氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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服を渡した。
早い、という理由だけで測った。
それ以外の意味は、なかった。
三人の末端が、それぞれの形で忙しなかった。
関心の外だった。
——関心の外だったはずだが。
なぜ関心の外だとわかるのか、その理由を、今夜初めて考えた。


03-七.「いつ測ったの」

夢を見ていた。

 

霧の中だった。廊下もあった。どちらでもなかった。

 

霧の中に廊下があって、廊下の先に霧があって、境目がわからなかった。

 

追いかけてくるものがいなかった。

 

音がなかった。足音がなかった。扉もなかった。壁も、なかった。ただ、霧と廊下が混ざり合って、どこかへ続いていた。

 

どこかへ続いている。

 

だから、歩いた。どこへ向かっているのかわからなかった。でも、どこかへ続いているから、歩いた。歩きながら、霧が薄くなっていく気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。

 

薄くなっていく霧の向こうに、何かがある気がした。

何かがある気がしたから一歩を踏み出した。走らなかった、急いていなかった。

 

また一歩を進めたときに霧の中に影を視た。

知っている影だった。だからまた一歩を踏み出した。恐れなかった。恐れる必要のないものだった。

 

霧の中から手が伸びてきた。

知っている手だった。視線を前に向けても姿は見えなかった。――けど迷うことなく、その手を掴んだ。共に歩いた。一歩を踏み出した。

 

どこへ向かっているのか、考えている間に、目が覚めた。

 

 

    ※

 

 

目が覚めた。

 

荒い息ではなかった。静かに、目が覚めた。

 

天井があった。節目がある。木目がある。

 

ルドルフはしばらく、天井を見ていた。

 

夢の輪郭が、残っていなかった。

 

霧の中にいた気がした。廊下があった気がした。でも、何も残っていなかった。追いかけてくるものの音も。扉のない壁の感触も。耳の奥に残る足音も。

 

何も、なかった。

 

その中で、伸びてきた手を掴んだ気がした。知っている手だった。掴んだ手の感触が、温度が、たしかにあったはずなのに手から溢れ落ちていた。

 

残っていないことが、少し不思議な感じがした。

 

あの夜から毎朝、何かが残っていた。音か、匂いか、感触か、重さか。何かが必ず残っていた。それが今朝は、何もなかった。

 

残っていないだけで、何かが変わった気がした。

 

何が変わったのか、言葉にならなかった。でも、変わった。

 

隣を見た。ラモーヌが眠っていた。反対側を見た。シリウスが眠っていた。

 

二人とも、眠っていた。

 

ルドルフは天井を見たまま、脚を動かした。

 

動いた。

 

それだけが、七日目の朝の、確かなことだった。

 

 

    ※

 

 

男が三つの布を持ってきたのは、朝の稽古が終わった後だった。

 

折り畳まれていた。きれいに折り畳まれていた。三つ、並べて置いた。

 

「着ろ」

 

それだけだった。

 

三人は布を受け取った。広げた。

 

服だった。

 

袖があった。身頃があった。縫い目があった。

 

ルドルフは縫い目を見た。

 

均等だった。揃っていた。急ごしらえで作った最初の服とは違った。最初のものは温かかったが縫い目が粗かった。今手にあるものは、縫い目の一本一本が丁寧に揃っていた。

 

袖を通した。

 

布が、静かに肌に馴染んだ。滑らかではなかった。少しざらついていた。でも、動きやすかった。身体の形を知っているような、そういう馴染み方だった。

 

鼻に届いた。

 

草の匂い。獣の脂の匂い。それから——もっと奥の方に、鉄に似た何かが混じっていた。この小屋で毎日嗅いできた匂いだった。針を持つ指先の、あの匂いだった。

 

動きやすい、ということは、身体の寸法に合っている、ということだ。合っているためには、寸法を知っていなければならない。それに思い当たって、いろいろなものが脳裏を掠めていった。

 

「……いつ測ったの」

 

ルドルフが恐る恐る言った。

 

男が振り返らなかった。作業を続けながら答えた。

 

「診た時」

 

