氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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どこから来たのか、と聞かれた。
場所では測れない、と答えた。
嘘ではなかった。
寂しいか、と聞かれた。
寂しいというのが何かは、よくわからない、と答えた。
これも嘘ではなかった。
——だが、どの問いにも、少女たちの目が変わった。
測れないはずのものを、彼女たちは別の方法で測っていた。


03-六.「場所では測れない」

霧だった。

 

また、霧の中にいた。

 

でも、今夜は違った。追いかけてくるものの音がしなかった。足が沈まなかった。ただ、霧の中を歩いていた。

 

霧は重かった。白く濁った冷たさが、肌に張りついていた。息を吸うたびに、肺の奥まで冷えが染み込んでくる気がした。

 

歩いていた。

 

歩いていたはずなのに、どこへ向かっているのかわからなかった。目的地があった気がした。どこかへ向かっていた気がした。でも、どこだったか、思い出せなかった。

 

振り返った。

 

道が、なかった。

 

来た道があるはずだった。足跡があるはずだった。でも、何もなかった。霧だけがあった。白い霧が、来た道を飲んでいた。

 

また歩いた。

 

また振り返った。

 

また、道がなかった。

 

おかしい、とわかっていた。わかっていても、止まれなかった。止まれば、もっと怖かった。だから歩き続けた。歩き続けても、どこにも辿り着かなかった。

 

木があった。

 

太い木だった。見覚えがある気がした。さっきも、同じ木の前を通った気がした。でも、確かめようがなかった。どの木も同じに見えた。どの霧も同じだった。

 

どこにいるのかわからなかった。

 

どこへ向かえばいいのかわからなかった。

 

帰りたかった。

 

胸が締めつけられるような感覚があった。喉が渇いた。足が重かった。帰る、というのがどこなのか、わからなかった。屋敷ではない気がした。もっと遠いところだった。もっと温かいところだった。どこなのか、言葉にならなかった。

 

足が、止まった。

 

霧の中に、輪郭があった。

 

大きな輪郭だった。遠かった。遠いのに、輪郭だけははっきりしていた。人の形だった。こちらに背を向けていた。

 

男の背中だった。

 

見覚えがあった。見覚えがある、というより——知っていた。あの外套の厚さを知っていた。あの肩の幅を知っていた。

 

「待って」

 

声が出た。届かなかった。男の背中は動かなかった。霧の中に、ただ立っていた。

 

「待って」

 

もう一度呼んだ。やはり届かなかった。

 

歩いた。男の背中に向かって歩いた。でも、近づかなかった。一歩踏み出すたびに、背中が少しずつ遠ざかった。遠ざかるのではなく、霧が濃くなっていくのかもしれなかった。どちらかわからなかった。ただ、届かなかった。

 

霧が、また濃くなった。

 

背中の輪郭が、薄れ始めた。

 

「待って」

 

今度は声にならなかった。喉が動いた。でも、音が出なかった。霧が口の中まで入ってきたような、そういう感覚だった。

 

背中が、消えた。

 

霧だけが、残った。

 

一人だった。

 

どこにいるのかわからない。どこへ行けばいいのかわからない。帰る場所がどこなのかわからない。

 

来た道もない。

 

行く道もない。

 

霧だけがあった。

 

 

    ※

 

 

目が覚めた。

 

荒い息ではなかった。静かに、目が覚めた。

 

天井があった。節目がある。木目がある。薪ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。

 

シリウスはしばらく、天井を見ていた。

 

怖い夢だった。でも、さっきの夢とは怖さの種類が違った。追いかけてくるものがいなかった。音もなかった。ただ、一人だった。帰れなかった。それだけだった。それだけなのに、目が覚めた後も、何かが胸の奥に残っていた。

 

重かった。

 

追いかけてくるものの怖さではなかった。静かな怖さだった。じわじわと染み込む種類の怖さだった。

 

隣を見た。

 

ルドルフが眠っていた。ラモーヌが眠っていた。

 

二人がいた。

 

二人がいることを確かめてから、シリウスは天井に視線を戻した。

 

夢の中では一人だった。どこにも帰れなかった。でも、今は違う。二人がいる。男がいる。小屋がある。

 

それだけが、今夜の確かなことだった。

 

 

    ※

 

 

六日目が始まった。

 

稽古が続いていた。

 

器を頭に乗せて、歩く。床を聞く。水をこぼさずに、歩く。それだけのことが、六日間で少しずつ変わっていた。

 

昨日のシリウスは、七歩続いた。七歩目でこぼれた。でも、七歩だった。

 

今日は、八歩を目指していた。

 

「床を、聞いてるか」

 

男が言った。振り返らなかった。作業をしながら言った。

 

