氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
ただ怯えるだけの獲物は、すぐに味が落ちる。
自らの脚を信じ、光を信じ、それでもなお暗闇へ引きずり込まれる。
希望が絶望へと反転するその瞬間だけが――
本当の意味で、極上の味がするのだ。
休んでいたのは、ほんの少しだった。少なくとも、三人にはそう感じられた。
息が完全に整ったわけではない。シリウスの膝も痛んでいる。ラモーヌの裂けた袖からは、冷たい空気が入り続けている。ルドルフの頬の傷も、まだ血が止まりきっていなかった。
それでも、ここに留まり続ける方が怖かった。
「……戻ろう」
ルドルフが言った。さっきも言った言葉だった。今度は、自分へ言い聞かせるような響きが、ほんの少しだけ混じっていた。
シリウスが木から背中を離す。
「……ああ」
ラモーヌも立ち上がった。ポケットの上から、羽根がまだあることを確かめる。
三人が並ぶ。
そして、同時に、止まった。
「……」
「……」
「……」
誰も、一歩目を踏み出さなかった。
ルドルフが周囲を見る。右。左。後ろ。また前。
木がある。どこを見ても、同じような木があった。エゾマツ。倒木。笹。湿った地面。苔。それだけ。
「……ルドルフ」
シリウスが口を開いた。
「どっちだ?」
短い問いだった。でも、ルドルフはすぐには答えられなかった。
さっき。熊から逃げる時。何度曲がった。何本の木を避けた。どの斜面を上った。どこを下った。
思い出そうとする。
一つ。木の根。その次、倒木。右へ曲がった。いや、その前に左だったかもしれない。シリウスが転んだ。その時、自分はどちらを向いていた。
わからない。全部。
走っている間は、見ていたはずだった。目は開いていた。道も選んでいた。
なのに、思い返そうとすると、残っているのは背後の音ばかりだった。
重い足音。枝が折れる音。荒い呼吸。そして、あの巨大な身体。
「……あっち」
ルドルフは、一方向を指差した。声に、まだ自信を持たせようとした。
「たぶん、あっちだよ」
シリウスが、指の先を見る。
「たぶん?」
「走ってきた時……最初に少し斜面を下ったでしょう? だから、その反対へ戻れば」
「下ったっけ?」
「……下ったと思う」
「私は途中で上った気がするけど」
ラモーヌが言った。ルドルフが振り返る。
「いつ?」
「わからないわ」
三人で、黙った。
それが、答えだった。誰も、来た道を覚えていない。
シリウスが空を見上げた。
「日がどっちにあった?」
ルドルフも見る。頭上。枝が重なっている。その向こうに、空がある。
少し前まで、枝の隙間から差していた光。それを思い出す。
「……右?」
「右ってどっちだよ」
「走っていた時の……」
言いかけて、ルドルフは止まった。
走っていた時の右。それが今、どちらなのか。
わからない。
シリウスが舌打ちをした。誰かへ向けたものではない。自分へ。森へ。この状況全部へ。
「クソ……」
シリウスは地面を見た。
「足跡」
「え?」
「私らの足跡、残ってねぇか?」
三人が同時に下を見る。
腐葉土。踏み荒らされた葉。柔らかい地面。
確かに、いくつもの跡があった。
「これ……」
ルドルフがしゃがむ。小さな靴跡。その横にも。さらに奥にも。
「あった」
ほんの少し、声が明るくなる。
「これを辿れば――」
「待て」
シリウスが止めた。
「どっち向きだ?」
ルドルフの手が止まる。
靴跡は、一方向だけについているわけではなかった。逃げてきた三人が、途中で曲がり、踏み直し、滑り、何度も同じ場所を通ったのか。葉の上には、乱れた跡がいくつも重なっている。
