氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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追えば追うほど、腹が減る。
走らせるほど、肉は熱を帯びる。
追い詰めるほどに、血は甘く熟していく。
絶望が混じるほどに、脂は深く、重くなる。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
――最高の食べ頃を、私は知っている。


01-二.「走って」

その先で、風向きが変わった。

 

最初に気づいたのは、ラモーヌだった。

 

ほんの少し。頬に触れていた風が途切れて、次の瞬間、今までとは違う方向から冷たい空気が流れてきた。

 

一歩踏み出そうとしていた脚が止まる。

 

「……?」

 

鼻先を、何かが掠めた。匂いだった。

 

ラモーヌは眉を寄せる。もう一度、鼻からゆっくり息を吸った。

 

甘い。

 

それが最初の違和感だった。

 

甘いといっても、菓子のような匂いではない。メジロ邸の応接間に置かれていたクッキーとも。紅茶とも。庭で見つけた赤い木の実とも違う。

 

もっと重い。熟れすぎた果実が地面へ落ちて、何日もそのままになって、形を崩し始めた時のような、まとわりつく甘さ。

 

その下に、別の匂いがあった。

 

鉄。錆。あるいは、唇を切った時、口の中へ広がる味。

 

何の匂いなのか、言葉にはできなかった。

 

でも、嫌だった。

 

「ラモーヌ?」

 

前を歩いていたルドルフが振り返る。

 

「どうしたの?」

 

ラモーヌは答えなかった。答えられなかった。

 

胃の底が、きゅう、と縮んでいた。寒いわけではない。なのに、身体の奥だけが急に冷たくなった。

 

ポケットの中へ入れていた手が、知らないうちに強く握られている。指先が、何か柔らかいものに触れた。

 

拾った羽根だった。アルダンへ持って帰るつもりの。

 

そのことを思い出した瞬間。

 

帰りたい。

 

そう思った。理由よりも先に。帰りたい。応接間へ。屋敷へ。アルダンの部屋へ。あの窓の向こうへ。戻らなければいけない。

 

そう、身体の方が言っていた。

 

「……何か、匂うわ」

 

やっと、それだけ口にした。

 

シリウスが鼻を動かす。

 

「匂い?」

 

「ええ」

 

ルドルフも、少しだけ顎を上げた。三人の耳が、同時に動く。

 

風。木々。湿った土。腐葉土。樹皮。

 

それから、それらに混ざる、別のもの。

 

「……何だ、これ」

 

シリウスの声が低くなった。それまでとは違う声だった。ふざけてもいない。ルドルフへ噛みついてもいない。

 

「シリウスも?」

 

「嗅いだことねぇ」

 

短い返事だった。

 

ラモーヌは、シリウスを見る。

 

さっきまでなら。たとえ知らないものがあっても、知らないと言うことを嫌がりそうなシリウスが。今は、何の見栄も張らなかった。

 

知らない。その事実だけを、そのまま口にした。

 

それが、ラモーヌには怖かった。

 

ルドルフは、前を見ていた。

 

「……動物、かな」

 

「動物?」

 

「たぶん」

 

「なんのだよ」

 

「わからない」

 

今度は、ルドルフもそう言った。

 

わからない。三人とも。何もわからない。

 

なのに、身体だけが、もう何かを知っている。

 

ラモーヌは、自分の耳が伏せていることに気づいた。いつ動かしたのか、覚えていなかった。頭の両側へ、ぴたりと貼りつくほど倒れている。

 

戻そうとしてみる。少しだけ動く。でも、またすぐに伏せた。

 

まるで。小さくなれ。見つかるな。音を立てるな。そんな命令を、自分ではない誰かから受け取っているみたいだった。

 

「……静かだな」

 

シリウスが言った。その声さえ、大きすぎる気がした。

 

三人とも、周りを見る。

 

鳥の声がしなかった。

 

さっきまでは、少なくなっただけだった。遠くで鳴く鳥の声も。枝の上を動く、小さな気配も。葉を踏む、何かの音も。まだ、あった。

 

それが今は、ない。

 

