氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
秋が終わる。山が眠りに就く前の、最後の匂いがする。
若い。柔らかい。何も知らないものの匂いだ。
近づいてくる。
腹が、減った。
声がする。笑い声だ。無防備な、屈託のない声だ。
境界線を、越えてくる。
腹が、減った。
いい匂いだ。
その日は、メジロアルダンがいなかった。いつもはラモーヌと一緒にいることが多い、あの子が。
朝から少し熱っぽいと言っていた。大事ではないが、念のため家で休ませることにした。ラモーヌは出かける前に妹の部屋を覗いた。布団の中からアルダンが手を振った。「お土産話、聞かせてね」と言っていた。
外を、一緒に見ていた頃のことを、ふと思った。走れなかった頃。二人で室内に並んで、窓の向こうを眺めていた。あの頃と今は、違う。今は走れる。走れるから、今日はここにいる。アルダンは、まだ布団の中にいる。
応接間に、午後の光が差し込んでいた。
銀のティーポットから湯気が立っていた。菓子皿に、クッキーが並んでいる。アサマが用意させたものだった。シンボリ家から二人が来る日は、いつもこうして少し賑やかになる。
ラモーヌはカップを両手で包みながら、窓の外を見ていた。庭の向こうに、防風林のエゾマツが並んでいる。その奥は、見えない。
「ラモーヌ、ルドルフが話しかけているわよ」
シリウスが言った。
「……ごめんなさい」
「丘の向こうに何があるか、気にならない?」
ルドルフがもう一度言った。目が光っていた。こういう目をする時のルドルフは、止まらない。ラモーヌはなんとなく、そう知っていた。
「さあ」
廊下の棚に、新聞が畳まれて置いてあった。朝、使用人が出しておいたものだろう。ラモーヌの目が、その紙面の端に触れた。
——特定個体による被害、今季も——
文字の意味を読み取る前に、ルドルフの声が被さった。
「ねえ、少しだけ外に出てみましょう。すぐ戻るから」
ラモーヌはカップを置いた。クッキーが一枚、皿の上に残ったままだった。
*
応接間に、子供たちの笑い声が届かなくなったのは、それからしばらく後のことだった。
スピードシンボリは窓の外に目をやった。庭を駆け回る三人の姿が、防風林の陰に消えていくところだった。
少し騒がしかった。はしゃぎすぎだとも思った。
でも——止めなかった。
あの子たちがああして走り回っている声を聞いていると、何か穏やかなものが胸の底に落ちてくる気がした。自分がまだ現役だった頃の何かに、似ていた。それが何かは、うまく言葉にできなかった。ただ、止めなかった。
アサマがティーポットを持ち上げた。「お茶、もう一杯いかがですか」
スピードシンボリは頷いた。
庭の向こうで、声が遠くなっていった。
やがて、聞こえなくなった。
二人は、気づかなかった。
*
その日の午後は、どこまでも穏やかだった。
メジロ家の広大な敷地に、秋の光が均等に落ちていた。剪定の行き届いた生け垣が、西日を受けてわずかに金色を帯びている。庭師が丁寧に均した砂利道に、三人分の足跡が続いていた。軽い足跡だった。急いでいない。遊んでいる子供の、気ままな歩幅だった。
ラモーヌはその足跡を、少し遅れてなぞるように歩いていた。
薄手のカーディガンの袖を、両手で引っ張りながら。特に寒いわけではなかった。ただ、そうする癖があった。考えごとをする時、あるいは何も考えていない時。袖口を指先で引っ張る、それだけのことが、なんとなく落ち着いた。
前を行くルドルフが、振り返った。
秋物のワンピース姿だった。丈が少し短くて、走り回るたびに裾が翻る。メジロ家の応接間で見る時のような、きちんとした格好ではなかった。逆立った癖毛が、午後の光の中で揺れていた。何かに向かって歩いている時のルドルフの顔は、いつも同じだった。前を向いて、確信を持って、止まらない。その目だけが、今日はいつもより少し、獰猛だった。
「もう少しだけ行ってみましょう。絶対に、あの丘の向こうには誰も知らない景色があるわ」
そう思わない、とラモーヌに目を向けた。
「……さあ」
ラモーヌは答えた。
そう思わない、と言いたかったわけでも、そう思う、と言いたかったわけでもなかった。ただ、ルドルフが前を向いている時に、その歩みを止める言葉を持っていなかった。
それに——走ること自体は、好きだった。
土を蹴る感触。風が頬を叩く感覚。枝をかわす瞬間の小さな判断。大人たちの目が届かない場所に来たという、緊張感にも似た高揚。それだけで、今この瞬間は十分だった。だからラモーヌは止まらなかった。止まる理由を、まだ持っていなかった。