どれが自分のもの。どれがシリウス。どれがラモーヌ。そして、どちら側から来たのか。
「……わからない」
ルドルフが言った。今度は、はっきり。その一言を、口にした。
シリウスは何も言わなかった。ラモーヌも。
三人は、初めて、自分たちが迷ったことを知った。
*
ラモーヌは、鼻を動かした。地面ではなく、空気を。
さっき、一度だけ、二人に言わなかったことがある。
逃げきれたのかもしれないと、二人が思い始めた時。まだ、あの匂いが残っていた。薄く。本当に薄くだけれど。確かに、あった。
あの時、言うべきだったのかもしれない。まだ匂う、と。
もし言っていたら。三人は、もう少し早く動いていたのかもしれない。違う場所へ行っていたかもしれない。それとも、もっと恐ろしくなっただけかもしれない。
今となっては、わからない。
ラモーヌは、もう一度、空気を吸った。
湿った土。葉。自分たちの汗。少しだけ、血。
それから。
「……」
顔が強張る。
「どうした?」
シリウスが訊いた。
今度は、ラモーヌは黙らなかった。
「匂いがする」
「……あれの?」
「たぶん」
ルドルフも振り返る。
「どっち?」
ラモーヌは、ゆっくり顔を動かした。
右。何もない。左。ない。振り返る。
そして、さっきルドルフが指差した方向。
「……そっち」
三人の視線が、揃う。
ルドルフが指していた。帰るはずの方向。
「……そっちから?」
シリウスの声が低くなった。
「うん」
「近い?」
「わからない」
ラモーヌは答えた。それ以外、言いようがなかった。
匂いがある。でも、それがどれほど離れているのか。風に運ばれているだけなのか。さっき通った場所に残ったものなのか。あるいは、本当に、そこにいるのか。
わからない。
「じゃあ別の道だ」
シリウスがすぐに言った。
「でも」
ルドルフが、一度だけ、自分の指していた方向を見る。
戻る道だったかもしれない。その可能性がある。それを捨てる。
「行けねぇだろ」
シリウスが言った。
「いるかもしれない」
「……うん」
ルドルフは、頷いた。
「そうだね」
帰る方向かもしれない道を、自分たちから、外した。
正しいか。間違っているか。それすら、三人にはわからなかった。
ただ、熊がいるかもしれない場所へ向かうことだけは、できなかった。
三人は、別の方向へ歩き始めた。
*
最初は、歩いた。走らなかった。
さっきまで、あれほど走った。脚はまだ動く。走ろうと思えば、走れる。
でも、走ったところで、どこへ行けばいいのかわからない。それに、森の中を無闇に走れば、また余計に帰る道がわからなくなる。それくらいは、もう理解していた。
ルドルフが先頭を歩く。さっきまでとは違う。何歩か進むたび、後ろを見る。
「二人ともいる?」
「いる」
「ええ」
また歩く。十歩。二十歩。振り返る。
「いる?」
「いるって」
少しして、シリウスが言った。
「何回確認すんだよ」
「……ごめん」
「別に怒ってねぇ。だから」
シリウスは、少し言い淀んだ。
「……前見ろ。後ろは私も見る」
それだけ。シリウスは、少しだけ前へ出た。ルドルフの隣。ラモーヌが、その後ろ。
三人。離れない。それだけを決めた。
歩いている間、ルドルフは何度も周りを見た。目印。何か。帰るために使えるもの。特徴のある木。大きな岩。倒れた幹。
けれど、見れば見るほど、全部似て見えた。
森へ入ったばかりの頃は、枝が曲がった木を見つけて、三人で変な形だと言って笑った。ラモーヌが鳥の羽根を拾った。どんぐりを見つけた。一つ一つが、違うものに見えていた。
今は、木は木だった。岩は岩。雪の降る前の、同じ色をした森。
