氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
走らせるほど、肉は熱を帯びる。
追い詰めるほどに、血は甘く熟していく。
絶望が混じるほどに、脂は深く、重くなる。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
――最高の食べ頃を、私は知っている。
その先で、風向きが変わった。
最初に気づいたのは、ラモーヌだった。
ほんの少し。頬に触れていた風が途切れて、次の瞬間、今までとは違う方向から冷たい空気が流れてきた。
一歩踏み出そうとしていた脚が止まる。
「……?」
鼻先を、何かが掠めた。匂いだった。
ラモーヌは眉を寄せる。もう一度、鼻からゆっくり息を吸った。
甘い。
それが最初の違和感だった。
甘いといっても、菓子のような匂いではない。メジロ邸の応接間に置かれていたクッキーとも。紅茶とも。庭で見つけた赤い木の実とも違う。
もっと重い。熟れすぎた果実が地面へ落ちて、何日もそのままになって、形を崩し始めた時のような、まとわりつく甘さ。
その下に、別の匂いがあった。
鉄。錆。あるいは、唇を切った時、口の中へ広がる味。
何の匂いなのか、言葉にはできなかった。
でも、嫌だった。
「ラモーヌ?」
前を歩いていたルドルフが振り返る。
「どうしたの?」
ラモーヌは答えなかった。答えられなかった。
胃の底が、きゅう、と縮んでいた。寒いわけではない。なのに、身体の奥だけが急に冷たくなった。
ポケットの中へ入れていた手が、知らないうちに強く握られている。指先が、何か柔らかいものに触れた。
拾った羽根だった。アルダンへ持って帰るつもりの。
そのことを思い出した瞬間。
帰りたい。
そう思った。理由よりも先に。帰りたい。応接間へ。屋敷へ。アルダンの部屋へ。あの窓の向こうへ。戻らなければいけない。
そう、身体の方が言っていた。
「……何か、匂うわ」
やっと、それだけ口にした。
シリウスが鼻を動かす。
「匂い?」
「ええ」
ルドルフも、少しだけ顎を上げた。三人の耳が、同時に動く。
風。木々。湿った土。腐葉土。樹皮。
それから、それらに混ざる、別のもの。
「……何だ、これ」
シリウスの声が低くなった。それまでとは違う声だった。ふざけてもいない。ルドルフへ噛みついてもいない。
「シリウスも?」
「嗅いだことねぇ」
短い返事だった。
ラモーヌは、シリウスを見る。
さっきまでなら。たとえ知らないものがあっても、知らないと言うことを嫌がりそうなシリウスが。今は、何の見栄も張らなかった。
知らない。その事実だけを、そのまま口にした。
それが、ラモーヌには怖かった。
ルドルフは、前を見ていた。
「……動物、かな」
「動物?」
「たぶん」
「なんのだよ」
「わからない」
今度は、ルドルフもそう言った。
わからない。三人とも。何もわからない。
なのに、身体だけが、もう何かを知っている。
ラモーヌは、自分の耳が伏せていることに気づいた。いつ動かしたのか、覚えていなかった。頭の両側へ、ぴたりと貼りつくほど倒れている。
戻そうとしてみる。少しだけ動く。でも、またすぐに伏せた。
まるで。小さくなれ。見つかるな。音を立てるな。そんな命令を、自分ではない誰かから受け取っているみたいだった。
「……静かだな」
シリウスが言った。その声さえ、大きすぎる気がした。
三人とも、周りを見る。
鳥の声がしなかった。
さっきまでは、少なくなっただけだった。遠くで鳴く鳥の声も。枝の上を動く、小さな気配も。葉を踏む、何かの音も。まだ、あった。
それが今は、ない。
風の音さえ、弱くなっている。聞こえるのは、自分たちの呼吸。服が擦れる音。誰かが、ごくりと唾を飲む音。
誰だったのか、わからなかった。
「……戻ろう」
シリウスが言った。今度は、迷わなかった。
「ルドルフ」
返事がない。
「おい、ルドルフ」
ルドルフは、前を見ていた。
「……何かいる」
「は?」
「前」
シリウスが振り向く。ラモーヌも。
見た。
何も、見えなかった。木。笹。倒木。暗い森。それだけ。
