが、そう教えていた。
走ってはいけない場所を走ったから、走れなくなる。
そういう話を、どこかで読んだことがある気がした。古い話だった。子供の頃に読んだ話だった。
どこで読んだのかは、もう思い出せなかった。
動けない。
その間にも、後ろの音が、首のすぐ後ろまで迫っていた。
温かい吐息が——
※
目が覚めた。
荒い息だった。肺が一度に空気を求めていた。天井があった。節目がある。木目がある。
ルドルフは、しばらく天井を見ていた。
呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
隣を見た。ラモーヌがいた。反対側を見た。シリウスがいた。二人とも眠っていた。
眠っているのを確かめてから、ルドルフは目を閉じた。
閉じて、また開けた。
また閉じると、また戻る気がした。だから、開けたままにした。天井の木目を、目で辿った。節目を数えた。数えながら、呼吸を整えた。
音が、まだ耳の奥に残っていた。
姿がなかった。だから消えなかった。姿があれば、目が覚めた後で「夢だった」と確かめられた。でも昨夜の夢には、姿がなかった。音だけがあった。音は、
目が覚めても消えなかった。
「起きたか」
男の声がした。
ストーブの前で、何かを煎じていた。振り返らなかった。
「……うん」
「いつ戻ってきたの」
「おまえたちは寝ていた」
それだけだった。
「脚を動かしてみろ」
動かした。
動いた。昨日より少し大きく動いた。昨日は「動いた気がした」程度だったが、今日は確かに動いた。痛かった。熱かった。でも、動いた。
「……動く」
「そうだ」
男はそれだけ言って、また作業に戻った。
※
二日目の朝は、床板から始まった。
ルドルフが立ち上がろうとした。立てた。膝が震えたが、立てた。一歩踏み出した。
意識して、慎重に、薄氷を踏むように足を下ろした。そのつもりだった。
だが、床に触れた瞬間、足が弾けた。
足の裏から跳ね返ってきた振動は、自分が想像していたものとまるで違った。
小屋全体が揺れるような音がした。床板が悲鳴を上げた。ルドルフ自身が一番驚いていた。ただ一歩、慎重に踏み出しただけだ。それなのに。
「——っ」
シリウスが飛び起きた。
毛皮を抱えたまま、壁に背をつけた。耳が伏せられていた。尾が逆立っていた。
一秒して、ルドルフだとわかった。それでも、耳が戻らなかった。
「なによ、いきなり」
「ごめん。歩こうとしただけ」
「あの音は何」
ルドルフは自分の足を見た。何もおかしくなかった。昨日より動く。昨日より感覚がある。
それなのに、一歩踏み出しただけで、あの音がした。
「わからない」
男が振り返った。
ストーブに薪をくべていた手を止めて、ルドルフを見た。ルドルフの足を見た。
それから、床を見た。
「もう一度、歩いてみろ」
「……また、あの音がする」
「構わない。歩いてみろ」
ルドルフは一歩、踏み出した。
また、床が鳴った。さっきより意識して踏み出したが、結果は同じだった。
意識すれば意識するほど、力が入った。力が入るほど、音が大きくなった。
「やめろ」
男が言った。
「床が聞いていない」
「床が、聞いていない?」
「お前の脚が、床に話しかけていない。床が何を返してくるかを聞かずに、踏みつけているだけだ」
ルドルフは自分の足を見た。
「何が起きているかわかるか」
わからなかった。
「脳が身体に命令を出している。その命令の強度と、実際に出力される力が、合っていない。脳は少しだけ踏み出せと言っている。身体はその何倍もの力で応えている」
「なぜ」
「寒さで傷んだ。急激に回復した。細胞が目覚めたばかりで、まだ調整ができていない。制御が、追いついていない」
動く、ということと、使える、ということは違う。
男はそう言った。
ルドルフはその言葉を、静かに自分の中に収めた。走れていた。生まれた時から、走ることが当たり前だった。その脚が、今朝は一歩踏み出しただけで床を鳴らした。
思った通りに動かない脚を、思った通りに動かすようにする。
それが、今の自分のやることだった。
※