診た時。

 

一日目の夜だった。眠っている間に。三人がそれぞれ診られた。あの時に、寸法も確かめていた。眠っている間に、確かめていた。

 

「……それだけ?」

 

「運んだ時も」

 

薪が、一度だけ爆ぜた。

 

運んだ時。

 

あの夜、河原から小屋まで運ばれた。ルドルフは背負われた。背負われながら、意識が遠くなっていった。あの時も、確かめていた。

 

背中の熱を思い出した。外套の毛皮の匂いを思い出した。思い出して、頬が少し熱くなった。

 

シリウスが、自分の袖を見ていた。

 

片腕に抱えられた。抱えられながら、一歩踏み出した気がした。あの時も、確かめていた。

 

耳が、少しずつ後ろへ倒れていった。

 

ラモーヌは服の布地を指先で触れていた。

 

腕を支えられて歩いた。あの手の温度を、今も覚えている。あの時も、確かめていた。

 

鼻が、余計なことを思い出しそうになった。

 

小屋に運び込まれた夜のことだった。まだ一人では動けなかった。誰かに、どこかへ、どういう形で連れていかれたか——意識して忘れていたはずの記憶が、服の匂いと一緒に戻ってきた。

 

ラモーヌだけではなかった。

 

ルドルフも、シリウスも、同じ瞬間に同じものを思い出していた。それぞれが、それぞれの形で。

 

「……あの時も」

 

誰かが、小さく言った。誰が言ったのか、わからなかった。

 

三人とも、男の方を向いていなかった。

 

「肩を貸すより、こうした方が早い」

 

男が言った。

 

振り返らなかった。説明するつもりはなかったのかもしれなかった。ただ、そういうことだった、という確認だった。

 

早い。

 

それだけの理由だった。

 

三人の末端が、それぞれの形で忙しなかった。ルドルフの頬が熱かった。シリウスの耳が戻らなかった。ラモーヌの尾が揺れていた。

 

男は振り返らなかった。

 

関心の外にあるようだった。三人がどういう状態になっているか、まるで気にしていないようだった。

 

それがまた——と、三人とも思った。思ったことは、口にしなかった。口にできる状態ではなかった。

 

 

    ※

 

 

七日目の昼過ぎだった。

 

「身体を拭くものだ」

 

男が三枚の薄い皮を持ってきた。柔らかかった。丁寧に鞣してあった。

 

ラモーヌが受け取った瞬間、鼻が動いた。

 

エゾシカだった。

 

メジロの屋敷の応接間にある古い毛皮のコートとは違った。あれは死んでいた。今手の中にあるものは——生きていたものの匂いがした。狩られて、鞣されて、今ここにある。その全部の匂いが、重なっていた。

 

命を狩って、その皮で命を繋ぐ。

 

この小屋のやり方は、あまりにも簡潔だった。無駄がなかった。残酷なほど合理的で、それゆえに慈悲深かった。

 

「七日間、お世話になっていたのに」

 

ルドルフが静かに言った。

 

誰かを責めているのではなかった。ただ、今更気づいた、という声だった。

 

「言い出せなかった」

 

シリウスが言った。

 

「なんとなく」

 

「わかる」

 

三人とも、少し黙った。

 

男はすでに別の作業に戻っていた。

 

 

    ※

 

 

八日目が始まった。

 

練習が続いた。

 

器を頭に乗せて、歩く。床を聞く。水をこぼさずに、歩く。昨日と同じことを、また繰り返した。

 

昨日と同じだが、昨日と同じではなかった。

 

一歩ごとに、少しずつ違った。昨日より、床からの返しが聞こえやすくなっていた。昨日より、足の裏に届くものが多くなっていた。変わっているのか変わっていないのか、一回ごとに比べればわからなかった。でも、最初の日と比べれば、変わっていた。

 

昼前、ルドルフは出発点に立った。

 

器を頭に乗せた。

 

目を閉じた。計算を止めた。計算を止めて、ただ床を聞いた。

 

一歩。床が返してきた。

 

二歩。また返ってきた。

 

