氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
だから、今ここにある匂いだけを嗅げと言った。
薪の煙。草の煎じ薬。三人の体温。
それだけが、今この場所にあるものだ。
夢の中で嗅いだの匂いは、ここにはない。
彼女は、すぐに戻ってきた。
——早い、と思った。
悪い意味ではなかった。
知っている場所だった。
廊下があった。石畳の床だった。壁に、見覚えのある燭台が並んでいた。メジロの屋敷だと思った。思ったが、何かが違った。天井が高すぎた。廊下が長すぎた。窓があるはずの場所に、壁があった。
歩いた。
歩いても、廊下が終わらなかった。一歩踏み出すたびに、廊下が少しずつ伸びた。追いつけなかった。追いついているはずなのに、追いつけなかった。
壁の奥で、音がした。
カチ、と鳴った。またカチ、と鳴った。時計の針の音だった。でも、進んでいなかった。巻き戻っていた。一回鳴るたびに、廊下が少しだけ長くなった。時間が、前ではなく後ろへ流れていた。流れながら、元に戻らなかった。
廊下の奥に、影があった。
小さかった。遠かった。でも、わかった。
「アルダン」
声が出た。届かなかった。影は動かなかった。動かないまま、そこにいた。ラモーヌは歩いた。歩いても近づかなかった。走った。走っても近づかなかった。廊下だけが、どこまでも続いていた。
それでも、影は消えなかった。
消えないから、走った。走りながら、声が聞こえた。
アルダンの声に似ていた。
でも、言葉が違った。知っているアルダンなら、こういう言い方はしなかった。こういう言葉を選ばなかった。似ているのに、どこかが違った。似ているから、余計に怖かった。
影が、ゆっくりと振り返った。
首を、少しかしげた。
アルダンが困った時に見せる、あの仕草だった。何かを尋ねる時に見せる、愛らしいあの動きだった。それだけで、縋るように「アルダン」と呼びかけようとした。
その瞬間だった。
影が口元に手をやった。
アルダンがよく見せる、あの仕草だった。でも、その手の指先から伸びているものを見た瞬間、ラモーヌの足が止まった。
爪ではなかった。
爪と呼ぶには、長すぎた。太すぎた。泥と何かが乾いてこびりついた、鈍く湾曲した五本の凶器だった。それが、アルダンの柔らかい頬のすぐ傍にあった。
顔を見ようとした。
顔が、なかった。
輪郭だけがあった。アルダンの輪郭に似ていた。でも、顔があるべき場所に、深い闇の裂け目だけがあった。
逃げようとした。
振り返った。
扉がなかった。
来た廊下があった。石畳があった。燭台があった。でも、扉がなかった。出口がなかった。どこにもなかった。壁だった。全部、壁だった。
走った。
壁に手をついた。扉を探した。どこにもなかった。
指先に触れたのは、上品なシルクの壁紙ではなかった。濡れて波打つ、獣の剛毛の感触だった。屋敷の壁が、あのものに飲み込まれていた。廊下が、どこかへ続く道ではなく、逃げ場のない胃袋になっていた。
匂いがした。
甘い匂いだった。熟れすぎた果実が発酵し、腐敗へ至る瞬間の、粘りつくような芳香だった。その甘さの膜を破って、鋭利な鉄の臭気が鼻腔の奥を突いた。血だった。雪の下で凍り、再び何かの体温で温められた、古くて重い血の匂いだった。
鼻が、あの夜を引きずり出した。
河原の石の冷たさ。あの重さ。あの速さ。脚が動かなかった、あの絶望。全部が匂いという形をとって、戻ってきた。
匂いが、濃くなった。
後ろから来ていた。
廊下の端まで走った。壁だった。また走った。壁だった。四方が壁だった。剛毛の壁だった。生温かかった。
耳元に、吐息がかかった。
「捕まえた、お姉様」
アルダンの声に、似ていた。
でも、アルダンではなかった。別の何かだった。
※
目が覚めた。
荒い息だった。喉が、鉄の味がした。眠っている間に、舌の端を噛んでいた。
天井があった。
節目がある。木目がある。薪ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。
小屋だった。
ラモーヌはしばらく、天井を見ていた。呼吸が、少しずつ落ち着いていった。喉の鉄の味が、少しずつ薄くなっていった。
隣を確かめた。
ルドルフがいた。シリウスがいた。二人とも、眠っていた。
