氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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水が、床を叩いた。
また水が、床を叩いた。
彼女たちはまだ、床に命令している。
床と話していない。
やってみせた。
理屈ではない。身体が知っていることは、身体でしか渡せない。
どの『記録』にも、その渡し方は載っていなかった。


03-四.「足の裏で、床を聞く」

霧だった。

 

山ではなかった。山のはずなのに、山ではなかった。木々があった。雪があった。

でも、霧が全てを飲んでいた。三歩先が見えなかった。二歩先が見えなかった。

一歩先だけが、かろうじてある。

 

走っていた。

 

なぜ走っているのかわからなかった。走らなければならないとわかっていた。

わかっているから、走っていた。でも、景色が変わらなかった。一歩踏み出すたびに、

同じ霧があった。同じ木の輪郭があった。

 

二人がいない、ということに、気づいていた。

 

いつからいないのかはわからなかった。最初からいなかったのかもしれなかった。

足音は、自分の一つだけだった。呼ぼうとした。声にならなかった。

呼べないまま走り続けることが、この霧の中での正しい在り方なのだと、

世界が教えているような気がした。

 

自分の手足が、おかしかった。

 

走りながら、自分の腕を見た。異様に長い気がした。次の瞬間には、逆に短すぎる気がした。

地面はすぐそこにあるはずなのに、一歩踏み出すたびに、永遠に届かないどこかへ足を伸ばしているような感覚があった。自分が「どこに立っているのか」が、霧の中で少しずつ溶けていった。

 

前に進んでいるのか、その場で足踏みをしているのか、わからなかった。

景色が変わらないのではなく——景色を変えることを、世界が許していなかった。

 

音がした。

 

雪を、重い質量が引きずる音だった。足音と呼んでいいのかもわからなかった。

乾いた雪が押し潰され、軋み、何か巨大なものが動く時の、粘り気のある音だった。

自分の足音は、この霧の中で完全に消えていた。

 

なのに、後ろから来る「それ」の音だけが、鼓膜で聞くものではなかった。

背後で雪が圧し潰されるたびに、その振動がルドルフの脊髄を直接なぞるように這い上がってきた。それは音というより、物理的な質量の移動だった。

振り返ればそこに、想像を絶する重さが形を持たないまま迫っていることが、肌に触れる空気の密度の変化でわかった。

 

振り返ろうとした。

 

振り返れなかった。首が動かなかった。動かないまま、音だけが近づいていた。

姿が見えなかった。見えないから、余計に怖かった。見えれば、まだ測れた。

でも、見えなかった。

 

突然、足が沈んだ。

 

膝まで雪に飲まれた。ただの雪ではなかった。底なし沼のように、脚に絡みついてくる雪だった。引き抜こうとした。抜けなかった。もう一度引き抜こうとした。抜けなかった。

 

どれほど力を込めても、雪が吸盤のように脚に吸い付き、筋肉の熱を奪っていった。

走るための脚が、世界から拒絶されて、縫い付けられていた。

世界そのものが、彼女から「走る権利」を取り上げようとしていた。

 

これが罰なのだと、霧が言っていた。

言葉ではなかった。霧の質感が、雪の重さが、二人のいない静けさが、そう教えていた。

走ってはいけない場所を走ったから、走れなくなる。

そういう話を、どこかで読んだことがある気がした。古い話だった。子供の頃に読んだ話だった。

どこで読んだのかは、もう思い出せなかった。

 

動けない。

 

その間にも、後ろの音が、首のすぐ後ろまで迫っていた。

 

温かい吐息が——

 

 

    ※

 

 

目が覚めた。

 

荒い息だった。肺が一度に空気を求めていた。天井があった。節目がある。木目がある。

 

ルドルフは、しばらく天井を見ていた。

 

呼吸が、少しずつ落ち着いていった。

 

隣を見た。ラモーヌがいた。反対側を見た。シリウスがいた。二人とも眠っていた。

眠っているのを確かめてから、ルドルフは目を閉じた。

 

閉じて、また開けた。

 

また閉じると、また戻る気がした。だから、開けたままにした。天井の木目を、目で辿った。節目を数えた。数えながら、呼吸を整えた。

 