けれど、ルドルフはそこから目を外さない。
耳だけが、鋭く前を向いていた。さっきまでラモーヌと同じように伏せかけていたはずなのに。今は、何か一つの音を拾おうとするように、一点へ向いている。
「何がいるんだよ」
「わからない」
「見えたのか?」
「違う」
ルドルフの声も、小さい。
「音がした」
三人は黙る。何も聞こえない。
「どんな?」
シリウスが訊く。少し間があった。
「……枝」
ルドルフが答えた。
「折れた」
三人とも、前を見る。
静かだった。その静けさが、少しだけ続いた。
一秒。
二秒。
三秒。
長かった。
ラモーヌは、自分の脚が震えていることに気づいた。
寒いからだと思いたかった。でも違った。膝が、細かく揺れている。止めようとして、力を入れた。止まらない。そのことに気づいたら、もっと震えた。
走ることは、好きだった。
走れなかった頃がある。窓の中から、外を眺めていた頃が。それから、走れるようになった。自分の脚が動くことが、嬉しかった。
今日だって、さっきまで走っていた。ルドルフと。シリウスと。何度も。競争して。風を切って。笑っていた。
だから、脚というものは、動かそうと思えば動くものだと、そう思っていた。この時までは。
今。逃げたい。心の中では、はっきりそう思っている。
なのに、脚が一歩も動かなかった。前へも。後ろへも。震えているだけだった。
「……ラモーヌ」
シリウスが呼ぶ。ラモーヌは、ゆっくり顔を向けた。
そして、シリウスも同じなのだと、すぐにわかった。
耳が、深く伏せている。尾はほとんど動いていない。握った拳だけが、わずかに震えていた。
いつもなら、先に何か言う。何かに腹を立てる。誰かに噛みつく。そんなシリウスが、口を閉じている。
「……戻った方がいい」
ようやく出た声は、掠れていた。
ルドルフから、返事はなかった。
「ルドルフ」
もう一度。
その時だった。
前方の笹が、揺れた。
三人の身体が、同時に強張った。
大きな音ではなかった。がさり。ただ、それだけ。少しだけ笹が傾く。また静かになる。
「……鹿?」
誰かが言った。ルドルフだった。自分へ言い聞かせるような声だった。
シリウスは何も答えない。ラモーヌも。
がさ。
今度は、もう少し近い。
枝が、一本、ぱきりと折れた。
何かが、いる。そのことだけは、もう間違いなかった。
ラモーヌは、逃げようとした。本当に。右脚へ力を入れた。一歩、後ろへ下がろうとした。
でも、踵が土を擦っただけだった。
動けない。どうして。動いて。動いて。そう思うほど、脚が重くなっていく。
呼吸が浅くなる。肺へ空気が入らない。吸っている。それなのに、足りない。
シリウスの肩が上下している。ルドルフの背中も。三人とも、同じだった。
笹藪が、割れた。
今度は、はっきりと。
何かが、その向こうから出てきた。
最初に見えたのは、頭だった。低い位置。大きい。黒い。そう思った。
次に、肩。さらに、前脚。
一歩。前へ。影の中から、全身が出る。
その瞬間、三人の中で、それまで名前のなかったものに名前がついた。
熊。
「……ヒグマ」
ルドルフが言った。ほとんど、息だった。
シリウスが、横で息を呑む。
北海道にいれば、知らない動物ではない。絵で見たこともある。写真も。大人から話を聞いたことだってある。
エゾヒグマ。山へ入れば、出会う可能性がある。危険な野生動物。
知っている。知っているはずだった。
なのに、目の前にいるものと、自分たちが知っていた「ヒグマ」という言葉が、うまく重ならなかった。
大きかった。
それしか、最初は考えられなかった。三人の知っている大きいという言葉では、足りない。
立ち上がっているわけではない。四つ脚だった。それなのに、肩の位置が異様に高い。首から背中にかけて、盛り上がった肉がある。そこから太い前脚が地面へ伸びている。
一歩進む。脚が地面へ沈む。腐葉土が、押し潰される。
さっき、自分たちが面白がって踏んでいた、柔らかな地面。三人が足を置けば、少し沈むだけだった土が。その前脚の下では、深く窪んだ。
ルドルフの目が、そこへ落ちた。
