氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
足が止まった。
シリウスの声がした。わたしの名前も呼べ、と言った。
呼んだ。用が済んだ。
それだけのことだった。
——扉を開けた後で、一度だけ、振り返りかけた。
振り返らなかった。
理由は、わからなかった。
十一日目の朝だった。
男が外套を手に取った。
三人の心拍が上がりかけた。でも、昨日までと少し違った。扉に向かう足取りが違った。外套を着る時間が、昨日より長かった。
「外でもやる」
男が言った。
三人は顔を見合わせなかった。それぞれが、その言葉の意味を確かめていた。
外で。雪の上で。器を頭に乗せて、歩く。
※
外に出た瞬間、冷気が顔を打った。
器を持っていた。頭に乗せた。風があった。
シリウスが器の中を見た。
水面が、すでに薄く白くなり始めていた。
「……凍るじゃないか」
「固まれば揺れない」
男が言った。
「揺れなければ、床を聞かなくていい。それはただ歩いているだけだ」
シリウスは少し止まった。
「じゃあ固まる前に終わらせればいい。楽じゃないか」
「やってみろ」
それだけだった。
シリウスは一歩踏み出した。
沈んだ。
足首が雪に埋もれた。床のように押し返してはくれなかった。踏み込むたびに雪の下の空気が逃げ、密度が変わり、重心が裏切られた。身体が雪の下を読めなかった。固まりかけた水が、塊ごと傾いた。
盛大に、こぼれた。
「……全然だめだわ」
シリウスが言った。怒っていなかった。侮りが消えた声だった。ただ、そのままを言っていた。
「そうだ」
男が言った。
「足の裏だけで聞くのではない。全身の細胞が、今どこに立っているかを知っていれば、水は揺れない。雪でも、氷の上でも、同じだ」
「……わかるように言ってくれ」
「やれば、わかる」
シリウスは器を頭に乗せ直した。また踏み出した。また沈んだ。また塊ごとこぼれた。
「全然だめだわ」
もう一度、言った。今度は誰かに向けた言葉ではなかった。自分に向けて言っていた。
「だから、外でもやる」
男が言った。
シリウスは少し止まった。それから言った。
「わかった」
怒っていなかった。諦めてもいなかった。ただ、わかった、と言った。
ルドルフはその背中を見た。
全然だめだとわかって、だからやる、と言う。怒鳴らなかった。泣かなかった。ただ、やる、と言った。
「私もやる」
ルドルフが言った。
雪に、一歩踏み出した。
沈んだ。足首が雪に埋もれた。その瞬間——何かが戻りかけた。
踵が、根を踏んだ感触。体重が外側に流れた感触。折れると思った瞬間の、あの静けさ。
そして——走った痛みに気を取られて、私だけが斜面を転がり落ちた。あの痛みが、記憶が、急速に戻ってきた気がした。
——だから。
ルドルフは止まった。
動けなかった。小屋の中では歩けた。歩けたはずなのに、雪の上では踏み出せなかった。足首を見た。動いている。今も動いている。痛みはない。治っている。治っているとわかっている。
わかっているのに、踏み出せなかった。
全部、わかっている。わかっているのに、動けなかった。わかっていれば動けるはずなのに、動けなかった。それが——悔しかった。
「ルドルフ」
男の声だった。近かった。いつ近づいてきたのか、わからなかった。
「足首か」
ルドルフは答えられなかった。頷いた。頷くことだけができた。
男が膝をついた。素手でルドルフの足首を確かめた。外側、内側、踝の骨の下。
「腫れていない。骨も問題ない」
「……でも」
「記憶が残っている」
ルドルフが、男を見た。
「身体の記憶だ。折れると思った瞬間の感触が、同じ状況で蘇る。それは壊れているのではない。覚えているだけだ」
覚えているだけだ、という言葉が、雪の上に置かれた。
「怪我ではない。だから、踏み出せる」
男が立ち上がった。
覚えているだけだ。
折れると思った。覚えている。でも、折れなかった。折れなかったということも、覚えている。シリウスが体重を移した。倒れなかった。手を離さなかった。斜面を下りきった。河原に落ちた。それでも、立った。
全部、覚えている。
ルドルフは雪に、一歩踏み出した。
沈んだ。足首が雪に埋もれた。あの感触が、また少し戻りかけた。
でも、踏み出した。
踏み出したということは、最初の一歩を踏めたということだ。それだけが今の事実だった。
ラモーヌは器を受け取った。頭に乗せた。外の風が、固まりかけた水面に触れた。
揺れなかった。
でも、ラモーヌは安心しなかった。固まっているから揺れないのではない。固まっていても、塊ごと落ちる。それは知っていた。