音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

姿がなかった。だから消えなかった。姿があれば、目が覚めた後で「夢だった」と確かめられた。でも昨夜の夢には、姿がなかった。音だけがあった。音は、

目が覚めても消えなかった。

 

「起きたか」

 

男の声がした。

 

ストーブの前で、何かを煎じていた。振り返らなかった。

 

「……うん」

 

「いつ戻ってきたの」

 

「おまえたちは寝ていた」

 

それだけだった。

 

「脚を動かしてみろ」

 

動かした。

 

動いた。昨日より少し大きく動いた。昨日は「動いた気がした」程度だったが、今日は確かに動いた。痛かった。熱かった。でも、動いた。

 

「……動く」

 

「そうだ」

 

男はそれだけ言って、また作業に戻った。

 

 

    ※

 

 

二日目の朝は、床板から始まった。

 

ルドルフが立ち上がろうとした。立てた。膝が震えたが、立てた。一歩踏み出した。

 

意識して、慎重に、薄氷を踏むように足を下ろした。そのつもりだった。

 

だが、床に触れた瞬間、足が弾けた。

 

足の裏から跳ね返ってきた振動は、自分が想像していたものとまるで違った。

小屋全体が揺れるような音がした。床板が悲鳴を上げた。ルドルフ自身が一番驚いていた。ただ一歩、慎重に踏み出しただけだ。それなのに。

 

「——っ」

 

シリウスが飛び起きた。

 

毛皮を抱えたまま、壁に背をつけた。耳が伏せられていた。尾が逆立っていた。

一秒して、ルドルフだとわかった。それでも、耳が戻らなかった。

 

「なによ、いきなり」

 

「ごめん。歩こうとしただけ」

 

「あの音は何」

 

ルドルフは自分の足を見た。何もおかしくなかった。昨日より動く。昨日より感覚がある。

それなのに、一歩踏み出しただけで、あの音がした。

 

「わからない」

 

男が振り返った。

 

ストーブに薪をくべていた手を止めて、ルドルフを見た。ルドルフの足を見た。

それから、床を見た。

 

「もう一度、歩いてみろ」

 

「……また、あの音がする」

 

「構わない。歩いてみろ」

 

ルドルフは一歩、踏み出した。

 

また、床が鳴った。さっきより意識して踏み出したが、結果は同じだった。

意識すれば意識するほど、力が入った。力が入るほど、音が大きくなった。

 

「やめろ」

 

男が言った。

 

「床が聞いていない」

 

「床が、聞いていない?」

 

「お前の脚が、床に話しかけていない。床が何を返してくるかを聞かずに、踏みつけているだけだ」

 

ルドルフは自分の足を見た。

 

「何が起きているかわかるか」

 

わからなかった。

 

「脳が身体に命令を出している。その命令の強度と、実際に出力される力が、合っていない。脳は少しだけ踏み出せと言っている。身体はその何倍もの力で応えている」

 

「なぜ」

 

「寒さで傷んだ。急激に回復した。細胞が目覚めたばかりで、まだ調整ができていない。制御が、追いついていない」

 

動く、ということと、使える、ということは違う。

 

男はそう言った。

 

ルドルフはその言葉を、静かに自分の中に収めた。走れていた。生まれた時から、走ることが当たり前だった。その脚が、今朝は一歩踏み出しただけで床を鳴らした。

思った通りに動かない脚を、思った通りに動かすようにする。

それが、今の自分のやることだった。

 

 

    ※

 

 

男が棚から木の器を三つ取り出した。

 

水を入れた。なみなみと入れた。

 

「立て」

 

三人が立った。

 

「その器を頭に乗せろ」

 

シリウスは器を受け取った。水が揺れていた。なみなみと入っていた。頭に乗せた。

乗せただけで揺れた。

 

「……これで、何をするの」

 

「歩け」

 

「どこまで」

 

「部屋の端から端まで。水を一滴もこぼさずに」

 

やってみた。

 

一歩目で水がこぼれた。

 

冷たかった。髪を濡らした水が、首筋を伝った。薪の熱が満ちた小屋の中でも、冷たかった。

 

出発点に戻った。また器を乗せた。

 

