氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
体温が、雪に移った。
跡が残った。
化生は今夜、また引いた。
学習している。測っている。
こちらも、測り返している。
——どちらが先に、間に合うか。
あと十日だ。
声には出さなかった。
でも、雪の上に置いた。
夜になった。
男は小屋の扉を、静かに閉めた。
振り返らなかった。扉の向こうに、三つの呼吸がある。十二日前より深く、十二日前より遅い。眠りの底に、ようやく落ちていた。
その様子を確かめてから、男は扉の前で一度だけ立ち止まった。
賭けだった。
あの個体が今夜南へ向かい続ける可能性は高い。だが、そうでない可能性もある。自分が小屋を離れた隙に、あの個体が戻ってくる可能性が、ある。それを潰すための印だ。それでも、潰しきれない何かが残る。
男は自分の手のひらを見た。
それから、雪の上に一歩踏み出した。
※
足跡を辿った。
南へ向かう足跡だった。昨夜確かめた跡より、また遠かった。一日で、これだけ動いた。大きな個体だった。歩幅が人間の倍以上ある。その歩幅で一日に動ける距離を、計算した。
厄介だ、と思った。
感情のない、乾いた認識だった。
足跡の向く先に、人の気配がある。おそらく、あの河原で拾った少女たちの関係者だろうか。複数からなるヒトの気配が、十数キロ先にある。何日か前から、南の斜面に入ってくる気配を感じていた。犬がいなかった。連れない理由がどこから来たのか、どういう判断で決めたのか、わからなかった。想像するとすれば、犬自身がこの縄張りに入ることを本能で拒否したのだろう。そして、それは正しい判断だ。
人間は、知っていても入ってくる。
知っていてなお引けない理由が、あの人間たちにはある。
男は足跡の端で、立ち止まった。
※
化生は、動いていた。
動きながら、測っていた。
あの小屋の前のものが、夜毎に気配を置いていく。それが邪魔だった。直接来るわけではない。境界の手前で止まって、印を残して、戻っていく。小さな牽制だ。だが、積み重なる。夜ごとに積み重なって、この山の空気に溶け込んでいく。
獲物はまだ、あの小屋にいる。
わかっていて、遠ざかった。
なぜか。
血の中の記憶が、答えを持っていた。
あの人間は越えられない。越えようとすれば、消耗する。消耗すれば、次の機会が遠ざかる。あの人間は丸腰なのに、自身の命にも届きうる何かを持っている。何かが、血の奥から警告を出し続けている。先祖が出会ったことのある何かに、似ている。その何かを前にした時、先祖は引いた。引いて、生き延びた。
だから、今は迂回する。
迂回して、別の獲物に向かう。別の獲物を得てから、また測ればいい。
この山は、逃げない。
あの小屋も、逃げない。
あの人間には制約がある。小屋から離れられない。横取りされた三つの命が、あの人間の行動を縛っている。その命がある限り、あの人間は動けない。こちらを追うこともできない。
だから、今は南へ向かう。
南の獲物は、音を立てていた。
雪を掻く音。金属が鳴る音。それから——呼吸の音。浅かった。速かった。この山を知らない者の呼吸だった。あの小屋の前のものとは、全く違う音だった。犬はいない。犬を連れてこられなかった、ということかもしれない。ならば気づいていても境界を越えてきたということだ。あの障壁を越えるより遥かに扱いやすい。
化生の脚が、雪を踏んだ。
音がしなかった。あれだけの質量が、雪の上を移動しているとは思えないほど静かだった。
※
男は、化生が一晩でどこまで動けるか、計算していた。
計算して、答えが出た。
早い。
今夜このままにしていけば、明日の夜には南から入ってくる人間たちの野営地に届く距離まで近づく。あの個体が人間を直接狙うかどうかは、まだわからない。今まで、人身被害の記録がなかった。それは、あの個体が慎重だからだ。人間を狩れば、大規模な追跡が来る。それを、あの個体は計算している。
あの少女たちを狙ったのは、偶然だったのかもしれない。
あの少女たちを捨て置けない人間たちが、この条件でも山に入ってくることを、知らなかったのかもしれない。
だが、計算が変わる条件がある。
追い詰められた時。腹が十分に満たされていない時。あるいは——障壁を迂回することで、より狩りやすい獲物を見つけた時。
その条件が、少しずつ揃いつつあった。
男は雪の上に、膝をついた。
足跡に、素手で触れた。冷たかった。最近の跡だった。今夜の跡だった。
印を残す必要がある。
今夜ここまで来た、ということを、残す。気配を置く。「まだここにいる」という信号だ。あの個体は学習する。学習した上で迂回している。迂回先にまだ自分の気配があると知れば、計算が変わるかもしれない。
かもしれない、というだけだ。
確証はない。でも、今夜できることは、それだけだった。
