氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
走らせるほど、肉は熱を帯びる。
追い詰めるほどに、血は甘く熟していく。
絶望が混じるほどに、脂は深く、重くなる。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
追えば追うほど腹が減る。追えば追うほど腹が減る。
――最高の食べ頃を、私は知っている。
風向きが変わった。
最初に気づいたのはラモーヌだった。
一歩踏み出そうとして、止まった。鼻先を覆い、眉根を寄せる。
甘かった。
それが最初の違和感だった。獣の体臭というのは、もっと酸く、もっと生臭いものだとラモーヌは思っていた。でもこの匂いは、その下に甘さがある。熟れすぎた果実が腐り始める時の、あの甘ったるさに似ていた。ただし、果実の匂いではない。もっと重く、もっと粘りつく。そしてその甘さの奥に、錆びた金属のような、口の中に広がる金気が混じっていた。
何の匂いか、言葉が出てこなかった。
ただ、胃の底が冷えた。冷えた、というより——収縮した。身体の奥の、言葉より古い何かが、答えを出していた。
逃げなければいけない。
でも、脚が動かなかった。
ラモーヌは自分の脚を見た。動かそうとしている。動かそうという命令は出ている。でも、伝わっていない。膝から下が、別の生き物になったようだった。震えているのはわかった。震えているのに、前へ出ない。後ろへも退かない。ただ、そこに固まっていた。
耳が、知らないうちに伏せられていた。
気づいた時には、もう頭の両側に貼り付くほど折れていた。自分で動かしたのではない。身体が勝手にそうしていた。まるで、小さく、薄く、目立たなくなろうとするように。
こんなことは、初めてだった。
走ることは好きだった。脚が動くことが、当たり前だった。走れなかった時期があった。それから走れるようになった。なのに走れないことがある、ということを、この瞬間まで知らなかった。
数秒後、ルドルフの背中が変わった。
さっきまで枝をくぐるたびに揺れていた癖毛が、今は石になったように静止している。肩が上がっていた。呼吸が、止まっていた。首の後ろの産毛が、逆立っているのが、離れた場所からでもわかった。
ルドルフの耳が、鋭く前へ向いていた。
音を、拾おうとしている。何かを、捉えようとしている。でもその耳が、一度ぴくりと震えて、そのまま固まった。固まったまま、動かなくなった。
ラモーヌには、ルドルフの顔が見えなかった。
見えなかったから、余計に怖かった。何を見ているのか。何を感じているのか。あの背中の向こうに何があるのか。振り返れない背中が、ラモーヌの想像を際限なく広げていた。
「……ルドルフ?」
シリウスが呼んだ。返事がなかった。
ラモーヌはシリウスの方を見た。
あのシリウスが怯えている。耳が後ろへ深く伏せられ、尾が石のように固まっていた。おそらく自分もそうなのだろう、とラモーヌは思った。確かめなかった。確かめる余裕がなかった。それだけで十分だった。
いつも啖呵を切る。指示を出す。何かを言う。そのシリウスが今、言葉を失っていた。
それを見た瞬間、ラモーヌの胃の底がもう一段、冷えた。
シリウスが怯えている。それだけで十分だった。
静寂が、また一段、深くなった。
風が止まっている。雪がまだ落ちてきていない。虫も、鳥も、何もない。この場所だけ、世界の音が全部剥ぎ取られたような静けさだった。その静けさの中で、三人の呼吸だけが白く散っている。散るたびに、自分たちがここにいることを、世界に向かって教えてしまっている気がした。
息を、殺したかった。
でも、殺せなかった。
前方、数十メートル先の笹藪が、音もなく割れた。
音もなく、というのが、正確ではないかもしれない。音はあった。笹が揺れる音。枯れ枝が折れる音。でもそれらは全部、出てきたものの大きさに対して、あまりにも小さかった。そのちぐはぐさが、最初の恐怖だった。あれだけの質量が動いているのに、世界がほとんど音を立てない。森が、その存在に慣れている。その存在が動くことを、この場所の全てが当たり前として受け入れている。
大きかった。
それが最初の印象だった。高さではない。その存在が占める空間の重さが、大きかった。
体長は二メートルを優に超えていた。四つ足で立っているのに、肩の盛り上がりが大人の腰の高さに達している。頭だけで、子供の胴体ほどの大きさがあった。その頭が、ゆっくりとこちらへ向いて、鼻を高く上げたように見えた。
