氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
「今日はここまでにしよう」
ルドルフが言った。
カップを片付ける音がした。エアグルーヴが立ち上がった。テイオーが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
窓の外が、暗くなっていた。橙色が消えて、藍色が滲み始めていた。門限が近かった。
「……続きは」
テイオーが言いかけた。
「また今度」
ルドルフが静かに言った。
テイオーは少し黙った。それから、小さく頷いた。
カチャリ、と最後の茶器が片付いた。
※
廊下に出た時、三人と三人が少しだけ向き合った。
トウカイテイオーが、シンボリルドルフを見た。何かを言おうとした。言葉が出てこなかった。出てこないまま、少し目が赤くなった。
「……うん」
それだけ言った。何が「うん」なのか、自分でもわからなかった。でも、それ以外の言葉が見つからなかった。
ルドルフは頷いた。
ナリタブライアンは、シリウスシンボリを見た。
何も言わなかった。一秒だけ、目が合った。それだけだった。
シリウスも何も言わなかった。でも、視線を逸らさなかった。
エアグルーヴが、メジロラモーヌの前に立った。
「……今夜の話は」
少し間を置いた。
「聞けてよかった」
ラモーヌは静かに頷いた。
「そう」
それだけだった。
栗東組が歩き始めた。廊下の角を曲がって、見えなくなった。
美浦組は少しの間、廊下に立っていた。
※
トウカイテイオーは、少し速く歩いた。
エアグルーヴとナリタブライアンが後に続いた。追いつこうとはしなかった。追いつかなくていいとわかっていた。
テイオーは黙ったまま歩いた。
いつもなら何か言う。何か言って、笑って、場の空気を動かす。それがトウカイテイオーというウマ娘だった。でも今夜は、何も出てこなかった。
カイチョーが、怖かった、と言った。
そのことだけが、まだ胸の中にあった。怖かった。あのシンボリルドルフが、七歳の夜に、怖くて脚が震えたと言った。それでも走るしかなかったと言った。
テイオーは、自分の脚を見た。
歩きながら、自分の脚を見た。動いていた。当たり前のように動いていた。
「……カイチョー」
声には出なかった。口の形だけが、動いた。
エアグルーヴがテイオーの隣に並んだ。何も言わなかった。ただ、並んだ。
※
ナリタブライアンは二人の少し後ろを歩いていた。追いつこうとは思わなかった。
トウカイテイオーが何か言いかけて、やめた。エアグルーヴが一度だけ振り返って、また前を向いた。
ブライアンは枝を噛んだまま、空を見た。
暗くなっていた。星が出ていた。北の空に、雲が出ていた。
あの雪の中に、三人がいた。七歳の夜に。吹雪の中に。
手を、離さなかったか。
さっきも同じことを考えた。答えは出なかった。
ブライアンは、無意識に左手を握り込んだ。そこに誰かの手がある感覚を想像しようとして、止めた。あの吹雪の中で、誰かの手を握り続けられただろうか。あの斜面を、手を離さずに下りられただろうか。
答えは出なかった。出なかったが、今は少し違う気がした。あの話を聞いて、何かが変わった。何が変わったのかは、言葉にならなかった。
ただ、握り込んだ左手が、少しだけ緩んだ。
姉貴は、いつも傍にいた。
それだけのことが、今夜この帰り道で、また別の重さを持った。
「……行くぞ」
ブライアンが言った。
トウカイテイオーが振り返った。目が赤かった。
「うん」
それだけだった。三人は歩き続けた。
※
廊下を出た時、風が来た。
夕暮れの風だった。晩秋の冷たさが、頬を打った。
エアグルーヴは少しだけ立ち止まった。
トウカイテイオーが前を歩いていた。肩が、少し落ちていた。ナリタブライアンが後ろを歩いていた。枝を噛んでいた。
今夜聞いた話が、まだ耳の中にあった。