また、熊が一歩進む。窪む。
それだけで、重いのだとわかった。途方もなく。
「……でかすぎるだろ」
シリウスが、呟いた。いつものような強がりは、どこにもなかった。事実を言っただけだった。
毛は、最初、黒く見えた。木の陰に入っていたからだ。
けれど、隙間から落ちる光が肩へ当たる。そこだけ、焦げ茶色に見えた。さらに首元には、灰色がかった毛も混じっている。
泥なのか。古い毛なのか。それすらわからない。
毛皮のところどころが、不自然に盛り上がっていた。
傷。古い傷跡。一つではない。何本も。何度も。身体のあちこちに残っている。
顔にもあった。片側の頬から、鼻の近くまで。毛の流れが途切れている。
だから、余計に、目が目立った。
濁った、暗い目。
ラモーヌは、それと目が合った。そう思った。本当に自分を見たのかは、わからない。
ただ、熊の頭が、三人の方へ向いた。
鼻先が上がる。鼻が動く。ひくり。もう一度。白い呼気が、ゆっくり吐き出される。
その時、匂いが急に濃くなった。
あれだ。ラモーヌは、わかった。
さっきの匂い。甘い。腐ったような。その奥の、金属の匂い。
あれは、この熊からしている。
そう思った瞬間、胃がひっくり返りそうになった。
「……っ」
口を押さえる。吐かなかった。
吐いたら、音がする。そんなことを、なぜか思った。
熊は、動かなかった。
数十メートル。間には、木もある。笹も。倒木も。三人が走れば、逃げられる。そう思える距離だった。
なのに、誰も動けなかった。
熊も、動かない。ただ、こちらを向いている。
そのことが、走ってくるより怖かった。
もし、唸ってくれたなら。吠えてくれたなら。前脚で土を掻いてくれたなら。怒っているのだとわかる。逃げろ、ということなのだとわかる。
でも、何もしない。鼻を動かし、三人の方を向き、そこに立っている。それだけ。
「……目、逸らすな」
シリウスが言った。小さな声だった。
「何?」
ルドルフが、熊を見たまま返す。
「知らねぇけど……こういう時、背中向けるの、ダメなんじゃなかったか」
シリウス自身も、自信はないらしい。
「熊に会ったら……走るなって……聞いたことある」
ルドルフも、同じように囁いた。
三人とも、大人から何かを聞いたことはあった。
熊に出会った時。走って逃げてはいけない。背中を見せてはいけない。慌ててはいけない。静かに離れる。
そう。そんな話だったはず。
でも、実際に目の前へ現れた時。覚えていたことは、ひどく曖昧だった。
そもそも、教えられた熊は、こんなに大きかっただろうか。
ラモーヌは、思い出せなかった。
「……ゆっくり」
ルドルフが言った。声が震えていた。それでも、言葉を出した。
「後ろへ」
シリウスが、小さく頷く。ラモーヌも。
一歩。下がる。
今度は、脚が動いた。ほんの少し。靴底が、腐葉土を押す。
熊は動かない。
もう一歩。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。三人で、一歩ずつ、下がる。音を立てないように。顔を逸らさないように。
熊は、見ている。少なくとも、そう感じた。
一歩。もう一歩。距離が、少しだけ開く。
「……いける」
シリウスが、息だけで言った。
ラモーヌも、そう思いたかった。
ゆっくり離れれば、戻れる。大丈夫。屋敷まで走る必要はない。距離を取って、そこから帰ればいい。
アルダンへ羽根を見せる。アサマに、少し遠くまで行きすぎたと謝る。スピードシンボリにも怒られる。
それで、終わる。終われる。
そう思った時。
ラモーヌの踵が、細い枝を踏んだ。
ぱき。
小さな音。本当に、小さな音だった。
三人の呼吸が、止まる。
熊の耳が、動いた。
そして、重心が、前へ移った。
ほんの少し。それだけだった。けれど、三人には、はっきりわかった。
それまで四本の脚へ均等に乗っていた巨大な身体が、前脚へ、少しだけ傾いた。頭が、わずかに低くなる。肩の筋肉が、毛皮の下で形を変えた。
シリウスの喉が、鳴った。
ラモーヌは、動けなくなった。また。脚が。
ルドルフも、止まっている。
熊が、一歩、前へ出た。
