氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
場所では測れない、と答えた。
嘘ではなかった。
寂しいか、と聞かれた。
寂しいというのが何かは、よくわからない、と答えた。
これも嘘ではなかった。
——だが、どの問いにも、少女たちの目が変わった。
測れないはずのものを、彼女たちは別の方法で測っていた。
霧だった。
また、霧の中にいた。
でも、今夜は違った。追いかけてくるものの音がしなかった。足が沈まなかった。ただ、霧の中を歩いていた。
霧は重かった。白く濁った冷たさが、肌に張りついていた。息を吸うたびに、肺の奥まで冷えが染み込んでくる気がした。
歩いていた。
歩いていたはずなのに、どこへ向かっているのかわからなかった。目的地があった気がした。どこかへ向かっていた気がした。でも、どこだったか、思い出せなかった。
振り返った。
道が、なかった。
来た道があるはずだった。足跡があるはずだった。でも、何もなかった。霧だけがあった。白い霧が、来た道を飲んでいた。
また歩いた。
また振り返った。
また、道がなかった。
おかしい、とわかっていた。わかっていても、止まれなかった。止まれば、もっと怖かった。だから歩き続けた。歩き続けても、どこにも辿り着かなかった。
木があった。
太い木だった。見覚えがある気がした。さっきも、同じ木の前を通った気がした。でも、確かめようがなかった。どの木も同じに見えた。どの霧も同じだった。
どこにいるのかわからなかった。
どこへ向かえばいいのかわからなかった。
帰りたかった。
胸が締めつけられるような感覚があった。喉が渇いた。足が重かった。帰る、というのがどこなのか、わからなかった。屋敷ではない気がした。もっと遠いところだった。もっと温かいところだった。どこなのか、言葉にならなかった。
足が、止まった。
霧の中に、輪郭があった。
大きな輪郭だった。遠かった。遠いのに、輪郭だけははっきりしていた。人の形だった。こちらに背を向けていた。
男の背中だった。
見覚えがあった。見覚えがある、というより——知っていた。あの外套の厚さを知っていた。あの肩の幅を知っていた。
「待って」
声が出た。届かなかった。男の背中は動かなかった。霧の中に、ただ立っていた。
「待って」
もう一度呼んだ。やはり届かなかった。
歩いた。男の背中に向かって歩いた。でも、近づかなかった。一歩踏み出すたびに、背中が少しずつ遠ざかった。遠ざかるのではなく、霧が濃くなっていくのかもしれなかった。どちらかわからなかった。ただ、届かなかった。
霧が、また濃くなった。
背中の輪郭が、薄れ始めた。
「待って」
今度は声にならなかった。喉が動いた。でも、音が出なかった。霧が口の中まで入ってきたような、そういう感覚だった。
背中が、消えた。
霧だけが、残った。
一人だった。
どこにいるのかわからない。どこへ行けばいいのかわからない。帰る場所がどこなのかわからない。
来た道もない。
行く道もない。
霧だけがあった。
※
目が覚めた。
荒い息ではなかった。静かに、目が覚めた。
天井があった。節目がある。木目がある。薪ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。
シリウスはしばらく、天井を見ていた。
怖い夢だった。でも、さっきの夢とは怖さの種類が違った。追いかけてくるものがいなかった。音もなかった。ただ、一人だった。帰れなかった。それだけだった。それだけなのに、目が覚めた後も、何かが胸の奥に残っていた。
重かった。
追いかけてくるものの怖さではなかった。静かな怖さだった。じわじわと染み込む種類の怖さだった。
隣を見た。
ルドルフが眠っていた。ラモーヌが眠っていた。
二人がいた。
二人がいることを確かめてから、シリウスは天井に視線を戻した。
夢の中では一人だった。どこにも帰れなかった。でも、今は違う。二人がいる。男がいる。小屋がある。
それだけが、今夜の確かなことだった。
※
六日目が始まった。
稽古が続いていた。
器を頭に乗せて、歩く。床を聞く。水をこぼさずに、歩く。それだけのことが、六日間で少しずつ変わっていた。
昨日のシリウスは、七歩続いた。七歩目でこぼれた。でも、七歩だった。
今日は、八歩を目指していた。