体重は、見ただけではわからなかった。でも、足跡の深さが全てを語っていた。目の前に顕れたソレが踏み込むたびに地面に僅かに残っていた雪ごと土が圧縮されて、窪みが残る。その深さが、尋常ではなかった。あれだけの重さが、今、この場所に立っている。この場所の土が、その重さを受け止めている。
毛皮は黒褐色だった。年季の入った、厚い毛だ。泥と、乾いた何かが黒く固まってこびりついている。遠目には模様のように見えたが、近づくにつれてそれが何なのかがわかってきた。古い傷の痕だった。いくつもの傷が重なって、毛皮の下で盛り上がっている。長く生きてきた証だった。長く生きて、長く戦ってきた証だった。どれだけのものと戦って、それでも生き続けてきたのか。その答えが、毛皮の上に刻まれていた。
首から肩にかけての筋肉が、毛皮の下で山のように盛り上がっている。前脚の太さが、大人の胴回りほどあった。爪は、半ば土に埋もれていても、その先端が見えた。湾曲した、黄ばんだ爪。長さだけで、子供の手のひらを超えていた。その爪が、今、土の上に置かれている。置かれているだけで、動いていない。動いていないのに——その先端が何をするためのものか、見ただけでわかった。
それでも——ただそこに立っているだけで——空気の質が変わった。
重力が一段増したような感覚だった。息を吸うたびに、肺に余計な何かが混じり込んでくる気がした。それが何かは、わからなかった。ただ、呼吸のたびに、少しずつ、立っていることが難しくなっていく。膝が、また少し曲がった。自分で曲げたのではない。重力が、一段増したから、曲がった。
匂いが、濃くなっていた。
さっきより格段に濃くなっていた。風向きが変わったのではない。距離が縮まったのだ。数十メートルの距離で、この濃さだった。これがもっと近づいたら——考えかけて、止めた。
濁りきった眼が、三人を見た。
見た、というより、確認した。それだけの眼だった。
鼻が動いた。湿った呼気が、白く漂った。喉の奥で、何かが低く鳴った。クチャリ、という音ではなかった。もっと静かな、もっと確信に満ちた音だった。品定めをしている音だった。
怒りがなかった。狂気もなかった。そこにあるのはただ、これから起きることへの確信だけだった。急ぐ必要もないと知っている眼だった。どこへも行けないと、骨の髄まで知っている眼だった。数十年もこの山で生きてきて、追い詰めた獲物が最終的にどうなるかを、経験として知っている眼だった。——また鼻の位置が上向いた。今度は見間違いではなく、鼻が高い位置にあった。
感情がない眼、というのではなかった。
感情を必要としていない眼、だった。
ラモーヌは、自分の手が震えているのを見た。
震えているとわかっているのに、止められなかった。止め方がわからなかった。膝が笑っているのもわかった。ウマ娘の脚力が、何の役にも立たなかった。走ろうとする前に、立っていることが精一杯だった。
横目でシリウスを見た。
口が、音もなく開いていた。何も、出てこなかった。声を出そうとしたわけではないのだろう。ただ、空気が漏れた。それだけだった。普段であれば、どんな局面でも言葉が先に出る。啖呵を切る。指示を出す。何かを言う。そのシリウスが今、言葉より前に、身体が答えを出していた。その答えは、音にならなかった。
ルドルフを見た。
前を向いたまま動けなかった。あの眼から、視線を外すことができないのだろう。外した瞬間に、何かが起きる気がするのだろう。見続けることしか、今のルドルフにはできない——そういう背中だった。ルドルフの尾が、風もないのに、細かく震えていた。
三人とも、動けなかった。
一秒が、一分に感じた。
その間、羆は動かなかった。急がなかった。ただそこに立って、三人を確認し続けていた。そのことが——動かないことが——何より恐ろしかった。走ってくれば、まだ逃げるという選択肢が生まれる。でも動かない。急がない。三人が逃げようとすれば追えばいい、という余裕が、その巨体から滲み出ていた。
待っていた。
何を待っているのか。三人が動くのを、待っていた。
動いた瞬間に、追う。それだけのことだと知っていた。知っていて、待っていた。その余裕が——その静けさが——走ってくることより、ずっと恐ろしかった。
脚が、一歩後退していた。
動かそうとしたのではなかった。気づいた時には、もう後ろに下がっていた。身体の方が、頭より先に何かを決めていた。何を決めたのか、ラモーヌ自身にはわからなかった。ただ、脚が後退した。その一歩が、地面を踏む音を立てた。
羆の重心が、前へ移った。
ほんの僅かだった。四つ足の体重が、後脚から前脚へ。その移動が、地面を通して伝わってきた。音ではなかった。振動でもなかった。ただ、空気の質が変わった。待っていたものが、待つのをやめた瞬間の、静けさの終わりだった。