男が棚から木の器を三つ取り出した。
水を入れた。なみなみと入れた。
「立て」
三人が立った。
「その器を頭に乗せろ」
シリウスは器を受け取った。水が揺れていた。なみなみと入っていた。頭に乗せた。
乗せただけで揺れた。
「……これで、何をするの」
「歩け」
「どこまで」
「部屋の端から端まで。水を一滴もこぼさずに」
やってみた。
一歩目で水がこぼれた。
冷たかった。髪を濡らした水が、首筋を伝った。薪の熱が満ちた小屋の中でも、冷たかった。
出発点に戻った。また器を乗せた。
三回目も、同じところでこぼれた。四回目。五回目。こぼれるたびに冷たい水が首を伝った。
こぼれるたびに出発点に戻った。
シリウスの耳が、少しずつ後ろへ倒れていった。苛立っていた。苛立っているとわかっていた。
わかっていても、止まらなかった。守れなかった自分が、床一枚にも負けている。それが痛かった。
「やめろ」
男が言った。
「水を見るな」
「見ていない」とシリウスが言った。
「意識が向いている。同じことだ」
シリウスは黙った。
「外の音を聞くな」
「聞いていない」
「聞かないようにしている。同じことだ」
シリウスの尾が揺れた。苛立ちが、尾に出た。
六回目が終わった後、シリウスが器を降ろした。
「あんた」
男が振り返った。
「これ、できるのか」
「できる」
「じゃあ、やってみせろ」
部屋が静かになった。
ルドルフとラモーヌが、シリウスと男を交互に見た。シリウスの声に怒りはなかった。
苛立ちはあった。でも、それより先に、本気で求めていた。できるなら見せろ、と。
できないなら黙れ、と。そういう声だった。
男は器を一つ手に取った。
水を入れた。なみなみと。頭に乗せた。
立った。
それだけだった。ただ立っただけだった。でも、シリウスには何かが違うとわかった。
何が違うのか、言葉にならなかった。
男が一歩、踏み出した。
音がしなかった。
床が鳴らなかった。シリウスが一歩踏み出した時に出た音が、男の一歩では何もなかった。
同じ床だった。同じはずだった。なのに、音がしなかった。
男は部屋の端まで歩いた。戻った。往復した。水面が揺れなかった。一滴も、こぼれなかった。
器を頭から降ろした。
水面を見た。わずかに揺れていた。でも、こぼれていなかった。
シリウスは、その器を見た。
見てしまった、という顔をしていた。自分でもわかっていた。言い返す言葉が出てこなかった。
「どうやったの」
ルドルフが言った。
「足の裏で、床を聞いた」
「床を、聞く」
「床が何を返してくるか。それを聞きながら、次の一歩を決めた」
「……それだけ?」
「それだけだ」
※
ラモーヌは、男が歩く時の音を聞いていた。
音がしなかった、というのは正確ではなかった。音はあった。足が床を踏む音はあった。
でも、床が応えなかった。床が鳴らなかった。
踏んでいるのに、床が鳴らない。
踏んでいるのに、床が鳴らないということは——床が受け入れている、ということだ。
押しつけるのではなく、預けている。床がその重さを受け取って、返している。
ラモーヌは器を頭に乗せた。
目を閉じた。
鼻が、微かに動いた。床の木の匂い。自分の体温。水の冷たさ。それらを一つずつ確かめた。
足の裏を感じた。床の硬さ。足の裏の温度。体重がどこにかかっているか。
一つずつ確かめた。確かめながら、一歩踏み出した。
水が、少しだけ揺れた。
少し、だった。
男が何も言わなかった。
それが答えだった。何も言わないということは、続けろということだった。
ラモーヌは続けた。次の一歩を踏み出した。また揺れた。さっきより揺れた。
でも、最初の一歩よりは揺れなかった。
三歩目。揺れた。
四歩目。揺れた。でも、また少し小さくなった気がした。
男が作業していた手を、一拍だけ止めた。
止めた、というより、少し遅くなった。ほんの一拍だった。それから、また作業に戻った。
ラモーヌはその一拍に気づいた。
何も言われなかった。怒られなかった。やり直せとも言われなかった。
ただ、一拍、止まった。
悪くない、という意味だと思った。