ず。土が沈む。
もう一歩。今度は、少しだけ速い。
ルドルフの顔から、何かが消えた。
さっきまで、「どうすればいいか」を考えていた顔。熊について知っていることを探していた顔。正しく行動しようとしていた顔。
それが、全部なくなった。
残ったのは、ただ、目の前にいる二人を見た、幼い少女の顔だった。
ラモーヌ。シリウス。二人を見る。それから、もう一度だけ、熊を見る。
「走って」
声は、細かった。掠れていた。その時のルドルフには、それが精一杯だった。
でも、届いた。三人の身体へ。
「走って!」
二度目は、叫んだ。
その瞬間、脚が動いた。
*
最初の一歩を、誰が踏み出したのか。後になっても、三人とも覚えていなかった。
ただ、気づけば、走っていた。
振り返らない。方向も見ない。来た道かどうかさえ、考えない。ただ、あれから離れる。そのためだけに。
ルドルフが、一番前だった。
さっきまでの遊びとは、まるで違う走り方だった。足元を見る。木の根。石。倒木。一瞬だけ進路を決める。避ける。また前を見る。
その後ろへ、シリウスが食らいつく。
さっきまでなら、ルドルフの背中が前にあれば、抜きたいと思った。追いつきたいと思った。
今日は違う。
前にいてくれ。そう思った。初めてだった。ルドルフの背中が遠ざからないでほしいと思ったのは。
「ラモーヌ!」
シリウスが叫ぶ。返事はなかった。
「ラモーヌ!」
「いるわ!」
後ろから、声。
いる。それだけで、少しだけ身体が動いた。
三人。まだいる。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。いる。走っている。
それだけを、何度も確認した。
後ろから、音がした。
ドン、ではなかった。もっと鈍い音。湿った地面へ、重いものが落ちる音。
ず。
次。
ずん。
次。
規則的ではない。木を避けている。斜面を選んでいる。それでも、確実に、来る。
「っ……!」
シリウスが、振り返った。一瞬だけ。
見えた。木々の間。黒い塊。大きな頭。肩。
近い。
「前見て!」
ルドルフが叫ぶ。シリウスが顔を戻す。
直後。目の前に、木の根。
「うわっ!」
爪先が引っかかった。身体が、前へ投げ出される。肩から、地面へ、落ちる。
「シリウス!」
ルドルフが振り返った。ラモーヌも。
「来るな!」
シリウスが怒鳴った。
地面へ手をつく。立つ。膝が痛い。痛いどころではない。皮膚が擦れ、熱い。
でも、脚は動いた。
「走れ!」
今度は、シリウスが叫んだ。
三人がまた走る。
熊から逃げる時は、走ってはいけない。
さっき、自分たちでそう言った。覚えている。
でも、もう、そんなことはできなかった。走らなければ、追いつかれる。その事実だけが、すべてを上書きしていた。
ラモーヌのカーディガンが、枝へ引っかかった。身体が、一瞬後ろへ引かれる。
「っ!」
腕を振る。外れない。もう一度。
布が裂けた。びり。大きな音。袖口が破れる。冷たい空気が、腕へ触れる。枝で擦った場所が、熱かった。
けれど、痛いとは思わなかった。痛みを認識する場所が、身体の中に残っていなかった。
走る。ルドルフの背中。その向こうの木。地面。シリウス。音。匂い。それだけ。
ラモーヌは、後ろを見なかった。見る必要がなかった。
匂いがある。さっきより、濃い。
それで、わかった。近い。
「右!」
ルドルフが叫んだ。倒木。三人では越えにくい。右へ曲がる。そこには、細い木が密集している。
「こっち!」
ルドルフが身体を横へ滑らせる。一本目。二本目。枝が顔へ当たる。頬が切れた。熱い。それでも行く。
シリウスも。ラモーヌも。間を抜ける。
背後で、ばき、と太い音がした。
シリウスが、また振り返りそうになる。やめた。見たくなかった。
でも、次の音で、見てしまった。
熊が、細い木の間を、三人と同じように抜けようとはしていなかった。
肩を入れ、押し分ける。若い幹が、大きく撓む。一本が折れた。そのまま、進んでくる。
「嘘だろ……」
声が漏れた。
あの身体で、遅くない。速い。
森の中なのに。自分たちは、こんなにも走れるのに。
距離が、広がらない。