「聞いてる」

 

「水を、見てるか」

 

「見てない」

 

「水のことを考えてるか」

 

シリウスは少し止まった。

 

「……少し」

 

「それだ」

 

それだけだった。男はまた作業に戻った。

 

シリウスは出発点に向かいながら、考えた。水のことを考えていた。考えていないつもりだったが、考えていた。考えていなければ、あと何歩続くか気にしなかった。気にしていた。気にしているということは、水のことを考えているということだ。

 

また器を乗せた。

 

床だけを聞いた。水のことを考えないようにした。

 

一歩。床が返してきた。

 

二歩。また返してきた。

 

三歩。四歩。五歩。六歩。七歩。

 

八歩。

 

こぼれた。

 

でも、八歩だった。

 

「……っ」

 

シリウスが短く息を吐いた。出発点に戻りながら、尾が揺れていた。揺れたことに、気づいていなかった。

 

 

    ※

 

 

昼過ぎになった頃だった。

 

ルドルフが口を開いた。

 

「小鳥遊さん」

 

男の針が、一瞬だけ止まった。振り向きはしなかった。

 

「一つだけ、聞いていいかしら」

 

「何」

 

ルドルフは少し間を置いた。器を頭に乗せたまま、男を見ていた。

 

「ここには、どれくらいいるの?」

 

男は少し間を置いた。

 

「しばらく、いる」

 

「しばらくというのは、どのくらい?」

 

「わからない」

 

「行き先は、あるのかしら」

 

また間があった。

 

「今は、ない」

 

「今は、というのは……」

 

「決まれば、行く」

 

ルドルフは男を見た。決まれば行く、という言葉を聞いた。決まっていなければ、ここにいる。ここにいる理由が「決まっていないから」という消極的なものだとしたら——この人は、どこへ向かっているのだろう。

 

「どこから来たの」

 

男は、縫いかけていた布を膝に置いた。少し間があった。針の音が消えた小屋は、ストーブの燃える音だけが残った。

 

「遠いところから」

 

「距離では、測れないの?」

 

男はストーブの火を見た。炎の光が、横顔に深い影を作っていた。

 

「測れない」

 

「どういう意味かしら」

 

「場所では測れない」

 

ルドルフは、その言葉を聞いた。場所では測れない。どういう意味なのか、すぐにはわからなかった。場所ではないのか。それとも、場所という概念自体が違うのか。

 

「……家族は、いるの?」

 

男は少し間を置いた。

 

「いる」

 

「会えるのかしら」

 

「会える。呼ばれれば」

 

「呼ばれなければ、会いに行けないの?」

 

「そうだ」

 

ルドルフは少し止まった。呼ばれない限り、会いに行けない。選択の問題ではなく、そういう仕組みがある、ということだろうか。

 

「……寂しくないのかしら」

 

部屋が少し静かになった。

 

ラモーヌが手を止めた。シリウスが男の方を見た。

 

男は少し間を置いた。

 

「寂しい、というのが何かは、よくわからない」

 

「よくわからないの?」

 

「感じたことがないわけではない。でも、どれが寂しさなのか、確かめる方法がない」

 

ルドルフは、その答えを聞いた。

 

強がりでも、はぐらかしでもない。本当に「わからない」人間の声だった。

 

この人は、どれほどの時間を、たった一人で過ごしてきたのだろう。

 

その問いが、胸の奥まで落ちていった。落ちたまま、どこにも辿り着かなかった。言葉にしようとしたが、できなかった。できないまま、聞いてはいけないような気がした。

 

「……そう」

 

ルドルフはそれだけ言った。

 

男は、また針を持った。

 

静かな音が、戻ってきた。

 

 

    ※

 

 

「小鳥遊」

 

シリウスが言った。器を頭に乗せたまま、男の背中に向けた声だった。

 

「あの夜、枝が黒くなった」

 

男が、少し間を置いた。

 

「見えていたか」

 

シリウスは、その一瞬で何かを受け取った。

 

見えていたか、と聞いた。見間違いだとは言わなかった。気のせいだとも言わなかった。「見えていたか」と聞いた——それはつまり、見えるものがそこにあったということだ。あの枝は、確かに黒くなった。

 

「見えた」

 

答えながら、胸の奥で何かが締まった。これまでこの男に問いかけるたびに、答えになっていない答えが返ってきた。なぜあの羆が退いたのか。なぜ枝が折れなかったのか。場所では測れないとはどういう意味か。全部、答えなのか答えでないのかわからない言葉が返ってきた。なのにこの一言だけは、違った。この人が、うっかりと事実を認めた。

 

そういう気がした。気がしただけだが、幼いなりに、少しだけ気分が良かった。

 

「なぜあれで羆の爪が止まった」

 

