氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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鼻が、夢を嗅いでいる、とわかった。
だから、今ここにある匂いだけを嗅げと言った。
薪の煙。草の煎じ薬。三人の体温。
それだけが、今この場所にあるものだ。
夢の中で嗅いだの匂いは、ここにはない。
彼女は、すぐに戻ってきた。
——早い、と思った。
悪い意味ではなかった。


03-五.『明日も、動かなければならない』

知っている場所だった。

 

廊下があった。石畳の床だった。壁に、見覚えのある燭台が並んでいた。メジロの屋敷だと思った。思ったが、何かが違った。天井が高すぎた。廊下が長すぎた。窓があるはずの場所に、壁があった。

 

歩いた。

 

歩いても、廊下が終わらなかった。一歩踏み出すたびに、廊下が少しずつ伸びた。追いつけなかった。追いついているはずなのに、追いつけなかった。

 

壁の奥で、音がした。

 

カチ、と鳴った。またカチ、と鳴った。時計の針の音だった。でも、進んでいなかった。巻き戻っていた。一回鳴るたびに、廊下が少しだけ長くなった。時間が、前ではなく後ろへ流れていた。流れながら、元に戻らなかった。

 

廊下の奥に、影があった。

 

小さかった。遠かった。でも、わかった。

 

「アルダン」

 

声が出た。届かなかった。影は動かなかった。動かないまま、そこにいた。ラモーヌは歩いた。歩いても近づかなかった。走った。走っても近づかなかった。廊下だけが、どこまでも続いていた。

 

それでも、影は消えなかった。

 

消えないから、走った。走りながら、声が聞こえた。

 

アルダンの声に似ていた。

 

でも、言葉が違った。知っているアルダンなら、こういう言い方はしなかった。こういう言葉を選ばなかった。似ているのに、どこかが違った。似ているから、余計に怖かった。

 

影が、ゆっくりと振り返った。

 

首を、少しかしげた。

 

アルダンが困った時に見せる、あの仕草だった。何かを尋ねる時に見せる、愛らしいあの動きだった。それだけで、縋るように「アルダン」と呼びかけようとした。

 

その瞬間だった。

 

影が口元に手をやった。

 

アルダンがよく見せる、あの仕草だった。でも、その手の指先から伸びているものを見た瞬間、ラモーヌの足が止まった。

 

爪ではなかった。

 

爪と呼ぶには、長すぎた。太すぎた。泥と何かが乾いてこびりついた、鈍く湾曲した五本の凶器だった。それが、アルダンの柔らかい頬のすぐ傍にあった。

 

顔を見ようとした。

 

顔が、なかった。

 

輪郭だけがあった。アルダンの輪郭に似ていた。でも、顔があるべき場所に、深い闇の裂け目だけがあった。

 

逃げようとした。

 

振り返った。

 

扉がなかった。

 

来た廊下があった。石畳があった。燭台があった。でも、扉がなかった。出口がなかった。どこにもなかった。壁だった。全部、壁だった。

 

走った。

 

壁に手をついた。扉を探した。どこにもなかった。

 

指先に触れたのは、上品なシルクの壁紙ではなかった。濡れて波打つ、獣の剛毛の感触だった。屋敷の壁が、あのものに飲み込まれていた。廊下が、どこかへ続く道ではなく、逃げ場のない胃袋になっていた。

 

匂いがした。

 

甘い匂いだった。熟れすぎた果実が発酵し、腐敗へ至る瞬間の、粘りつくような芳香だった。その甘さの膜を破って、鋭利な鉄の臭気が鼻腔の奥を突いた。血だった。雪の下で凍り、再び何かの体温で温められた、古くて重い血の匂いだった。

 

鼻が、あの夜を引きずり出した。

 

河原の石の冷たさ。あの重さ。あの速さ。脚が動かなかった、あの絶望。全部が匂いという形をとって、戻ってきた。

 

匂いが、濃くなった。

 

後ろから来ていた。

 

