氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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一晩、外にいた。
手が冷えた。
湯ができた。
それだけのことだった。
——三人が、湯の中で笑っていた。
笑い声ではなかった。でも、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
あの『熱』の名前が、少しだけ、わかった気がした。


03-九.「いたかった」

眠れると思っていなかった。

 

扉の外から、音がしていた。木を割る音。何かを引きずる音。金属が組み合わさる音。規則的だった。急いでいなかった。この人のやることはいつも、急いでいないのに早かった。

 

ラモーヌは目を閉じた。

 

音を聞きながら、眠るつもりはなかった。

 

でも、気づいた時には眠っていた。

 

 

    ※

 

 

夢を見なかった。

 

気がした、ではなく、見なかった。目が覚めた時、何も残っていなかった。音が残っていなかった。匂いが残っていなかった。重さが残っていなかった。

 

ただ、眠っていた。

 

眠っていたということは、眠れたということだ。

 

天井を見た。節目がある。木目がある。薪ストーブの火が、小さく揺れていた。

 

外から、まだ音がしていた。

 

まだ、していた。

 

ラモーヌはしばらく、その音を聞いた。昨夜と同じ音だった。違ったのは、少し種類が変わっていたことだった。水の音が混じっていた。何かが流れる音だった。

 

 

    ※

 

 

「……まだやってる」

 

シリウスが言った。

 

いつから起きていたのか、わからなかった。ルドルフも目を開けていた。天井を見ていた。

 

「一晩中か」とシリウスが続けた。

 

「そうね」とラモーヌが答えた。

 

ルドルフは何も言わなかった。天井を見たまま、その目が少し揺れていた。

 

三人とも、しばらく黙っていた。

 

外の音が続いていた。規則的だった。止まらなかった。

 

ラモーヌは鼻を動かした。

 

男が動き続けている匂いが、扉の隙間から届いていた。冷気と一緒に入ってきていた。疲れているはずなのに、疲れの匂いがしなかった。この人はいつもそうだった。測れなかった。

 

「申し訳ないわね」

 

ルドルフが、小さく言った。

 

天井を見たまま言った。誰かに向けた言葉ではなかった。

 

「言い出したのはラモーヌだけれど」ルドルフが続けた。「気になっていたのは三人とも同じだったわ。言えなかっただけで。だから、三人とも等しく申し訳ない」

 

「そうね」

 

「言っても仕方ないのだけれど」

 

「言っても仕方ないわね」

 

三人とも、また黙った。

 

音が続いていた。

 

 

    ※

 

 

昼前になって、音が止まった。

 

しばらく、静かだった。

 

扉が開いた。冷気が入った。男が入ってきた。外套に雪がついていた。手が、赤かった。素手で作業していた時間があったのだろう。指の関節が、白くなりかけていた。

 

「できた」

 

それだけだった。

 

三人は男を見た。男は三人を見た。それから、薪ストーブに薪をくべた。振り返らなかった。

 

シリウスは、その赤さから目を逸らせなかった。

 

私たちのために、この人はどれだけの熱を雪に奪わせたのだろう。一晩中、外にいた。その分だけ、あの手から熱が失われた。命を燃やして何かを形にした痕跡のように見えた。

 

昨日、名前を呼んでくれた。そのことと、この赤い手が、なぜかひとつながりに見えた。

 

三人とも、しばらく何も言えなかった。

 

言葉が、出てこなかった。ありがとう、という言葉は知っていた。何度も言った。でも今は、その言葉が小さすぎる気がした。それを受け取る言葉が、今の三人には見つからなかった。

 

「……何でもできるのね」

 

シリウスが、小さく言った。

 

怒っていなかった。呆れてもいなかった。ただ、そのままを言っていた。

 

男は振り返らなかった。

 

 

    ※

 

 

外に出た。

 

衝立があった。

 

木の板を一枚、前面に立てていた。左右は、不自然なほど均一に固められた雪が煉瓦のように積み上げられて壁になっていた。奥の壁はなかった。そちら側は斜面になっていた。少し下れば、沢の音が聞こえた。

 

三人は、その構造を順番に確かめた。

 

「雪が、煉瓦みたい」とシリウスが言った。

 

「そうね」

 