風の音さえ、弱くなっている。聞こえるのは、自分たちの呼吸。服が擦れる音。誰かが、ごくりと唾を飲む音。

 

誰だったのか、わからなかった。

 

「……戻ろう」

 

シリウスが言った。今度は、迷わなかった。

 

「ルドルフ」

 

返事がない。

 

「おい、ルドルフ」

 

ルドルフは、前を見ていた。

 

「……何かいる」

 

「は?」

 

「前」

 

シリウスが振り向く。ラモーヌも。

 

見た。

 

何も、見えなかった。木。笹。倒木。暗い森。それだけ。

 

けれど、ルドルフはそこから目を外さない。

 

耳だけが、鋭く前を向いていた。さっきまでラモーヌと同じように伏せかけていたはずなのに。今は、何か一つの音を拾おうとするように、一点へ向いている。

 

「何がいるんだよ」

 

「わからない」

 

「見えたのか?」

 

「違う」

 

ルドルフの声も、小さい。

 

「音がした」

 

三人は黙る。何も聞こえない。

 

「どんな?」

 

シリウスが訊く。少し間があった。

 

「……枝」

 

ルドルフが答えた。

 

「折れた」

 

三人とも、前を見る。

 

静かだった。その静けさが、少しだけ続いた。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

長かった。

 

ラモーヌは、自分の脚が震えていることに気づいた。

 

寒いからだと思いたかった。でも違った。膝が、細かく揺れている。止めようとして、力を入れた。止まらない。そのことに気づいたら、もっと震えた。

 

走ることは、好きだった。

 

走れなかった頃がある。窓の中から、外を眺めていた頃が。それから、走れるようになった。自分の脚が動くことが、嬉しかった。

 

今日だって、さっきまで走っていた。ルドルフと。シリウスと。何度も。競争して。風を切って。笑っていた。

 

だから、脚というものは、動かそうと思えば動くものだと、そう思っていた。この時までは。

 

今。逃げたい。心の中では、はっきりそう思っている。

 

なのに、脚が一歩も動かなかった。前へも。後ろへも。震えているだけだった。

 

「……ラモーヌ」

 

シリウスが呼ぶ。ラモーヌは、ゆっくり顔を向けた。

 

そして、シリウスも同じなのだと、すぐにわかった。

 

耳が、深く伏せている。尾はほとんど動いていない。握った拳だけが、わずかに震えていた。

 

いつもなら、先に何か言う。何かに腹を立てる。誰かに噛みつく。そんなシリウスが、口を閉じている。

 

「……戻った方がいい」

 

ようやく出た声は、掠れていた。

 

ルドルフから、返事はなかった。

 

「ルドルフ」

 

もう一度。

 

その時だった。

 

前方の笹が、揺れた。

 

三人の身体が、同時に強張った。

 

大きな音ではなかった。がさり。ただ、それだけ。少しだけ笹が傾く。また静かになる。

 

「……鹿?」

 

誰かが言った。ルドルフだった。自分へ言い聞かせるような声だった。

 

シリウスは何も答えない。ラモーヌも。

 

がさ。

 

今度は、もう少し近い。

 

枝が、一本、ぱきりと折れた。

 

何かが、いる。そのことだけは、もう間違いなかった。

 

ラモーヌは、逃げようとした。本当に。右脚へ力を入れた。一歩、後ろへ下がろうとした。

 

でも、踵が土を擦っただけだった。

 

動けない。どうして。動いて。動いて。そう思うほど、脚が重くなっていく。

 

呼吸が浅くなる。肺へ空気が入らない。吸っている。それなのに、足りない。

 

シリウスの肩が上下している。ルドルフの背中も。三人とも、同じだった。

 

笹藪が、割れた。

 

今度は、はっきりと。

 

何かが、その向こうから出てきた。

 

最初に見えたのは、頭だった。低い位置。大きい。黒い。そう思った。

 

次に、肩。さらに、前脚。

 

一歩。前へ。影の中から、全身が出る。

 

その瞬間、三人の中で、それまで名前のなかったものに名前がついた。

 

熊。

 

「……ヒグマ」

 