廊下の端まで走った。壁だった。また走った。壁だった。四方が壁だった。剛毛の壁だった。生温かかった。

 

耳元に、吐息がかかった。

 

「捕まえた、お姉様」

 

アルダンの声に、似ていた。

 

でも、アルダンではなかった。別の何かだった。

 

 

    ※

 

 

目が覚めた。

 

荒い息だった。喉が、鉄の味がした。眠っている間に、舌の端を噛んでいた。

 

天井があった。

 

節目がある。木目がある。薪ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。

 

小屋だった。

 

ラモーヌはしばらく、天井を見ていた。呼吸が、少しずつ落ち着いていった。喉の鉄の味が、少しずつ薄くなっていった。

 

隣を確かめた。

 

ルドルフがいた。シリウスがいた。二人とも、眠っていた。

 

鼻を動かした。

 

ルドルフの匂いがした。シリウスの匂いがした。それぞれの、生きている匂いがした。汗と、体温と、呼吸が混ざった、確かな匂いだった。あの廊下にはなかった匂いだった。あの壁の剛毛にはなかった匂いだった。

 

薪の煙の匂いがした。乾いた木の匂いがした。草を煎じた匂いがした。全部、知っている匂いだった。安全な匂いだった。

 

あの甘い金気の匂いは、どこにもなかった。

 

ここには、ない。

 

それだけが、今朝の確かなことだった。

 

 

    ※

 

 

四日目が始まった。

 

「続けろ」

 

男が言った。それだけだった。

 

三人は器を受け取った。水を入れた。頭に乗せた。

 

昨日と同じだった。同じはずだった。

 

でも、ラモーヌには昨日と違うことがあった。

 

器を乗せた瞬間に、わかった。

 

できない。

 

鼻腔の奥に、まだあの金気が残っていた。発酵した甘さの残滓が、呼吸を浅くしていた。一歩踏み出した瞬間、床の振動が——あの重さと重なった。足の裏から、あの廊下の石畳の感触が戻ってきた。

 

水が、盛大にこぼれた。

 

昨日まで少しずつ掴みかけていた何かが、霧の向こうに消えていた。

 

二歩目でもこぼれた。三歩目でもこぼれた。何度繰り返しても、同じところでこぼれた。歩くほどに水は揺れ、身体が、床ではなく別のものを聞こうとしていた。

 

 

    ※

 

 

シリウスは、気づいていた。

 

今朝目が覚めた時から、ラモーヌの様子がおかしかった。昨日とは全然違った。

 

声はかけなかった。自分のことに意識が向きすぎていた。水をこぼした回数は、今日だけで既に十四回目だった。

 

昨日より増えていた。昨日は十二回目で三歩続いた。今日は十四回目で、まだ三歩だった。

 

増えていない。

 

昨日と同じ回数で、昨日と同じ歩数しか続かなかった。それが、じわじわと、シリウスの中で何かを削っていた。

 

ラモーヌを横目で見た。

 

変わらずに、不調が続いている。悪い夢でも見たのだろう。それが、あの歩法を完全に狂わせている。でも、何度こぼしても出発点に戻ってきている。昨日の六歩は、どこへ行ったのか。それを思いながら、また自分自身へ目を向けた。自分の三歩は、今日もまだ三歩だった。

 

だから、また器を頭に乗せた。歩いた。

 

二歩目でこぼれた。

 

「……っ」

 

出発点に戻った。また乗せた。また歩いた。

 

一歩目でこぼれた。

 

シリウスの耳が、限界まで後ろへ倒れていた。

 

 

    ※

 

 

ルドルフは、計算し直していた。

 

三歩目から四歩目への移行で、毎回制御が切れる。切れる原因が、昨日からわかっていなかった。今日もわからなかった。わからないまま、同じところで切れた。

 

何が違うのか。

 

一歩目と二歩目と三歩目は、同じ計算で動いている。なのに四歩目だけ切れる。四歩目に何があるのか。四歩目は何が違うのか。

 