どれも、自分たちを帰してくれる目印にはならない。
「……私が」
ルドルフが、不意に言った。
「ん?」
シリウスが見る。ルドルフは、歩きながら足元だけを見ている。
「私が……丘を見たいなんて言わなければ」
シリウスが、止まった。ラモーヌも。
ルドルフだけが一歩先へ進み、二人が止まったことに気づいて、振り返る。
「何?」
シリウスが、ルドルフを睨んでいた。怖い顔。いつもの、喧嘩を売る時の顔に、少し似ていた。
「それ、やめろ」
「……何が?」
「お前だけのせいみてぇに言うの」
「でも」
「私は止めた」
「……うん」
「それでも行った」
「私が行くって言ったから」
「違ぇよ」
声が、少し強くなる。
「私は、自分で行った」
ルドルフが黙る。
「お前が行くって言って。私が、勝手についてった」
「でも」
「帰ろうと思えば帰れた」
シリウスは言った。
「防風林の前でも。倒木の前でも。何回も」
ルドルフの目が、少し揺れた。
シリウスは、自分の膝を見る。破れた布。擦り傷。痛い。ルドルフについてきたから、ここにいる。それは、事実だった。
でも。
「決めたのは私だ」
シリウスは言った。
「ルドルフ一人に決めさせたんじゃねぇ」
静かな声が、横から入った。
「私もよ」
ラモーヌだった。ルドルフが、ラモーヌを見る。
「ラモーヌ……」
「戻ろうと思ったわ」
ラモーヌは、いつもと同じくらい静かに言う。
「それでも、行ったもの」
「でも、私が――」
「ルドルフ」
珍しく、ラモーヌが途中で止めた。
「今は、帰りましょう」
その言葉で、ルドルフは何も言えなくなった。
責任が消えたわけではない。自分が「もう少しだけ」と言ったことも。二人より先に進んだことも。変わらない。
でも、二人は、自分の後ろにいるのではなかった。横にいた。
それが、今までとは少し違った。
「……うん」
ルドルフが言った。
「帰ろう」
*
その頃から、空が変わり始めていた。
急だった。
ほんの少し前まで、枝の隙間から薄い午後の光が差していた。明るいとは言えなくても、どこかに太陽があることはわかった。
それが、いつの間にか、見えなくなっている。
シリウスが空を見上げた。
「……雲」
低かった。灰色。鉛色。枝の向こうに、重く垂れ込めている。
「さっき、こんなんだったか?」
ルドルフも見上げる。
「違ったと思う」
「天気、悪くなるの?」
ラモーヌが訊く。誰も答えられない。
その代わり、風が答えた。
ごう。
木々の上を、一気に抜けていく。高い枝が、大きく揺れた。遅れて、三人のところまで冷たい空気が落ちてくる。
「……寒っ」
シリウスが、反射的に肩をすくめた。ラモーヌも、裂けた袖を押さえる。
寒いことは、少し前から感じていた。
けれど、あれほど全力で走った身体には、まだ熱が残っていた。息も熱い。胸の奥も焼けるようだった。だから、寒さを感じていても、それがどれほど身体を冷やしているのかまではわからなかった。
今、その熱が、風にまとめて持っていかれる。
汗を吸った服が、冷たくなる。背中。首元。脇。布が肌へ触れる場所から、じわじわと冷えていく。
ラモーヌが、自分の腕を抱いた。
「……寒い」
今度は、はっきり言った。
ルドルフが見る。裂けたカーディガン。その中の腕。鳥肌が立っている。
「ラモーヌ」
「大丈夫よ」
反射的に答えた。ルドルフが、少し困った顔をする。
「……大丈夫じゃないと思う」
ラモーヌは、自分の腕を見た。そして、
「そうね」
と答えた。今度は、無理に取り繕わなかった。
シリウスが、自分の外套へ手をかける。脱ごうとする。
「駄目」
ラモーヌが止めた。
「なんでだよ」
「シリウスも寒いでしょう」