ルドルフが言った。ほとんど、息だった。

 

シリウスが、横で息を呑む。

 

北海道にいれば、知らない動物ではない。絵で見たこともある。写真も。大人から話を聞いたことだってある。

 

エゾヒグマ。山へ入れば、出会う可能性がある。危険な野生動物。

 

知っている。知っているはずだった。

 

なのに、目の前にいるものと、自分たちが知っていた「ヒグマ」という言葉が、うまく重ならなかった。

 

大きかった。

 

それしか、最初は考えられなかった。三人の知っている大きいという言葉では、足りない。

 

立ち上がっているわけではない。四つ脚だった。それなのに、肩の位置が異様に高い。首から背中にかけて、盛り上がった肉がある。そこから太い前脚が地面へ伸びている。

 

一歩進む。脚が地面へ沈む。腐葉土が、押し潰される。

 

さっき、自分たちが面白がって踏んでいた、柔らかな地面。三人が足を置けば、少し沈むだけだった土が。その前脚の下では、深く窪んだ。

 

ルドルフの目が、そこへ落ちた。

 

また、熊が一歩進む。窪む。

 

それだけで、重いのだとわかった。途方もなく。

 

「……でかすぎるだろ」

 

シリウスが、呟いた。いつものような強がりは、どこにもなかった。事実を言っただけだった。

 

毛は、最初、黒く見えた。木の陰に入っていたからだ。

 

けれど、隙間から落ちる光が肩へ当たる。そこだけ、焦げ茶色に見えた。さらに首元には、灰色がかった毛も混じっている。

 

泥なのか。古い毛なのか。それすらわからない。

 

毛皮のところどころが、不自然に盛り上がっていた。

 

傷。古い傷跡。一つではない。何本も。何度も。身体のあちこちに残っている。

 

顔にもあった。片側の頬から、鼻の近くまで。毛の流れが途切れている。

 

だから、余計に、目が目立った。

 

濁った、暗い目。

 

ラモーヌは、それと目が合った。そう思った。本当に自分を見たのかは、わからない。

 

ただ、熊の頭が、三人の方へ向いた。

 

鼻先が上がる。鼻が動く。ひくり。もう一度。白い呼気が、ゆっくり吐き出される。

 

その時、匂いが急に濃くなった。

 

あれだ。ラモーヌは、わかった。

 

さっきの匂い。甘い。腐ったような。その奥の、金属の匂い。

 

あれは、この熊からしている。

 

そう思った瞬間、胃がひっくり返りそうになった。

 

「……っ」

 

口を押さえる。吐かなかった。

 

吐いたら、音がする。そんなことを、なぜか思った。

 

熊は、動かなかった。

 

数十メートル。間には、木もある。笹も。倒木も。三人が走れば、逃げられる。そう思える距離だった。

 

なのに、誰も動けなかった。

 

熊も、動かない。ただ、こちらを向いている。

 

そのことが、走ってくるより怖かった。

 

もし、唸ってくれたなら。吠えてくれたなら。前脚で土を掻いてくれたなら。怒っているのだとわかる。逃げろ、ということなのだとわかる。

 

でも、何もしない。鼻を動かし、三人の方を向き、そこに立っている。それだけ。

 

「……目、逸らすな」

 

シリウスが言った。小さな声だった。

 

「何?」

 

ルドルフが、熊を見たまま返す。

 

「知らねぇけど……こういう時、背中向けるの、ダメなんじゃなかったか」

 

シリウス自身も、自信はないらしい。

 

「熊に会ったら……走るなって……聞いたことある」

 

ルドルフも、同じように囁いた。

 

三人とも、大人から何かを聞いたことはあった。

 

熊に出会った時。走って逃げてはいけない。背中を見せてはいけない。慌ててはいけない。静かに離れる。

 

そう。そんな話だったはず。

 

でも、実際に目の前へ現れた時。覚えていたことは、ひどく曖昧だった。

 

そもそも、教えられた熊は、こんなに大きかっただろうか。

 

ラモーヌは、思い出せなかった。

 

「……ゆっくり」

 