鼻を動かした。
ルドルフの匂いがした。シリウスの匂いがした。それぞれの、生きている匂いがした。汗と、体温と、呼吸が混ざった、確かな匂いだった。あの廊下にはなかった匂いだった。あの壁の剛毛にはなかった匂いだった。
薪の煙の匂いがした。乾いた木の匂いがした。草を煎じた匂いがした。全部、知っている匂いだった。安全な匂いだった。
あの甘い金気の匂いは、どこにもなかった。
ここには、ない。
それだけが、今朝の確かなことだった。
※
四日目が始まった。
「続けろ」
男が言った。それだけだった。
三人は器を受け取った。水を入れた。頭に乗せた。
昨日と同じだった。同じはずだった。
でも、ラモーヌには昨日と違うことがあった。
器を乗せた瞬間に、わかった。
できない。
鼻腔の奥に、まだあの金気が残っていた。発酵した甘さの残滓が、呼吸を浅くしていた。一歩踏み出した瞬間、床の振動が——あの重さと重なった。足の裏から、あの廊下の石畳の感触が戻ってきた。
水が、盛大にこぼれた。
昨日まで少しずつ掴みかけていた何かが、霧の向こうに消えていた。
二歩目でもこぼれた。三歩目でもこぼれた。何度繰り返しても、同じところでこぼれた。歩くほどに水は揺れ、身体が、床ではなく別のものを聞こうとしていた。
※
シリウスは、気づいていた。
今朝目が覚めた時から、ラモーヌの様子がおかしかった。昨日とは全然違った。
声はかけなかった。自分のことに意識が向きすぎていた。水をこぼした回数は、今日だけで既に十四回目だった。
昨日より増えていた。昨日は十二回目で三歩続いた。今日は十四回目で、まだ三歩だった。
増えていない。
昨日と同じ回数で、昨日と同じ歩数しか続かなかった。それが、じわじわと、シリウスの中で何かを削っていた。
ラモーヌを横目で見た。
変わらずに、不調が続いている。悪い夢でも見たのだろう。それが、あの歩法を完全に狂わせている。でも、何度こぼしても出発点に戻ってきている。昨日の六歩は、どこへ行ったのか。それを思いながら、また自分自身へ目を向けた。自分の三歩は、今日もまだ三歩だった。
だから、また器を頭に乗せた。歩いた。
二歩目でこぼれた。
「……っ」
出発点に戻った。また乗せた。また歩いた。
一歩目でこぼれた。
シリウスの耳が、限界まで後ろへ倒れていた。
※
ルドルフは、計算し直していた。
三歩目から四歩目への移行で、毎回制御が切れる。切れる原因が、昨日からわかっていなかった。今日もわからなかった。わからないまま、同じところで切れた。
何が違うのか。
一歩目と二歩目と三歩目は、同じ計算で動いている。なのに四歩目だけ切れる。四歩目に何があるのか。四歩目は何が違うのか。
考えながら、また歩いた。
三歩目まで来た。水面が安定していた。四歩目——。
こぼれた。
ルドルフは出発点に戻りながら、また考えた。ラモーヌの調子が悪い。今朝からずっと悪い。でも何かを振り切ろうとして足掻く姿を、視界の端で見た。昨日までのラモーヌは計算していない。計算していないのに、戻ってきていた。自分は計算しているのに、四歩で切れる。
何かが、根本的に違う。
でも、何が違うのかが、わからなかった。
※
昼を過ぎた頃だった。
「あんた」
シリウスが言った。
男が振り返った。シリウスは器を頭に乗せたまま、男を見ていた。
「私の何がダメなの」
部屋が静かになった。
ルドルフが、シリウスを見た。ラモーヌが、シリウスを見た。シリウスは男を見ていた。怒っていなかった。苛立ちはあった。でも、それより先に、本気でわからなかった。
男は少し間を置いた。
「何がダメと思う」
「わからないから聞いてる」
「自分で考えろ」
シリウスの尾が、揺れた。
「考えたよ。わからなかった。だから聞いてる」
男はシリウスを見た。一秒ほど見て、言った。
「歩く時、何を考えている」
「こぼさないようにしている」
「水に意識を向けすぎている」
男は少し間を置いた。それから、また針を持った。
「床が、返してくるものを聞け」
「それだけ」
「それだけだ」
しばらく間があった。
「できるか」
「……わからない」
「できない、とは言わなかった」
シリウスは黙った。
できない、とは言わなかった。わからない、と言った。わからないということは、できるかもしれないということだ。できるかもしれないなら、やるしかない。
