氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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言いかけた言葉が、完成しなかった。

完成していたとしても、間に合わなかったかもしれない。
間に合ったとしても、別の結果だったかどうかわからない。

それでも、完成しなかった、という事実だけが残る。
雪は、その事実まで埋めなかった。


04-五.『雪が、答えを埋めていた』

話しながら、コハギは自分の声が遠く聞こえていた。

 

今夜見たこと。聞こえた気がしたこと。外に出た理由。人影を見た場所。消えた方角。足音がしなかったこと。匂いが来た方角。

 

全部、順番に話した。

 

田中さんは黙って聞いた。途中で一度だけ「どちらの方角から匂いが来た」と聞いた。コハギは体ごと向いて答えた。

 

「……南東です」

 

声が、かすかに震えた。震えたことに、自分で気づいた。

 

田中さんが中村支部長を呼んだ。二人が短く話した。コハギには聞こえなかった。風の音が混じっていた。

 

それから全員が外に出た。

 

懐中電灯が、いくつも雪の上を照らした。白い光の円が動くたびに、雪の質感が変わって見えた。足跡を追った。足跡は続いていた。続いて、また乱れていた場所に戻ってきた。

 

誰も近づかなかった。

 

光の円が、その場所の周囲を何度も照らした。照らすたびに、雪の抉れ方が改めて見えた。大きかった。深かった。そこに何かがいたということが、見るたびに確かになっていった。

 

コハギは、田中さんの横顔を見た。

 

懐中電灯の光の縁で、その顔がかすかに浮かんでいた。三十年以上この山で猟をしてきた人間の顔だった。いつも落ち着いていた。いつも、言うべきことを淡々と言う人だった。

 

その顔が、今夜は違った。

 

唇が、強く結ばれていた。目が、雪の抉れから離れなかった。離せない目だった。見るつもりがあるのではなく、目が貼りついて動かない。そういう顔だった。

 

コハギにはわかった。

 

田中さんが今、自分の中にあるはずの経験を探している。何年も山をやってきて、見たはずの痕跡を、頭の中で照合している。照合して、一つも合わないと気づき続けている。その顔だった。

 

田中さんが何も言わないのは、言う言葉が出てこないからだった。

 

自分の言葉が、足りなかった。さっき、外に出て「大丈夫ですか、一人で出歩いては——」と言いかけたことを、コハギはまた思い出した。続きを口にしようとした時にはもう、あの人影は消えていた。完成しなかった言葉が、今になって喉の奥で熱かった。

 

完成していたとしても、間に合わなかっただろう。

 

それでも、完成しなかった。

 

コハギは、その事実を胸の奥に落とした。落として、また光の外に目を向けた。

 

「呼んでみろ」

 

田中さんが言った。

 

中村支部長が、名前を呼んだ。夜の中に向かって、もう一度呼んだ。

 

答えがなかった。

 

風が、その名前を持っていった。

 

コハギは光の届かない方角を見ていた。木立の向こうに、暗さがあった。どこまでが雪でどこからが闇なのか、境界がわからなかった。懐中電灯の光は、その暗さの縁まで届いていなかった。

 

捜索を始めた。

 

散開することは、できなかった。

 

田中さんがそれを許さなかった。

 

その声が、コハギの知っている田中さんの声ではなかった。山菜の季節に顔を合わせてきた声は、もっと柔らかかった。今の声は、全部の柔らかさが抜け落ちていた。判断だけが残った声だった。

 

コハギの耳が、後ろに倒れた。意識してのことではなかった。

 

「互いの光が重なる範囲から出るな」と短く言った。それだけだった。理由を説明しなかった。説明する必要がなかった。全員が、なぜかを知っていた。

 

雪の中を、全員が固まって歩いた。背中を合わせるようにして、四方に光を向けながら進んだ。名前を呼び続けた。コハギは足跡を探しながら歩いた。新しい足跡が見つかれば、何かがわかるかもしれなかった。

 

雪が、静かに降り続けていた。

 