ルドルフが言った。声が震えていた。それでも、言葉を出した。

 

「後ろへ」

 

シリウスが、小さく頷く。ラモーヌも。

 

一歩。下がる。

 

今度は、脚が動いた。ほんの少し。靴底が、腐葉土を押す。

 

熊は動かない。

 

もう一歩。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。三人で、一歩ずつ、下がる。音を立てないように。顔を逸らさないように。

 

熊は、見ている。少なくとも、そう感じた。

 

一歩。もう一歩。距離が、少しだけ開く。

 

「……いける」

 

シリウスが、息だけで言った。

 

ラモーヌも、そう思いたかった。

 

ゆっくり離れれば、戻れる。大丈夫。屋敷まで走る必要はない。距離を取って、そこから帰ればいい。

 

アルダンへ羽根を見せる。アサマに、少し遠くまで行きすぎたと謝る。スピードシンボリにも怒られる。

 

それで、終わる。終われる。

 

そう思った時。

 

ラモーヌの踵が、細い枝を踏んだ。

 

ぱき。

 

小さな音。本当に、小さな音だった。

 

三人の呼吸が、止まる。

 

熊の耳が、動いた。

 

そして、重心が、前へ移った。

 

ほんの少し。それだけだった。けれど、三人には、はっきりわかった。

 

それまで四本の脚へ均等に乗っていた巨大な身体が、前脚へ、少しだけ傾いた。頭が、わずかに低くなる。肩の筋肉が、毛皮の下で形を変えた。

 

シリウスの喉が、鳴った。

 

ラモーヌは、動けなくなった。また。脚が。

 

ルドルフも、止まっている。

 

熊が、一歩、前へ出た。

 

ず。土が沈む。

 

もう一歩。今度は、少しだけ速い。

 

ルドルフの顔から、何かが消えた。

 

さっきまで、「どうすればいいか」を考えていた顔。熊について知っていることを探していた顔。正しく行動しようとしていた顔。

 

それが、全部なくなった。

 

残ったのは、ただ、目の前にいる二人を見た、幼い少女の顔だった。

 

ラモーヌ。シリウス。二人を見る。それから、もう一度だけ、熊を見る。

 

「走って」

 

声は、細かった。掠れていた。その時のルドルフには、それが精一杯だった。

 

でも、届いた。三人の身体へ。

 

「走って!」

 

二度目は、叫んだ。

 

その瞬間、脚が動いた。

 

 

    *

 

 

最初の一歩を、誰が踏み出したのか。後になっても、三人とも覚えていなかった。

 

ただ、気づけば、走っていた。

 

振り返らない。方向も見ない。来た道かどうかさえ、考えない。ただ、あれから離れる。そのためだけに。

 

ルドルフが、一番前だった。

 

さっきまでの遊びとは、まるで違う走り方だった。足元を見る。木の根。石。倒木。一瞬だけ進路を決める。避ける。また前を見る。

 

その後ろへ、シリウスが食らいつく。

 

さっきまでなら、ルドルフの背中が前にあれば、抜きたいと思った。追いつきたいと思った。

 

今日は違う。

 

前にいてくれ。そう思った。初めてだった。ルドルフの背中が遠ざからないでほしいと思ったのは。

 

「ラモーヌ!」

 

シリウスが叫ぶ。返事はなかった。

 

「ラモーヌ!」

 

「いるわ!」

 

後ろから、声。

 

いる。それだけで、少しだけ身体が動いた。

 

三人。まだいる。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。いる。走っている。

 

それだけを、何度も確認した。

 

後ろから、音がした。

 

ドン、ではなかった。もっと鈍い音。湿った地面へ、重いものが落ちる音。

 

ず。

 

次。

 

ずん。

 

次。

 

規則的ではない。木を避けている。斜面を選んでいる。それでも、確実に、来る。

 

「っ……!」

 

シリウスが、振り返った。一瞬だけ。

 

見えた。木々の間。黒い塊。大きな頭。肩。

 

近い。

 

「前見て!」

 

ルドルフが叫ぶ。シリウスが顔を戻す。

 