「お前よりマシだ」
「でも寒いわ」
「だから――」
「三人とも寒いなら、脱いだら二人になるだけでしょう?」
シリウスが、口を閉じた。少し考える。
「……じゃあ、くっついて歩くぞ」
「何それ」
ルドルフが訊く。
「離れるよりマシだろ」
シリウスが、ルドルフの腕を掴む。反対、ラモーヌ。
「お前も」
ラモーヌは、少しだけ目を丸くした。それから、ルドルフの反対側へ寄った。肩が触れる。
三人。少し歩きにくくなる。でも、近い。
「……これでいい?」
「知らねぇ。でも離れるよりいいだろ」
「そうね」
三人は、肩を寄せたまま歩いた。
その時だった。
白いものが一つ、ルドルフの頬へ落ちた。
「……?」
傷の近く。冷たい。指で触れる。濡れている。
空を見る。
もう一つ。今度は、シリウスの髪へ。白い粒。
「雪?」
ラモーヌが言った。
三人とも、立ち止まった。
一つ。二つ。三つ。
枝の隙間から、白いものが落ちてくる。遅い。頼りない。小さな雪。
「……雪だ」
ルドルフが言った。その声音には、驚きしかなかった。怖さは、まだ少し遅れてやってきた。
ついさっきまで、落ち葉の上を走っていた。乾いた葉を踏んで、笑っていた。秋だった。
今も、同じ日の、同じ午後のはずだった。
なのに、雪。
最初は、地面へ触れた途端に溶けた。枯れ葉の上で、小さな水滴になる。
それを見て、ルドルフはほんの少し安心した。
「積もらないよ」
言った。
「まだ、地面が温かいから」
本当か。知らない。でも、積もらなければ、足跡は残る。道を探せる。戻れる。
そう、思いたかった。
シリウスが空を見る。
「……本当に?」
ルドルフが返事をしようとする。
その間に、もう一粒、地面へ。
今度は、溶けなかった。
枯れ葉の上に、白く、残った。
次。また次。次。
雪の粒が、少しずつ増える。
ルドルフは、何も言わなかった。
*
それから、早かった。
さっきまで一粒ずつ数えられた雪が、いつの間にか数えられなくなる。
風が、雪を横から運ぶ。白い粒が、三人の顔へ当たる。髪へ。耳へ。服へ。足元へ。
「目、開けづらい……!」
シリウスが、片手で顔を庇う。
「木の近く行こう」
三人で、大きな幹の陰へ入る。風が少しだけ弱くなる。
でも、雪は止まらない。
地面を見る。茶色だった落ち葉が、白い点で覆われ始めている。点。点。点。その間が、だんだん埋まる。
「足跡」
ルドルフが、突然言った。
三人が、来た方を見る。
さっき歩いてきた自分たちの足跡。まだある。
「戻れる」
ルドルフの声が、少しだけ明るくなった。
「これを逆に――」
三人で、足跡へ近づく。
雪の上。まだ薄い。靴跡。一つ。二つ。続いている。
「これ」
シリウスが指す。
「行くぞ」
三人が、自分たちの足跡を逆に辿り始めた。
ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。
今度こそ、帰れるものを見つけた。それだけで、足が少し軽くなる。
「これなら」
ルドルフが言う。
「大丈夫」
その言葉に、シリウスは何も言わなかった。ラモーヌも。
でも、二人とも、少しだけ歩く速度を上げた。
一つ。二つ。三つ。足跡。それを辿る。
次。次。次。
雪が、降る。
一つ前の足跡より、次の足跡の方が、輪郭が薄い。
「……急ごう」
シリウスが言った。三人の歩調がさらに上がる。走らない。でも、速く歩く。
足跡。次。足跡。次。
「……あれ?」
ルドルフが止まった。
「どうした」
「ここ」
地面。足跡が一つ、ある。
次が、ない。
「雪で埋まっただけだろ」
シリウスが、少し先を探す。
「こっちじゃねぇか?」