確かめなかった。確かめる必要がなかった。一拍の沈黙が、すでに答えだった。
ラモーヌは次の一歩を踏み出した。
水が揺れた。
でも、こぼれなかった。
※
ルドルフは器を頭に乗せ、目を閉じた。
男の「床を聞く」という言葉。ラモーヌが少しずつ掴みかけている何か。
それらを頭の中で一つずつ組み合わせていった。
出力が大きすぎるなら、その出力を逃がす経路を身体の中に作ればいい。
筋肉の収縮を意識して抑え込み、関節のクッションで床への衝撃を殺す。
脳の命令を、百分の一の強度に絞り込む。絞り込んだまま、一歩踏み出す。
水が揺れた。
二歩目。計算を修正した。重心が少し前にあった。修正して、踏み出した。
三歩目。水面がぴたりと安定した。
完璧な制御だった。でも、額に汗が浮いていた。
器を持つ指先が、白くなるほど強張っていた。
全力で走るよりも、百分の一の力を精密に制御することの方が、はるかに脳の体力を奪っていく。それがわかった。全身全霊でやることより、全身全霊で抑えることの方が難しい。
四歩目で、水がこぼれた。
集中が、一瞬切れた。切れた瞬間に、出力が戻った。戻った分だけ、水が揺れた。
ルドルフは出発点に戻った。
また器を乗せ直した。今度は、もう少し前の段階から絞り込む。
床に踏み出す前から、すでに制御を始める。
一歩。二歩。三歩。四歩。
水がこぼれなかった。
五歩目で、また切れた。
それでも、さっきより一歩多かった。一歩だけ、多かった。
※
シリウスは十二回目で、初めて三歩続けて水をこぼさずに歩けた。
三歩目を踏み出して、こぼれなかったことに気づいて、四歩目を踏み出した。こぼれた。
でも、三歩は続いた。
「……ハ」
シリウスが短く笑った。笑い声というより、息が漏れた、という感じだった。
器を頭に乗せたまま、出発点に戻った。尾が、わずかに揺れていた。
揺れたことに、自分で気づいていなかった。
「あんた」
男が振り返った。
「今の三歩、見てたか?」
男は少し間を置いた。
「見ていた」
「どうだった」
また少し間を置いた。
「悪くない」
シリウスの尾が、また揺れた。
「そう」
それだけ言って、また出発点から歩き始めた。
ルドルフはそのやり取りを見ていた。
悪くない、という言葉だった。よくできた、でも、すごい、でも、なかった。
悪くない、だった。それでも、シリウスの尾が揺れた。そういう言葉だった、とルドルフは思った。
この男の「悪くない」は、ほかの者の「よくできた」に近い。
そのことを、ルドルフは静かに、自分の中に収めた。
※
昼前になって、男が外に出た。
三人は続けた。
続けた、というより——やめる理由がなかった。一歩ごとに何かが変わっていた。
最初と比べれば、変わっていた。床の音が、少しずつ小さくなっていた。
全員が失敗した一時間が、全員が少し変わった昼になっていた。
男が戻ってきた。
外套に雪がついていた。手に薪を抱えていた。腕に抱えた薪を、ストーブの傍に積んだ。
それから三人を見た。順番に、確かめるように見た。
「続けていたか」
「続けていた」とルドルフが答えた。
男は頷いた。それだけだった。褒めなかった。驚かなかった。
確認した事実を確かめた、それだけだった。
小屋の中に、また針の音が戻ってきた。
服を縫う音だった。規則的だった。急いでいなかった。
三人は、また器を頭に乗せた。
床の音が、また少しだけ小さくなった。
小さくなっていることが、今日の一つだった。
※
三日目の朝、シリウスは目を覚ました。
天井があった。節目がある。木目がある。
夢を見ていた気がした。霧の中にいた気がした。
でも、あの音は——昨日より、遠かった気がした。
昨日、器の水をこぼさずに歩けた。
その小さな事実が、霧の中の音を、ほんの一歩分だけ遠ざけてくれた気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも、そういう気がした。
シリウスは天井を見たまま、脚を動かした。
動いた。
それだけが、三日目の朝の、確かな事実だった。
掲載順が誤ってました。。。(白目)