直後。目の前に、木の根。

 

「うわっ!」

 

爪先が引っかかった。身体が、前へ投げ出される。肩から、地面へ、落ちる。

 

「シリウス!」

 

ルドルフが振り返った。ラモーヌも。

 

「来るな!」

 

シリウスが怒鳴った。

 

地面へ手をつく。立つ。膝が痛い。痛いどころではない。皮膚が擦れ、熱い。

 

でも、脚は動いた。

 

「走れ!」

 

今度は、シリウスが叫んだ。

 

三人がまた走る。

 

熊から逃げる時は、走ってはいけない。

 

さっき、自分たちでそう言った。覚えている。

 

でも、もう、そんなことはできなかった。走らなければ、追いつかれる。その事実だけが、すべてを上書きしていた。

 

ラモーヌのカーディガンが、枝へ引っかかった。身体が、一瞬後ろへ引かれる。

 

「っ!」

 

腕を振る。外れない。もう一度。

 

布が裂けた。びり。大きな音。袖口が破れる。冷たい空気が、腕へ触れる。枝で擦った場所が、熱かった。

 

けれど、痛いとは思わなかった。痛みを認識する場所が、身体の中に残っていなかった。

 

走る。ルドルフの背中。その向こうの木。地面。シリウス。音。匂い。それだけ。

 

ラモーヌは、後ろを見なかった。見る必要がなかった。

 

匂いがある。さっきより、濃い。

 

それで、わかった。近い。

 

「右!」

 

ルドルフが叫んだ。倒木。三人では越えにくい。右へ曲がる。そこには、細い木が密集している。

 

「こっち!」

 

ルドルフが身体を横へ滑らせる。一本目。二本目。枝が顔へ当たる。頬が切れた。熱い。それでも行く。

 

シリウスも。ラモーヌも。間を抜ける。

 

背後で、ばき、と太い音がした。

 

シリウスが、また振り返りそうになる。やめた。見たくなかった。

 

でも、次の音で、見てしまった。

 

熊が、細い木の間を、三人と同じように抜けようとはしていなかった。

 

肩を入れ、押し分ける。若い幹が、大きく撓む。一本が折れた。そのまま、進んでくる。

 

「嘘だろ……」

 

声が漏れた。

 

あの身体で、遅くない。速い。

 

森の中なのに。自分たちは、こんなにも走れるのに。

 

距離が、広がらない。

 

「もっと!」

 

ルドルフが叫んだ。脚へ力を入れる。

 

自分の脚なら、もっと速く走れる。ルドルフは、そう知っていた。庭で。道で。芝の上で。何度も。誰より速く、走ってきた。

 

だから、走ればいい。走れば離せる。

 

そう、思った。

 

一歩。二歩。三歩。加速。

 

その瞬間、木の枝が肩へぶつかった。

 

「っ!」

 

身体が揺れる。速度が落ちる。足元に、湿った葉。滑る。踏み直す。また根。跳ぶ。着地。石。避ける。

 

走路ではない。

 

ここには、自分が速く走るためのものが、何一つなかった。

 

逆だった。森の全部が、速く走ろうとする脚を、邪魔してくる。

 

曲がれ。避けろ。跳べ。潜れ。止まれ。また走れ。

 

三人の脚力が、そのまま速さにはならない。

 

そのことを、初めて、ルドルフは知った。

 

背後の熊は、違った。

 

無理に真っ直ぐ来ない。地面の悪い場所を避ける。太い木を回る。通れる場所を使う。時には、三人より大きく迂回している。

 

なのに、次に音がした時、距離は変わっていない。

 

「なんで……!」

 

ルドルフの声が、泣きそうに歪んだ。

 

どうして。自分たちは、こんなに速いのに。逃げられない。

 

わからない。理由なんて、この時の三人には、必要なかった。

 

必要なのは、逃げること。それだけだった。

 

「ルドルフ!」

 

シリウスが叫ぶ。

 

「先行きすぎんな!」

 

ルドルフが振り返る。シリウスとの距離。数歩。ラモーヌは、さらに後ろ。

 