薄い窪み。ある。
「これ?」
「たぶん」
三人で、そちらへ。数歩。
また、消える。
「……違う?」
ラモーヌが訊く。誰も、わからない。
ルドルフは、後ろを見る。
さっき、自分たちが歩いてきた場所。そこにも、もう新しい雪が被っている。三人の足跡が、薄くなっている。
「待って」
ルドルフが、戻る。
自分たちが今つけた足跡。それと、前からあったもの。
どちらも、同じように、雪の下へ消え始めている。
「……どれ?」
ルドルフが、小さく言った。
今つけたもの。逃げた時につけたもの。歩いてきたもの。
雪が、全部を同じ白に変えていく。
「どれが……戻る方?」
答えは、なかった。
雪が落ちる。静かに。次々と。地面へ。
三人が帰るために使おうとしたものを、一つずつ消していった。
*
三人は、また歩いた。今度は、さっきよりずっと遅かった。
迷わないために、ではない。もう、どちらを選んでも正しい保証がなかった。だから、離れないために。
三人とも、お互いの服が触れる距離から離れなかった。
「指」
ラモーヌが言った。
「何?」
「動かしづらいわ」
両手を見る。指を、開く。閉じる。開く。
いつもなら、何でもない動き。少し、遅い。
「私も」
ルドルフが手を見る。指先。赤い。冷たい。握ると、少し痛い。
シリウスは、何も言わない。
「シリウス?」
「平気だ」
すぐに返る。
「手」
「平気だって」
「見せて」
「なんでだよ」
ルドルフが、シリウスの手首を掴んだ。
「おい」
手袋はない。指先が、強く握られている。
「開いて」
「……」
「シリウス」
「わかったよ」
指を開く。少し、ぎこちない。
ルドルフが、黙る。
「同じじゃない」
シリウスが言う。
「お前も冷えてるだろ。だったら自分の心配もしろ」
ルドルフは、返事をしなかった。
今度は、ラモーヌがルドルフの手を取った。
「冷たい」
「ラモーヌだって」
「そうね」
三人、手を合わせた。一瞬だけ、握る。
誰の手が一番冷たいのか、わからない。でも、自分以外の体温がそこにある。それだけは、わかった。
「動いてた方がいい」
シリウスが言った。
「止まるともっと寒い」
「でも走ったら」
ルドルフが周りを見る。
「また、どこへ行ったかわからなくなる」
「走らねぇよ。歩く」
「三人で」
ラモーヌが言う。
「……ああ」
また、歩く。
足元、雪。さっきまで落ち葉が見えていた。今は、ところどころ白い。
靴が白を踏む。下にある葉が滑る。
一度、ルドルフの足がずれた。シリウスが腕を掴む。
「危ねぇ」
「ごめん」
「だから謝んな」
「……ありがとう」
シリウスが、一瞬黙る。
「……ん」
それだけ返した。
ラモーヌの足も、一度滑った。今度は、ルドルフが支えた。
三人の速度が、さらに遅くなる。
少し歩くだけで、息が白く、大量に出る。あれほど全力で走っていた時とは違った。身体の内側から溢れていた熱は、もうない。吐いたそばから、冷気に残った熱を取られる。
ラモーヌが、鼻を動かした。
「……」
もう一度。
「どうした?」
ルドルフが訊く。
「あの匂い」
三人の足が、少しだけ止まる。
「するのか?」
ラモーヌは、答える前に、また鼻で息を吸った。
雪。湿った樹皮。濡れた葉。三人の服。汗。血。冷たい空気。
それだけ。
「……わからない」
その言葉に、二人の顔が変わった。
「しない?」
「わからないの」
ラモーヌは言い直す。
「しないのか。私がもう嗅げないのか。それも、わからない」
鼻先が冷たかった。何度吸っても、空気が痛いだけ。
熊に追われていた時には、あれほど嫌でも鼻へ入ってきた匂い。近いのか。少し離れたのか。わずかな違いだけでも、教えてくれたもの。