一歩踏み出した。
雪が、沈んだ。沈み方が、床と違った。均一ではなかった。踏み込むたびに、雪の下の密度が変わった。空気の逃げ場が変わった。足の裏から届く情報が、一歩ごとに違った。
室内では、床がいつも同じ答えを返してくれた。でも雪は、毎回違う答えを返してきた。
覚えることができなかった。覚えようとすると、遅れた。遅れれば、重心が後から追いかけた。追いかけた重心が、水の塊を傾けた。
二歩目で、塊ごとこぼれた。
ラモーヌは出発点に戻った。声は出さなかった。表情も、変えなかった。でも、鼻が動いた。
雪の匂いがした。雪の下の土の匂いがした。踏み込んだ場所の匂いが、わずかに違った。土の層が厚いところと薄いところで、匂いが違う。密度が違う。
聞き方を、変えてみた。
足の裏だけで聞くのではなく、鼻も使った。踏む前に、嗅いだ。嗅いで、そこに何があるかを確かめてから、踏んだ。
次の一歩は、少しだけ違った。沈み方を、前の一歩より早く受け取れた気がした。
足の裏を、聞いた。
雪の沈み方を、聞いた。
全身で、今どこに立っているかを、聞いた。
※
「帰れるのかしら」
ルドルフが言った。
小屋に戻ろうとした足が、止まっていた。振り返りはしなかった。雪の上を見ながら、言った。
「歩けるようになってきた。外でも練習できている。捜索が来ているなら——」
「今の三人の歩き方では、死ぬ」
男が言った。
風が、一度だけ通り過ぎた。ルドルフが振り返った。シリウスが男を見た。ラモーヌが息を止めた。
「今朝の雪の状態を見たか」
三人とも、見ていなかった。
「この小屋は谷の底にある。尾根の影になっている。だから積雪が少ない。外でもできる。だが、ここを出れば話が変わる」
「どう変わるの」
「尾根に出れば、深雪だ。膝まで埋まる。今の三人の脚では、その雪の中を歩けば振動が雪庇を崩す。崩れれば、終わりだ」
シリウスが少し止まった。
「雪庇って——崩れたら」
「斜面ごと落ちる。下に誰かいれば、そのまま飲み込む」
「……捜索の人たちも、いるかもしれない」
「可能性はある。だから余計に、動けない」
ルドルフは雪を見た。この場所だけが特別に穏やかな理由が、今わかった。谷の底。尾根の影。守られた地形。七詩がここに小屋を建てたのは、偶然ではないのかもしれなかった。
「いつなら、出られる」
「雪が締まれば。今のペースで、あと十日ほどだ」
「十日」
「雪が締まれば、振動が吸収される。今の三人の脚でも、歩ける」
シリウスは息を吐いた。白かった。すぐに消えた。
「わかった」
怒っていなかった。諦めてもいなかった。ただ、わかった、と言った。ルドルフはその横顔を見た。全然だめだとわかって、だからやる、と言う。さっきの雪上鍛錬と、同じ声だった。
※
稽古を終えて、小屋に戻ろうとした時だった。
ルドルフの左足が、わずかによろけた。
ほんの少しだった。誰も気づかないほど小さな動きだった。
でも、男は気づいた。
「ルドルフ」
名前で、呼ばれた。
ルドルフが、止まった。
また名前で呼ばれた。それだけのことだった。それだけのことだが、止まった。自分でも気づかないうちに、止まっていた。
男がルドルフの左足首を確かめた。手袋越しに触れて、それから素手で確かめた。
「今日はここまでだ」
「でも——」
「足を冷やせば、また戻る」
それだけだった。ルドルフは口を閉じた。
小屋に向かった。
その時だった。
「わたしの名前も呼べ」
シリウスが言った。
立ち止まった声だった。男の背中に向けた声だった。命令でも懇願でもなかった。ただ、言わずにいられなかった、という声だった。
男が振り返った。
シリウスを見た。一秒ほど、見た。
感情がなかった。名前を呼ぶことへの躊躇も、親しみも、何もなかった。ただ、確かめていた。
「シリウス」
短かった。それだけだった。
シリウスの耳が、動いた。
ぴくり、と。動いてから、シリウスは前を向いた。何も言わなかった。でも、耳が戻らなかった。
ラモーヌが、男を見た。
視線だけだった。言葉はなかった。でも、伝わった。
男はラモーヌを見た。同じ目だった。
「ラモーヌ」
ラモーヌの尾が、わずかに揺れた。
揺れたことに、気づいていなかった。
男はすでに小屋の方を向いていた。用が済んだ、という動き方だった。三人の耳が動いたことも、頬が赤くなったことも、関心の外にあるようだった。
三人とも、小屋の方を向いていた。男の方を向いていなかった。向いていないのに、頬がほんのり温かかった。
ルドルフが、小さく口を開いた。
何かを言おうとした。言葉が出てこなかった。出てこないまま、また歩き始めた。