「もっと!」
ルドルフが叫んだ。脚へ力を入れる。
自分の脚なら、もっと速く走れる。ルドルフは、そう知っていた。庭で。道で。芝の上で。何度も。誰より速く、走ってきた。
だから、走ればいい。走れば離せる。
そう、思った。
一歩。二歩。三歩。加速。
その瞬間、木の枝が肩へぶつかった。
「っ!」
身体が揺れる。速度が落ちる。足元に、湿った葉。滑る。踏み直す。また根。跳ぶ。着地。石。避ける。
走路ではない。
ここには、自分が速く走るためのものが、何一つなかった。
逆だった。森の全部が、速く走ろうとする脚を、邪魔してくる。
曲がれ。避けろ。跳べ。潜れ。止まれ。また走れ。
三人の脚力が、そのまま速さにはならない。
そのことを、初めて、ルドルフは知った。
背後の熊は、違った。
無理に真っ直ぐ来ない。地面の悪い場所を避ける。太い木を回る。通れる場所を使う。時には、三人より大きく迂回している。
なのに、次に音がした時、距離は変わっていない。
「なんで……!」
ルドルフの声が、泣きそうに歪んだ。
どうして。自分たちは、こんなに速いのに。逃げられない。
わからない。理由なんて、この時の三人には、必要なかった。
必要なのは、逃げること。それだけだった。
「ルドルフ!」
シリウスが叫ぶ。
「先行きすぎんな!」
ルドルフが振り返る。シリウスとの距離。数歩。ラモーヌは、さらに後ろ。
一瞬、ルドルフの顔が迷った。
速く走れば。自分だけなら。もっと前へ行ける。
そんな考えが、頭のどこかを掠めた。
掠めただけだった。
すぐに、速度を落とす。
「ラモーヌ!」
「大丈夫!」
大丈夫ではない。ラモーヌ自身、わかっていた。息が、苦しい。喉が痛い。胸が焼ける。
でも、まだ走れる。だから、大丈夫。今は。そういう意味だった。
シリウスも速度を少し落とした。ルドルフと並ぶ。
「置いてくなよ」
「置いていかない」
「絶対だぞ」
「うん」
「ラモーヌもだ!」
「ええ」
三人の走る位置が、変わった。
ルドルフだけが前ではない。ルドルフとシリウスが、少し左右へ分かれる。ラモーヌが、その後ろ。枝があれば、前の二人が、どちらか安全な方を選ぶ。
「左!」
「こっち!」
「ラモーヌ!」
声。声。声。
それだけが、三人を繋いでいた。
後ろから、低い音がした。唸り声なのか。息なのか。わからない。
でも、三人とも、一段速くなった。
「くそっ!」
シリウスが、歯を食いしばる。
悔しかった。
怖い。それ以上に、何もできないことが、悔しかった。
ルドルフへ追いつくためなら、何度転んでも走れた。負ければ、次がある。追いつけなければ、もっと走ればいい。
でも、今は。
何に勝てばいい。どうすれば勝ちなのか。
わからない。一番速ければいいわけではない。あれより先に、どこかへ着けばいいわけでもない。
ゴールがない。
ただ、捕まらなければいい。
そんな走りを、シリウスは知らなかった。
「っ……!」
足がもつれそうになる。腕を振る。前へ。前へ。前へ。
ラモーヌは、二人とは違うことを考えていた。
匂い。最初から、ずっと、それだけ。
濃い。薄い。濃い。少し薄い。
風向きで変わる。距離でも変わる。どちらなのか、わからない。
でも、さっきより、一度、明らかに薄くなった。
「……離れてる」
声が漏れた。
「何!?」
シリウスが訊く。
「匂いが……少し」
「本当!?」
ルドルフ。
「たぶん!」
たぶん。それしか言えない。
でも、その一言で、二人の脚がもう一度動いた。
逃げられる。そう、思えた。ほんの少しだけ。
三人は、走った。さらに。木々の間を。上り。下り。避け。跳び。何度も。何度も。足を取られながら。それでも、走った。
やがて、背後の音が、変わった。
聞こえない。
「……え?」
シリウスが、最初に気づいた。
「音……」
ルドルフも、耳を動かす。走りながら、後ろへ意識を向ける。
何も、聞こえない。
さっきまで、あった。地面へ落ちる、重い足音。枝。笹。荒い呼吸。
それが、ない。
「止まった……?」
誰かが言った。
「わからない!」
ルドルフが返す。
「まだ走って!」
三人は、走った。