それが、今はわからない。
いない。だから、匂わないのか。
いる。けれど、雪と風で、わからないのか。
どちらでも、同じだった。
「……そっか」
ルドルフが言った。それ以上、聞かなかった。
もう、三人には使えるものがなかった。
来た道、わからない。太陽、見えない。足跡、消える。匂い、わからない。遠く、雪で見えない。
そして、自分たちが山のどこにいるのか。それも、わからない。
「……」
ルドルフは、口を開こうとした。
大丈夫。
言いかける。
言葉が、出なかった。
ここへ来るまで、何度も言った。大丈夫。私たちの脚なら、帰りなんてすぐ。熊から逃げ始めてからも、走れば離れられると思っていた。
今、同じ言葉を、言えなかった。
「ルドルフ」
シリウスが呼ぶ。
「……何?」
「何でもねぇ」
「何それ」
「別に」
シリウスは、ルドルフの顔を見ない。代わりに、少しだけ肩を近づけた。
ラモーヌも、何も言わず、反対側から寄った。
三人で、大きなエゾマツの幹へ背中を預けた。
少しだけ、休む。今度は、休みたいからではない。一度考えなければ、本当にどこへ行くかわからなかった。
*
三人で、木の根元に座った。膝を抱える。
ルドルフが真ん中。左にシリウス。右にラモーヌ。
シリウスの外套の袖が、ルドルフの腕へ触れる。ラモーヌの肩が、反対側へ触れる。
近い。それだけで、少し違う。
風は、木の幹が遮ってくれた。でも、雪は枝の隙間から落ちてくる。頭。肩。膝。三人とも、時々それを払い落とした。
「ラモーヌ」
シリウスが言う。
「もっとこっち来い」
「狭いわ」
「だからだよ。狭い方があったけぇだろ」
ラモーヌが、少しだけシリウス側へ寄る。
「ルドルフも」
「私?」
「お前が一番薄着だろ」
ルドルフは、自分のワンピースを見る。
言われて、初めて、自分がどれほどこの場所に合っていない格好をしているのかわかった。屋敷の中と、庭で遊ぶための服。山で、雪の中にいるための服ではない。
「……寒くないよ」
言った。シリウスがすぐに、
「嘘つけ」
「本当に」
「耳震えてんぞ」
ルドルフが、自分の耳へ触れる。わからない。震えているかどうか。指の方が、冷たすぎる。
ラモーヌが、ルドルフの腕へ自分の腕を当てた。
「冷たいわ」
「ラモーヌも冷たいよ」
「なら同じね」
「……うん」
三人、くっついた。
互いの体温だけが、今、持っているすべてだった。
しばらく、誰も喋らなかった。雪の音を聞いていた。
雪そのものは、ほとんど音を立てない。でも、枝へ積もった雪が、時々、ぱさり、と落ちる。
そのたび、三人の耳が揃って動いた。びくり。身体も、少し強張る。
雪だ。わかる。力を抜く。
また、ぱさり。耳が動く。身体が強張る。雪。力を抜く。
何度も、繰り返す。
シリウスが、苛立ったように耳を押さえた。
「クソ……」
「どうしたの?」
「音がするたびビビる」
誰も、笑わなかった。
ルドルフも、同じだった。
音一つ。それだけで、あの熊を思い出す。
いるのか。いないのか。わからないから、全部、熊かもしれない。枝。雪。風。木。どれも、最初の一瞬だけ、そう思ってしまう。
「……怒られるね」
ラモーヌが、小さく言った。
シリウスが顔を向ける。
「何が?」
「帰ったら」
ルドルフも、ラモーヌを見る。
「おばあさまに」
ラモーヌは、膝へ顔を少し埋めた。
「庭より先へ行かないでって言われたもの」
シリウスが、鼻で短く息を吐く。
「怒られるどころか……」
そこで、止まった。続きは、言わなかった。
三人とも、続きを考えた。
帰れなかったら。
そんな言葉。誰も、言いたくなかった。
「帰ったら」