三回目も、同じところでこぼれた。四回目。五回目。こぼれるたびに冷たい水が首を伝った。

こぼれるたびに出発点に戻った。

 

シリウスの耳が、少しずつ後ろへ倒れていった。苛立っていた。苛立っているとわかっていた。

わかっていても、止まらなかった。守れなかった自分が、床一枚にも負けている。それが痛かった。

 

「やめろ」

 

男が言った。

 

「水を見るな」

 

「見ていない」とシリウスが言った。

 

「意識が向いている。同じことだ」

 

シリウスは黙った。

 

「外の音を聞くな」

 

「聞いていない」

 

「聞かないようにしている。同じことだ」

 

シリウスの尾が揺れた。苛立ちが、尾に出た。

 

六回目が終わった後、シリウスが器を降ろした。

 

「あんた」

 

男が振り返った。

 

「これ、できるのか」

 

「できる」

 

「じゃあ、やってみせろ」

 

部屋が静かになった。

 

ルドルフとラモーヌが、シリウスと男を交互に見た。シリウスの声に怒りはなかった。

苛立ちはあった。でも、それより先に、本気で求めていた。できるなら見せろ、と。

できないなら黙れ、と。そういう声だった。

 

男は器を一つ手に取った。

 

水を入れた。なみなみと。頭に乗せた。

 

立った。

 

それだけだった。ただ立っただけだった。でも、シリウスには何かが違うとわかった。

何が違うのか、言葉にならなかった。

 

男が一歩、踏み出した。

 

音がしなかった。

 

床が鳴らなかった。シリウスが一歩踏み出した時に出た音が、男の一歩では何もなかった。

同じ床だった。同じはずだった。なのに、音がしなかった。

 

男は部屋の端まで歩いた。戻った。往復した。水面が揺れなかった。一滴も、こぼれなかった。

 

器を頭から降ろした。

 

水面を見た。わずかに揺れていた。でも、こぼれていなかった。

 

シリウスは、その器を見た。

 

見てしまった、という顔をしていた。自分でもわかっていた。言い返す言葉が出てこなかった。

 

「どうやったの」

 

ルドルフが言った。

 

「足の裏で、床を聞いた」

 

「床を、聞く」

 

「床が何を返してくるか。それを聞きながら、次の一歩を決めた」

 

「……それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 

    ※

 

 

ラモーヌは、男が歩く時の音を聞いていた。

 

音がしなかった、というのは正確ではなかった。音はあった。足が床を踏む音はあった。

でも、床が応えなかった。床が鳴らなかった。

 

踏んでいるのに、床が鳴らない。

 

踏んでいるのに、床が鳴らないということは——床が受け入れている、ということだ。

押しつけるのではなく、預けている。床がその重さを受け取って、返している。

 

ラモーヌは器を頭に乗せた。

 

目を閉じた。

 

鼻が、微かに動いた。床の木の匂い。自分の体温。水の冷たさ。それらを一つずつ確かめた。

 

足の裏を感じた。床の硬さ。足の裏の温度。体重がどこにかかっているか。

一つずつ確かめた。確かめながら、一歩踏み出した。

 

水が、少しだけ揺れた。

 

少し、だった。

 

男が何も言わなかった。

 

それが答えだった。何も言わないということは、続けろということだった。

ラモーヌは続けた。次の一歩を踏み出した。また揺れた。さっきより揺れた。

でも、最初の一歩よりは揺れなかった。

 

三歩目。揺れた。

 

四歩目。揺れた。でも、また少し小さくなった気がした。

 

男が作業していた手を、一拍だけ止めた。

 

止めた、というより、少し遅くなった。ほんの一拍だった。それから、また作業に戻った。

 

ラモーヌはその一拍に気づいた。

 

何も言われなかった。怒られなかった。やり直せとも言われなかった。

ただ、一拍、止まった。

 

悪くない、という意味だと思った。

 

確かめなかった。確かめる必要がなかった。一拍の沈黙が、すでに答えだった。

 

ラモーヌは次の一歩を踏み出した。

 

水が揺れた。

 

でも、こぼれなかった。

 

 

    ※

 

 

ルドルフは器を頭に乗せ、目を閉じた。

 

男の「床を聞く」という言葉。ラモーヌが少しずつ掴みかけている何か。

それらを頭の中で一つずつ組み合わせていった。

 