吹雪ではなかった。音もなく、細かく、ただ降り続けていた。降るたびに、雪の上のものが少しずつ薄くなっていった。

 

コハギの耳が、前に向いた。

 

音の中から、違う音を探していた。風。木が軋む音。遠くで雪が崩れる音。その中に、人の声が混じっていないか。返事が、どこかから来ていないか。

 

来なかった。

 

光が届く範囲を、全員で歩き回った。それ以上の暗闇には、誰も足を踏み入れることができなかった。踏み入れたくないからではなかった。踏み入れることが、次の犠牲を生むとわかっていたからだった。

 

光の円が、雪の上の一点で止まった。

 

手袋だった。

 

片方だけ、雪の上に落ちていた。誰かが置いたのではなかった。落ちた、という落ち方だった。

 

誰かが息を呑んだ。コハギには、誰の息かわからなかった。

 

足が、自然に止まった。全員の足が、ほぼ同時に止まった。田中さんが一歩だけ前に出た。懐中電灯の光で、手袋の周囲を照らした。他には何もなかった。

 

「進む」

 

田中さんが言った。

 

雪を掻きながら、足跡を辿った。少し先に、また何かがあった。

 

ゴーグルだった。

 

レンズが上を向いていた。コハギの懐中電灯の光が当たって、一瞬だけ反射した。

 

コハギの心臓が、鳴り始めた。

 

鳴っていた、というより、鳴っていることに気づいた。いつから鳴っていたのか、わからなかった。ただ、今この瞬間、自分の胸の中に音がある。

 

田中さんの手が、懐中電灯を固く握り直すのが見えた。それだけだった。何も言わなかった。

 

「進む」

 

また言った。

 

さらに雪を掻いた。足跡が続いていた。続いていて——また何かがあった。

 

光だった。

 

雪の上に、光があった。

 

懐中電灯が、一本、雪の上に落ちていた。点いていた。光が、小さく白い円を雪の上に作っていた。誰かがそこに置いたように、あるいは誰かの手から落ちたように、ただそこにあった。

 

誰も動かなかった。

 

コハギの耳が、限界まで前に向いた。

 

心臓の音が、耳の中に聞こえた。自分のものか、隣の誰かのものか、もうわからなかった。全員の呼吸が、浅くなっていた。白い息が、何本も暗闇に立った。

 

懐中電灯の光の先に、足跡があった。

 

続いていた。

 

続いて——乱れていた。

 

乱れた先に、足跡がなかった。

 

懐中電灯の光が照らす雪の上に、何もなかった。

 

中村支部長が、名前を呼んだ。

 

答えがなかった。

 

もう一度、呼んだ。

 

答えがなかった。

 

雪が、静かに降り続けていた。

 

見つからなかった。

 

雪が、答えを埋めていた。

 

コハギは、ある時点で足を止めた。

 

自分がさっき外に出た時のことを、また思った。「大丈夫ですか、一人で出歩いては——」と言いかけた瞬間のことを。言いかけた言葉が、完成しなかったことを。

 

完成していたとしても、間に合わなかったかもしれなかった。

 

それでも、完成しなかった。

 

コハギは、その事実を胸の奥に落とした。落として、また歩き始めた。今夜できることは、探し続けることだけだった。

 

 

    ※

 

 

夜明けが来た。

 

空の端が、ごく薄く白くなった。白くなりながら、灰色になった。山の稜線が、少しずつ輪郭を取り戻した。

 

雪は、まだ降り続けていた。

 

その光の中で、コハギは改めて周囲を見た。

 

昨夜、懐中電灯で照らした場所を、今度は朝の光の中で見た。雪の抉れが、昨夜より浅く見えた。雪が、夜のうちに少しずつ埋めていた。

 

田中さんが、コハギの隣に立った。

 

その立ち方が、違った。いつもは少し腰が落ちていた。山菜採りの帰りに会う時の、力の抜けた立ち方だった。今朝は背筋が伸びていた。目が、雪の上を読んでいた。感情を閉じて、状況だけを見ている目だった。

 

コハギの尾が、気づかないうちに縮んでいた。

 