ルドルフが言った。少し、強く。
「ちゃんと謝ろう」
シリウスが、横目で見る。
「お前、今度は本当に怒られるぞ」
「うん」
「スピードシンボリにも」
「……うん」
「私も怒られる」
「うん」
「ラモーヌも」
「そうね」
一瞬、静か。
それから、ラモーヌが言う。
「アルダンにも」
ルドルフが、ラモーヌを見る。
ラモーヌは、ポケットへ手を入れた。
羽根。出す。
少し曲がっていた。先の方も湿っている。けれど、折れてはいない。
「お土産話、聞かせてねって」
ラモーヌは言った。
「言われたの」
シリウスの目が、羽根へ落ちる。
「それ」
「拾ったの」
「見せるんだろ」
「ええ」
「じゃあ帰らねぇとな」
ラモーヌは、羽根を見る。
「そうね」
その声は、小さかった。
ルドルフは、それを聞いた。
帰る。帰らなければ。謝るため。怒られるため。羽根を見せるため。暖かい部屋へ戻るため。
「……誰かが」
ルドルフが、口を開いた。
シリウス。ラモーヌ。二人が、見る。
「誰かが、捜しに来る」
声は、思っていたより小さくなった。
だから、もう一度。
「きっと」
少しだけ、大きく。
「私たちが帰らなかったら、気づく」
頭の中に、スピードシンボリの顔が浮かぶ。言われたことは守れ。玄関前で、そう言った。
メジロアサマ。日が落ちる前には戻ってきなさい。そう言った。
帰らなければ、わかる。大人たちが、気づく。
「もう、とっくに気づいてるかもしれない」
ルドルフが続ける。
「庭にいないって」
シリウスが、少し考える。
「……まあ」
「スピードシンボリなら」
ルドルフの声に、ほんの少し力が戻る。
「あの人なら、すぐに――」
言い切ろうとして、止まる。
すぐに、何を。
この雪の中を。この場所まで。来られるのか。自分たちでさえ、どこにいるかわからないのに。
その考えが、出てきた。
でも、今度は、声にしなかった。
シリウスが、代わりに言った。
「来る」
ルドルフが見る。シリウスは、前を向いたまま、もう一度。
「来るだろ」
強がりかもしれない。根拠は、なかった。
でも、ラモーヌも小さく、
「ええ」
と言った。
「きっと」
三人の中に、少しだけ、何かが戻った。
大丈夫、ではない。帰れる、でもない。
ただ、外に、自分たちを知っている人がいる。
それだけ。それだけが、まだ山の外と繋がっていた。
「じゃあ」
ルドルフが言った。
「無闇に動かない方がいいのかな」
「……どうだろうな」
シリウスが答える。
「ここがどこかもわかんねぇし」
「でも」
ラモーヌが雪を見る。
「このままも、寒いわ」
誰も、正解を知らない。動く。止まる。どちらにも、危険がある気がする。
「少しだけ」
ルドルフが言った。
その言葉に、三人が同時に反応した。
一瞬、丘を目指していた、あの時が戻ってくる。
ルドルフ自身も、気づいた。口を閉じる。
「……ごめん」
シリウスが、横から、ほんの少し口元を動かした。笑った、というほどではない。
「今のは言わねぇ方がよかったな」
「うん」
ラモーヌも、少しだけ目元を緩めた。
それは、この山へ入ってから初めて、三人の間へ戻った、ほんの小さな日常だった。
「少し休んで」
ルドルフは、言い直した。
「身体が動くうちに、風を避けられる場所を探そう」
シリウスが頷く。
「それならいい」
ラモーヌも。
「ええ」
三人は、もう少しだけ互いに身体を寄せた。
*
雪が、さらに濃くなった。
時間は、それほど経っていないはずだった。少なくとも、三人にはそう思えた。
なのに、景色は、まるで別の日になったようだった。
遠くが見えない。何本か先の木が白く霞む。その向こうは、もう何もない。