一瞬、ルドルフの顔が迷った。

 

速く走れば。自分だけなら。もっと前へ行ける。

 

そんな考えが、頭のどこかを掠めた。

 

掠めただけだった。

 

すぐに、速度を落とす。

 

「ラモーヌ!」

 

「大丈夫!」

 

大丈夫ではない。ラモーヌ自身、わかっていた。息が、苦しい。喉が痛い。胸が焼ける。

 

でも、まだ走れる。だから、大丈夫。今は。そういう意味だった。

 

シリウスも速度を少し落とした。ルドルフと並ぶ。

 

「置いてくなよ」

 

「置いていかない」

 

「絶対だぞ」

 

「うん」

 

「ラモーヌもだ!」

 

「ええ」

 

三人の走る位置が、変わった。

 

ルドルフだけが前ではない。ルドルフとシリウスが、少し左右へ分かれる。ラモーヌが、その後ろ。枝があれば、前の二人が、どちらか安全な方を選ぶ。

 

「左!」

 

「こっち!」

 

「ラモーヌ!」

 

声。声。声。

 

それだけが、三人を繋いでいた。

 

後ろから、低い音がした。唸り声なのか。息なのか。わからない。

 

でも、三人とも、一段速くなった。

 

「くそっ!」

 

シリウスが、歯を食いしばる。

 

悔しかった。

 

怖い。それ以上に、何もできないことが、悔しかった。

 

ルドルフへ追いつくためなら、何度転んでも走れた。負ければ、次がある。追いつけなければ、もっと走ればいい。

 

でも、今は。

 

何に勝てばいい。どうすれば勝ちなのか。

 

わからない。一番速ければいいわけではない。あれより先に、どこかへ着けばいいわけでもない。

 

ゴールがない。

 

ただ、捕まらなければいい。

 

そんな走りを、シリウスは知らなかった。

 

「っ……!」

 

足がもつれそうになる。腕を振る。前へ。前へ。前へ。

 

ラモーヌは、二人とは違うことを考えていた。

 

匂い。最初から、ずっと、それだけ。

 

濃い。薄い。濃い。少し薄い。

 

風向きで変わる。距離でも変わる。どちらなのか、わからない。

 

でも、さっきより、一度、明らかに薄くなった。

 

「……離れてる」

 

声が漏れた。

 

「何!?」

 

シリウスが訊く。

 

「匂いが……少し」

 

「本当!?」

 

ルドルフ。

 

「たぶん!」

 

たぶん。それしか言えない。

 

でも、その一言で、二人の脚がもう一度動いた。

 

逃げられる。そう、思えた。ほんの少しだけ。

 

三人は、走った。さらに。木々の間を。上り。下り。避け。跳び。何度も。何度も。足を取られながら。それでも、走った。

 

やがて、背後の音が、変わった。

 

聞こえない。

 

「……え?」

 

シリウスが、最初に気づいた。

 

「音……」

 

ルドルフも、耳を動かす。走りながら、後ろへ意識を向ける。

 

何も、聞こえない。

 

さっきまで、あった。地面へ落ちる、重い足音。枝。笹。荒い呼吸。

 

それが、ない。

 

「止まった……?」

 

誰かが言った。

 

「わからない!」

 

ルドルフが返す。

 

「まだ走って!」

 

三人は、走った。

 

けれど、身体には、限界が近づいていた。

 

ルドルフの息が、喉に引っかかる。脚が、重い。

 

さっきまでは、恐怖が疲労を消していた。今、後ろの音がなくなったことで、身体が急に思い出してしまった。

 

疲れている。苦しい。痛い。寒い。全部。

 

「っ……」

 

ルドルフの速度が落ちる。シリウスも。ラモーヌも。

 

数歩、走る。歩く。また、走ろうとする。

 

無理だった。

 

「……待っ……」

 

シリウスが、木へ手をついた。

 

「少し……」

 

息。言葉にならない。

 

「少しだけ……」

 

ルドルフも、その場で止まった。膝へ、両手をつく。白い息が、何度も、何度も、地面へ落ちる。

 