シリウスは出発点に向かった。
また器を乗せた。
一歩踏み出した。
床が、何かを返してきた気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。でも、気がした。
二歩。また返ってきた。
三歩。
四歩。
水が、揺れなかった。
五歩目で、こぼれた。
でも、四歩だった。
シリウスは出発点に戻った。何も言わなかった。男も何も言わなかった。ラモーヌも、ルドルフも、何も言わなかった。
ただ、シリウスがまた器を乗せた。
それだけだった。
※
限界が来た。
器が、床に落ちた。水が、一気にこぼれた。
男が振り返った。
ラモーヌは震えていた。肩を小刻みに震わせながら、床に転がった器と広がる水を見ていた。男の視線を受けて、床を見た。自分を責める言葉を待った。
男は言葉を投げなかった。
無言でラモーヌの傍に来た。膝をついた。ラモーヌと同じ高さになった。
男の手が、ラモーヌの両手を包んだ。
ラモーヌの身体が、わずかに強張った。
河原で、凍えた両手を包まれた時に感じた、あの熱だった。あの夜と同じ温度が、手の平から伝わってきた。握っていなかった。ただ、添えられていた。でも、それだけで、肩から余計な力が抜けていった。
「お前の鼻が、夢を嗅いでいる」
低い声だった。
「今、ここで燃えている薪の匂いだけを嗅げ」
ラモーヌは息を吸った。
薪の匂い。乾いた木の匂い。草の匂い。男の手の匂い。全部を、一つずつ確かめた。あの金気の匂いは、ここにはない。ここにあるのは、安全な匂いだけだ。
男が、一歩踏み出した。
ラモーヌの手を引いて、一緒に踏み出した。
床が鳴らなかった。
それだけだった。説明はなかった。男はそのまま手を離して、作業に戻った。
ラモーヌは、そこに立っていた。
一歩だけ、踏み出せていた。床が鳴らなかった一歩が、足の裏に残っていた。
※
シリウスは、それを見ていた。
全部、見ていた。
男がラモーヌの前に膝をついた時から。手を包んだ時から。一歩踏み出した時から。床が鳴らなかった時から。全部、見ていた。
シリウスの尾が、壁を叩いた。
一度だけ。強く。
耳が、限界まで後ろへ倒れていた。
「あんた」
シリウスの声は、低かった。湿っていた。
男が振り返った。
「私には『自分で考えろ』って言ったじゃない」
男は少し間を置いた。
「言った」
「なんでラモーヌには手を貸すの」
「ラモーヌは今朝、夢の匂いを引きずっていた。それが邪魔をしていた。邪魔を取り除いただけだ」
「じゃあ私の邪魔は何」
男はシリウスを見た。一秒ほど、見た。
「お前はまだ、自分で取り除けるものを持っている」
シリウスは黙った。
男の言葉の意味が、すぐにはわからなかった。でも、「自分で考えろ」と言われた時と同じだった。答えを教えない。でも、嘘もつかない。
シリウスは出発点に向かった。
また器を乗せた。
怒っていた。怒っているのが自分でもわかった。でも、やめなかった。怒りながら、床を聞こうとした。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
水がこぼれなかった。
五歩目でこぼれた。
でも、四歩だった。昨日より一歩多かった。
シリウスは何も言わなかった。出発点に戻った。また器を乗せた。
※
ルドルフは、男がラモーヌの前に膝をついた瞬間から、ずっと見ていた。
計算が、止まっていた。
なぜ、あの手が触れただけで、ラモーヌの出力が安定したのか。計算で超えられない壁だった。自分は計算して、制御して、四歩で切れる。ラモーヌは感覚で、男の手が一度触れただけで、床が鳴らなくなった。
計算より早いものが、あった。
計算が届かない場所に、何かがあった。
ルドルフは器を頭に乗せた。目を閉じた。計算を止めてみた。計算を止めて、ただ床を聞こうとした。
一歩。
床が、何かを返してきた。
二歩。また返ってきた。
三歩。
四歩。
五歩。
水がこぼれた。
でも、五歩だった。
ルドルフは出発点に戻りながら、今起きたことを静かに受け取った。計算を止めた時の方が、一歩多かった。それだけが、今日の事実だった。
※
男が外に出た。
三人は続けた。
