氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
物語は、再び保護者たちと、それを取り巻く社会の動きに焦点を当てて展開していきます。
よろしくお願いします。
04-序.『五人だった』
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胆振新報デジタル版 11月5日 19:22配信
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【続報】胆振管内・子供3人行方不明
捜索15日目 「継続か縮小か」議論が過熱
胆振管内で子供3名が行方不明となっている件について、15日目を迎えた現在も発見に至っておらず、今後の捜索方針をめぐる議論が各所で起きている。
行政関係者からは「捜索班員の安全確保が最優先」との声が上がる一方、家族側は引き続き全力での捜索継続を求めているとされる。
複数のメディアが現場周辺での取材を試みているが、立入規制により詳細な情報は得られていない。
捜索に参加する山岳救助隊および猟友会関係者の長期にわたる活動継続について、専門家から「限界に近い」との指摘も出始めている。
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「もう15日……」
「捜索隊の方々の消耗が心配。無理しないでほしい」
「名家だから税金を使い続けるのか。他の地域は後回しか」
「諦めないでほしい。絶対に」
「今日の夕方、山の方角からサイレンが何台も聞こえた。何かあった?」
「さっきから地元の警察の動きがおかしい。嫌な予感がする」
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*
十六日目の夕方から、風が出てきた。
山から吹き下ろしてくる風だった。昼間は止まっていた。止まっていたから、今日は少し奥まで入れた。コハギはその風の変化を、足の裏で感じていた。雪の締まり方が変わる。表面が乱される。明日の朝は、また読みにくくなる。
今日の足跡を、頭の中で反芻した。
方角が、また変わっていた。
昨日は真南だった。今日は、南東だった。真東ではない。でも、南東は——捜索班が今夜ビバークしている場所に、より近い方角だった。
田中さんに報告した時、田中さんの顔が変わった。
変わった、というより、固まった。一秒だけ固まって、それからすぐに中村支部長を呼んだ。三人で地図を広げた。地図の上で、コハギが指を置いた場所を、二人は黙って見た。
「今夜、また動かすか」
中村支部長が言った。
「どこまで動ける」と田中さんが聞いた。
「夜の雪山を歩くのは」
「わかってる」
二人が沈黙した。コハギは何も言わなかった。言える立場ではなかった。ただ、地図の上の指を、その場所に置いたままにしていた。
中村支部長が判断を出したのは、夕方の集合の時だった。
「今夜はビバーク位置を動かさない。風が出ている。夜間移動のリスクが、そのままいるリスクを上回る」
誰も反論しなかった。
コハギも、しなかった。中村支部長の判断が正しかった。正しいとわかっていた。でも、地図の上で指を置いた場所が、頭から離れなかった。
*
夜になった。
テントの中は、外より温かかった。体を寄せ合って、六人が入っていた。コハギは端に位置していた。隣の隊員の呼吸が、規則的に聞こえた。眠っていた。
コハギは、眠れなかった。
風の音がしていた。テントの布が揺れる。外の木々がざわめく。金属の装備が触れ合う小さな音がした。それらが混ざり合って、低い持続音になっていた。
その音の中で、耳が何かを探していた。
意識してのことではなかった。耳が先に動いていた。山を歩く時の癖だった。音の中から、違う音を聞き分けようとする。風のノイズの向こうに、別の何かがないか、確かめようとする。
鼻も、動いていた。
テントの布越しに、外の空気が微かに入ってくる。雪の冷たさ。木の脂の匂い。それから——何か別のものが、混じっていた。昨日の山にもあった匂いだった。でも、昨日とは濃さが違った。昨日は風の端に漂う程度だったものが、今夜は風の中心を突き抜けるように、鼻の奥まで入ってきた。
コハギは寝袋の中で、息を浅くした。
聞こえなかった。
何も聞こえなかった。それは正しかった。風の夜に、山の中で特定の音を聞き取ることは難しい。それはわかっていた。
でも、耳が止まらなかった。
動けなかった。寝袋の中で、体だけは静止していた。でも耳が動き続けた。何かを探して、ノイズの海を泳いでいた。
尾が、微かに揺れていた。
寝袋の中で、気づかないうちに揺れていた。山で何かの気配を感じた時の、無意識の動きだった。止めようとした。止められなかった。
風の向きが、変わった。
変わった瞬間に、匂いが止んだ。風上にいたものが、移動したのか。それとも風が変わって、自分が風上になったのか。暗くて、わからなかった。テントの中では、方角が読みにくかった。
一時間が過ぎた。二時間が過ぎた。
風が、少し強くなった。テントがまた揺れた。
*
深夜に、風が一瞬止んだ。
その瞬間だった。
聞こえた気がした。
何かが、聞こえた気がした。声だったか、雪が崩れた音だったか、木が折れた音だったか、わからなかった。一秒にも満たない瞬間だった。次の瞬間には、また風が戻った。テントがまた揺れた。
コハギは体を起こしていた。
起こした、というより、気づいたら起きていた。
テントの中を見渡した。
一、二、三、四——五。
もう一度、数えた。五だった。コハギを入れると六でなければならなかった。