二人で、その場所を見た。

 

「もう一度聞く」

 

田中さんが言った。声が低かった。

 

「人影が消えた方角は」

 

コハギは体を向けた。

 

「こちらです」

 

「跡はあったか」

 

「ありませんでした」

 

田中さんは、その方角を見た。

 

雪の上にも、木々の枝にも、何も落ちていなかった。大人一人を連れ去りながら、まるで空へ溶けたように消えていた。

 

しばらく、見続けた。

 

何も言わなかった。何も言えないのだと、コハギにはわかった。田中さんが言葉を持っていないのではなかった。この目の前にあるものを言葉にすることを、拒んでいた。

 

コハギは、その顔から目が離せなかった。

 

田中さんが怖いのではなかった。田中さんが怖がっているものが、怖かった。

 

耳が、また後ろに倒れた。

 

中村支部長が近づいてきた。その顔を見た。田中さんと同じ顔だった。コハギは、この顔を猟友会の会議では一度も見たことがなかった。

 

「本部に入れる」

 

田中さんが頷いた。

 

中村支部長が無線機を取った。周波数を合わせた。短く、事実だけを告げた。

 

「ビバーク組より本部。隊員一名、現在位置不明。夜間に消息を絶った。捜索継続中。詳細は戻り次第報告」

 

静電気のような音がして、返答が来た。

 

邸宅側の声だった。隊長の声だった。

 

コハギには、その声の質が変わったのがわかった。返答している人間の、声の奥にあるものが変わった。何を言っているかより先に、そちらがわかった。

 

中村支部長は無線を切った。

 

それから、また山の方角を見た。

 

「動くぞ」

 

それだけ言った。

 

 

    ※

 

 

邸宅の廊下で、スピードシンボリは隊長と向き合っていた。

 

朝の五時を過ぎたところだった。まだ暗かった。窓の外の山が、ようやく輪郭を持ち始めていた。

 

無線が入ったのは、夜明けの直前だった。

 

隊長がスピードシンボリの部屋のドアを叩いた。スピードシンボリはすでに起きていた。起きていた、というより、眠れなかった。

 

「報告があります」

 

隊長の顔を、一度だけ見た。

 

それだけでわかった。

 

「話してください」

 

隊長が話した。短く、事実だけを話した。ビバーク組より入電。隊員一名、夜間に消息を絶った。現在位置不明。捜索継続中。

 

スピードシンボリは動かなかった。

 

動き方が、わからなかった。

 

今まで何度も、何かを聞かされてきた。捜索が難航しているという報告。距離が縮まっているという報告。方角が変わったという報告。それらは全部、何かをすべき情報だった。動くべき方向があった。

 

この報告は、違った。

 

動き方が、わからなかった。

 

「以上です」

 

隊長が言った。

 

「……わかりました」

 

スピードシンボリは言った。

 

廊下の奥に、気配があった。アサマだった。いつから立っていたのか、わからなかった。立っていた。それだけがわかった。

 

隊長が礼をして、廊下を戻っていった。

 

足音が遠ざかった。

 

廊下に、スピードシンボリとアサマだけが残った。

 

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

アサマが窓の外を見ていた。山が、朝の光の中に浮かびかけていた。その山の中に、今も誰かがいる。その誰かが、今夜から一人増えた。

 

「捨てていません、と言い続けました」

 

スピードシンボリが言った。

 

アサマは動かなかった。

 

「俺は、ずっとそう言いました。止めることはできない、と言いました。捜索を続けさせました」

 

声が出ていた。自分でも気づかないうちに、出ていた。

 

「その結果が、これです」

 

アサマは窓の外を見たままだった。

 

「……そうですね」

 

静かな声だった。

 

「でも」

 

アサマが続けた。

 

「あなたが間違っていたとは、思っていません」

 

スピードシンボリは何も言わなかった。

 

「あの子たちを捨てなかった。その選択は正しかった。正しかった選択が、こういう結果を生むことがある。それだけのことです」

 

「それだけのことで、人が消えた」

 

「そうです」

 