考えながら、また歩いた。

 

三歩目まで来た。水面が安定していた。四歩目——。

 

こぼれた。

 

ルドルフは出発点に戻りながら、また考えた。ラモーヌの調子が悪い。今朝からずっと悪い。でも何かを振り切ろうとして足掻く姿を、視界の端で見た。昨日までのラモーヌは計算していない。計算していないのに、戻ってきていた。自分は計算しているのに、四歩で切れる。

 

何かが、根本的に違う。

 

でも、何が違うのかが、わからなかった。

 

 

    ※

 

 

昼を過ぎた頃だった。

 

「あんた」

 

シリウスが言った。

 

男が振り返った。シリウスは器を頭に乗せたまま、男を見ていた。

 

「私の何がダメなの」

 

部屋が静かになった。

 

ルドルフが、シリウスを見た。ラモーヌが、シリウスを見た。シリウスは男を見ていた。怒っていなかった。苛立ちはあった。でも、それより先に、本気でわからなかった。

 

男は少し間を置いた。

 

「何がダメと思う」

 

「わからないから聞いてる」

 

「自分で考えろ」

 

シリウスの尾が、揺れた。

 

「考えたよ。わからなかった。だから聞いてる」

 

男はシリウスを見た。一秒ほど見て、言った。

 

「歩く時、何を考えている」

 

「こぼさないようにしている」

 

「水に意識を向けすぎている」

 

男は少し間を置いた。それから、また針を持った。

 

「床が、返してくるものを聞け」

 

「それだけ」

 

「それだけだ」

 

しばらく間があった。

 

「できるか」

 

「……わからない」

 

「できない、とは言わなかった」

 

シリウスは黙った。

 

できない、とは言わなかった。わからない、と言った。わからないということは、できるかもしれないということだ。できるかもしれないなら、やるしかない。

 

シリウスは出発点に向かった。

 

また器を乗せた。

 

一歩踏み出した。

 

床が、何かを返してきた気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。でも、気がした。

 

二歩。また返ってきた。

 

三歩。

 

四歩。

 

水が、揺れなかった。

 

五歩目で、こぼれた。

 

でも、四歩だった。

 

シリウスは出発点に戻った。何も言わなかった。男も何も言わなかった。ラモーヌも、ルドルフも、何も言わなかった。

 

ただ、シリウスがまた器を乗せた。

 

それだけだった。

 

 

    ※

 

 

限界が来た。

 

器が、床に落ちた。水が、一気にこぼれた。

 

男が振り返った。

 

ラモーヌは震えていた。肩を小刻みに震わせながら、床に転がった器と広がる水を見ていた。男の視線を受けて、床を見た。自分を責める言葉を待った。

 

男は言葉を投げなかった。

 

無言でラモーヌの傍に来た。膝をついた。ラモーヌと同じ高さになった。

 

男の手が、ラモーヌの両手を包んだ。

 

ラモーヌの身体が、わずかに強張った。

 

河原で、凍えた両手を包まれた時に感じた、あの熱だった。あの夜と同じ温度が、手の平から伝わってきた。握っていなかった。ただ、添えられていた。でも、それだけで、肩から余計な力が抜けていった。

 

「お前の鼻が、夢を嗅いでいる」

 

低い声だった。

 

「今、ここで燃えている薪の匂いだけを嗅げ」

 

ラモーヌは息を吸った。

 

薪の匂い。乾いた木の匂い。草の匂い。男の手の匂い。全部を、一つずつ確かめた。あの金気の匂いは、ここにはない。ここにあるのは、安全な匂いだけだ。

 

男が、一歩踏み出した。

 

ラモーヌの手を引いて、一緒に踏み出した。

 

床が鳴らなかった。

 

それだけだった。説明はなかった。男はそのまま手を離して、作業に戻った。

 

ラモーヌは、そこに立っていた。

 

一歩だけ、踏み出せていた。床が鳴らなかった一歩が、足の裏に残っていた。

 