男は少し間を置いた。

 

「……うまく説明できない」

 

「説明できないのか、しないのか」

 

「両方だ」

 

シリウスの尾が、少し揺れた。予想通りの返し方だった。予想通りだったから、苛立ちよりも先に、少し可笑しかった。

 

「使えるようになれるのかしら」

 

ルドルフが続けた。声が、少し真剣だった。

 

男はルドルフを見た。

 

「可能性はある」

 

「どうすれば」

 

男は少し間を置いた。

 

「……わからない」

 

「わからないの」

 

「俺は、気づいたら使えていた。だから、どうすれば使えるようになるのかは、知らない」

 

「じゃあ——」

 

「ただ、続けるのが無駄になるとは思わない」

 

ルドルフは男を見た。気づいたら使えていた、と言った。それは、答えになっているような、なっていないような言葉だった。でも、嘘ではないとわかった。この人は、自分が知らないことを知らないと言った。それだけは、確かだった。

 

しばらく、静かだった。

 

「あんた」

 

またシリウスが言った。今度は少し声の質が変わっていた。

 

「あの夜——息が白くなかった」

 

男の針が、一拍だけ止まった。

 

「……もっと寒いところにいたことがある」

 

シリウスが少し止まった。

 

「どれくらい寒い」

 

「吐く息が白くなる前に凍る」

 

シリウスの手が、器を抑えた。ルドルフが手を止めた。ラモーヌが火から目を離した。

 

「どこだ、そこ」

 

「遠い」

 

「どれくらい遠い」

 

男は少し間を置いた。

 

「お前たちが走って行ける距離ではない」

 

シリウスは返す言葉を探した。探して、見つからなかった。走って行ける距離ではない、という言い方が、この男の「遠い」の単位を教えていた。十数キロの話ではない。何百キロの話でもない。そういう距離の話でもない。

 

「……どうせ場所では測れない、ってやつか」

 

男は少し間を置いた。

 

「そうだ」

 

シリウスの尾が、また揺れた。今度は可笑しさではなかった。この男のはぐらかし方が、少しずつわかってきた気がした。わかってきた、ということが、なぜか悔しくなかった。

 

ラモーヌは、炎を見ていた。

 

でも、鼻が動いていた。

 

この小屋の匂いを、少しずつ分解していた。薪の煙。草の煎じ薬。男の外套の獣皮。それから——もう少し細かいものが混ざっていた。包帯の布の匂いが、ずっと気になっていた。山の外の匂いがする、とあの最初の朝に感じた。でも、それだけではなかった。

 

「あの包帯」

 

ラモーヌが言った。

 

男が振り返った。

 

「山の外の匂いがする。でも、買ったものとも少し違う。誰かから、受け取ったの?」

 

男は少し間を置いた。

 

「交換した」

 

「交換」

 

「この山で採れるものと、里のものを。夏の終わりに」

 

ラモーヌは小屋の中を見渡した。

 

棚がある。道具がある。毛皮がある。でも、ガラスも、金属の器具も、店で売っているようなものはほとんどない。外から来ているものは、数えるほどしかなかった。

 

「……毛皮とか、そういうもの?」

 

「そうだ」

 

ラモーヌは視線を炎に戻した。

 

夏の終わりに、誰かとこの山で物を交換した。その誰かがここに来たのか、この男が里に下りたのか。どちらかはわからなかった。でも、誰かがいた。この山のそばに、この男を知っている誰かが。

 

それだけを、炎を見ながら静かに受け取った。

 

三人とも、しばらく何も言わなかった。

 

男は、また針を動かした。規則的な音が、また続いた。

 

 

    ※

 

 

夕方になった。

 

「少し出る」

 

男が外套を手に取った。

 

三人の心拍が、少し上がった。六日目になっても、慣れなかった。

 

「今夜も確かめに行くの」

 

シリウスが聞いた。

 

「ああ」

 

「羆は」

 

「昨日より遠い。でも、確かめる」

 

「遠いというのは、南へ向かっているということか」

 

「そうだ」

 

「南に何がある?」

 

男は少し間を置いた。

 

「人がいる場所がある」

 

人がいる場所。

 

シリウスは、その言葉を聞いた。

 

人がいる場所。捜索が来ているとしたら、南から来る。山の下から来る。そちらへ向かっているということは——あのものが向かっているということは——。

 

「危ないんじゃないか」

 

「危ない」

 

「止められないのか」

 

男は少し間を置いた。

 

「止める方法はある。ただ——」

 

「ただ?」

 

「今夜は様子を見る」

 

シリウスは男を見た。今夜は様子を見る。止める方法があるが、今夜は見る。それはつまり、まだそこまで切迫していないということか。それとも、別の理由があるのか。

 