男は雪の上に、手のひらを押しつけた。
素手だった。体温が、雪に移った。移りながら、消えた。でも、跡は残った。爪の形まで、残った。
立ち上がった。
南の方角を見た。
闇の中に、何もなかった。見えるわけがなかった。でも、その方角に、この悪条件を無視して山へ入ってきた人間たちがいる。その方角に、化生が向かっている。その二つが、同じ方向にある。
※
化生は、止まっていた。
止まって、後ろを向いた。
来た方角に、気配があった。
あの人間の気配だった。近くはなかった。でも、あった。
まだ、いる。
化生は、それを測った。
小屋を離れた。三つの命を置いて、ここまで来た。なぜ来られたのか。三つの命を置いてきたということは、今、その命が無防備だということだ。無防備な三つの命に、今夜向かえば——。
血の中の記憶が、答えを出した。
行くな。
なぜか、は説明できなかった。ただ、全力でそう言っていた。
考えた。
あの人間が小屋を離れたのは、なぜか。三つの命を守るためなら、小屋を離れるのは矛盾する。では、なぜ離れたのか。
自分を引き付けるためだ。
自分の注意を、あの人間自身に向けさせるためだ。小屋の命から、視線を引き剥がすためだ。
だとすれば、あの三つの命は今、あの人間の視線の届く場所にはない。
あの人間が、最も嫌がることをすれば——。
血の中の記憶が、また言った。
行くな。
今度は、もっと強く言った。先祖が出会ったことのある何かに、似ている。あの人間がここに来たのは、牽制だけではない。自分がどう動くかを、見ている。試している。あの人間は今、自分を観察している。
今夜動けば、その観察に乗ることになる。
化生は、また南を向いた。
今夜は、引く。
引いて、また測る。あの人間がどこまで動けるか。小屋からどこまで離れられるか。その限界を、もう少し測る必要があった。測り終えるまで、動かない。
※
男は、気配が動くのを感じた。
南へ、また南へ。
引いた。
引いたことに、安堵はしなかった。今夜引いたことと、明日引くこととは、別の話だ。あの個体は、今夜自分がここまで来たことを記憶した。記憶した上で、また計算する。
計算の方向が、どこへ向かうか。
まだわからなかった。
わかっていることは一つだけだった。
あの個体は頭がいい。頭がいい個体は、こちらの手を読む。読んだ上で、別の手を打ってくる。今夜自分がここに来たことで、何かを悟ったはずだ。悟った何かが、次の計算に反映される。
反映された結果が何かは、明日の夜にわかる。
男は足元の雪を見た。
自分の足跡があった。小屋から、ここまでの足跡があった。来た道を戻れば、小屋に戻れる。戻って、扉を開けて、三つの呼吸がまだあることを確かめる。それが今夜できることだった。
男は立ち上がった。
雪の上に、もう一度、手のひらを押しつけた。
今度は長く、押しつけた。体温が、じっくりと雪に移った。移りながら、染みた。跡が、深く残った。
声には出さなかった。
でも、置いた。
その言葉を、この場所に置いて、来た道を戻った。
※
小屋の扉に手をかけた。
冷たかった。
引いて、中に入った。温かさが、顔に当たった。薪ストーブの熱が、小屋の空気に均等に満ちていた。
三つの呼吸が、あった。
深く、遅く、続いていた。
男は扉を閉めた。薪をくべた。火が、少し大きくなった。
外の雪の上には、今夜の足跡が残っていた。自分の足跡と、化生の足跡が、同じ方角に向かって、重なりながら伸びていた。朝になれば、新しい雪がそれを埋めるかもしれない。埋めても、跡の下に残り続ける。
あと十日。
三人が雪山を歩ける状態になるまで、あと十日ある。
十日で、下ろす。その前に、あの個体が山に入ってきた人間たちに届かないようにする。届かなければ、いい。届く前に、下ろせれば、いい。
どちらかが先に、間に合えばいい。
男はストーブの前に座った。
手のひらが、まだ冷たかった。雪に押しつけた跡が、掌に残っていた。
三つの呼吸が、深いところで続いていた。
それだけが、今夜の確かなことだった。
これにて、第三章『痛みは蒼く、悪夢は昏く、届く名前はなお熱く。』は幕を下ろします。
ここまで、小屋という閉じた世界の中で、少女たちがゆっくりと自分の身体と言葉を取り戻していく過程を意識して書き進めてきました。恐怖は完全には消えていません。ただ、その恐怖に名前がついてきた。それだけでも、ずいぶん違うのだと思います。
ここまでご覧いただいた方はご存知の通り、少女たちはまだ山の中にいます。その反対側では保護者たちの焦燥とは裏腹に、社会の動きが活発となっていきます。
少女たちが過ごす間の時間、それは大人たちにとっては重く、昏く、焦燥に満ちた時間となっていることでしょう。
第四章『雪は重く、山は深く、変わらぬ覚悟はなお強く。』近日投下予定です。
また次の物語でお会いしましょう。