アサマは言った。

 

「あなたのせいではない。しかし、あなたの選択の結果でもある。両方が、同時に本当のことです」

 

スピードシンボリは、アサマを見た。

 

アサマはまだ窓の外を見ていた。山を見ていた。その横顔に、同じ重さが乗っているのがわかった。俺だけではない、とスピードシンボリは思った。アサマも、同じ場所に立っている。

 

自分の掌を、一度だけ見た。

 

掌の芯が、冷えていた。昨日、隊長の外套を受け取った時の重さが、まだ残っているような気がした。雪と水と泥の重さだった。その重さに、今夜から一人分のものが加わっていた。加わったわけではなかった。加わったように感じただけだった。でも、冷えていた。

 

「今日の方針を決める会議が、朝のうちに入ります」

 

アサマが言った。

 

「……わかっています」

 

「行きますか」

 

「行きます」

 

それだけだった。

 

スピードシンボリは窓の外を見た。山が、朝の光の中に浮かんでいた。

 

シリウスが、寒いのが苦手だということを、また思い出した。

 

今朝は、考えるのをやめなかった。あの子の肩に、十六日間、外套をかけてやれなかった。その事実を、今朝もそのまま抱えていた。

 

捨てていない。

 

その言葉の意味が、今朝から変わっていた。変わっていたが、捨てるつもりはなかった。捨てたら、今夜消えた人間のことも、あの山の中にいる子供たちのことも、全部を裏切ることになる。

 

捨てない。

 

それだけだった。

 

 

    ※

 

 

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SNS投稿 11月6日 早朝〜午前 収集分

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無線愛好家_北海道 @radio_monitor_hkd

深夜から明け方にかけて、胆振管内の業務無線がやたら飛んでた。

聞き取れたのは断片だけど「位置不明」「夜間」「継続」みたいな単語が混じってた。

子供の捜索と関係ある?

詳しい人いたら教えてほしい。

  412 ❤ 1,876

 

 ▼ リプライ

 「それ捜索の通常通信じゃないの」

 「夜間に位置不明って……なんか嫌な感じがする」

 「深読みしすぎでは」

 

 

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炎上まとめ速報【非公式】@enjo_sokuho_xx

【拡散】胆振の行方不明の件、捜索隊に何か起きた可能性が浮上。

現地の無線を傍受した複数のアカウントが「異常な通信があった」と報告している。

名家側が情報を封鎖している疑いも。

続報を注視。

 

  3,109 ❤ 8,234

 

 ▼ リプライ

 「またこのアカウントか」

 「ソースは?」

 「捜索隊の方々が心配……本当なの?」

 「こういう時に騒ぐの、やめてほしい」

 「でも何かあったのは本当っぽくない?」

 

 

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心配性な道民2号 @shinpai2_domin

さっきの無線の話、拡散されてるけど本当なのかな。

16日目でまだ見つかってないのに、捜索隊にも何かあったとしたら……

ちゃんとした情報が出てほしい。

捜索隊の方々のこと、心配です。

 

  892 ❤ 3,341

 

 

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冷静に見る人 @calm_watcher_55

今朝の「捜索隊に何かあった説」、ソース元は無線傍受の断片だけ。

しかも傍受したアカウント自体は「捜索と関係あるか不明」と書いてる。

それを「捜索隊に何か起きた可能性が浮上」に変換して拡散してるのは別のアカウント。

情報の変形が一段階で起きてる。気をつけて。

 

  2,109 ❤ 7,456




仕事は変わらずデスマーチしてますが、書きためていたものを少しずつ公開していきます。

遅れた理由はデスマーチもありますが、プロットに無かったネタが唐突に降ってきて、それらをあれこれ書き足して、その前後で時系列とか、諸々の整合性など合間を縫って確認していたら、、、

プロットになかったものを挿し込んだことが吉と成るか、凶に振れるか、お休み中もアクセスをいただいていた皆様の評価に公開前から戦々恐々としています。

どうか楽しんでいただけますように。
今後とも、よろしくお願いいたします。
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