七歳の夜のことだ。自分が知らなかった、あの三人の話だ。
今のシンボリルドルフを知っている。今のシリウスシンボリを知っている。今のメジロラモーヌを知っている。その三人が、あの夜に何を抱えていたかを、今夜初めて知った。
エアグルーヴは、また歩き始めた。
「……急げ。門限だ」
トウカイテイオーが小さく笑った。笑い声というより、息が漏れた感じだった。
ナリタブライアンは何も言わなかった。
三人は、夕暮れの中を歩いた。
※
生徒会室の扉を閉めたのは、ルドルフだった。
鍵を確かめて、廊下に出た。シリウスとラモーヌが先に出ていた。三人とも、少し黙っていた。
歩き始めた。
夕暮れの廊下は、橙色だった。窓の外に、暗くなりかけた空が見えた。北の方角の雲が、少し重かった。
「話したら」
シリウスが言った。
歩きながら、前を向いたまま言った。
「変な感じ、しなかったか?」
「変な感じ?」
「思い出したくなかったものまで、ついでに思い出した」
ルドルフは少し間を置いた。
「私もそうよ」
ラモーヌが静かに言った。「言葉にしたら、逆に戻ってきたわ。匂いとか、温度とか」
シリウスは歩きながら、自分の手を見た。
一人では動けなかったときに男に介助された時のことを思い出した。思い出して、耳が熱くなった。今更だった。あれから何年も経っているのに、今更耳が熱くなった。
話さなければよかったとは思わなかった。でも、話したことで蓋が開いた感じがした。開いてしまったものは、もう閉まらなかった。
「……ったく」
シリウスが言った。
「何が」
「全部。あの人が、ずるい」
ルドルフは答えなかった。答えなくていいとわかっていた。
ラモーヌは空を見ていた。
鼻が、微かに動いた。
あの小屋はまだある。今夜もストーブが燃えているだろう。あの人がいるだろう。測れない人が、今夜もあの場所にいる。
帰れた。無事に家族と再開できた。でも、あそこに置いてきたものがある気がした。何を置いてきたのかは、言葉にならなかった。
「いたかった、と言っていたわね」
ラモーヌが言った。シリウスに向けた言葉だった。
シリウスは少し止まった。
「言った」
「今も、そう思う?」
シリウスは答えなかった。
答えなかったが、歩く速度が少しだけ落ちた。それだけだった。
ルドルフは二人の少し前を歩いていた。
あの夜のことを考えていた。背中に掴まっていたことを。「大丈夫だ」という声を。名前を呼ばれた朝を。今日、人前でその話をして、初めて気づいたことがあった。
あの時の自分は、どこかで——。
考えかけて、やめた。
やめて、また歩いた。
「今日は、話してよかったよ」
ルドルフが言った。
前を向いたまま、静かに言った。声が、わずかに揺れた。
少し間があって、ルドルフが続けた。
「……温故知新、かな」
シリウスは何も言わなかった。
少し間があって、鼻で笑った。
「……らしいな」
ルドルフは少し口角を上げた。でも、その瞳は笑っていなかった。
「……ったく」
シリウスが言った。
ラモーヌは、寮の灯りを見た。
温かい色だった。安定した、揺れない光だった。でも、その光を見るほどに、鼻腔に別の匂いが戻ってきた。薪が爆ぜる匂い。乾いた木の匂い。あの小屋の、ストーブの前の空気の匂い。
今の自分がここに立っているのは、あの狭くて暗い場所で過ごした時間があったからだ。そのことが、影のように足元に伸びていた。
三人は、寮の手前で少しだけ立ち止まった。
何も言わなかった。
北の空を見た。雲が出ていた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
2026/05/06
連載を始めて1ヶ月越え。
やっと 10,000 UA と、お気に入り 100 件を達成しました。
評価付けもありがとうございます。
引き続き、本作をお楽しみいただければ幸いです。
よろしくお願いします。