けれど、身体には、限界が近づいていた。
ルドルフの息が、喉に引っかかる。脚が、重い。
さっきまでは、恐怖が疲労を消していた。今、後ろの音がなくなったことで、身体が急に思い出してしまった。
疲れている。苦しい。痛い。寒い。全部。
「っ……」
ルドルフの速度が落ちる。シリウスも。ラモーヌも。
数歩、走る。歩く。また、走ろうとする。
無理だった。
「……待っ……」
シリウスが、木へ手をついた。
「少し……」
息。言葉にならない。
「少しだけ……」
ルドルフも、その場で止まった。膝へ、両手をつく。白い息が、何度も、何度も、地面へ落ちる。
ラモーヌは、二人より数歩先まで行って、止まった。振り返る。
「……音は?」
シリウスが訊く。
ルドルフが、耳を動かす。右。左。後ろ。
森。風。枝。
遠くで、ようやく、鳥が一度鳴いた。
「……聞こえない」
ルドルフが言った。
その言葉で、シリウスが木の幹へ背中を預けた。ずるずると、少しだけ腰が下がる。
「……逃げ、きれた?」
掠れた声。
誰も、すぐには答えなかった。
ラモーヌは、二人を見る。
ルドルフの頬。細い傷がある。血が、少しだけ流れていた。本人は、まだ気づいていない。
シリウスの膝。服が破れている。土。血。手のひらにも、小さな擦り傷。
ラモーヌ自身の袖も、片方が裂けていた。腕が冷たい。
ポケットへ、反対の手を入れる。
羽根。まだある。少し、曲がっていた。でも、折れてはいない。
アルダンに、見せられる。
そのことを思ったら、急に、涙が出そうになった。
泣かなかった。
代わりに、鼻を動かした。
匂い。確認する。
湿った土。落ち葉。自分たちの汗。血。
それから、ほんの少し、あの甘さ。
ラモーヌの身体が、固まった。
もう一度、吸う。
ある。薄い。さっきより、ずっと薄い。
でも、ある。
「……」
口を開く。言おうとする。
まだいる。近くにいるかもしれない。逃げきれていないかもしれない。言わなければ。
そう思う。
「ラモーヌ?」
ルドルフが、こちらを見る。
頬の傷に、ようやく気づいたらしい。指で触れる。赤くなる。
「……血」
驚いた顔。ひどく、幼い顔だった。
ほんの少し前まで、何でもできると思っていた子供が。自分の頬から出た血を、初めて見るみたいな顔。
シリウスは、まだ木へ寄りかかっている。でも、さっきより、呼吸は落ち着いている。
耳は、伏せたまま。尾も、動かない。
それでも。
「逃げきれた?」
もう一度。さっきより少しだけ、期待するように言った。
ラモーヌは、二人を見た。
そして、言えなくなった。
言ったら、また、あの顔に戻る。熊を見た時の。三人とも、言葉を失った、あの顔へ。
だから、言わなかった。
「……わからないわ」
嘘ではなかった。
本当に、わからない。匂いがするからといって、近くにいるとは限らない。風に残っているだけかもしれない。自分たちの服へ、匂いが移っただけかもしれない。
そう、思おうとした。
「少し休んだら」
ルドルフが言った。まだ息が荒い。
「戻ろう」
戻る。
その言葉に、三人とも、少しだけ表情が緩んだ。
屋敷へ。応接間へ。アサマへ。スピードシンボリへ。アルダンへ。
帰れる。帰らなければ。
シリウスが、ようやく腰を上げる。
「怒られるな」
「……うん」
ルドルフが答える。
「相当な」
「うん」
「お前のせいだからな」
少しだけ、いつもの声だった。
ルドルフも、ほんの少しだけ、笑った。
「それについては……」
反論しようとして、やめた。
「ごめん」
シリウスが、目を丸くした。ルドルフが、こんなに素直に謝ると思っていなかった。
「……帰ってから言え」
「うん」
ラモーヌは、二人を見ていた。
いつもの二人へ、少しだけ戻っている。
だから、やっぱり、言えなかった。
鼻を動かす。
まだ、ある。
甘い匂い。ほんのわずかに、森の空気へ混じっている。薄くなっただけで、消えてはいなかった。
三人の中で、そのことを知っているのは、ラモーヌだけだった。
そして、それが何を意味しているのか、ラモーヌ自身にも、まだわからなかった。
2026/10/05
本文加筆