床の音が、少しずつ小さくなっていた。ラモーヌは、午後から少しずつ戻ってきていた。金気の残滓が、薪の匂いに少しずつ塗り替えられていった。シリウスは四歩が五歩になっていた。ルドルフは計算を止める練習をしていた。
男が戻ってきた。
外套に雪がついていた。薪を抱えていた。三人を順番に見た。
「続けていたか」
「続けていた」
「よし」
それだけだった。
針の音が、また戻ってきた。
三人は、また器を頭に乗せた。
※
夕方になった。
男が外套を手に取った。
三人の心拍が、少し上がった。慣れていなかった。慣れようとしていたが、慣れなかった。
「少し出る」
「今夜も、なの」
ラモーヌが聞いた。
「足跡を確かめに行く」
「昨日と同じ場所にいるのかしら」
「わからない。だから確かめる」
ラモーヌは少し間を置いた。
「……遠ざかっていたりするのかしら」
「今夜は来ない。それだけだ」
扉が開いた。冷気が入った。扉が閉まった。
※
足音が、遠ざかっていった。
十歩。二十歩。三十歩。
消えた。
小屋の中が、静かになった。ストーブが燃える音だけがあった。
炎が揺れた。影が動いた。
ラモーヌは、その影を見た。
揺れる影を見るたびに、廊下の奥の輪郭を思い出しかけた。思い出しかけて、鼻を動かした。
薪の匂い。乾いた木の匂い。シリウスの匂い。ルドルフの匂い。
あの金気の匂いは、ここにはない。
ここにあるのは、安全な匂いだけだ。
「……ラモーヌ」
ルドルフが言った。
「なに」
「今朝、夢を見たか」
「見た」
「どんな夢」
「屋敷にいた。でも、屋敷じゃなかった」
ルドルフは黙った。
「アルダンがいた。でも、アルダンじゃなかった」
また黙った。
シリウスが、膝を抱えた。
「私も見た」と、シリウスが言った。「違う夢だけど」
「どんな夢」
「霧の中を走ってた。追いかけてくるものの音がした。でも、昨日より少し遠かった」
ラモーヌは炎を見た。
「私の夢は、昨日より近かった」
誰も、何も言わなかった。
同じ小屋で、同じ夜を過ごして、夢の深さが違った。それだけのことだった。それだけのことが、今夜は少し重かった。
ルドルフが口を開いた。
「小鳥遊が戻ってきたら、また稽古できるかしら」
「暗くなってから?」
「明日に備えて、もう少しやっておきたい」
シリウスが少し考えた。
「……私も」
ラモーヌは炎を見たまま、頷いた。
明日も動かなければならない。動けるようになるために、今夜も動いておく。怖い夢を見た。廊下が終わらなかった。アルダンの手が、あの爪だった。でも、明日も動かなければならない。
だから、今夜も器を乗せる。
それだけだった。
※
男が戻ってきた。
外套の雪を払った。薪をくべた。それから三人を見た。
「今夜は来なかった」
ラモーヌは息を吐いた。
「足跡は」
「南へ向いていた。昨日より遠ざかっている」
ラモーヌは炎を見た。
遠ざかっている。南へ向いていた。なぜなのか、わからなかった。わからないが、今夜この小屋には来なかった。遠ざかっている。それだけが事実だった。その事実が何を意味するのか、ラモーヌにはまだ全部はわからなかった。
「稽古事を続けていいか」
ルドルフが言った。
男は三人を順番に見た。
「構わない」
三人は器を手に取った。水を入れた。頭に乗せた。
夜の鍛錬が、始まった。
炎が揺れた。影が動いた。でも、三人は床を聞いていた。揺れる影より、足の裏から届くものの方を、聞いていた。
※
五日目の朝、ラモーヌは目を覚ました。
天井があった。節目がある。木目がある。
夢を見ていた。
屋敷の廊下にいた。アルダンがいた。でも、今夜の夢では、廊下がそこまで長くなかった。走れば距離が縮まった。縮まって——振り返った。
顔は、見えなかった。
手も、見えなかった。
見える前に、目が覚めた。
荒い息ではなかった。鉄の味もなかった。ただ、目が覚めていた。
昨夜より、浅かった。
ラモーヌは鼻を動かした。
薪の匂い。草の匂い。男が何かを煎じている匂い。ルドルフの匂い。シリウスの匂い。
全部、安全な匂いだった。
あの金気の匂いは、なかった。
ここには、なかった。
ラモーヌは天井を見たまま、脚を動かした。
動いた。
それだけが、五日目の朝の、確かなことだった。
四の前に、こちらをアップしていたので並び替えました。
痛恨の凡ミス恥ずかしい…。