「床を、聞いてるか」
男が言った。振り返らなかった。作業をしながら言った。
「聞いてる」
「水を、見てるか」
「見てない」
「水のことを考えてるか」
シリウスは少し止まった。
「……少し」
「それだ」
それだけだった。男はまた作業に戻った。
シリウスは出発点に向かいながら、考えた。水のことを考えていた。考えていないつもりだったが、考えていた。考えていなければ、あと何歩続くか気にしなかった。気にしていた。気にしているということは、水のことを考えているということだ。
また器を乗せた。
床だけを聞いた。水のことを考えないようにした。
一歩。床が返してきた。
二歩。また返してきた。
三歩。四歩。五歩。六歩。七歩。
八歩。
こぼれた。
でも、八歩だった。
「……っ」
シリウスが短く息を吐いた。出発点に戻りながら、尾が揺れていた。揺れたことに、気づいていなかった。
※
昼過ぎになった頃だった。
ルドルフが口を開いた。
「小鳥遊さん」
男の針が、一瞬だけ止まった。振り向きはしなかった。
「一つだけ、聞いていいかしら」
「何」
ルドルフは少し間を置いた。器を頭に乗せたまま、男を見ていた。
「ここには、どれくらいいるの?」
男は少し間を置いた。
「しばらく、いる」
「しばらくというのは、どのくらい?」
「わからない」
「行き先は、あるのかしら」
また間があった。
「今は、ない」
「今は、というのは……」
「決まれば、行く」
ルドルフは男を見た。決まれば行く、という言葉を聞いた。決まっていなければ、ここにいる。ここにいる理由が「決まっていないから」という消極的なものだとしたら——この人は、どこへ向かっているのだろう。
「どこから来たの」
男は、縫いかけていた布を膝に置いた。少し間があった。針の音が消えた小屋は、ストーブの燃える音だけが残った。
「遠いところから」
「距離では、測れないの?」
男はストーブの火を見た。炎の光が、横顔に深い影を作っていた。
「測れない」
「どういう意味かしら」
「場所では測れない」
ルドルフは、その言葉を聞いた。場所では測れない。どういう意味なのか、すぐにはわからなかった。場所ではないのか。それとも、場所という概念自体が違うのか。
「……家族は、いるの?」
男は少し間を置いた。
「いる」
「会えるのかしら」
「会える。呼ばれれば」
「呼ばれなければ、会いに行けないの?」
「そうだ」
ルドルフは少し止まった。呼ばれない限り、会いに行けない。選択の問題ではなく、そういう仕組みがある、ということだろうか。
「……寂しくないのかしら」
部屋が少し静かになった。
ラモーヌが手を止めた。シリウスが男の方を見た。
男は少し間を置いた。
「寂しい、というのが何かは、よくわからない」
「よくわからないの?」
「感じたことがないわけではない。でも、どれが寂しさなのか、確かめる方法がない」
ルドルフは、その答えを聞いた。
強がりでも、はぐらかしでもない。本当に「わからない」人間の声だった。
この人は、どれほどの時間を、たった一人で過ごしてきたのだろう。
その問いが、胸の奥まで落ちていった。落ちたまま、どこにも辿り着かなかった。言葉にしようとしたが、できなかった。できないまま、聞いてはいけないような気がした。
「……そう」
ルドルフはそれだけ言った。
男は、また針を持った。
静かな音が、戻ってきた。
※
「小鳥遊」
シリウスが言った。器を頭に乗せたまま、男の背中に向けた声だった。
「あの夜、枝が黒くなった」
男が、少し間を置いた。
「見えていたか」
シリウスは、その一瞬で何かを受け取った。
見えていたか、と聞いた。見間違いだとは言わなかった。気のせいだとも言わなかった。「見えていたか」と聞いた——それはつまり、見えるものがそこにあったということだ。あの枝は、確かに黒くなった。
「見えた」
答えながら、胸の奥で何かが締まった。これまでこの男に問いかけるたびに、答えになっていない答えが返ってきた。なぜあの羆が退いたのか。なぜ枝が折れなかったのか。場所では測れないとはどういう意味か。全部、答えなのか答えでないのかわからない言葉が返ってきた。なのにこの一言だけは、違った。この人が、うっかりと事実を認めた。
そういう気がした。気がしただけだが、幼いなりに、少しだけ気分が良かった。
「なぜあれで羆の爪が止まった」