ラモーヌは、二人より数歩先まで行って、止まった。振り返る。

 

「……音は?」

 

シリウスが訊く。

 

ルドルフが、耳を動かす。右。左。後ろ。

 

森。風。枝。

 

遠くで、ようやく、鳥が一度鳴いた。

 

「……聞こえない」

 

ルドルフが言った。

 

その言葉で、シリウスが木の幹へ背中を預けた。ずるずると、少しだけ腰が下がる。

 

「……逃げ、きれた?」

 

掠れた声。

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

ラモーヌは、二人を見る。

 

ルドルフの頬。細い傷がある。血が、少しだけ流れていた。本人は、まだ気づいていない。

 

シリウスの膝。服が破れている。土。血。手のひらにも、小さな擦り傷。

 

ラモーヌ自身の袖も、片方が裂けていた。腕が冷たい。

 

ポケットへ、反対の手を入れる。

 

羽根。まだある。少し、曲がっていた。でも、折れてはいない。

 

アルダンに、見せられる。

 

そのことを思ったら、急に、涙が出そうになった。

 

泣かなかった。

 

代わりに、鼻を動かした。

 

匂い。確認する。

 

湿った土。落ち葉。自分たちの汗。血。

 

それから、ほんの少し、あの甘さ。

 

ラモーヌの身体が、固まった。

 

もう一度、吸う。

 

ある。薄い。さっきより、ずっと薄い。

 

でも、ある。

 

「……」

 

口を開く。言おうとする。

 

まだいる。近くにいるかもしれない。逃げきれていないかもしれない。言わなければ。

 

そう思う。

 

「ラモーヌ?」

 

ルドルフが、こちらを見る。

 

頬の傷に、ようやく気づいたらしい。指で触れる。赤くなる。

 

「……血」

 

驚いた顔。ひどく、幼い顔だった。

 

ほんの少し前まで、何でもできると思っていた子供が。自分の頬から出た血を、初めて見るみたいな顔。

 

シリウスは、まだ木へ寄りかかっている。でも、さっきより、呼吸は落ち着いている。

 

耳は、伏せたまま。尾も、動かない。

 

それでも。

 

「逃げきれた?」

 

もう一度。さっきより少しだけ、期待するように言った。

 

ラモーヌは、二人を見た。

 

そして、言えなくなった。

 

言ったら、また、あの顔に戻る。熊を見た時の。三人とも、言葉を失った、あの顔へ。

 

だから、言わなかった。

 

「……わからないわ」

 

嘘ではなかった。

 

本当に、わからない。匂いがするからといって、近くにいるとは限らない。風に残っているだけかもしれない。自分たちの服へ、匂いが移っただけかもしれない。

 

そう、思おうとした。

 

「少し休んだら」

 

ルドルフが言った。まだ息が荒い。

 

「戻ろう」

 

戻る。

 

その言葉に、三人とも、少しだけ表情が緩んだ。

 

屋敷へ。応接間へ。アサマへ。スピードシンボリへ。アルダンへ。

 

帰れる。帰らなければ。

 

シリウスが、ようやく腰を上げる。

 

「怒られるな」

 

「……うん」

 

ルドルフが答える。

 

「相当な」

 

「うん」

 

「お前のせいだからな」

 

少しだけ、いつもの声だった。

 

ルドルフも、ほんの少しだけ、笑った。

 

「それについては……」

 

反論しようとして、やめた。

 

「ごめん」

 

シリウスが、目を丸くした。ルドルフが、こんなに素直に謝ると思っていなかった。

 

「……帰ってから言え」

 

「うん」

 

ラモーヌは、二人を見ていた。

 

いつもの二人へ、少しだけ戻っている。

 

だから、やっぱり、言えなかった。

 

鼻を動かす。

 

まだ、ある。

 

甘い匂い。ほんのわずかに、森の空気へ混じっている。薄くなっただけで、消えてはいなかった。

 

三人の中で、そのことを知っているのは、ラモーヌだけだった。

 

そして、それが何を意味しているのか、ラモーヌ自身にも、まだわからなかった。




2026/10/05
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