三歩。四歩。五歩。六歩。七歩。

 

八歩。九歩。十歩。

 

部屋の端に、到達した。

 

水が、揺れていなかった。

 

ルドルフは端に立ったまま、少し間を置いた。それから、引き返した。戻ってきた。器を頭から降ろした。水面を見た。

 

揺れていた。

 

わずかに揺れていた。でも、一滴もこぼれていなかった。

 

「……できた」

 

ルドルフが言った。報告するつもりではなかった。ただ、声に出た。

 

男が振り返らなかった。

 

「知っている」

 

それだけだった。

 

見ていた、とわかった。

 

ルドルフは少し、息を吐いた。吐きながら、何かが静かに下りてきた感じがした。達成した、という感触ではなかった。それよりもっと静かな何かだった。

 

できた。知っている。

 

それだけで、十分だった。

 

 

    ※

 

 

十日目だった。

 

シリウスは朝から黙っていた。

 

ルドルフが八日目で達成した。ラモーヌはそれより早かった。自分だけが、まだ水の揺れに翻弄されていた。かつてこれほどまでに、自分の身体が思い通りにならないことがあっただろうか。

 

でも、その「できなさ」を噛み締める時間は、不思議と屈辱ではなかった。

 

十日間、同じことをやり続けた。やり続けたということは、やめなかったということだ。やめなかったということは、できると思い続けたということだ。できると思い続けたから、やめなかった。それだけのことだったが、それだけのことが、今日の自分を作っていた。

 

稽古を始めた。器を乗せた。歩いた。昨日と同じように。一歩ずつ。床を聞きながら。

 

一歩。二歩。三歩。四歩。五歩。六歩。七歩。八歩。九歩。十歩。

 

部屋の端に、到達した。

 

到達して、引き返した。戻ってきた。

 

器を頭から降ろした。床に置いた。それから天井を見た。

 

何も言わなかった。

 

言う言葉が、なかった。嬉しい、とは少し違った。悔しい、とも違った。ただ、できた、という事実があった。できるまでに十日かかった、という事実があった。ラモーヌより三日遅かった。ルドルフより二日遅かった。

 

それはわかっていた。

 

「ハハッ」

 

短く笑った。

 

自分が一番遅かったことへの笑いではなかった。十日間、同じことをやり続けた自分への、どこかすっきりした笑いだった。

 

男が少しだけ振り返った。

 

ほんの一瞬だった。

 

賞賛も憐れみもなかった。ただ、確かめた、という光だけがあった。それが、今のシリウスには何よりも欲しかった言葉の代わりだった。

 

また作業に戻った。

 

シリウスはその一瞬を見た。見て、また天井を見た。

 

何かを言ってほしかった、という気持ちが、少しあった。あった、ということに、後から気づいた。気づいて、少し意外だった。自分がそういうことを気にする人間だとは思っていなかった。

 

でも、あった。

 

少しだけ、あった。

 

「……ったく」

 

シリウスは小さく言った。

 

誰にでもなく言った。

 

 

    ※

 

 

十日目の夜、ルドルフは窓の外を見た。

 

北の空だった。

 

雲が出ていた。でも、昨日より薄かった。雲の向こうに、星がうっすら透けて見えた。

 

今朝、夢の輪郭が残っていなかった。

 

そのことを、今夜初めて思い出した。

 

朝に気づいて、その後の鍛錬と、服と、鞣し革と、「できた」と「知っている」と、シリウスの「ハハッ」の中で、気づいていた事実を忘れていた。忘れていたということは、それだけ今日に集中していたということだ。

 

今日に集中できた。

 

それだけが、今夜の確かなことだった。

 

隣では、二人が眠っていた。

 

ルドルフは窓から視線を戻した。

 

天井を見た。節目がある。木目がある。

 

目を閉じた。

 

今夜は、どんな夢を見るだろうか。

 

見ないかもしれない。

 

見ないかもしれない、という気がした。根拠はなかった。でも、そういう気がした。




推敲していて時間を要しました。
ここからは本章の終まで連続更新です。

よろしくお願いします。
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