「……わかった」

 

シリウスは言った。

 

わかったわけではなかった。でも、これ以上聞いても答えが変わらないとわかっていた。

 

扉が開いた。冷気が入った。扉が閉まった。

 

 

    ※

 

 

足音が、遠ざかっていった。

 

三十歩で、消えた。

 

「南に向かっているって言ってた」

 

シリウスが言った。

 

「捜索が来ているということかしら」

 

ルドルフが言った。

 

「わからない。でも、人の気配がある方へ向かっているって」

 

ラモーヌは炎を見ていた。

 

人の気配がある方へ向かっている。捜索かもしれない。誰かが山に入っている。誰かが、三人を捜している。それはわかっていた。ずっとわかっていた。アサマが捜しているだろうとわかっていた。

 

でも、あの羆も南へ向かっている。

 

「止める方法があると言っていたわ」

 

ラモーヌが言った。

 

「今夜は様子を見ると言っていた」とシリウスが続けた。「それがどういう意味なのかは、わからなかったけど」

 

「信じるしかないのね」

 

ルドルフが静かに言った。

 

「そうね」

 

三人とも、炎を見た。

 

揺れていた。消えなかった。どんな形に揺れても、消えなかった。

 

ラモーヌは自分の脚を動かした。

 

動いた。今日も動いた。六日間、毎日動いた。最初の夜、動かなかった脚が、今は動く。床を聞きながら歩けるようになってきた。まだ走れない。でも、動く。

 

動く。

 

それだけが、今日も確かなことだった。

 

「小鳥遊って」

 

シリウスが言った。

 

「何が?」

 

「どこから来たんだろ。場所では測れないって言ってた」

 

「変な言い方ね」

 

「変だった。でも、嘘じゃなかった」

 

ラモーヌは炎を見たまま、頷いた。

 

嘘じゃなかった。この人が言うことは、いつも嘘じゃない。でも、全部を教えてくれるわけでもない。場所では測れない、と言った。寂しさが何かよくわからない、と言った。家族がいるが、呼ばれなければ会いに行けない、と言った。

 

それが何を意味するのか、ラモーヌにはまだわからなかった。

 

わからないまま、炎を見ていた。

 

「測れない人ね」

 

ラモーヌが言った。

 

「ずっとそうだわ」とシリウスが言った。「最初から、測れない」

 

「でも怖くない」

 

「怖くない」

 

三人とも、しばらく黙っていた。

 

男が戻ってくるのを待っていた。炎が揺れていた。消えなかった。

 

 

    ※

 

 

男が戻ってきた。

 

「今夜は来なかった」

 

ラモーヌが息を吐いた。

 

「南は」

 

「さらに遠ざかっていた」

 

「捜索の人たちには」

 

「届いていない」

 

シリウスは少し間を置いた。

 

「今夜は、止めなかったのか」

 

「まだその必要はない」

 

「どこから先が必要になる」

 

男は少し間を置いた。

 

「それが近づく前に、お前たちを下ろす」

 

シリウスは男の背中を見た。

 

自分たちの手が届かない場所で、この男はあの羆と向き合い、見えない境界線を引いている。その事実が、シリウスの胸の奥に重く落ちた。何かを言いたかった。でも、言葉にならなかった。

 

「……信じる」

 

シリウスが言った。

 

声が、少し震えた。普段のシリウスなら、こんな言い方はしなかった。でも今夜は、これしか出てこなかった。それ以外の言葉は、全て嘘になる気がした。

 

男は何も言わなかった。

 

薪をくべた。それだけだった。

 

炎が、少し大きくなった。橙色の光が、また部屋の隅々まで満ちた。

 

 

    ※

 

 

七日目の朝、シリウスは目を覚ました。

 

天井があった。節目がある。木目がある。

 

夢を見たかどうか、覚えていなかった。

 

覚えていない。

 

それだけだった。覚えていないということは、怖い夢ではなかったのかもしれなかった。あるいは、見なかったのかもしれなかった。どちらかはわからなかった。

 

でも、覚えていなかった。

 

シリウスは天井を見たまま、脚を動かした。

 

動いた。

 

昨日より大きく動いた気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。でも、動いた。

 

今日は何の日だっけ、と思った。

 

七日目だった。

 

壁の隅に視線をやった。

 

昨日まで男が縫い続けていた分厚い布が、きれいに畳まれて三つ並んでいた。朝の薄い光の中で、それだけがはっきりと見えた。

 

一週間で、まともな服が作れると言っていた。

 

シリウスは天井を見たまま、少し考えた。

 

今日は何かが変わるかもしれない。

 

そういう気がした。根拠はなかった。でも、そういう気がした。

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