ただ、この匂いだけは、少し気になった。
湿った土と、腐りかけた落ち葉の層。その奥から漂う、何か獣めいた気配。それが何かはわからなかったし、わからないまま、ラモーヌは次の一歩を踏み出した。
シリウスが、また後ろを振り返った。
今日で三度目だった。最初に振り返ったのは、生け垣の角を曲がった時。次は、庭師が手を入れた低木の列が途切れた辺り。そして今、防風林のエゾマツが急に密になり始めたこの場所で。
ラモーヌは横目で、そのシリウスの顔を見た。
いつもの顔ではなかった。ルドルフを追いかけていく時の、あの揺るぎない顔ではなかった。何かを測っている。何かを抑えている。そういう顔だった。シリウスがああいう顔をする時、たいていシリウスの方が正しい。ラモーヌはなんとなく、そう思っていた。
メジロ家の屋敷の輪郭が、もうどこにも見えなかった。
いつの間にか消えていた。防風林の木が密集して、来た方角がわからなくなっている。空を見上げると、葉の隙間から覗く青がだいぶ狭くなっていた。日が傾き始めている。
「……ルドルフ」
シリウスが名前だけ呼んだ。続きが出てこなかった。
引き返そう、という言葉は、言おうと思えば言えたはずだ。でも言えなかった。何と言えばいいか。匂いが変だから、と言えるか。なんとなく嫌な感じがするから、と言えるか。そんな理由で、ルドルフの確信に満ちた歩みを止められる気がしなかった。
「大丈夫よ。私たちの脚なら、帰りなんてすぐだもの」
ルドルフは笑った。根拠のある笑い方だった。実際、今まで脚力で困ったことなど一度もなかった。広い庭を何周しても疲れない。少し遠い親戚の家まで走っていっても平気だった。この「力」を疑う理由が、ルドルフにはまだなかった。
その言葉を、シリウスは信じた。
信じたかったからではない。ただ——反論の言葉を、持っていなかった。
ラモーヌは、二人のやりとりを聞きながら、足元の地面を見ていた。
変わっていた。
メジロ家の庭師が手を入れた整地の名残は、もうどこにもない。代わりに、踏むたびに沈む腐葉土。剥き出しの木の根。苔むした石。整備された自然と、整備されていない自然の境界を、三人はとっくに越えていた。越えた瞬間に気づけなかったのは、その変化があまりにも少しずつだったからだ。一歩ごとに、ほんの少しずつ。砂利から土へ。土から腐葉土へ。庭師の手が届く場所から、届かない場所へ。気づいた時には、もう向こう側にいた。
ルドルフの革靴が、腐葉土を踏む音が変わっていた。
来た道では、パリ、パリ、と小気味いい音がした。その音が楽しくて、ルドルフは少しわざとらしく踵を踏み下ろしながら歩いていた。今は違う。湿ってずっしりと沈む音になっていた。踵が土に飲み込まれて、音を吸い取られていく。
ルドルフは気づいていないのだろう、とラモーヌは思った。
踵の音が変わったことに。来た道との違いに。後ろを振り返るシリウスの顔が、回を追うごとに険しくなっていることに。ルドルフは前を向いている。前だけを向いている。それがシンボリルドルフというウマ娘で、それがここまで三人を連れてきた理由で、そして今この瞬間、ラモーヌには止める言葉がなかった。
三人の呼気が、白く乱れ始めた。
気温が下がっている。ほんの少し前まではそうでもなかったのに、木の密度が増した途端、空気の質が変わった。湿気が重く、肌に貼りつく。ラモーヌがカーディガンの前を合わせた。シリウスが外套の襟を立てた。
ラモーヌの耳が、ほんの少し動いた。
音がない。
来た道には確かにあったはずの音が、ここにはなかった。鳥の声がない。虫の気配がない。木の葉が風で擦れる音も、遠くの川の音も、全部、この場所だけすっぽりと抜け落ちていた。最初から、ここには何もなかったわけではないはずだ。三人が入ってくるより前には、何かがあったはずだ。それが今はない。
なぜ、ないのか。
動物がいなくなる時、それには理由がある。捕食者が来た時。あるいは——もっと大きな何かが来た時。ラモーヌはそれを知識として持っていたわけではない。ただ、身体の奥の、言葉より古い場所が、そう言っていた。
言えなかった。言葉にならなかった。
「……ルドルフ」
ラモーヌが呼んだ。
「なあに」
「静かね、ここ」
ルドルフは数歩先で立ち止まり、耳を澄ませた。確かに静かだった。でも、それが何を意味するか、この時の彼女にはまだわからなかった。
「静かな方が、素敵な景色がありそうじゃない」
シリウスが小さく舌打ちをした。聞こえているかどうか、ルドルフは何も言わなかった。ただ、また歩き始めた。
ラモーヌは言わなかった言葉を、喉の奥に残したまま、一歩踏み出した。