羆の口角が、人のように歪んで上がった気がした——瞬間。
「走って」
ルドルフの声が、ラモーヌの耳に届いた。
細かった。掠れていた。自分の声とは思えないほど、とルドルフ自身が感じているだろうと、なぜかラモーヌにはわかった。でも、三人の脚は動いた。振り返らず、方向も確かめず、ただ「それ」から遠ざかるためだけに、弾かれるようにして身体が勝手に走り出した。
エゾマツの枝が、顔を打った。
ラモーヌは構わず走った。カーディガンの袖が太い枝に引っかかり、派手な音を立てて裂けた。袖口から冷気が入り込んでくる。熱い、と思った。痛みより先に熱さが来た。伏せたままの耳が、枝に掠った。それでも止まらなかった。止まれなかった。
前方でシリウスが木の根に爪先を引っかけた。
前のめりに倒れる気配がした。ラモーヌは振り返りながら叫んだ。
「シリウス!」
シリウスは自分でも驚くほどすぐに立ち上がった。膝が痛いはずだ。膝小僧の布地が破れて、皮膚が擦れているのがラモーヌには見えた。でもシリウスは走った。走れるなら、走るしかない。そういうウマ娘だった。
背後から、音が来た。
ドン、という地響きではなかった。もっと重く、低く、地面そのものが揺れているような振動だった。「それ」が動き始めた音だった。
走り続けた。
林の密度が増すほど速度は落ちるはずなのに、恐怖が脚を上書きしていた。枝が腕を引っかく。石が靴底を歪ませる。それでも止まらなかった。止まれなかった。
ドスドスと背後の音が、近かった。
速かった。あの巨体が——木々の間を縫うように動いていた。一歩の幅が違った。三人が三歩走る間に、一歩で追いついてくる。森の中で鍛えられた、森のための身体だった。速さではなく、効率だった。無駄のない、恐ろしいほど無駄のない動きだった。地面が、踏み込むたびに沈んだ。あの足跡の深さを、三人は見ていた。あれだけの重さが、今、動いている。
ラモーヌは走りながら、一つのことだけを考えていた。
匂いが、まだある。
薄れない。薄れないということは、距離が縮まっていない証拠ではない。追ってくる側が同じ匂いを持っているなら、どれだけ走っても匂いは消えない。消えないということは——追われている限り、消えない。
走り続けた。どれくらい走ったか、わからなかった。
気づいた時には、背後の音が変わっていた。ズシンと、ガサガサと響いていた音が消えた。
けれど遠ざかってはいなかった。近づいてもいなかった。一定の距離を保ったまま、ついてきていた。急いでいなかった。それが何を意味するのか——三人が止まれば追いつける距離を、わかった上で保っているのか——考えかけて、やめた。考えれば、恐怖で脚が止まる気がした。
ルドルフが先に速度を落とした。
肺が限界なのだろう。両膝に手をついて、荒い息が白く散っている。シリウスが木の幹に手をついた。走っている間は感じなかった傷の痛みが、止まった瞬間に全部戻ってきているのが、その顔でわかった。
ラモーヌだけが、わずかに早く呼吸を整えた。
整えながら、鼻を動かした。
匂いは、まだあった。
薄くなっていた。薄くはなっていた。でも消えていなかった。
ルドルフの耳が、ようやく少しだけ前を向いた。ほんのわずかだったが、さっきまでの固まり方とは違った。追ってくる音がなくなったことを、身体が先に受け取っていた。
二人がほっとしているのがわかったから、言わなかった。
ルドルフが左手で頬に触れた。指先に、赤いものがついた。見てから、ああ血だ、という顔をした。大した傷ではない。でも、今まで生きてきて、自分の血をこんなふうに見たことはなかっただろう。走ることで傷を負う、ということの意味を、今日初めて知ったのだろう。
ラモーヌにはそれが、なぜかはっきりと見えた。
「……逃げ、きれた?」
シリウスが掠れた声で言った。
誰も答えなかった。
ラモーヌは、鼻を動かしたまま、黙っていた。
匂いは、消えていなかった。
薄れてはいた。でも消えていなかった。それが何を意味するのか——距離が開いただけなのか、それとも——考えるのをやめた。考えても、今の自分にできることは変わらない。
ただ、言わなかった。
二人がほっとしている。その顔を見てしまったから、言えなかった。
シリウスの耳が、まだ深く伏せられたままだった。
ほっとしている、という言葉は正確ではないかもしれない。ただ、さっきよりは呼吸ができている。それだけのことだ。でも身体の方はまだ、正直だった。伏せられた耳が、まだここは安全ではないと、言い続けていた。
言わなかったことが正しかったかどうか。それは、まだわからなかった。その代償は少し後になって、初めてわかることになる。