三人とも、お互いの顔を見なかった。
見ない振りをした。
男にとっては、ただ名前を確認しただけだった。それだけのことだった。
でも三人にとっては——二日目の朝に診られた時とは全く違う温かさとして、届いていた。あの時は、毛皮をきつく抱いて、縮こまっていた。今は、縮こまっていなかった。ただ、見ない振りをしていた。
見ない振りをしながら、小屋の扉を開けた。
温かい空気が、顔に触れた。
※
「ずるいよな」
シリウスが言った。
小屋の前に立ったままだった。扉を開けかけて、止まっていた。
「何が」とルドルフが聞いた。
「全部。あの人が」
ラモーヌが空を見た。
「測れないのよ」とラモーヌが言った。
「うん」
「嘘もつかないのに」
「うん」
「名前呼んだら耳が動いて」
シリウスが少し縮こまった。
「……見てた?」
「見てたわよ」とラモーヌが静かに言った。「私の尾も揺れていたけれど」
「動いたものは動いた」
「そうね」とルドルフが言った。「あの人の『悪くない』が、ほかの者の『よくできた』に近いように」
「名前を呼ばれただけで、止まった」とシリウスが続けた。「自分でも気づかないうちに」
「私も」とルドルフが小さく言った。
三人とも、少し黙った。
「……面白い人ね」とラモーヌが言った。
「面白い?」とシリウスが聞いた。
「測れないから。何をするかわからないから。わからないのに、怖くない。そういう人って、面白いと思う」
「……そうかも」
シリウスが認めた。素直に認めた。
シリウスが息を吐いた。白かった。夜の闇に、すぐ溶けた。
冷え切った頬が、扉の向こうから漏れる薪の匂いを求めていた。
名前を呼ばれた時の火照りだけが、今の自分を凍えさせずにいる気がした。
「入ろうか」とルドルフが言った。
「そうね」
扉を開けた。温かい空気が、顔に触れた。
※
夜になった。
ストーブの火が、小屋の中を橙色に照らしていた。窓の外は暗かった。闇しかなかった。扉の外から、風の音がかすかに届いた。
「お風呂は、あるの」
ラモーヌが言った。
部屋が静かになった。
革のタオルで身体を拭くことは覚えた。でも、それと湯に浸かることは違った。三人とも、ずっと気になっていた。でも誰も言えなかった。言えないまま、十一日が経っていた。
ルドルフは何度も言いかけた。そのたびに止まった。別の言葉に言い換えようとした。衛生上のリスクとして。合理的な必要事項として。三秒で、やめた。
湯が、欲しかった。ただそれだけだった。
シリウスは自分の袖の匂いを嗅いだ。それからすぐに窓の外へ視線を投げた。ウマ娘としての野性は「それでいい」と告げていた。シンボリの誇りが、それを許さなかった。
気になっていた。ずっと気になっていた。でも自分から言うのは——なんとなく、負けな気がした。何に負けるのか、自分でもわからなかった。でも、負けな気がした。
ラモーヌは、鼻が告げていた。
限界を。
自分の、あるいは誰かの、あるいは全員の。
だから、言った。
男が振り返った。
小屋の中を見渡した。外を見た。また小屋の中を見た。
「……作るか」
「え???」
三人同時だった。
男はすでに立ち上がっていた。外套を手に取っていた。
「動くな」
「待って、作るって——」とシリウスが言いかけた。
「動くなと言った」
扉が開いた。冷気が入った。閉まった。
三人は顔を見合わせた。
扉の外から、音がした。
木を割る音。何かを引きずる音。金属が擦れる音。
順番に届いてきた。異様なほど、早かった。
「……何をしてるの」とルドルフが言った。
「作ってる」とラモーヌが答えた。
「だから、何を」
「お風呂を」
「……本当に?」とシリウスが言った。
「言ったでしょ」
三人は、音を聞いていた。
男の手が、止まらなかった。迷わなかった。音だけで、何をどう組んでいるのかが伝わってきた。
「……早いね」
普段の彼女なら絶対に口にしないような、素直すぎる台詞だった。でも言ったのは、あのシリウスだった。
「うん」とルドルフが答えた。
「何でもできる人ね」とラモーヌが言った。
三人とも、扉の向こうの音を聞いていた。
木が組まれる音。金属が据えられる音。雪が踏まれる音。無駄がなかった。最短で動いていた。こういうことにも、慣れているのだろうと思った。どれだけの場所で、どれだけのことをしてきたのか。「場所では測れない」という言葉が、また小さく戻ってきた。
「名前を呼んでくれた人が、お風呂を作ってくれている」
ルドルフが言った。
どちらへ向けた言葉でもなかった。ただ、声に出た。
二人は何も言わなかった。でも、同じことを思っていた。