その匂いが来たのは、その時だった。
湿った土でも、腐葉土でも、エゾマツの樹脂でもない。もっと重く、粘りつくような何か。ラモーヌは立ち止まって、もう一度鼻を動かした。風向きが変わった瞬間だけ、濃くなった。また薄れた。でも消えなかった。
甘かった。
それが最初の違和感だった。獣の体臭というのは、もっと酸く、もっと生臭いものだとラモーヌは思っていた。でもこの匂いは、その下に甘さがある。熟れすぎた果実が腐り始める時の、あの甘ったるさに似ていた。ただし、果実の匂いではない。もっと重く、もっと粘りつく。そしてその甘さの奥に、錆びた金属のような、口の中に広がる金気が混じっていた。
何の匂いか、言葉が出てこなかった。
ただ、胃の底が、冷えた。
「ねえ、ルドルフ」
シリウスが言った。今度は呼びかけではなく、立ち止まりながら言った。
「これ以上は、行かない方がいい」
ルドルフが振り返った。シリウスの顔を見た。いつもの不遜な顔ではなかった。引き締まった、真剣な顔だった。こんな顔をシリウスがするのを、ルドルフはほとんど見たことがなかった。
「どうして」
「なんとなく」
「なんとなく、じゃ理由にならないわ」
「理由がなくても、嫌な感じがする時は、嫌なことが起きる感じがする」
シリウスは言い切った。いつもより低い声だった。
ラモーヌはシリウスの横顔を見た。
本気だった。いつも飄々としているシリウスが、今は一点を見据えたまま動かない。その目が、ルドルフの確信に真正面からぶつかっていた。こういう時のシリウスを、ラモーヌは信用していた。根拠がなくても、シリウスが本気でそう思っているなら、たいていそうなのだ。
でも、ラモーヌには声が出なかった。
匂いのことを言えばよかった。音がないことを言えばよかった。シリウスの言葉を補強する材料は、自分の中にあった。でも、それを言葉にした瞬間に何かが確定する気がして、口が動かなかった。
ルドルフは少し、黙った。シリウスの言葉を聞いていた。聞いて、考えた。考えながら、自分の耳が静寂を確かめているのがわかった。確かに静かだった。静かすぎた。来た道の静けさとは、質が違う。
でも——。
「もう少しだけ。丘の手前まで行ったら、戻りましょう」
シリウスは何も言わなかった。
言えなかった、というより——言い切れなかった。何かがある、という確信はあった。でも、それが何なのか、言葉にできなかった。言葉にできないものを、根拠として差し出せなかった。
一歩、ルドルフの後を追った。
ラモーヌも、続いた。
匂いは、まだあった。薄れてもいなかった。むしろ、少しずつ、濃くなっていた。甘さが増していた。甘さが増すほど、その下の金気も濃くなっていた。二つが混ざり合って、喉の奥に張り付くような感覚があった。
前を行くルドルフの背中を、ラモーヌは見ていた。
振り返らない背中だった。ためらいのない背中だった。この背中が今日ここまで三人を連れてきた。この背中が、どこまでも続く万能の翼だと信じている。そしてラモーヌには、その背中を止める言葉が、まだなかった。
木々の間隔がさらに狭まった。空の青が、完全に見えなくなった。頭上を覆うエゾマツの枝が、灰色の天井のように折り重なっている。光が届かなくなっていた。足元だけが薄暗く、奥へ奥へと続いている。どこまで続いているのか、見えなかった。
風が、止まった。
完全に止まった。木の梢も揺れなかった。カーディガンの袖口も揺れなかった。世界が息を止めたような、そういう止まり方だった。
三人の脚は、止まらなかった。
前を向いて疑わないルドルフの背中と、何度も振り返るシリウスの逡巡。その間で沈黙するしかない自分の足が、重い腐葉土を踏み越えていく。
好奇心というのは不思議なもので、「嫌な感じ」と「先を見たい気持ち」が同居できてしまう。ルドルフの確信が、シリウスの逡巡が、ラモーヌの無関心が——それぞれの形で、三人を同じ方向へと引き寄せていた。
その境界線を、彼女たちは自分の足で越えた。
誰かに押されたわけでも、引き込まれたわけでもない。
それが後になって、一番堪えることになる。
【舞台設定について】
本作の幼少期エピソードは、三人がまだ七〜八歳頃、トレセン学園入学前の時期を舞台としています。
スピードシンボリは現役を退いて間もない頃。引退直後の鋭さと若さをまだ身に纏ったまま、親交の深いメジロ家をシンボリ家の二人——幼いルドルフとシリウスを伴って訪れていました。
メジロ家からは、年の近いラモーヌが同席しています。
正直、それぞれの言葉遣い(台詞回し)には自信なんてありません。
ですが、読者の方々に少しでも多く楽しんでいただければ幸いです。