「どうやったら雪がこんな形になるの」

 

「わからない」とラモーヌが答えた。「でも、この人のやることはいつもそう」

 

薪ストーブも、そうだった。土と石で作られたストーブの、石の選び方が均等だった。不自然に切り揃えられたような形の石が、計算して積まれていた。今度は雪だった。素材が違っても、この人の手を通ると同じになった。

 

「あっ」

 

ルドルフが声を上げた。雪の壁だと思っていたものを、まじまじと見つめていた。

 

「どうしたの」

 

シリウスが同じ方向に視線を向けた。

 

「これ、芯は雪じゃないわ。氷の固まりに、雪を擦り付けてある。氷に、雪の服を着せてあるの」

 

「なんのために」

 

「……わからない」

 

自分で口にしたことを、自分で説明できなかった。でも、視線の先にあるものが気になった。父がお酒を嗜む時にグラスに入れていた氷を思わせるほど、透き通っていた。雪ではなく、氷だった。不純物が一切ない、固められた氷だった。

 

造られた壁——否、雪の服を着せられた氷の壁は、厚かった。数十センチはあった。これだけ厚ければ、日中の陽射しを受けても、すぐには瓦解しない。長く使えるように、そう計算した厚さだった。それが見上げるほどの高さまで——小屋の屋根と同じくらいまで——積み上がっていた。

 

壁に、小さな穴が開いていた。

 

三人は、それを順番に見た。

 

「……覗き穴?」

 

シリウスが言った。

 

ラモーヌは鼻を近づけた。穴の向こうから、山の空気が届いた。それから、少し考えた。

 

「違うわ」

 

「じゃあ何」

 

「何かが近づいてきた時に、確かめるための穴よ」

 

シリウスが少し止まった。

 

それから、また湯を見た。何も言わなかった。

 

「……一つ、聞いていい」

 

ラモーヌが言った。

 

「なに」

 

「臭いがしないのよ。最初から、ずっと。外で済ませていたのはわかってる。でも——」

 

シリウスが少し止まった。

 

「……言われてみれば」

 

「寒いから、ということなのかもしれない。凍ってしまえば、臭わないのかもしれない。でも、それだけじゃない気がして」

 

三人とも、しばらく黙った。

 

答えは出なかった。出なかったが、この小屋のことはいつもそうだった。説明がつかないまま、でも困っていない。それだけだった。

 

湯気が、白く立っていた。

 

最初に用意されたものは、雪を溶かしたものだったのだろう。それに、近くを流れる沢から運んできた水が足されているのだと思った。斜面の先から、かすかに水の流れる音がした。どれだけの往復が必要だったのか、ラモーヌには想像もできなかった。

 

ただの沢水にしては、少し熱すぎた。ラモーヌの鼻が、沢の匂いとは少し違う何かを拾っていた。この山の底から来ている、という気がした。確かめなかった。確かめなくてよかった。

 

でも、湯だった。

 

確かに、湯だった。

 

小屋の扉は閉まっていた。男は中にいた。

 

三人は顔を見合わせた。

 

服を脱いだ。

 

冷気が肌を打った。一瞬だった。でも、その一瞬が長かった。肌が冷えた。足元の雪が、足の裏を刺した。早く入らなければ、とわかっていた。でも、誰も急がなかった。

 

湯気が目の前にあった。

 

ルドルフが先に足を入れた。

 

「……熱い」

 

小さく言った。凍てついていた皮膚が、強烈な温度差に反応した。針で刺されるような痛みが走った。それが少し遅れて、深いところから溶けていく感覚に変わった。

 

引かなかった。もう一歩、踏み込んだ。

 

シリウスが続いた。ラモーヌが続いた。

 

狭かった。肩が触れた。膝が当たった。

 

でも、温かかった。

 

粗末な造りだったが、温かかった。廃材と雪と、沢から運んできた水で作られた湯が、今の三人には十分すぎるほどだった。それだけで十分だった。

 

しばらく、三人とも何も言わなかった。

 

山が静かだった。風もなかった。遠くで、雪が木の枝から落ちる音がした。それだけだった。

 

 

    ※

 

 

ルドルフは自分の脚を見た。

 