男は少し間を置いた。
「……うまく説明できない」
「説明できないのか、しないのか」
「両方だ」
シリウスの尾が、少し揺れた。予想通りの返し方だった。予想通りだったから、苛立ちよりも先に、少し可笑しかった。
「使えるようになれるのかしら」
ルドルフが続けた。声が、少し真剣だった。
男はルドルフを見た。
「可能性はある」
「どうすれば」
男は少し間を置いた。
「……わからない」
「わからないの」
「俺は、気づいたら使えていた。だから、どうすれば使えるようになるのかは、知らない」
「じゃあ——」
「ただ、続けるのが無駄になるとは思わない」
ルドルフは男を見た。気づいたら使えていた、と言った。それは、答えになっているような、なっていないような言葉だった。でも、嘘ではないとわかった。この人は、自分が知らないことを知らないと言った。それだけは、確かだった。
しばらく、静かだった。
「あんた」
またシリウスが言った。今度は少し声の質が変わっていた。
「あの夜——息が白くなかった」
男の針が、一拍だけ止まった。
「……もっと寒いところにいたことがある」
シリウスが少し止まった。
「どれくらい寒い」
「吐く息が白くなる前に凍る」
シリウスの手が、器を抑えた。ルドルフが手を止めた。ラモーヌが火から目を離した。
「どこだ、そこ」
「遠い」
「どれくらい遠い」
男は少し間を置いた。
「お前たちが走って行ける距離ではない」
シリウスは返す言葉を探した。探して、見つからなかった。走って行ける距離ではない、という言い方が、この男の「遠い」の単位を教えていた。十数キロの話ではない。何百キロの話でもない。そういう距離の話でもない。
「……どうせ場所では測れない、ってやつか」
男は少し間を置いた。
「そうだ」
シリウスの尾が、また揺れた。今度は可笑しさではなかった。この男のはぐらかし方が、少しずつわかってきた気がした。わかってきた、ということが、なぜか悔しくなかった。
ラモーヌは、炎を見ていた。
でも、鼻が動いていた。
この小屋の匂いを、少しずつ分解していた。薪の煙。草の煎じ薬。男の外套の獣皮。それから——もう少し細かいものが混ざっていた。包帯の布の匂いが、ずっと気になっていた。山の外の匂いがする、とあの最初の朝に感じた。でも、それだけではなかった。
「あの包帯」
ラモーヌが言った。
男が振り返った。
「山の外の匂いがする。でも、買ったものとも少し違う。誰かから、受け取ったの?」
男は少し間を置いた。
「交換した」
「交換」
「この山で採れるものと、里のものを。夏の終わりに」
ラモーヌは小屋の中を見渡した。
棚がある。道具がある。毛皮がある。でも、ガラスも、金属の器具も、店で売っているようなものはほとんどない。外から来ているものは、数えるほどしかなかった。
「……毛皮とか、そういうもの?」
「そうだ」
ラモーヌは視線を炎に戻した。
夏の終わりに、誰かとこの山で物を交換した。その誰かがここに来たのか、この男が里に下りたのか。どちらかはわからなかった。でも、誰かがいた。この山のそばに、この男を知っている誰かが。
それだけを、炎を見ながら静かに受け取った。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
男は、また針を動かした。規則的な音が、また続いた。
※
夕方になった。
「少し出る」
男が外套を手に取った。
三人の心拍が、少し上がった。六日目になっても、慣れなかった。
「今夜も確かめに行くの」
シリウスが聞いた。
「ああ」
「羆は」
「昨日より遠い。でも、確かめる」
「遠いというのは、南へ向かっているということか」
「そうだ」
「南に何がある?」
男は少し間を置いた。
「人がいる場所がある」
人がいる場所。
シリウスは、その言葉を聞いた。
人がいる場所。捜索が来ているとしたら、南から来る。山の下から来る。そちらへ向かっているということは——あのものが向かっているということは——。
「危ないんじゃないか」
「危ない」
「止められないのか」
男は少し間を置いた。
「止める方法はある。ただ——」
「ただ?」
「今夜は様子を見る」
シリウスは男を見た。今夜は様子を見る。止める方法があるが、今夜は見る。それはつまり、まだそこまで切迫していないということか。それとも、別の理由があるのか。