出力が大きすぎるなら、その出力を逃がす経路を身体の中に作ればいい。

筋肉の収縮を意識して抑え込み、関節のクッションで床への衝撃を殺す。

脳の命令を、百分の一の強度に絞り込む。絞り込んだまま、一歩踏み出す。

 

水が揺れた。

 

二歩目。計算を修正した。重心が少し前にあった。修正して、踏み出した。

 

三歩目。水面がぴたりと安定した。

 

完璧な制御だった。でも、額に汗が浮いていた。

器を持つ指先が、白くなるほど強張っていた。

 

全力で走るよりも、百分の一の力を精密に制御することの方が、はるかに脳の体力を奪っていく。それがわかった。全身全霊でやることより、全身全霊で抑えることの方が難しい。

 

四歩目で、水がこぼれた。

 

集中が、一瞬切れた。切れた瞬間に、出力が戻った。戻った分だけ、水が揺れた。

 

ルドルフは出発点に戻った。

 

また器を乗せ直した。今度は、もう少し前の段階から絞り込む。

床に踏み出す前から、すでに制御を始める。

 

一歩。二歩。三歩。四歩。

 

水がこぼれなかった。

 

五歩目で、また切れた。

 

それでも、さっきより一歩多かった。一歩だけ、多かった。

 

 

    ※

 

 

シリウスは十二回目で、初めて三歩続けて水をこぼさずに歩けた。

 

三歩目を踏み出して、こぼれなかったことに気づいて、四歩目を踏み出した。こぼれた。

 

でも、三歩は続いた。

 

「……ハ」

 

シリウスが短く笑った。笑い声というより、息が漏れた、という感じだった。

 

器を頭に乗せたまま、出発点に戻った。尾が、わずかに揺れていた。

揺れたことに、自分で気づいていなかった。

 

「あんた」

 

男が振り返った。

 

「今の三歩、見てたか?」

 

男は少し間を置いた。

 

「見ていた」

 

「どうだった」

 

また少し間を置いた。

 

「悪くない」

 

シリウスの尾が、また揺れた。

 

「そう」

 

それだけ言って、また出発点から歩き始めた。

 

ルドルフはそのやり取りを見ていた。

 

悪くない、という言葉だった。よくできた、でも、すごい、でも、なかった。

悪くない、だった。それでも、シリウスの尾が揺れた。そういう言葉だった、とルドルフは思った。

 

この男の「悪くない」は、ほかの者の「よくできた」に近い。

 

そのことを、ルドルフは静かに、自分の中に収めた。

 

 

    ※

 

 

昼前になって、男が外に出た。

 

三人は続けた。

 

続けた、というより——やめる理由がなかった。一歩ごとに何かが変わっていた。

最初と比べれば、変わっていた。床の音が、少しずつ小さくなっていた。

 

全員が失敗した一時間が、全員が少し変わった昼になっていた。

 

男が戻ってきた。

 

外套に雪がついていた。手に薪を抱えていた。腕に抱えた薪を、ストーブの傍に積んだ。

それから三人を見た。順番に、確かめるように見た。

 

「続けていたか」

 

「続けていた」とルドルフが答えた。

 

男は頷いた。それだけだった。褒めなかった。驚かなかった。

確認した事実を確かめた、それだけだった。

 

小屋の中に、また針の音が戻ってきた。

 

服を縫う音だった。規則的だった。急いでいなかった。

 

三人は、また器を頭に乗せた。

 

床の音が、また少しだけ小さくなった。

 

小さくなっていることが、今日の一つだった。

 

 

    ※

 

 

三日目の朝、シリウスは目を覚ました。

 

天井があった。節目がある。木目がある。

 

夢を見ていた気がした。霧の中にいた気がした。

でも、あの音は——昨日より、遠かった気がした。

 

昨日、器の水をこぼさずに歩けた。

その小さな事実が、霧の中の音を、ほんの一歩分だけ遠ざけてくれた気がした。

 

気のせいかもしれなかった。

 

でも、そういう気がした。

 

シリウスは天井を見たまま、脚を動かした。

 

動いた。

 

それだけが、三日目の朝の、確かな事実だった。




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