湯の中にあった。動く。当たり前のように動く。十二日前、床が悲鳴を上げていた脚が、今は静かに動く。頭に器を乗せなければ、もう普通に歩ける。音も立てない。床も鳴らない。

 

まだ走れない。でも、歩ける。

 

歩けるようになった。

 

名前を、呼ばれた。

 

それだけのことだった。それだけのことが、今この湯の中で、妙な重さを持っていた。

 

それだけが今この場所で確かなことだった、と思いかけた。

 

でも、もう一つあった。

 

帰れば、怒られる。叱られる。道理に合わないことをしたと、長い時間をかけて諭されるだろう。その覚悟は、できていた。

 

「怒られるわね」

 

ルドルフが言った。

 

ラモーヌが少し驚いた。同じことを考えていた。

 

「怒られるどころか」とシリウスが続けて、止まった。

 

あの吹雪の中で、三人で立ち止まっていた時の会話と同じだった。あの時も、同じ言葉を言いかけて、止まった。続きは言わなかった。言わなくても、三人とも続きを知っていたから。

 

少し間があった。

 

「アサマは……黙って耳を引っ張るかもしれないわ」とシリウスが言った。「あの顔で。……吹雪よりよっぽど怖い」

 

ラモーヌが、かすかに笑った。声には出なかった。でも、笑っていた。

 

「私もよ」とルドルフが続けた。「帰ったら、いなくなっていた日数分、どう論理的に説明するか考えなければ。考えただけで、湯冷めしそうだわ」

 

「してる場合じゃないわよ」

 

「わかってるわ」

 

三人とも、少し黙った。

 

「でも」とルドルフが続けた。「怒られることと、ここにいたかったことは、別のことだと思うの」

 

シリウスが湯を見た。

 

「……そうだな」

 

「怒られたくないのも本当。でも、ここにいたかったのも本当。どちらかを選ぶということじゃなくて」

 

「両方、本当」

 

「そうね」

 

 

    ※

 

 

ラモーヌは湯に手を浸けていた。

 

指先が、温かかった。

 

あの夜、黒くなっていた指先が、今は温かさを受け取っていた。受け取れていた。それだけのことが、今は大事だった。

 

鼻を動かした。

 

薪の煙の匂い。雪の匂い。斜面の先から届く沢の匂い。それから、男が一晩中動いていた匂いが、まだ空気の中に残っていた。動き続けた人の匂いだった。疲れているはずなのに、疲れの匂いがしなかった。

 

アサマのことを思い出した。

 

スピードシンボリのことも思い出した。メジロ邸まで引率してくれた人だった。自分たちの親のことも、頭の端に浮かんだ。

 

全員が、今頃どうしているだろうか。心配しているだろう。それはわかっていた。わかっていて、帰れない。帰れないけれど、帰る。帰るために、今ここにいる。

 

脚を動かした。

 

動いた。

 

ここにいた。

 

ここにいて、脚が動くようになった。ここにいて、床を聞くことを覚えた。ここにいて、名前を呼ばれた。ここにいて、一晩中作られた湯に入っている。

 

ここに——いたかった。

 

思った瞬間、少し驚いた。

 

帰りたくない、ということではなかった。アサマのところへ帰りたかった。帰らなければならなかった。怒られることもわかっていた。

 

それでも。

 

帰りたい。怒られたくない。でもここにいたかった。いつか下山して、この雪と煙の匂いを忘れてしまう日が来るのが、少しだけ惜しかった。

 

全部が、今この湯の中にあった。

 

言葉にならなかった。言葉にする必要もなかった。

 

ただ、そういう気がした。

 

 

    ※

 

 

「……あと十日か」

 

シリウスが言った。

 

誰かに言ったのではなかった。ただ、声に出た。

 

雪が締まれば、帰れる。帰れるということと、ここにいたかったということは、どちらも本当だ。ルドルフがそう言っていた。湯の中で、そのことを思い出した。

 

「そうね」とラモーヌが答えた。

 

「長い」

 

「長いわ」

 

「……でも」

 

シリウスは続きを言わなかった。

 

続きは要らなかった。三人とも、続きを知っていたから。

 

湯気が、白く、静かに立ち上り続けていた。

 

山は、何も答えなかった。

 

ただそこにあり続けていた。

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