誰かが外に出ているのか。今出たばかりなのか、それとも——。判断がつかなかった。声をかけて全員を起こすべきか、一人で確かめに出るべきか、どちらが正しいか、すぐにはわからなかった。
雪靴を手に取った。手袋をはめた。
外に出た。
冷気が顔を打った。
指先の感覚が、すぐに薄くなった。氷点下の空気が、肌を通り越して骨まで入ってくる。感覚が鈍くなる。それはわかっていた。鈍くなりながらも、鼻だけが動いた。
昨日の山にはなかった匂いが、また来た。今度は、はっきりしていた。言葉にはならなかった。でも、テントの布越しに感じたものと、同じものだった。
風の向きを確かめた。頬に当たる風を読んだ。今は——南東から来ている。匂いは、風と同じ方角から来ていた。
外は暗かった。月がなかった。雪の白さだけが、かすかに辺りを浮かび上がらせていた。
立った。周囲を見た。
木立の間に、黒いものがあった。
木の影だとわかっていた。木の影だ、とわかっていた。でも目が、その黒さから離せなかった。木の影より、少し黒かった気がした。気がした、というだけで、確かではなかった。風が木を揺らした。影が動いた。それだけのことかもしれなかった。
そちらを向いたまま、立っていた。
人影があった。
テントから少し離れた場所に、一人が立っていた。
用を足しに出てきたのだろうと思った。それだけのことだ、と思った。でも足が動かなかった。その人影が、動いていなかったからだ。立っていた。立ったまま、動かなかった。
「大丈夫ですか」
声をかけた。
答えがなかった。
風の音のせいかと思った。もう一度、今度は少し大きく言った。
「大丈夫ですか、一人で出歩いては——」
続きを口にしようとした時、人影が、動いた。
動いた、というより——白と黒の間に溶けた。
「——ッ」
息が止まった。
一瞬、雪の白さが人影の輪郭を浮かび上がらせた。次の瞬間には、もうそこになかった。コハギの目が、その空白を追おうとした。追えなかった。一瞬だった。人影がそこにあって、次の瞬間にはなかった。暗くて見えなかったのか、動いた方向を見逃したのか、どちらかだとわかっていた。でも足が、その場に根を張ったように動かなかった。
風が、また強くなった。
コハギは立ったまま、その方角を見続けた。
一瞬、風の音が消えた気がした。
消えた、というより——何かに吸い込まれた。テントの布が揺れる音も、木々がざわめく音も、全部が一瞬だけ止まった気がした。気がしただけかもしれなかった。すぐに、また風が戻った。
聞こえなかった。足音が聞こえなかった。雪の上を人間が歩けば、何らかの音がする。静かに歩いても、完全な無音にはならない。でも、何も聞こえなかった。風のノイズの中に、何も混じっていなかった。
耳が、限界まで前に向いた。
向いたまま、動かなかった。聞き取ろうとして、聞き取れなかった。聞き取れないことが、聞き取るより怖かった。
軽い目眩がした。
立ちくらみではなかった。体が答えを出していた。頭より先に、体が何かを知っていた。知ったことへの反応が、目眩という形で来た。
コハギは雪の上に、足を踏み直した。踏み直して、体を安定させた。
*
テントに戻った。
やはり、五人だった。
隣の隊員を揺すって起こした。
「誰かいませんか」
隊員が目を開けた。寝ぼけた顔だった。数秒して、顔が変わった。数え始めた。声に出さずに、唇が動いた。
「……五人だ」
それだけ言った。
テント全体が動いた。全員が起き上がった。中村支部長が外に出た。名前を呼んだ。風の音に混じって、名前が夜の中に消えた。
答えがなかった。
もう一度、呼んだ。
答えがなかった。
猟銃を持った男が、周囲の闇に向かって懐中電灯を向けた。白い光の円が、雪の上を照らした。足跡があった。テントから外に出た足跡が、雪の上についていた。足跡は続いていた。続いて——途中で、乱れていた。
乱れた先に、足跡がなかった。
雪が、大きく抉れていた。何かがそこで動いた跡だった。大きく、深く、雪が掘り起こされていた。
田中さんが、その跡を見た。
懐中電灯の光の中で、田中さんの顔が見えた。
その瞬間、風が変わった。
また、あの匂いがした。
濃かった。さっきより、ずっと濃かった。それだけではなかった。獣の匂いとは少し違う、生温かい何かが混じっていた。何かはわからなかった。わからないまま、鼻を押さえそうになって、止めた。止めながら、田中さんを見た。田中さんも、鼻が動いていた。気づいていた。二人とも、何も言わなかった。
息が、止まった。
止めたのではなかった。体が止めた。肺が動くのをやめた。一秒か、二秒か、止まったままだった。それから、また動いた。白い息が、夜の中に出た。
コハギはその顔を、一度だけ見た。それだけで十分だった。その顔が何を意味するか、わかった。言葉は要らなかった。
「コハギ」
田中さんが呼んだ。
「今夜見たこと、全部教えてくれ」
コハギは答えた。答えながら、山の方角を向いていた。意識してのことではなかった。体が先に向いていた。
風が鳴っていた。
山は、答えなかった。
まだ、答えなかった。
2026/05/20
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評価、20(調整平均、9.00)
ありがとうございます。
レース描写やトレセン学園を中心としない、完全に自己満足のための作品に対して、正直、ここまで高めの評価を得られるとは考えていませんでした。
引き続き、当方の作品を楽しんでいただければ幸いです。
今後とも応援よろしくお願いいたします。