「……わかった」
シリウスは言った。
わかったわけではなかった。でも、これ以上聞いても答えが変わらないとわかっていた。
扉が開いた。冷気が入った。扉が閉まった。
※
足音が、遠ざかっていった。
三十歩で、消えた。
「南に向かっているって言ってた」
シリウスが言った。
「捜索が来ているということかしら」
ルドルフが言った。
「わからない。でも、人の気配がある方へ向かっているって」
ラモーヌは炎を見ていた。
人の気配がある方へ向かっている。捜索かもしれない。誰かが山に入っている。誰かが、三人を捜している。それはわかっていた。ずっとわかっていた。アサマが捜しているだろうとわかっていた。
でも、あの羆も南へ向かっている。
「止める方法があると言っていたわ」
ラモーヌが言った。
「今夜は様子を見ると言っていた」とシリウスが続けた。「それがどういう意味なのかは、わからなかったけど」
「信じるしかないのね」
ルドルフが静かに言った。
「そうね」
三人とも、炎を見た。
揺れていた。消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。
ラモーヌは自分の脚を動かした。
動いた。今日も動いた。六日間、毎日動いた。最初の夜、動かなかった脚が、今は動く。床を聞きながら歩けるようになってきた。まだ走れない。でも、動く。
動く。
それだけが、今日も確かなことだった。
「小鳥遊って」
シリウスが言った。
「何が?」
「どこから来たんだろ。場所では測れないって言ってた」
「変な言い方ね」
「変だった。でも、嘘じゃなかった」
ラモーヌは炎を見たまま、頷いた。
嘘じゃなかった。この人が言うことは、いつも嘘じゃない。でも、全部を教えてくれるわけでもない。場所では測れない、と言った。寂しさが何かよくわからない、と言った。家族がいるが、呼ばれなければ会いに行けない、と言った。
それが何を意味するのか、ラモーヌにはまだわからなかった。
わからないまま、炎を見ていた。
「測れない人ね」
ラモーヌが言った。
「ずっとそうだわ」とシリウスが言った。「最初から、測れない」
「でも怖くない」
「怖くない」
三人とも、しばらく黙っていた。
男が戻ってくるのを待っていた。炎が揺れていた。消えなかった。
※
男が戻ってきた。
「今夜は来なかった」
ラモーヌが息を吐いた。
「南は」
「さらに遠ざかっていた」
「捜索の人たちには」
「届いていない」
シリウスは少し間を置いた。
「今夜は、止めなかったのか」
「まだその必要はない」
「どこから先が必要になる」
男は少し間を置いた。
「それが近づく前に、お前たちを下ろす」
シリウスは男の背中を見た。
自分たちの手が届かない場所で、この男はあの羆と向き合い、見えない境界線を引いている。その事実が、シリウスの胸の奥に重く落ちた。何かを言いたかった。でも、言葉にならなかった。
「……信じる」
シリウスが言った。
声が、少し震えた。普段のシリウスなら、こんな言い方はしなかった。でも今夜は、これしか出てこなかった。それ以外の言葉は、全て嘘になる気がした。
男は何も言わなかった。
薪をくべた。それだけだった。
炎が、少し大きくなった。橙色の光が、また部屋の隅々まで満ちた。
※
七日目の朝、シリウスは目を覚ました。
天井があった。節目がある。木目がある。
夢を見たかどうか、覚えていなかった。
覚えていない。
それだけだった。覚えていないということは、怖い夢ではなかったのかもしれなかった。あるいは、見なかったのかもしれなかった。どちらかはわからなかった。
でも、覚えていなかった。
シリウスは天井を見たまま、脚を動かした。
動いた。
昨日より大きく動いた気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。でも、動いた。
今日は何の日だっけ、と思った。
七日目だった。
壁の隅に視線をやった。
昨日まで男が縫い続けていた分厚い布が、きれいに畳まれて三つ並んでいた。朝の薄い光の中で、それだけがはっきりと見えた。
一週間で、まともな服が作れると言っていた。
シリウスは天井を見たまま、少し考えた。
今日は何かが変わるかもしれない。
そういう気がした。根拠はなかった。でも、そういう気がした。