 

    ※

 

 

シリウスは、それを見ていた。

 

全部、見ていた。

 

男がラモーヌの前に膝をついた時から。手を包んだ時から。一歩踏み出した時から。床が鳴らなかった時から。全部、見ていた。

 

シリウスの尾が、壁を叩いた。

 

一度だけ。強く。

 

耳が、限界まで後ろへ倒れていた。

 

「あんた」

 

シリウスの声は、低かった。湿っていた。

 

男が振り返った。

 

「私には『自分で考えろ』って言ったじゃない」

 

男は少し間を置いた。

 

「言った」

 

「なんでラモーヌには手を貸すの」

 

「ラモーヌは今朝、夢の匂いを引きずっていた。それが邪魔をしていた。邪魔を取り除いただけだ」

 

「じゃあ私の邪魔は何」

 

男はシリウスを見た。一秒ほど、見た。

 

「お前はまだ、自分で取り除けるものを持っている」

 

シリウスは黙った。

 

男の言葉の意味が、すぐにはわからなかった。でも、「自分で考えろ」と言われた時と同じだった。答えを教えない。でも、嘘もつかない。

 

シリウスは出発点に向かった。

 

また器を乗せた。

 

怒っていた。怒っているのが自分でもわかった。でも、やめなかった。怒りながら、床を聞こうとした。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

四歩。

 

水がこぼれなかった。

 

五歩目でこぼれた。

 

でも、四歩だった。昨日より一歩多かった。

 

シリウスは何も言わなかった。出発点に戻った。また器を乗せた。

 

 

    ※

 

 

ルドルフは、男がラモーヌの前に膝をついた瞬間から、ずっと見ていた。

 

計算が、止まっていた。

 

なぜ、あの手が触れただけで、ラモーヌの出力が安定したのか。計算で超えられない壁だった。自分は計算して、制御して、四歩で切れる。ラモーヌは感覚で、男の手が一度触れただけで、床が鳴らなくなった。

 

計算より早いものが、あった。

 

計算が届かない場所に、何かがあった。

 

ルドルフは器を頭に乗せた。目を閉じた。計算を止めてみた。計算を止めて、ただ床を聞こうとした。

 

一歩。

 

床が、何かを返してきた。

 

二歩。また返ってきた。

 

三歩。

 

四歩。

 

五歩。

 

水がこぼれた。

 

でも、五歩だった。

 

ルドルフは出発点に戻りながら、今起きたことを静かに受け取った。計算を止めた時の方が、一歩多かった。それだけが、今日の事実だった。

 

 

    ※

 

 

男が外に出た。

 

三人は続けた。

 

床の音が、少しずつ小さくなっていた。ラモーヌは、午後から少しずつ戻ってきていた。金気の残滓が、薪の匂いに少しずつ塗り替えられていった。シリウスは四歩が五歩になっていた。ルドルフは計算を止める練習をしていた。

 

男が戻ってきた。

 

外套に雪がついていた。薪を抱えていた。三人を順番に見た。

 

「続けていたか」

 

「続けていた」

 

「よし」

 

それだけだった。

 

針の音が、また戻ってきた。

 

三人は、また器を頭に乗せた。

 

 

    ※

 

 

夕方になった。

 

男が外套を手に取った。

 

三人の心拍が、少し上がった。慣れていなかった。慣れようとしていたが、慣れなかった。

 

「少し出る」

 

「今夜も、なの」

 

ラモーヌが聞いた。

 

「足跡を確かめに行く」

 

「昨日と同じ場所にいるのかしら」

 

「わからない。だから確かめる」

 

ラモーヌは少し間を置いた。

 

「……遠ざかっていたりするのかしら」

 

「今夜は来ない。それだけだ」

 

扉が開いた。冷気が入った。扉が閉まった。

 

 

    ※

 

 

足音が、遠ざかっていった。

 

十歩。二十歩。三十歩。

 

消えた。

 