空。森。地面。全部、同じ灰色と白の中へ溶け始めている。
さっきまで黒く濡れていた幹にも、風上側だけ雪が張り付いていた。
枝、白。地面、白。
足跡、もう、ない。
ルドルフが、自分の手を見る。指を開く。握る。さっきより、動きづらい。
シリウスも、時々、手を握っている。
ラモーヌは、鼻先へ手を当てていた。
「ラモーヌ?」
「……感覚が変」
「鼻?」
「ええ」
匂い、わからない。冷たさ、わかりにくい。
顔。指。足先。少しずつ、自分の身体なのに、遠くなるような、変な感じ。
まだ動く。まだ喋れる。まだ立てる。
でも、何かが、少しずつ壊れている。
三人とも、それを正しく説明する言葉を持っていなかった。
ただ、寒い。疲れた。痛い。怖い。それだけ。
「……行こう」
シリウスが、最初に立った。同じ場所にずっといる方が、寒かった。
ルドルフも立つ。ラモーヌも。
三人、また手を取り合う。
最初は、身体を起こすためだった。でも、立った後も、離さなかった。
シリウスの手。ルドルフ。ラモーヌ。三人、繋がる。
どれだけ速く走れるかより。どれだけ強く地面を蹴れるかより。
今、この瞬間、手を離さないことだけが意味を持っていた。
山へ踏み込む前までは、脚さえあればどこへでも行けると思っていた。
今は、その脚が、どちらへ行けばいいのかを教えてくれない。
だから、手。
「絶対、離すなよ」
シリウスが言った。
「うん」
「ええ」
三人で、歩き出す。ゆっくり。雪の中を。
*
何歩進んだのか、わからない。十歩。二十歩。もっと。
でも、距離の感覚がなくなっていく。
白い。木。白い。木。白。三人の息。それだけ。
ラモーヌが、一度、後ろを見る。
何も見えない。
自分たちがさっきまで座っていた木。もう、雪の向こうへぼんやりとしか見えない。
「……ルドルフ」
「何?」
「何でもない」
言った。本当に、何でもない。
ただ、見えなくなるのが早すぎると思っただけ。
三人が歩く。一歩。一歩。急がない。離れない。雪。
その時、風が少しだけ弱くなった。
一瞬、視界が開く。ほんの数秒。白い幕が薄くなる。
前方に、何本もの木。黒い幹。立っている。
ルドルフは、そこを見る。
「……あっち」
少し、木の間が広い。
「行ってみよう」
シリウスが頷こうとした。
その前に、ラモーヌの手が強くなった。ルドルフの手を握る力。
「……ラモーヌ?」
返事がない。
「どうした」
シリウスも見る。
ラモーヌは、前ではなく、後ろを見ていた。
「……」
唇が、少しだけ開いている。声が出ない。
ルドルフも、振り返った。
雪。白。木。白い。
何も、ない。
そう、思った。
最初は、一本の太い木だと思った。
雪の向こう。他の木より、ずっと低い位置に、黒い影がある。太い。大きい。
さっきまで、あそこに、あんな木はあっただろうか。
わからない。
白い雪が、また視界を横切る。影が消える。
一瞬、三人とも、息を止める。
次の風。雪が、少しだけ流れる。
黒い影が、また見える。
そして、動いた。
木ではなかった。
ゆっくり、横へ、一歩。雪の中で、何かが位置を変えた。
三人の手が、同時に強く握られる。
ラモーヌの耳が伏せた。シリウスの呼吸が止まった。ルドルフは、目を逸らせなかった。
白の向こう。巨大な影が、そこにいた。
さっきまで、どこにいたのか。どうやって、ここまで来たのか。
わからない。
ただ、いる。それだけ。
ラモーヌが、ようやく声を出した。
「……ルドルフ」
震えていた。
あの熊を初めて目の前にした時と、同じ声だった。
雪の向こうで、黒い影が、ゆっくり、こちらを向いた。
2026/10/05
本文加筆。