小屋の中が、静かになった。ストーブが燃える音だけがあった。

 

炎が揺れた。影が動いた。

 

ラモーヌは、その影を見た。

 

揺れる影を見るたびに、廊下の奥の輪郭を思い出しかけた。思い出しかけて、鼻を動かした。

 

薪の匂い。乾いた木の匂い。シリウスの匂い。ルドルフの匂い。

 

あの金気の匂いは、ここにはない。

 

ここにあるのは、安全な匂いだけだ。

 

「……ラモーヌ」

 

ルドルフが言った。

 

「なに」

 

「今朝、夢を見たか」

 

「見た」

 

「どんな夢」

 

「屋敷にいた。でも、屋敷じゃなかった」

 

ルドルフは黙った。

 

「アルダンがいた。でも、アルダンじゃなかった」

 

また黙った。

 

シリウスが、膝を抱えた。

 

「私も見た」と、シリウスが言った。「違う夢だけど」

 

「どんな夢」

 

「霧の中を走ってた。追いかけてくるものの音がした。でも、昨日より少し遠かった」

 

ラモーヌは炎を見た。

 

「私の夢は、昨日より近かった」

 

誰も、何も言わなかった。

 

同じ小屋で、同じ夜を過ごして、夢の深さが違った。それだけのことだった。それだけのことが、今夜は少し重かった。

 

ルドルフが口を開いた。

 

「小鳥遊が戻ってきたら、また稽古できるかしら」

 

「暗くなってから?」

 

「明日に備えて、もう少しやっておきたい」

 

シリウスが少し考えた。

 

「……私も」

 

ラモーヌは炎を見たまま、頷いた。

 

明日も動かなければならない。動けるようになるために、今夜も動いておく。怖い夢を見た。廊下が終わらなかった。アルダンの手が、あの爪だった。でも、明日も動かなければならない。

 

だから、今夜も器を乗せる。

 

それだけだった。

 

 

    ※

 

 

男が戻ってきた。

 

外套の雪を払った。薪をくべた。それから三人を見た。

 

「今夜は来なかった」

 

ラモーヌは息を吐いた。

 

「足跡は」

 

「南へ向いていた。昨日より遠ざかっている」

 

ラモーヌは炎を見た。

 

遠ざかっている。南へ向いていた。なぜなのか、わからなかった。わからないが、今夜この小屋には来なかった。遠ざかっている。それだけが事実だった。その事実が何を意味するのか、ラモーヌにはまだ全部はわからなかった。

 

「稽古事を続けていいか」

 

ルドルフが言った。

 

男は三人を順番に見た。

 

「構わない」

 

三人は器を手に取った。水を入れた。頭に乗せた。

 

夜の鍛錬が、始まった。

 

炎が揺れた。影が動いた。でも、三人は床を聞いていた。揺れる影より、足の裏から届くものの方を、聞いていた。

 

 

    ※

 

 

五日目の朝、ラモーヌは目を覚ました。

 

天井があった。節目がある。木目がある。

 

夢を見ていた。

 

屋敷の廊下にいた。アルダンがいた。でも、今夜の夢では、廊下がそこまで長くなかった。走れば距離が縮まった。縮まって——振り返った。

 

顔は、見えなかった。

 

手も、見えなかった。

 

見える前に、目が覚めた。

 

荒い息ではなかった。鉄の味もなかった。ただ、目が覚めていた。

 

昨夜より、浅かった。

 

ラモーヌは鼻を動かした。

 

薪の匂い。草の匂い。男が何かを煎じている匂い。ルドルフの匂い。シリウスの匂い。

 

全部、安全な匂いだった。

 

あの金気の匂いは、なかった。

 

ここには、なかった。

 

ラモーヌは天井を見たまま、脚を動かした。

 

動いた。

 

それだけが、五日目の朝の、確かなことだった。




四の前に、こちらをアップしていたので並び替えました。
痛恨の凡ミス恥ずかしい…。
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